アラン・カプロー《6つのパートからなる18のハプニング》はどのように記録できるか
──マイケル・カービーとサミュエル・R・ディレイニーの記述の比較分析を通じて

武澤 里

はじめに

 
アラン・カプローの《6つのパートからなる18のハプニング》(1959年、リューベン・ギャラリー)は、偶然性を重視したパフォーマンスの形式「ハプニング」の最初期の作品である。これは、参加者に事前に部屋の移動に関する指示を渡して作品に対して積極的な参加を促すという点も画期的であった1。参加者は、部屋を移動することによって、18個のパフォーマンスのうち参加者それぞれに組み合わされた6つのパフォーマンスを見ることになった。

 このような「ハプニング」は、統一したプロットや配役を持たず、ほぼ再演されない点が従来の演劇とは異なる
2。よって、後年その作品について知るためには、作家によって作られた台本などの資料や、当時それを体験した人によって残された記録などを参照することになる3。後者のうち特に文章による記録として現在主に知られているのが、演劇学者マイケル・カービーによる『ハプニング イラストレーションアンソロジー Happenings: An Illustrated Anthology4と、SF作家サミュエル・R・ディレイニーの自伝『水に揺らぐ光 The Motion of Light in Water5での記述である6

 先行研究では、ディレイニーによる記述の分析やハプニングに関する記述が多数あることなどはすでに指摘されている
7。しかし、それぞれを比較し、個々の記録としての特徴を分析することは未だ行われていないと思われる。よって、本稿では、カービーとディレイニーの著作の比較を通じて、《6つのパートからなる18のハプニング》という作品の記録の可能性について分析する。そしてその結果、2つの記述は「作品の境界線」と「記録の主体」という2点が大きく異なることを指摘する。「作品の境界線」での差異とは、《6つのパートからなる18のハプニング》において、どこからどこまでが作品なのかという点での違いである。カービーはそれを作家側の情報に依拠して明確に分割しているのに対し、ディレイニーは参加者の視点からその境界線の不透明さに焦点をあて記述している。2つ目の差異は、「記録の主体」という点である。カービーの記述は、誰がその記録をしたのかという点を説明せず、作家が意図する限りの招待された参加者を言外に前提して論じている。一方で、ディレイニーは招待されていない参加者という自身の立場からの記述を試み、カプローの作品が誰によっても満足に全体を把握できないという点を強調する。そしてこれらの論点での比較をもとに、カービーの記述が現実に起こっていた出来事や、作品の想定していない参加者の存在などを捉えきれていないことを指摘する。そしてその理由が、作家によって提示される情報と参加者によって経験される情報という異なるものを統一して記述している点にあると分析し、カービーの抱いていた理想的な記録の問題点について考察する。

 カービーの記録は、制作過程や作品の内容に関する情報をまとめて伝える資料として、《
6つのパートからなる18のハプニング》を考察する際にはまず参照されるものである。本稿は、このように現在しばしば参照されるカービーの記述の特徴を、ディレイニーの記述との比較から、再考するものである。これによって、1959年の《6つのパートからなる18のハプニング》を記録すること、しいてはパフォーマンス作品を記録するとはどのようなことなのかについて考察を行いたい。以下ではまず、カービーの文章について、著作の背景および、「作品の境界線」「記録の主体」という2つの観点からまとめる。次に、同様の観点から、ディレイニーの文章について考察する。最後に、2つを比較したうえで出てくるカービーの記述の特徴について、カービーが記録について書いた別の文章から考察する。



1 カプローの《18のハプニング》は、カプロー含むパフォーマーと、パフォーマーが行うパフォーマンスを主に椅子に座ってみる観客という2種類の参加者によって成り立っている。事前に招待状を送られた面々が基本的には椅子に座ってパフォーマンスを見る観客であり、指示に従って椅子や部屋を変更することが、観客にとっての参加の仕方であった。しかし、何人かの観客は、18のハプニングのうちの1つで、実際に絵を描いたりなどパフォーマーとして参加することもあった。
2 しかし、完全に再演は行われてこなかったという訳ではない。カプローはしばしば自身の作品の再制作を行なっている。《6つのパートからなる18のハプニング》に関して言えば、1988年にはカプロー自身によって、2007年にはカプローの回顧展に合わせて美術館によって、計2回の再制作が行われている。しかし、特に1988年のカプロー自身による《18のハプニング》は1959年のものとは全く異なっており、観客もいないものであったという。つまり、1959年のものと全く同じものを再現しようとする意図は作家には存在しなかったと言えるだろう。再構成については、以下を参照。Rosen Barry and Unterdörfer Michaela (eds.), Allan Kaprow: 18 happenings in 6 parts,Göttingen: Steidl Hauser and Wirth, 2007.
3 写真はこうした記録の分類では、両義的なものと言えるだろう。作家によって雇われた写真家が残す写真と、参加者が撮った写真とでは、何を記録するかに違いが出ると思われる。カプローの作品や当時のニューヨークのハプニングの写真記録の問題については、本稿では立ち入らないこととする。
4 Kirby Michael, Happenings: An Illustrated Anthology, New York: E. P. Dutton, 1965、以下、断りがなければ訳はすべて引用者による。
5 Delany R. Samuel, The Motion of Light in Water : Sex and Science Fiction Writing in the East Village, 1957- 1965, New York: A Plume Book, 1988.
6 これ以外にも、ハイウッドによる、パフォーマーであったジョージ・シーガルへのインタビューでの記述などがある。Haywood Robert, Revolution of the Ordinary: Allan Kaprow and the Invention of Happenings, Ann Arbor, Mich:UMI Research Press, 1993, pp.193ff.
7 ディレイニーにおけるカプローの作品についての記述については、ギャビン・バット に詳しい。この論文では、ディレイニーの記述を頼りに、パフォーマンスを歴史に残すことに付随する問題点について考察された。以下を参照。Butt Gavin, “Happenings in History, or, the Epistemology of the Memoir”, Oxford Art Journal, Vol.24, No.2, 2001, pp.113-126
それ以降のカプローの研究でも、しばしばディレイニーの著作は検討されている。Haywood Robert, Allan Kaprow and Claes Oldenburg : Art, Happenings, and Cultural Politics, New Haven: Yale University Press, 2017, pp. 24-27. Ursprung Philip,translated by Fiona Elliott, Allan Kaprow, Robert Smithson, and the Limits to Art, Berkeley: University of California Press, 2013, pp. 35-36.
ハプニングに関しての文書の多様性については、以下の論文を参照。Alex Potts”Writing the Happening : the aesthetics of Nonart”,Meyer-Hermann,Eva, Andrew Perchuk, and Stephanie Rosenthal (eds), Allan Kaprow: Art as Life, London: Thames & Hudson, 2008, pp.20-31.

図1 《6つのパートからなる18のハプニング》の様子 
写真 :
Fred W. McDarrah, 18 Happenings in 6 Parts, Reuben Gallery, New York, October 1959. https://www.moma.org/collection/works/173009?association=associatedworks&page=1&parent_id=173008&sov_referrer=association

1章 マイケル・カービー『ハプニング イラストレーションアンソロジー』での記録 

 
本章では、今回比較の対象にするカービーの著作について説明する。まず、第1節では著作の背景として、カービーのハプニングの記録に対する意図を明確にする。そののち、「作品の境界線」と「記録の主体」という2つの観点から著作を分析し、カービーの記述が作家による情報を前提としながらも、あくまで参加者の視点でそれを綴っていることを明らかにする。


1-1. 著作の背景

 
マイケル・カービーは後年ニューヨーク大学の演劇学教授にもなった人物で、主にパフォーマンスに興味を持ち多くの著作を残した8。ハプニングの制作には、アクターズ・プレイハウスという団体でディレクターとして関わったという9

 
1965年に書かれた『ハプニング イラストレーションアンソロジー』は、当時ニューヨークで行われていた「ハプニング」の作品群について、台本や作家のステートメント、実際の作品の記録などをまとめたものである。その中では、カプローを筆頭に、当時ニューヨークで活発にハプニングを行っていた5人の作家の作品を扱っている10。カービーは、これらの作家の作品の記述を、作家に加えて、パフォーマーや参加者などからの聞き取りも行い作成したという11

 このような著作の背景について、カービーは、ハプニングに関する全くの嘘の神話が流布していることを指摘する
12。ハプニングに関する神話とは、たとえばハプニングは台本を持たないとしたり、ハプニングには計画や管理などがないとしたりするようなものである。カービーは、このような間違った神話が流布する原因として、「事実の不足」と「ハプニングに関する情報の宣伝」の中でおこる実際の作品と流布する情報との間のゆがみをあげている13。まず1つめの「事実の不足」というのは、ハプニングを実際に経験した人がほとんど少ないことに由来するものである。また、ハプニングを実際に経験した人のほとんどが、ハプニングを単にエンターテイメントとしてとらえそれを表層的にしか受け取らないことも、その原因になっているという。2つめの「ハプニングに関する情報の宣伝」というのは、ハプニングに関する偏った情報がメディアを通じ広がることを意味する。ハプニングに関する情報は、しばしばメディアのバイアスによって取捨選択が行われている。しかし、メディアの方が作品を経験した人の数よりも読者が多く影響力が大きいため、ゆがみのある情報が広がっていく。

 カービーはこれらのような作品と神話の間の乖離をなくすために、できるだけ正確に当時の作品の様子を記録する著書を書いたと推測される。このようなドキュメンテーションへの関心は、第
3章で見るようにカービーのパフォーマンス研究に通底する態度である。

 このような動機によって書かれたカービーの作品の記述は、確かに当時の作品に関する状況をよく示すものになっている。たとえば《
6つのパートからなる18のハプニング》に関して言えば、作品の中のパフォーマンス以外にも、リハーサルや参加者への招待状の送付の流れ、事前に示されたプログラムの説明などが記される。これによって、台本やリハーサルが存在しないとするような誤解は防がれている。

1-2. カービーの記述における「作品の境界線」

 
次に、カービーの記録を、「作品の境界線」という観点から考察する。カービーの記述は、参加者の視点でありながら、作家やパフォーマーしか知らないような18個のパフォーマンス全てを記述している点が特徴になっている。

 《
6つのパートからなる18のハプニング》は、3つの部屋で同時に6つのパフォーマンスが行われるものであった。事前に招待された参加者は、プログラムに加え、パフォーマンスごとの部屋の移動の指示が書かれたカードを事前に貰っていた。プログラムには、「ハプニングの始まりには1度ベルがなり、終わりにはベルが2度なる」14ことが書かれており、招待された参加者は、ベルによっておおまかなパフォーマンスの始まりと終わりを把握していたと思われる。

 一方、カービーの記録では、半透明のしきりによって互いの部屋を曖昧にしか感じることができなかったという記述はあれども、
18のパフォーマンスのそれぞれがどのように進行したか全てわかるようになっている15。カービーは作品の始まりと終わりを記し、パフォーマンスとパフォーマンスのための準備も区別して記している。カービーは、実際に部屋で鑑賞していた参加者ならわからないであろう、パフォーマーの部屋の移動なども詳しく記述している。

 こうした
18のパフォーマンスの詳細の補足として、カプローによる情報16や台本の存在などは指摘されている17。しかし、カービーの記述は18のパフォーマンス全てを記しながらも、台本をそのまま写し取ったものではなく、あくまで参加者の視点からパフォーマンスの内容について書かれている。読者は、それを読むことによって作品の全体像を理解することができる。


1-3. カービーの記述における「記録の主体」

 
次に、「記録の主体」という観点からカービーの著作を分析する。カービーは上記のように18のハプニング全てを参加者の視点で語っている。しかし、こうした参加者が具体的に誰なのかについては伏せられている。

 カービーの記述においては、参加者側で体験された情報が記述されていることがある。たとえば匂いについて、「開かれたペンキの缶のエナメルの匂いが、すでに空間に浸透し、今やオレンジの匂いが、もしかしたら熱によってもっと鼻につんとくるものになっていたものが、加えられた」などの記述が見られる
18。また、誰がパフォーマンスを行っていたかに関する詳細やパフォーマーが発した音声などは省かれていたり曖昧にされていたりする箇所も多い。これらのことから、部屋にいた参加者が経験できる限りでの記述であると考えられる。

 しかし、このような参加者の視点からの記述は、その具体的な主体については語られない。カービーはまた、参加者としてどのような人物が招待されていたのかについても詳細を伏せている
19。こうしたカービーの記録はたった1人の視点からではなく、作家やパフォーマーなど多くの参加者の聞き取りを通じて得られた記録をまとめていると考えられる。しかし、カービーは、こうした情報の出典についても触れない。カービーの記述では、主体として「観者 the spectators」という言葉が用いられ、それが具体的には誰なのかという点については伏せられたままになっている。

 つまり、カービーはこうした記録を誰が行っているのかという点について詳細を述べないままに、複数の主観からみた記録を統合して語ることによって、作品全体をくまなく語っている。これによって読者は、あくまで参加者がどのようなパフォーマンスを見ていたかという観点から、作品についての情報を得ることができる。



8 以下の記事を参照。”Memorial Michael Stanley Kirby’53” ”Princeton Alumni Weekly”, https://paw.princeton.edu/memorial/michael-stanley-kirby-53202175日最終閲覧。また、ハプニングに関する著作のほかには、未来派のパフォーマンスに関する著作も残している。以下を参照。Kirby, Michael, Futurist Performance, 1986,New York:PAJ Publication
9 『ハプニング イラストレーションアンソロジー』のカバーの説明を参照。当時、カービーはブルックリンの聖フランシス大学の演説部門の教師をつとめていた。Kirby Michael, Happenings: An Illustrated Anthology, New York: E. P. Dutton, 1965,頁記載なし。
10
具体的な作品は以下の通りである。
アラン・カプロー《6つのパートからなる
18のハプニング》、《コカコーラ、シャーリーキャノンボール》、《春のハプニング》、《中庭》
レッド・グルームス《燃える建物》
ロバート・ホイットマン《アメリカンムーン》《口》《花》《水》
ジム・ダイン《自動車事故》
クレス・オルデンバーグ《アメリカンインディアン》《ワールドフェア
11》《陽気》《オートボディズ》
11 Kirby, Michael “acknowledgement” op.cit., 頁記載なし。具体的には、以下の人物が記されている。
レティ・アイゼンハウアー
Letty Eisenhauer、ルーカス・サマラス Lucas Samaras、パット・オルデンバーグ Pat Oldenberg、テリー・バレル Terry Barrell、マルク・ラトリフ Marc Ratliff、シモーヌ・ホイットマン Simone Whitman、マックス・ベーカー Max Baker、アニタ・ベイク Anita Bake
ルーカス・サマラスはパフォーマーの一人であり、アニタ・ベイクはリューベンギャラリーのオーナーの人物である。
12 Ibid., p.9.
13 Ibid., pp.9-10
14
プログラムには、以下のように記述されていた。「はじめと終わりには、それぞれベルが鳴らされる。パフォーマンスの終わりには、2回のベルが鳴らされる。」以下の図録中に再録されたプログラムより引用。Meyer-Hermann,Eva, Andrew Perchuk, and Stephanie Rosenthal (eds), Allan Kaprow: Art as Life, London: Thames & Hudson, 2008,p.122.
15 Kirby, op. cit., pp.67-83
16 Ibid., p.80 カービーは以下のカプローによる情報をカッコ内で補足している。「カプローはそれ[パフォーマンスに使われた可動式の機械]を、「サンドイッチマン」と呼び、それはカードをまさにカードを渡そうとしようとしていた Kaprow called it the “sandwich man”, and it seemed to be about to hand out its cards」
17 カービーの著作には、台本として、カプローが1959年の『Anthologist』誌で公表した「The Demiurge」というハプニングの台本を記載している(pp.53-65)。このハプニングは結局行われなかったが、《6つのパートからなる18のハプニング》にはその台本の中の多くの部分が採用されていることから、記載したという。一方で、その台本の最後には、《6つのパートからなる18のハプニング》には、これよりも詳細な台本や振付の指示書などが配られていたことが記されている(p.66)
18 Ibid., p.79
19 招待された参加者については、以下のようなことが書かれるのみであり、具体的な名前は書かれない。「
1959年の秋に、ニューヨークメトロポリタン地域のたくさんの人々に、リューベン・カプロー・アソシエイツから、形式的な手紙が送られた。」ibid., p.67

2章 サミュエル・R・ディレイニー『水に揺らぐ光』での記録

 
次に、今回カービーの記述と比較するディレイニーの著作について、第1章と同様に分析する。これによってディレイニーの記述は、カービーとは対照的に、作家が想定していない参加者の目線から綴られた、作品の断片性をより伝える記述だということを指摘する。


2-1. 著作の背景

 『水に揺らぐ光』は、アメリカのSF作家サミュエル・R・ディレイニーによる自伝である。その中では、黒人でありかつ同性愛者である彼の過ごした1950年代後半以降の人生が振り返られている。

 こうした著作の中で、ディレイニーが学生時代に参加した芸術作品のひとつとして、カプローの《
6つのパートからなる18のハプニング》について語られる。ディレイニーは、当時の手帳などを頼りに作品について記述を行う。このようなディレイニーの記述には間違いも多い。たとえばディレイニーは1959年の《6つのパートからなる18のハプニング》を、1960年の作品と記述している20。しかし一方で、一人称的に当時の様子を描くディレイニーの著作は、カプローの作品の実際の様子を臨場感をもって伝える資料になっている。

 また、ディレイニーの記述には、彼がカプローによって招待された参加者ではないという点も反映されている。《
6つのパートからなる18のハプニング》のパフォーマー以外の参加者は、ほとんどが事前に招待された人々であった。一方で、当日作品に参加したディレイニーと彼の友人のボイドは、掲示板でカプローの作品を見て興味本位で参加した21ほぼ唯一の観客であった。さらに、この2人は、参加者の中でおそらく唯一の黒人であったことも述べられている22。彼ら2人という作品が想定していない参加者は、事前のプログラムも、移動に関する指示のカードも受け取っていなかった。

 つまり、ディレイニーの著作におけるカプローの作品の記録の特徴は、ディレイニーという、作品が想定していないような特異的な参加者の視点から作品の詳細が綴られている点にある。

2-2. ディレイニーの記述における「作品の境界線」

 
こうしたディレイニーの記述では、「作品の境界線」のわからなさに対するディレイニーの困惑が明確に書かれている。ディレイニーは、パフォーマンスだけではなく、偶然起こった出来事も多く記述している。たとえば、間違った部屋に入ってきた女性や、ベルではなく口頭でパフォーマンスの終わりを告げるパフォーマーやカプローについてなどが記述されている23。これらの出来事は、カプロー自身もおそらく把握しているものであり、カービーが記述できる可能性もあったと考えられるが、カービーの著作にはそれらについての記述はない24

 しかし、実際にはこのような出来事は起こっており、それが作品か否かすらもわからない状況にディレイニーはいた。ディレイニーは、これらのような出来事を通じて、作品をみた後の数日、以下のような疑問が残っていたという。

どのように、注意力が高まった状態で、1つのハプニングを区別することができただろうか?18個が列挙可能であるような単一性を構成するものは何か。投球モーションのおもちゃは1つのハプニングだったのだろうか?もしくは投球モーションが1つ目で、それが少し歩いてくるのは2つ目で、それともそれが走ってくるのは3つ目だったのだろうか?そして私たちは、どのように内容と補助的なものを区別すればよいのだろうかーつまり、どのようにして「情報」と「ノイズ」を区別すればよいのだろうか?[中略]そして、間違ったアシスタントの瞬間的な侵入は18のハプニングなのかそうでないのか?25

 このようなディレイニーの問いは、もし彼がプログラムに記載されていたベルの合図を知っていれば回避できたものも多い。しかし、ここで示されたどこからどこまでが作品なのかという問いは、招待されなかった参加者だけではなく、ハプニングを見る参加者がしばしば抱く疑問である26。台本も事前に見ることもなく、パフォーマーに話を聞いたりすることのない参加者にとっては、作品の境界線はわからない。

 つまり、作品の境界線自体を参加者が確定しなければならない点は、ハプニングという形式のひとつの特徴だと言えるだろう。その点で、ディレイニーの記述は、典型的なハプニングの参加者の経験を記録していると言える。


2-2. ディレイニーの記述における「記録の主体

 次に、ディレイニーにおける「記録の主体」について考察を行いたい。ディレイニーの記述においては、自伝という特性にも従って、一人称的な記述がされている。これは、カービーが記録の具体的な主体を伏せていたのとは対照的である。また、ディレイニーはこのように記録における主体を強調することに加えて、そこからハプニングにおける記録と主体の関係性についても考察を加える。

 ディレイニーは、ハプニングの作品が、それを全て見ることのできる特権的な参加者がおらず、皆断片的な記述しかできないことを強調する。ディレイニーは、このようなカプローの作品を「歴史的出来事」のようだったと論じた27。そしてまた、カプローの作品を、ポストモダニズムを示唆するようなものとして振り返り、「歴史の中の主体の状態の分析と表象として、カプローの作品は改良の余地がないほどであっただろう」28と論じている。ディレイニーは、《6つのパートからなる18のハプニング》への参加を通じて、18個のうち6つしか見ることができず作品の境界線も断片的にしかわからない参加者の状況が、歴史的出来事を記述しようとする主体の状態に類似していることを分析した。

 カプローの作品は、歴史的出来事のように、その出来事の全体を知ることが出来ない。それ故に、誰かが残した断片的な記述の中には優劣はなく、作品の全体像にはどのようにしてもたどり着けない。このような特徴から、ディレイニーはカプローの作品が提起するものとして、歴史記述の主体の問題をとりあげる。そしてこれは先行研究のバッドが指摘するように、ディレイニー自身のアイデンティティとも通じていくものである
29



20 ディレイニーは以下のように記述している。「4年後の、1960年の晩夏に、アラン・カプローは《6つのパートからなる18のハプニング》という新しい作品を発表した。Four years later, in the late summer of 1960[...], Allan Kaprow first presented a new work, Eighteen Happenings in Six Parts.Delany R. Samuel, The Motion of Light in Water Sex and Science Fiction Writing in the East Village, 1957- 1965, New York: A Plume Book, 1988, p.110..
21 ディレイニーはカプローの作品のポスターを8番街で見て、「ハプニング」という言葉に惹かれ参加することにしたという。ibid., pp.110-111.
22 Ibid., p.113.
なお、カプローの作品では、パフォーマーとしては黒人の参加者もいた。たとえばシャーリー・プレンダーガスト Shirley Frendergastという黒人の女性は、黒いレオタード姿でパフォーマンスに参加した。また、ロバート・トンプソン Robert Thompsonは黒人男性の画家で、パフォーマンスの一部に参加した。特にトンプソンは、最初は椅子に座ってパフォーマンスを見て、途中でパフォーマーになるという形であった。ディレイニーとトンプソンが同じ日に参加していたかどうかはわからないが、カプローの作品に最初から黒人が全くいなかったという訳ではない。
23 Ibid., p.113.
24 ディレイニーの著作中の偶然の出来事以外にも、たとえばアルフレッド・レスリー Alfred Leslieがカプローの指示とは異なるパフォーマンスをしたエピソードなどは、カービーの記述には書かれていない。Kelly Jeff, Childsplay:The Art of Allan Kaprow, Berkeley: University of California Press, 2004, p.232.
25 Delany, op.cit., p. 115
26 たとえば、スーザン・ソンタグも同様の点を指摘している。スーザン・ソンタグは、ハプニングの最も注目すべき特徴を「観客の処理」だとして、「すべてを見たいという観客の気持を充たす努力などはまるでなされない。それどころか、この気持をわざとはぐらかすために、いくつかの事件を薄闇の中で演じたり、同時にいくつもの部屋で事件を進行させたりすることも、めずらしくない」(p.414)とハプニングの特徴を分析する。また、ディレイニーがハプニングの始まりがわからなかったのと同じような、ハプニングの区切りがわからないことについても以下のように述べている。「ハプニングの観客は、忠実で理解力に富んでいて、そのうえたいていは経験を積んだひとびとなのだが、ハプニングが終わっても終わったことに気づかず、合図をされてからやっと退場するようなことがよくあった。」(p.415)以下を参照。引用は全て翻訳に従っている。スーザン・ソンタグ『反解釈』高橋康也ほか訳、筑摩書房、1996年。
27 ディレイニーは以下のように述べている。
「しかし、時間、空間、存在、不在、全体性、断片性、そしてカプローの作品を重要にしている「何が起こっているか」ということの一般的な位置の確認可能性などの、「適切な」美学的使用に関する期待を覆すことこそが、この作品の特徴だった。彼のハプニングは、その初期の作品においては、歴史的出来事のように組織だてられていた。
But it was precisely in this subversion of expectations about the "proper" aesthetic employment of time, space, presence, absence, wholeness, and fragmentation, as well as the general locatability of “what happens”, that made Kaprow’s work signify:his happenings were organized in that initial work very much like historical events. Delany, op.cit., p.115.
28 Ibid., p.116.
29 彼はカプローの《6つのパートからなる18のハプニング》とそれの断片性を、クイアとしての歴史記述の際にも振り返っている。ディレイニーは同性愛者の性行為を管理する施設に関して、以下のような記述を行っている。
「地下鉄のトイレやトロッコのような施設は、性行為を収容する一方で、それを視覚的に切り取り、小さな部分にわけていた。それは《
6つのパートからなる18のハプニング》のようなものだった。誰もその全体を見ることはできない。これらの施設は、その現象を常軌を逸していて、危険だと論じるようなブルジョアの世界から、ー確かにはるかに目立たない仕方でー、同性愛者の性行為を切り取り、それを見えないものにする。しかしその一方で、それを切り刻んでしまったために、私たちのようなそれを追い求める者には、その全体像を理解することはできなくなってしまったのだ。」ibid., p.174. バットは、このような《6つのパートからなる18のハプニング》や当時の同性愛を取り巻く社会状況に置ける断片性の強調は、自伝の中でのディレイニー自身の語り、しいては彼自身のアイデンティティの断片性にもつながっていると論じている。Butt Gavin, “Happenings in History, or, the Epistemology of the Memoir”, Oxford Art Journal, Vol.24, No.2, 2001, pp. 119-120.

3章 カービーの求めた記録

 
ディレイニーとカービーの記述を比較すると、カービーの記述は台本や作家が想定する限りでの作品を記している一方で、ディレイニーの記述は一人称的に1959年に起こった作品の状況を記述していることがわかる。ここではまず、この比較から導き出されるカービーの記述の特徴をより明確にする。そのうえで、カービーが記録について書いた別の文章を参照し、カービーにとっての記録について分析を行う。これによって、カービーの記述が、パフォーマンスにおける作家側から提供される客観的な情報を求めながらも、それを参加者による記録として書いており、それによって現実に起こった作品を記録できていない側面があることを指摘する。


3-1. カービーの記述における矛盾

 
ディレイニーの記述と比較すると、「作品の境界線」「記録の主体」という2つの観点で、カービーの記述には奇妙な点があることがわかる。

 まず、「作品の境界線」に関して言えば、カービーは、どこからどこまでが
1つのハプニングかという区別を難なく行ない、作者やパフォーマーなど作者側しかしらないような情報を、あくまで参加者の視点で書いていた。一方で、ディレイニーは偶然起こった出来事も記し、それらが作品か否かわからない状況に当惑していた。なぜ、カービーは、実際の参加者はわからなかった情報を、参加者の視点で書こうとしたのか。確かに、カービーの記述のもたらす作品全体の説明は《6つのパートからなる18のハプニング》について知るために必要な情報である。しかし、これを作家による台本の写しや資料に基づき典拠を記した記述ではなく、あくまで主観的な記述にとどめる理由は何か。この理由には、カービーが考える記録の役割にあると思われる。本章の第2節では、カービーが考えていた記録の役割について考察を行いたい。

 次に、「記録の主体」に関して言えば、カービーの記述では、こうした記録が具体的に誰によるものなのかは伏せられ、いくつかの主観的な情報を統合することで、
18のハプニング全体を記述することに成功していた。一方で、ディレイニーは誰が記録しているのかという主体を明確にした上で、《6つのパートからなる18のハプニング》の大きな特徴として、誰によっても全体が把握できないことを強調していた。このようなカービーの記述では、ディレイニーのような招待されていない参加者については書かれていない。ここから、カービーはその実、招待された参加者を言外に想定していることが考えられる。この理由には、カービーが想定する客観性とは、一人称的な批評と対置されるような、参加者全体に通じるものと考えていたことにあると思われる。第3節では、カービーの客観性が参加者全員を想定していることに加え、そこで想定している全員とは結局作家が意図する限りでの大多数という意味であり、現実の参加者全員を記述できてはいないことを指摘したい。

3-2. カービーにおける記録の役割

 
カービーは1971年に書かれた文章において、演劇や新しいパフォーマンスの記録の重要性について論じている30。カービーはそこで、あらゆる情報は経験それ自体と同じではないと留保しながらも、「上演の客観的な性質を保存するような記録」31は作ることができるという。そして、もしこれが成功したならば、「読者はおそらくもし彼がパフォーマンスに出席していたら得ていたような、彼自身の経験についての正確な推定をすることができる」32と言われる。こうした記録のことを、カービーは「パフォーマンスの代理品 surrogate performance33と言いかえ、カービーは作品とこうした代理品の同一化を、文中を通してさりげなく前提している34。カービーはこのように、読者にとっての参加の経験の推定に役立てるために、記録も参加者の視点で書いていると推測できる。
 
 しかし、ディレイニーとの比較によってもわかったように、作品についての情報と、実際の参加者が得る情報は異なる。前述したようにカービーが『ハプニング イラストレーション・アンソロジー』を書いた理由は、世の中に流布する実態とは離れたハプニングに関する神話に対抗するためであったと考えられる。ここで、再び、その当時流行していた神話の内容について振り返ると、それは「ハプニングは台本を持たない」や「ハプニングは指示されたり管理されたりすることがない」というような、作家の作品制作に関する誤解が中心だということがわかる。また、資料によって客観的に記述できる作品の情報は、ほとんどが作家によって作られた資料に基づくものである。これらから、カービーがハプニングについての誤解を解くために必要とした情報は、作家が制作したり台本で書いたりした情報だと考えられる。そしてこれは、作家によって意図される限りの作品という点で、実際に起こった作品の状況や参加者の経験とは異なる。これは、ディレイニーとの比較によっても明らかである。

 つまり、カービーはパフォーマンスの記録の役割を、読者が参加者としてどのような推定ができるかという点に置いたために、作家に準拠した作品についての情報を参加者の視点から書いたと思われる。確かに、カービーの記述によって、読者は作品の由来や背景についての詳細な知識を得ることができ、ハプニングという名称や偏見などによる誤解は防ぐことが出来ている。しかし、こうした情報によって記録される作品は、作家が意図した限りの作品であり、現実に起こっていたものとは異なると思われる。

3-3. カービーにおける客観性

 
カービーは、記録の役割として参加者の経験を追体験することを考えていたために、作品についての作家による情報を参加者の経験として記した。カービーはこうした記録の主体を、具体的に記述しない。しかし、比較によって明らかになったように、こうしたカービーの想定する参加者には、ディレイニーのような参加者は含まれていなかった。この理由には、カービーが、客観的な情報とすべての参加者を同じ分類で考えていたからだと思われる。

 カービーは、客観的な記録に対して個人的な批評を対置する。カービーは、批評と記録の違いについて以下のように述べている。

この区[批評と記録の間の区分]は、主観的な情報と客観的な情報との間の差異、特定の仕方で誰かひとりの観察者 observerにみえるものと、すべての観察者に同様の仕方でみえるものとの間の差異、反応、意見、評価と事実の記録との間の差異によってつくられなければならない。35

 つまりカービーにとっては、主観と客観、一人と全体、評価と記録という3つの観点が、批評と記録の間の違いだとされる。しかし、この3つの対比は、必ずしもそれぞれ同じものを指すわけではない。まず、カービーにとって作品に関する客観的な情報とは、前述のように、作家が意図していた限りでの情報だと考えられる。カービーはまた、客観的な情報をすべての観察者と同一の分類においている。しかし、カービーの分類に基づくと、そのときすべての観察者として想定されるのは、作家によって想定された限りでの観察者である。しかし、そのように前提される参加者は実際には、すでにニューヨークの美術界で権威をもっているような白人がほとんどであった36。カービーはこのようにして、記述の中で、ディレイニーのような観察者を含めることが出来なくなっていると考えられる。

 ハプニングにおいては、ディレイニーの記述に典型的なように、参加者による記録は主観的にならざるを得ない。カービーは仮想敵として一人称的な批評を置き、それを避けようとするあまりに「すべての観察者」というハプニングにおいてはあり得ない参加者を置くことになったといえるだろう。確かにこのような記述によって、後年の読者も招待された参加者のひとりとしてパフォーマンスを追想できる。しかし、カービーの記述では招待された参加者が前提されていることは伏せられているため、ディレイニーのような記述が現れない限り、招待されなかった参加者は存在しなかったと想定されるだろう。

 つまり、カービーは作家によって提示される作品の情報を、あくまで参加者の視点で記録した点に、現実の作品を捉えきれなかった矛盾がある。ディレイニーの記述にあるように、実際にその作品の参加者は、リハーサルや台本の存在も知らずに、自らの手で作品の境界線を探りながら鑑賞を行っていた。カービーの記録は、作品についての客観的な情報がまとめられた資料になっているが、それが参加者の経験として語られることによって、現実に起こった作品の記録なのかについては疑問が残るものになっている。



3
0 Kirby Michael “ An Introduction to T52: Documentation, Criticism and History”, The Drama Review: TDR, Vol.15, No.4, 1971, pp.3-7.
この文章で例に出されている作品には、イェジー・グロトフスキやアントナン・アルトーなども含まれているため、一概に全てが当時のニューヨークで発展したハプニングに関わるものではないと思われる。しかし、カービーが「現代の作品」と言ったり、カプローと同世代でニューヨークで多数のハプニングを行ったクレス・オルデンバーグの作品なども含まれていることから、ハプニングも含んだ演劇作品の記録についての著作だと推測できる。
31 Ibid., p.4.
32 Ibid.
33 Ibid.
34 たとえば鑑賞と価値判断の違いについて話すときに、カービーは「もし人がパフォーマンスを見たとしてーそして私は引き続きこれを完全で、客観的な記述を受け取ったときと同じだと思っているー」として、作品と客観的記述を読んだ時を同一視する。それ以外にも、以下のような記述もある。「もし、誰かがパフォーマンスを見たとするならば、(もしくは、十分に客観的な記述や、パフォーマンスの代理品を会得したならば)、彼はそれを批評的な観点からも対処することができる。」ibid., p.5.
35 カッコ内引用者, ibid., p.4.
36 たとえば、《6つのパートからなる18のハプニング》で招待された主な参加者は以下の通りである。なお、これ以外にも美術雑誌の編集者などがいたという。
クレス・オルデンバーグ
Claes Ordenberg
ダン・フレイヴィン Dan Flavin
ダビッド・チューダー David Tudor
フェアフィールド・ポルタ― Fairfield Porter
アイヴァン・カープ Ivan Karp
ジム・ダイン Jim Dine
ジョン・ケージ John Cage
レオ・カステッリ Leo Castelli
マイヤー・シャピロ Meyer Schapiro
リチャード・ベラミー Richard Bellamy
アルフレッド・レスリー Alfred Leslie
ディック・ヒギンズ Dick Higgins
ジョージ・シーガル George Segal
レスター・ジョンソン Lester Johnson
レッド・グルームス Red Grooms
ロバート・トンプソン Robert Thompson
サム・フランシス Sam Francis
アル・ハンセン Al Hansen
ジャスパー・ジョーンズ Jasper Johns
ロバート・ラウシェンバーグ Robert Rauschenberg
参加者については、以下を参照した。
Kelly Jeff, Childsplay:The Art of Allan Kaprow, Berkeley: University of California Press, 2004, p.34. Haywood Robert, Allan Kaprow and Claes Oldenburg : Art, Happenings, and Cultural Politics, New Haven: Yale University Press, 2017, p. 27.

結論

 
本稿では、パフォーマンスの文書による記録について、《6つのパートからなる18のハプニング》を具体例にして考察した。カービーは作家による作品に関する情報を中心に、それを参加者の視点で記している一方で、ディレイニーは招待されていない参加者の視点から、何もわからなかった状態を記している。この2人の記録を比較することで、カービーの記述は、作者に準拠した情報を参加者の視点から書くことによって、現実に起こった作品の特徴を取りこぼしている点があることがわかった。

 しかし、これはディレイニーの記録の方がハプニングの記録として優れているという訳ではない。ディレイニーの記述のような参加者の経験を綴る記述のみでは、後の読者は作品について十分に知ることは出来ない。しかしカービーが試みているように、作家が意図した作品の情報を参加者の経験として記録すると、それはハプニングの大きな特徴のひとつである偶然性を排した記述になる。つまり、特にハプニングのようなパフォーマンスの記録においては、作家側が計画した作品についての情報と、参加者側が経験する作品についての情報が、混同されることなく主体を明確にした上で両立することが重要だと考えられる。決して完全には重ならないこの2つの作品像が同時に存在することが、パフォーマンスの作品を記録することだと思われる。

 ディレイニーによってハプニングが「歴史的出来事」と言われたように、このようにパフォーマンスの記録とそれが取りこぼしているものについて考察することは、歴史記述において無視されてきた言説や主体を考えることにもつながる。今後も、パフォーマンスやインスタレーションの記録や保存に関する分析を通じ、一回限りの作品を歴史化することについて考察を進めたい。


参考文献
Kirby Michael, Happenings: An Illustrated Anthology, New York: E. P. Dutton, 1965
Kirby Michael “ An Introduction to T52: Documentation, Criticism and History”, The Drama Review: TDR, Vol.15, No.4, 1971, pp.3-7.
Delany R. Samuel, The Motion of Light in Water Sex and Science Fiction Writing in the East Village, 1957- 1965, New York: A Plume Book, 1988.
Haywood Robert, Revolution of the Ordinary: Allan Kaprow and the Invention of Happenings, Ann Arbor, Mich:UMI Research Press, 1993
Butt Gavin, “Happenings in History, or, the Epistemology of the Memoir”, Oxford Art Journal, Vol.24, No.2, 2001, pp.113-126
Kelly Jeff, Childsplay:The Art of Allan Kaprow, Berkeley: University of California Press, 2004
Rosen Barry and Unterdörfer Michaela (eds.), Allan Kaprow: 18 happenings in 6 parts,Göttingen: Steidl Hauser and Wirth, 2007.
Meyer-Hermann Eva, Andrew Perchuk, and Stephanie Rosenthal (eds), Allan Kaprow: Art as Life, London: Thames & Hudson, 2008,
Ursprung Philip,translated by Fiona Elliott, Allan Kaprow, Robert Smithson, and the Limits to Art, Berkeley: University of California Press, 2013
Haywood Robert, Allan Kaprow and Claes Oldenburg : Art, Happenings, and Cultural Politics, New Haven: Yale University Press, 2017
・”Memorial Michael Stanley Kirby’53” ”Princeton Alumni Weekly”, https://paw.princeton.edu/memorial/michael-stanley-kirby-532021715日最終閲覧。
・スーザン・ソンタグ『反解釈』高橋康也ほか訳、筑摩書房、
1996年。