20211220 田中功起可傷的な共同体討議者権祥海、武澤里映、松本理沙
日本でのレイシズムについて扱った可傷的な歴史(ロードムービー)(2018年)制作以後に考えたことをまとめて話したいと思っています。それは共同体について、可傷性について、あるいは他者の声を聞くこととは何か、災害や不安定な生について考えることへと繋がっていきます。個別具体的な問題を離れて、少し抽象的な話になると思います。以下、レクチャーの参考資料となります。
Koki Tanaka's On Demand Pages on Vimeoリフレクティヴ・ノート(選集)(美術出版社、2021)、可傷的な共同体 (ART RESEARCH ONLINE JOURNAL 2021.11)


2021710 鼎談地域芸術祭の鑑賞者はなにをみるのか」討議者:青田麻未大岩雄典、中川千恵子 聞き手:長谷川新
地域芸術祭という単位の鑑賞について語る鼎談となります。アーティスト/居住者/観光客...といった参加者の立場の違いや、地域アートというイシュ―の強張りをほどきながら、鑑賞や観察そのものについて対話します。


202136 中村大介 「探偵小説の形成と構造 ― エラリー・クイーンを事例に ―」 討議者大岩雄典 金井学、田中翼
本レクチャーでは自著『数理と哲学』で提示した探偵小説論の枠組みを紹介すると共に、その枠組みを用いた簡単な事例研究を行う。枠組みの基礎となるのは哲学者パースの記号学である。まずパースによる記号・対象・解釈項という三項関係を、探偵小説における記述・事件・読解(手がかりや推理)に各々対応させる。次に彼による九つの記号類型を示した上で、探偵小説を論じうるような仕方でその類型を拡張する。この拡張により、作品分析を行うための出発点となる図式が得られることになる。そして事例研究としては、図式の構造が変動するような契機を含み、芸術に対して示唆するところがあると思われる、エラリー・クイーンの作品を取り上げる。


2021130 小沢剛 山羊の目 討議者:石川達紘、中川千恵子)
これまでの自身の活動を含む具体的な実践を振り返りながら、現在取り組んでいるヤギを飼うプロジェクト「山羊の目」のプレゼンテーションを行う。雑木林の整備、荒れ放題の竹林の竹をふんだんに使ったヤギの小屋作り、そして日々のヤギの世話。うまく説明できないがこれが多くの次のことを生み出すと確信して始めている。


2020年1227 大岩雄典 「空間の(再)空間化 ── インスタレーションはいかに作られる芸術か」
インスタレーションという芸術形式について、「空間」というタームを再検討することで捉える。そのために、まず「空間の(再)空間化」のアイデアを紹介する。これは先だって公開された論考「ダンスホール」で、インスタレーションにおいて諸要素同士のとりうる関係がもつダイナミズムを名指すために提出した概念だ。本レクチャーはこの概念について簡潔に紹介したあと、自作を含む具体的な作品を交えながら、いかにインスタレーション作品がデザインされるか、あるいは(論考内の言葉を受ければ)個々の「形式」を達成するかを分析する。後半は来場者からの質疑・ディスカッションを受け付ける時間を設ける。  


2020年1114 高橋裕行概念と計算
メディア・アートとコンセプチュアル・アートにはある種の共通点があるように思われる。本レクチャーでは、コードの存在を手がかりにこのことについて考えてみたい。


2020年1018 村山正碩画像ならではの感情表現:リチャード・モスの挑戦
画像は目に見える事物を描写するだけでなく、目には見えない感情を表現することも可能だが、これは音楽などにも共通の特徴だ。しかし、感情表現一般は画像ならではのものではないとしても、画像ならではの感情表現、つまり、画像に特有の仕方で実現される感情表現が存在する可能性はある。本発表の狙いはそれを検討することだ。画像によく見られる感情表現の技法はしばしば画像以外にも見られるが、画像の構造を明確化することで画像ならではの感情表現の存在は浮かび上がる。それは絵画と写真のパラゴーネを呼び起こすものであり、ひいては報道写真の規律と表現主義的衝動を統合しようとするリチャード・モスの挑戦を理解するうえで重要なものである。


2020年912 伊藤未明「矢印環境を生きる」 *限定公開
矢印は最もありふれた記号の一つです。駅やショッピングモールの方向案内から、機械の取扱説明書やパソコンの画面に至るまで、我々は様々な矢印を目にします。しかしその意味や機能について、人文学的な見地から体系的に研究された例は多くありません。我々は矢印の意味を受容するだけでなく、矢印の制作者となることも日常的です。なぜ、我々は矢印サインに従うのか?パワポで図を描くときに矢印を使うのはなぜか?矢印は記号であるというよりも、我々の現実を構成する一つの要素となっています。このレクチャーではこうした状況を「矢印環境」と捉えて、矢印と我々の〈生〉の関係を考察します。矢印はインデックス記号の代表的な例とされますが、矢印環境はシンボルやアイコンとしての意味作用によっても我々に働きかけます。矢印の意味作用の多面性に着目して、矢印という記号現象との〈付き合い方〉を考えます。


2020年829 銭清弘写真のなにがそんなにもスペシャルなのか:分析写真論入門
写真は絵画のような手製の画像とは異なり、なんらかの点で特別である……ように思われる。写真に関するこのような見解はいかなる根拠を持ち、いかにして支持/却下されうるのか。本レクチャーでは、一見あまりにもナイーブな当の問いを正面から引き受ける分野として、分析美学の写真論を紹介する。 分析写真論は、Kendall Walton「透明な画像」 (1984)に端を発する。Waltonによれば、写真は鏡や眼鏡と同じく「透明」であり、われわれは文字通り写真を通して被写体を見ることができる。一連の反論と応答を整理したのち、「芸術写真」「フェイク写真」といったトピックに対する、ウォルトン理論の射程についても検討してみたい。


2020年719日 齋藤帆奈「対象が知能を有するとみなされる文脈生成に向けた検討 ー真性粘菌を介したボードゲームの提案ー」
本発表では、真正粘菌と人間が協働、対戦するボードゲームと、その背景についての議論を行う。人工知能という言葉がポピュラーになっている現在、人間以外の存在にも知能があるとする考え方は広く受け入れられている。また、人間以外の動物の知能の存在について客観的に実証することを目的とした研究も広く行われてきた。しかし、神経系を持たない生物については、どうだろうか。微生物や植物に知性はあるのだろうか。そもそも、この問いにはどうやって答えたら良いのだろうか。前提を整理してみると、知能研究は存在論的アプローチと認識論的アプローチに大別できると考えられる。前者は、人工知能や生物に問題を解かせて能力を検証する等、対象自体の振る舞いが客観的な知能の定義に当てはまるかどうかを知能の尺度とする方法論、後者は、アニマシー知覚やチューリングテスト等、観察者が対象に知能を見出すかどうか検証する方法論である。だが、実生活において対象が知能を有するかどうかの判断は、コミュニケーションの中で双方のアプローチを相補的に用いており、どちらにも還元されないものであるといえるだろう。しかし、微生物や植物のような全く異なる時間スケール、身体性を持った存在に対しては、こういった判断を行うことは極めて困難である。このような圧倒的な他者性を有する存在に対して、非還元的な方法で向き合うためのひとつのミニマルなモデルとして、粘菌と人間が協働、対戦するゲームの制作を行っている。


2020年711逆巻しとね「ダナ・ハラウェイ── Making Kin not Babiesの制作論」
自然科学・社会科学・人文科学の各専門家と交流を重ね、独自の専門領域を構築したダナ・ハラウェイ(1944-)は、学術の領域にはとどまらず、アーティストとも協働しながら執筆実践を行ってきた。2017年Art Review誌「Power 100」においてハラウェイが第3位にランクしたのは記憶に新しい。だが、2018年の同ランキングで彼女は67位に順位を落とし、2019年には圏外となった。同サイトでは、人口爆発問題の解決策としてハラウェイの提案した産児制限に対して寄せられた否定的な評価が、ランク低下の理由として仄めかされている。ハラウェイがマルサス以来の産児制限論を踏襲しているという誤解は根強い。まず、 “Making kin not babies”というスローガンのレトリカルな戦略の意義を、その初期の仕事や実生活、アーティストとの関係から概観し裏づける。その上でMKNBの実践が、産児制限という消極的な人口問題対策ではなく、血縁の強化に向かう人新世等の批判であり奇縁(oddkin)のパターン制作である、という基礎を共有したい。


2020年6月28日 青田麻未「環境を批評する ── 芸術家とフレーミング」
本発表では、拙著『環境を批評する──英米系環境美学の展開』(春風社、近刊予定)をベースとし、英米系環境美学とは何か、またその芸術との接点はどこにあるのかを論じるものである。英米系環境美学は1960~70年代頃、美学における自然美の軽視および環境保護思想の高まりを背景として興った現代美学の一分野である。現在では自然に限らず、都市や田園などの人間環境を含め、あらゆる種類の環境を主題とする分野に成長している。論者による主張の違いはあるものの、環境美学は芸術と環境の美的鑑賞が異なる特徴を持ちつつも、しかし同時に芸術と同様に環境もまた批評、すなわちなんらかの意味で「客観的な」美的判断の対象になるということを主張しようとする傾向にある。拙著もまたこの路線に乗るものである。本発表では、環境内での鑑賞対象の選択に関わる「フレーミング」という概念に焦点を当てることで、環境美学と芸術家の接点について焦点を当てつつ、拙著の主張を概観する。


2020年6月13日 難波優輝「表現がわるいとはどういうことか ── ポルノグラフィとキャラクタの画像をめぐって」
近年、広告ポスターなどにおけるキャラクタの画像は、SNSでなされる議論の中で様々なしかたで批判されている。これらの批判はキャラクタの画像の何をどのような理由から批判しているのだろうか。こうした表現は、たんに美的にというよりも道徳的な非難の意味で「わるい」と言われる。だが、そのとき「わるい」ということばは何を意味しているのか。これらの表現への「わるさ」の指摘と見出される「わるさ」それ自体に対して、わたしたちは何をすべきなのか。実のところ、わたしたちは表現の「わるさ」をめぐる議論において、その重要性と盛り上がりと蓄積にふさわしいほど「わるさ」についての一定の了解を共有しているとは言えず、議論の出発点から食い違っている場合も多々あるように思われる。そこで、本発表では、ポルノグラフィとキャラクタの画像についての哲学的議論を主に取りあげながら、より広く、表現一般の倫理的問題について考え、議論の出発点を整理するために有用な概念的枠組みを共有する。そして、表現の倫理について、これからどのような議論が必要なのか、よりよい概念的枠組みのあり方はどのようなものなのかを参加者の方と考えたい。


2020年523日 大崎晴地「汲み尽くしえないもの:精神病・オブジェクト・新型コロナ」
精神病、オブジェクト、新型コロナ、これらに共通するのは「汲み尽くしえなさ」である。引きこもったオブジェクトから個体内在的な狂気、そして地球規模の空気の問題へ。レクチャーでは、オブジェクト指向哲学とモダニズム芸術との関係、美学と病的資質の繋がり、新型コロナウイルスと疫学的自己などの概念を掘り下げ、自作と共に芸術の問題を考えてみます。


2020年517 奥村雄樹「概念の芸術から想念の芸術へ ── コンセプチュアル・アートの再編成」
ソル・ルウィットによる3編のテキスト(1966, 67, 69)を参照しつつ当時の主要なアーティストたちの仕事を再検討することで1966年から1975年にかけて欧米を中心に展開した「コンセプチュアル・アート」と呼ばれる現象が実のところ「コンセプト」をめぐる芸術などではなかった──そして「脱物質化」された各作品においてはその「無味乾燥」な外観とは裏腹に作者の主観的で直観的な「身籠り」こそが核心を成していた──ことを読み解いていく短いレクチャー。


2020年52 黒木秀房「哲学と芸術の共闘 ── 可視性の「帝国」に抗するために」
拙著『ジル・ドゥルーズの哲学と芸術──ノヴァ・フィグラ』(水声社)をベースに、哲学と芸術の共闘のあり方について考える。


2020年418 長谷川新「約束の凝集、帰還の技術」
gallery αMで開催される展覧会 αMプロジェクト2020 「約束の凝集 」とその展覧会のテーマでもある「帰還の技術」についてのレクチャー。