鑑賞の目的地

中川 千恵子

2019年に千葉市美術館で開催された目[mé]による「非常にはっきりとわからない」は、現代美術の企画展として館の過去最高の入場者数を記録した展覧会である。特に、SNSでの情報拡散によって、一般の人々にも話題を呼び、2030代の来場者の割合が多かったことが、この記録的な入場者を達成した理由のようだ 1

展覧会の詳細については、展覧会図録及び畑井恵による民族藝術学会誌の仔細な報告書を参照いただきたいが、「スケーパー・鑑賞者の動きなどを含む美術館および周辺の運動」と称されている本作は、美術館のある建物の
78階だけでなく、エントランス・受付・入り口まで拡大された大規模な作品/展覧会であった。

本稿では、フランシス・アリス、津田道子、目[
mé]の3つの作品の共通点を「さまよう鑑賞」だと提案する。さまよう鑑賞の目的を「分かる」ことだと仮定し、他の2作品と比較しながら、目[mé]の「非常にはっきりとわからない」の特性を明らかにする。

まずは、
3作品について手短に記述したい。
フランシス・アリスの《
If you are a typical spectator, what you are really doing is waiting for the accident to happen(1997年、105)は、英・西語の同作のタイトルから始まる。
映像は、メキシコシティの中央広場のソカロでの人々の姿を捉えている。まもなくカメラは、打ち捨てられて風に吹かれて転がるペットボトルを見つける。撮影者である作家は、強風で移動してゆくペットボトルを追う。ほどなくして、
1人の通行人の足に引っかかったペットボトルは、その人物にボールのように足元で操られたかと思うと、ボールのように高く蹴り上げられる。放置されたペットボトルはまた風によって移動する。再び人の足に引っかかったり、止まったり、風に煽られることを繰り返すペットボトルを、自身では手もとい足を加えずに、作家は辛抱強く追い続ける。子供たちの見事なドリブルさばきによってあちこちへ動かされるペットボトルは、ほどなくして広場の外へ飛び出し、大通りまで出て行ってしまう。道路の中ほどまで行ったペットボトルを撮影者がなおも追おうとすると、突如車のクラクションが鳴り、衝突音とともにカメラの映像が転倒する。鑑賞者は、作家が車に撥ねられたことがわかる。

タイトル《
If you are a typical spectator, what you are really doing is waiting for the accident to happen》は、見るという行為が持つ私たちの思い込みへの提言と捉えることができる。カメラという機会を持つことによって、特定の環境における主体の地位を獲得している作者(と作者の目線を借りている鑑賞者)が、単なるobject/客体であるプラスチックの無作為な動きに釣られて広場をさまよい、事故に巻き込まれてしまうことにより、主体は視覚的に客体を高みから見物することはできないことを示唆しているのだ。

また、キュレーターのラッセル・ファーガソンのアリスに関するテキスト
"Politics of Rehearsal: Francis Alÿs"には、本作について重要な指摘がなされている。ファーガソンによれば、アリスは作家としてのキャリアの初期の頃から、Conclusion(結果)を避ける傾向が見られるという 2。ファーガソンは、リハーサルという言葉を用いて、アリスの作品は、結果の提示を避け、繰り返しや、やり直しをおこなうことによって、常に完成する途中にあると言及している。《If you are a typical spectator, what you are really doing is waiting for the accident to happen》は、撮影者が巻き込まれた事故によって、鑑賞者はペットボトルがどうなったかの結果を知らせられぬまま、中断された作品だと捉えることができるだろう。

Francis Alÿs If you are a typical spectator, what you are really doing is waiting for the accident to happen
https://francisalys.com/if-you-are-a-typical-spectator-what-you-are-really-doing-is-waiting-for-the-accident-to-happen-bottle/

津田道子の作品《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》(2016年〜)は、木製の枠・鏡・スクリーン・ビデオカメラ・プロジェクターで構成される。枠には、映像が投影されたスクリーン、鏡、空(から)の枠の3種類があり、それぞれが対称に配置されている。映像のうち2点のプロジェクターには、展示室の状況がリアルタイムに映し出され、もう1台のプロジェクターには1日前の展示室の様子が映されている 3
展示会場で見られる鑑賞者の動きは、どのようなものか。まず、どのカメラの映像がどの枠内のスクリーンに映されているかを確認しようと展示室内をうろうろと歩き回る。展示室内には、カメラの映像を写すスクリーンに混じって鏡がはめ込まれた木枠が展示されている。うろうろと歩いているうちに、普段は見ることのない自分の後ろ姿や、遠くにいる他の鑑賞者の像が目の前に現れる、といったことが起こる。さらに、
1日前の映像が映し出されるスクリーンによって、いま・ここにいない人物や景色がスクリーンの映像に映し出されたり、逆に映し出されていないということが分かることによって、異なる時間の映像が混じり混んでいることに気づく。
作家によれば、タイトル《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》は、英文法の直接話法と間接話法における主語や人称代名詞の変化に着想を得ているそうだ。「
She said, “I am here.”(彼女は言った「私はここにいる」と。)」を間接話法に変換すると「She told me that she was there.(彼女はそこにいたと私に言った。)」と変化する点に、映像を見る鑑賞者の経験との類似性を見出している 4。本作の中で鑑賞者が体験することは、主客関係、つまり、見る/見られる関係の逆転と言い換えることができるだろう。鑑賞者は、自分が見る主体だと思いながら作品の仕掛けを観察しているうちに、鏡の中の他人や自分自身に見られている感覚に陥るのだ。鏡とスクリーンと空枠を組み合わせた作品の仕掛けによって、能動的に見るという行為は、動けば動くほど曖昧になってゆく。

では、目[
mé]「非常にはっきりとわからない」はどうだろうか。
美術館を含んだ建物は工事中の様子で、エントランスホールの
1階の受付でチケットを購入し、入場する。78階の美術館展示室に向かうために乗ったエレベーターを降りると、設営途中のような養生テープやビニールテープで覆われたホールに到着したことが分かる。他の鑑賞者とともに展示室に入ると、作品の入っている木箱のクレートなどを目にする。観察を続けていると、ほどなくしてインストーラーの出立ちの人物たちが、設営をはじめる。
おそらく、ワークインプログレスの展覧会なのだろうと、別の階のもう一つの会場にエレベーターで向かう。すると、次の階でも全く同じ
(としか思われない)展示風景を目の当たりにする。ありえないことだが、自分が同じ階に戻ってきていないか咄嗟に確認した鑑賞者は少なくはないだろう。この二つの会場を往復して、この展示会場で何が行われているのか、うろうろと観察することになる。
本作は、詳細なタネ明かしは会期中に行われず、作品がどこまで続いているのか、美術館を出ても疑い続ける必要があり、まさに「非常にはっきりと分からない」状態であった。展覧会の図録が発送されたのは展覧会の会期終了直後であったし、展覧会場の撮影禁止という公式ルールと、ネタバレ禁止という
SNSで流布された非公式ルールによって、作品の全貌が明かされぬまま会期は終了した。

以上の
3つの作品に共通するのは、見るという行為に鑑賞者(アリスの場合は撮影者である作家自身)の身体的移動がともなっているということだ。それは、作品が特定空間に存在する以上当然のことだと思うかもしれない。しかし、この3作品での鑑賞者の動きを分析すると、「見て」いるというよりは「さまよって」いるように捉えられないだろうか。

美学者・森田亜紀は『芸術の中動態―受容/制作の基層』で、中動態を考察するにあたり日本語の「おのずから〜なる」という言葉と比較している。医学者・精神科医である木村敏と倫理学者・竹内整一の考察を引用しながら、「おのずから=自然」「みずから=自己」とし、論を進める。

「芸術体験を内側から(日本語で)語る言葉に、「おのずから~なる」系統の記述が使われるのは、おそらくそこで、主体のイニシアチブによらず「自然に」ひとりでに成立する動作や作用や状態が体験されるからだろう。言い換えると主体を超えた、主体にとっての「わからなさ」を含んだ出来事の体験である。」5

本来、鑑賞者は「見る」という本質的な欲望を主体的に実行する存在のはずだ。その性質は、特にアリスや津田の作品において機能しているのが見て取れる。しかし、作品が含む「わからなさ」によって、鑑賞者の行動はおのずから定められる。鑑賞者は、「分かる」という目的地を求めて、おのずからさまようことになる。

森田の論と、ファーガソンがアリスの作品に見出した
Conclusion(結果)の中断の2点から、さまよう鑑賞体験について以下のように仮定したい。鑑賞者は、「わからなさ」を含んだ出来事に出会うことによって、おのずからさまよう。鑑賞における目的は「分かる」ことであり、「結果」の提示によってその鑑賞の目的が達成されると考えることはできないだろうか。

If you are a typical spectator, what you are really doing is waiting for the accident to happen》では、鑑賞者はペットボトルという客体の行く末を求めさまよっていたと捉えることができる。ところが、本作では、不慮の事故により、結果は提示されずに鑑賞は中断してしまった。つまり、結果は「分からない」ままになってしまった。
一方、《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》では、カメラ・プロジェクター・モニターなどの仕掛けに誘われた鑑賞者は、森田の言う「わからなさ」を含んだ出来事を「分かる」ために、おのずから展示室の中をさまようことになる。しばらく注意深く観察することにより、それがどのような仕掛けになのかを理解することはそれほど難しくはない。どのカメラがどのモニターに映っているか、一つのスクリーンが現在の状況を写していないことまで、注意深い鑑賞者であれば気付くことができるかもしれない。ただし、この「気づき」を「分かる」という言葉に言い換えることはできるかもしれないが、「結果」と言い換えることはできないだろう。

では、目[
mé]の「非常にはっきりとわからない」の鑑賞体験は、津田の作品のように完結することなく、アリスのそれのように中断したのだろうか?むしろ、鑑賞は継続して続いているのではないかと主張したい。その要因は、展覧会が完成することなく、設営状態のまま、循環し続けたことにある。
スケーパーの動きによって、展示物が移動しており、その「作業」は、
1日に決まった回数、決まった時間に繰り返されることに注目したい。作品は、いつまでも設営を終えることなく(正確に言えば、作品を設置したと思えばまた撤去するという行為を繰り返すことにより)、展覧会の会期は終了した。
本作の時間について論じている美術家・大崎晴地の展覧会図録のテキストを参照したい。大崎は、目[
mé]がインスパイアされたというチバニアン(千葉県市原市田淵にある地層が近年で一番新しい地磁気の逆転した痕跡を持つ地層として、地質年代として認められた)と、カンタン・メイヤスーの「現化石」と「祖先以前性」を照らし合わせて、目[mé]が作り上げた「設営中」という状況を論じている。

「時間は流れるもの、自然はただ一つのものといった固定観念を切断し、同じ川に二度と足を入れることができないのではなく、二度足を入れる状況をつくることで、はじめて二度入れないことに気付く状況を作っているのだ。(...)ペンキ缶の跡が丸くブルーシートに付いた数を数える観客、立脚の上で居眠りしている作業員、これらの違いを確かめるオーディエンスの行為は、『時の観測者』(タイムトラベラー)のような振舞いである。過去から現在の順序さえ自明ではない。(...)6

この「時間」という感覚を津田の作品に当てはめて考えようとすると、なぜ津田の作品に「結果」を見出せなかったのかが分かる。《あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。》は、鏡・カメラを利用した「現在」についての作品であるからだ。一台のカメラとプロジェクターが特定の空間に過去の時間を差し込んでいたものの、津田の作品にあるのは、過去から未来への直線の流れにある現在である。現在に、結果は存在することができない。

アリスの作品が結果を待つことなく中断したこと、津田の作品が現在という時間にあり続けることと異なり、目[
mé]の作品は、時間が継続して流れ続けるという私たちの考え自体を危うくする。「設営」という状態は、一見前進しているように見えて、循環し続けている。そのただ動き続ける環境の中におかれた私たちは、「結果」という目的地を目指すこともできず、ただ78階の間をさまようことしかできなかったのだ。

目[
mé]の本作の優れた点は、「分かる」という鑑賞の目的地を求めて来館した鑑賞者が、時間が流れているという現象に懐疑的にならざるを得ない状態に身をおかれ、分からないまま鑑賞し続けることにある。多くの鑑賞者が、今も展覧会で目撃した出来事を反芻し、さまよい続けているように思えてならない。
筆者もその中の
1人であった。1年以上前の体験にも関わらず、そのことについてふと思い出しては考え、ふらふらとさまよう思考をそのままにしていた。最近、畑井氏の報告書を読み、ようやく作品を「分かった」のだと感じ、私の鑑賞体験が完了した(と思った)

少し気がかりなのは、私は、報告書を「見た」訳ではなく、読んだということだ。その大きな矛盾によって、私は再びさまようことになるような気がしている。






1 畑井恵「『わからない』展覧会のあとさき」、arts/民族藝術学会誌 vol. 372021年、170
2 Russell Ferguson, "Politics of Rehearsal: Francis Alÿs," in Lisa Le Feuvre(ed.), Failure, London, MIT Press, 2010
3 見留さやか、Arts Towada十周年記念「インター+プレイ」展第1期カタログ、2020年、52
4 同頁
5 森田亜紀「芸術の中動態―受容/制作の基層」萌書房、2013年、226
6 大崎晴地『原化石をみる目』、「目[mé] 非常にはっきりと分からない」千葉市美術館、2019年、58