挑戦状
インスタレーションとしてのアーティストとステートメントの観客
大岩 雄典
美術家としてこの文章を書いている。というか、それ以外の立場で書きがたいというのが、作家というものがもはやインスタレーションの一ジャンルである、ということの実情だと思う。
この文章は厳密さを求めていないけれど、あなたという読者への効果は誇張する。だからきっと読みやすい。
以下に続けるのは、「テクストの観客」についてのテクストだ。
美術家をしながら、研究をしている。ここ一年の個展つづきのあいまに、いくつか文章を書いた。1つめは、所属先の大学院に提出した論文。2つめは、以前このAROに寄稿した論考。3つめは、演劇誌『悲劇喜劇』に寄稿した批評。それぞれのテーマは、①物語論、②インスタレーション論、③漫才、だ。
それぞれもうすこし詳細に記す。
語り手と読者の知
1つめの論文の題は「物語に「外」などない」という。内容は、1970年代に成立した物語論モデルへの批判だ。どの点を批判しているかを端的にいえば、そのモデルが文章の物語というものを、「読者に語りかけるように」構成されている、と前提するところだ。つまり、語りをコミュニケーションと考えるところだ。
もちろん小説は、作者から読者へ、ものとして差し出されている。それは当然の事実だ。でも、そこに収められた文章の作りはどうか。それは、誰かが誰かへ、最近自分に起こった・起こっていることや、もしくは自分ではなくても他人について知っていることを「お話する」ような形で書かれている。前者は、物語の主人公は自分なのだから、話している当人はその世界にいる。だから一人称を使う。後者は、話し手は物語の外からそれを眺めている。だから三人称を使う。裁判の供述だと想像がつきやすい。被告は自分の目線から、検察は現場から推測した目線から語る。だから被告は心情を吐露することができるが、検察は推察した動機を言うくらいしかできない。この仕組みは探偵小説にもおそらく影響する。
こういうモデルは、たしかに自然だ。物語において、誰が、誰に向けて話しているのか。それは「知」をめぐるコンポジションになる。「コンポジション」といってもわかりづらいから、言い直そう。「誰が何を知っているか」を把握したうえで、文章はデザインされている。
まず、語り手が何を知っているか。検察は、被告の本当の気持ちを勝手に代弁はできない。テレパシーが使えるなら別だけれど。ものごとを話す人間は、他人の心情はわからないし、そして自分が見聞き知りしていないことは、推測を交えてしか話すことができない。人は、自分の知らないことを話すことはできない。ワトスンは、最後にホームズが推理を披露してくれるまで、ホームズが何を考えているか読者に教えられないし、ホームズより先に犯人を千里眼で見つけてもいない。あくまでホームズが語ったことを報告するしかできない。
ただし例外もある。俗に言う「神の視点」の語り手だ。その語り手は、登場人物の行動や心理をすみずみまで把握していて、何でも語ることができる。「ハリーは顔にこそ一切出さなかったが、心底嫌な気持ちだった」。
現実にしたって、事件のルポルタージュは、関係者へのインタビューを重ねて「全貌」がわかったうえで書かれる。つまり結局、このモデルでは、フィクションにせよ現実の話にせよ、話す側が何をどこまで知っているか、報告できるかが問題になる。
そして「誰が何を知っているか」はもうひとつの存在に関わる。読者だ。物語は、読み始めの時点で何も知らない読者に向けて、丁寧に、理解の道筋を立ててデザインする。
読者がその時点で何を知っているか、そしてこれから何を知るべきかを、語り手や作者は把握し、コントロールする。たとえば探偵小説の「読者への挑戦状」を思い出すといいだろう。「事件解決に必要な手がかりは、ここまでで全て登場している。あなたも探偵と同じ条件で推理してみないか」、云々。推理なり裁判なりというモチーフは、語りを説明するのにうってつけの題材だ。解明すべき出来事がまだ不明だという前提から、それについてどう語っていくか、ということ自体のドラマなのだ。
これはあくまで「さわり」だ。当該の論文では、もうすこし文献などを引きながら、おしなべて「作家にとっての観客(audience)」「語りの観客」といった用語で説明している。
さて、物語はそのように、「知っている人が、知らない人に、知らせる(report)」人間じみたものだ……と、従来の物語論は無意識に、自然に前提していた。観客という存在は、知と無知の空間と、それを埋めていくプロセスの時間とにおいて、想定されている。語り手が人間であること、そして観客もまた人間であることを象徴する概念が「態(voice)」だ。
……テクストに話しかけられている気がするだろうか。あなたがわかるように、わかるような声を使って語っている、語り手あるいは作者。
論文では、もっとそうではない実例を挙げて、「態」は物語に必須ではない、少なくとも条件ではなくパターンのひとつにすぎないと主張した。物語はつねに「つくりもの(invented)」なのだ、報告や伝令ではない、と批判した。
第一幕第二場 空間
空舞台。いままであなたに話しかけていた声は失せ、ぽっかりと空間が残っている。
語り手、落ち着いて登場。
……さて、2つめ。AROに寄稿したのは、インスタレーションを「空間の芸術」として論じる文章だ。とくに終盤のほうで、さっきまで話していたような、物語論をヒントにしている。
「ダンスホール」と題されたこの文章は、冒頭と最後との二つの「ダンス」で挟まれている。冒頭には、人を誘惑するベリーダンス。最後には、二人でステップを踏み合うワルツ。前者はロザリンド・クラウスがインスタレーション・アートを揶揄した表現で、後者はフェリックス・ゴンザレス=トレスの作品を参考にしている。
相手から一方的に誘惑されるダンスではなく、自分に何ができるか、何をすべきかを手取り足取り折衝しつづけるダンスへ……という流れが、この論考の骨子だ。
話はまず「演劇性(theatricality)」から始まる。これはマイケル・フリードがミニマル・アートを非難するときに用いた用語で、インスタレーションについて語るときも必ずと言っていいほど引き合いに出される。
ざっくりと言えば、芸術のもつ「演劇性」とは、観客の「自分がどのような観客かということに振り回される立場」を利用(exploit)した性質、といえるだろう。ミニマル・アートは観客を部屋で出迎え、「さあ、わたしがあなたの観るべきもの……と思えるでしょう? さあ、どう観る?」と、押し付けがましく現れる。
観客は「それをどう観たものか」という立ち位置の磁場の外に逃れることはできず、どこに立とうと、回ろうと、「あらあら、あなたそんな」「そう見るんだ」と流し目で振り回される。そういう関係が抽象的に埋め込まれた形こそ、ミニマル・アート彫刻のシェイプだ。角は回り込ませる。透明なものは裏側から透かし見させる。アーチはくぐらせ、対称性は確認させる。
そういう性質をフリードは「リテラル(literal)」と形容したが、この論考ではこの語を「身も蓋もない」と独自に訳してみた。あまりに直に絡んできすぎる、その性質をフリードは敏感にとらえた。
フリードの主張への細かい反論の詳細はここでは割愛する。ともかくフリードにとって、この「身も蓋もなく」絡んでくる感じは、まるで人に絡まれているかのような嫌さだったようで、ミニマル・アートの彫刻はまるで「人みたいだ」とさえ言っている。それは人の動きに合わせて設計されているという意味で、「等身大」のものだ。
この意味で、「演劇的な」「リテラルな」芸術は「擬人的」である。観客にたいしてそれ自体、人間が直々にいるかのようにふるまう。コミュニケーションする。それは演劇が、舞台上に人間を召喚するために俳優をもちいて「その人ではないけど人」を上演できることにも似ている。
インスタレーション・アートにおいては、「空間」がそういうふうに人を動かす。そのうえそれはミニマル・アートのように幾何学的なデザインだけに特化するわけではない。
観客のいる「席=平場」が据え置かれるのは、物質的で幾何学的な展示室の空間だけではない。「その記号は何を表しているのか」つまり表象の空間、「この作品は絵画だけれど、いろいろな絵画のうちでもどんな絵画なのか」つまりメディウムの空間、「さっきのあの要素と、今見たこの要素が、つながった!」つまり要素の空間。この三つ目は、インスタレーションだと物理的な空間で想像してしまうけれど、これも探偵小説のように考えれば、「要素が織りなす空間」は想像しやすいはずだ。
物理的で幾何学的な空間、表象の空間、メディウムの可能性の空間、そして要素の構成の空間。さらに「サイト・スペシフィシティ」と言うときの「サイト」も付け加わる。つまり生活・土地・歴史・制度などに文脈づけられたところとしての「場」。
こうした複数の「空間」を同時にあつかい、それどうしをうまく呼応させたり対立させたりする芸術・技術こそ、インスタレーション・アートだ、という話だ。だから観客が投げ込まれ探索するはめになるのは「空間の空間」ともいえる。
「空間」とは「すきま」だから「あそび」だ。それ同士の折衝はつねに動的で、観客は、そのまだ解明できなさのなかでプレイする。鑑賞者が先へ先へと観て、なんどもとどまり、折り返して、つねに空間は織り直され、なんどもなんども、その作品としての「全体像」は考え直される。
フリードがミニマル・アートにいう演劇性は、一方的で押し付けがましく、鑑賞者を展示室内で「振り付け」て踊らせるものだったかもしれない。いっぽうクラウスは、インスタレーションのほうが「誘惑のダンスを踊っている」と捉えた。
さてほんとうに踊っているのは、観客と作品、どちらなのか。この論考での結論は、両方だ。両方が踊るならば、手をとりステップを踏むだろう。そこには、おたがいの意図とそれへの呼応、あるいは無視と、離れて勝手にひとりでステップを踏み出す機会さえもが、用意されているのだ。そうしたダンスは「社交」とも呼ばれる。
その空間は劇場にも似ているけれど、また別の名前がある。ダンスホールだ。
第一幕第三場
以下、『ロミオとジュリエット』(河合祥一郎 訳)から抜粋引用。
召使登場。
召使 奥方さま、お客さまは皆さまがお見えになり、夕食の支度は整い、奥方さまは呼ばれ、お嬢さまは探され、ばあやは台所で悪口を言われて、大変な騒ぎになっております。私も、お給仕をせねばなりません。どうか、すぐいらしてください。〔退場〕
〔…〕
第一幕第四場
ベンヴォーリオ さあ、門を叩いて入ろう。入ったらすぐ、踊りだすんだぞ。
ロミオ 松明をよこせ。感じもしないカーペットを/踵でくすぐるのは心の軽い遊び人に任せよう。/この俺は、古い諺にあるとおり、傍目八目、/明かりを持って高みの見物だ。/勝負は最高潮のときに抜けるが勝ちだ。
〔…〕
第一幕第五場
ロミオら一同が舞台をぐるりと行進しているあいだに、召使たちがナプキンを持って前に出てくる。
〔…〕
音楽が演奏され、皆踊る。
〔キャピュレット〕さあ、広がって、場所を空けて! さ、踊ってください、お嬢さん方!/もっと明かりだ、おまえたち。テーブルを片付けろ。/松明の火を消せ。部屋が暑くなってきた。/なんともはや、この飛び入りの連中はなかなかいいな。/〔…〕
第一幕第六場 平場のわたし
語り手は、構わずあなたの方を向いて話し続ける。
3つめ、『悲劇喜劇』2021年5月号(奇しくもシェイクスピア特集だった)に寄せた短い批評は、「演劇性」という語を、美術や舞台演劇ではなくて、漫才やバラエティ番組をつかって語ろうとしたものだ。
漫才やコントは文章ではなく劇である、と気づかせてくれるもののひとつに「笑い待ち」がある。
いやもちろん、文章にも当然演劇性はある。文章もしばしば何かを待ち、謎めいた引用で客を立ち止まらせ、という駆け引きをしている。劇やコントは別の方法でそれをする。
この批評は「M-1グランプリ2020」をきっかけにしている。
優勝したマヂカルラブリーは、3年前の大会でいちど審査員の上沼恵美子に一蹴されて、話題の種になっていた。それから「マヂカルラブリーとM-1(上沼)」は、ただのいち審査にとどまらない、三年に渡るコントを結果的にものしてきた。すくなくとも、この場外コントの「客」はいたのだ。
だから、ついに決勝に再び現われた2020年の大会で、マヂカルラブリーが得たひとつめの大きな笑いのときに、上沼恵美子の表情をカメラに抜かせ、視聴者の意識をその場全体に向ける「笑い待ち」が含まれていたことで、ネタのテクストにとどまらない、「平場」の笑いが持ち出される。さきほどの「リテラル」を「平場の」と訳しても、しっくりくるだろう。
平場とは「その人がその人であること」が持ち出されざるをえない技術の場だ。観客は観客を、あるいは「観客わたし」「わたしという個人が客として来ていること」を演じざるをえない。
「演じざるをえない」というのは複雑だ。つまり、演じない状態でいることができない、素でいられない、しれっといられない。わたしが「わたしを演じているもの」「わたしに演じられているもの」であらざるをえないというパフォーマティヴな受動性を、「アイデンティティ」と呼んでもいい。
演劇性は観客のアイデンティティを無視しない。何もセンシティブなアイデンティティをくすぐるわけではない。あなたが、ほかならぬわたしの話を、今まさに聞いているその感じ、他の誰かに代えがたいことを、アイデンティティという。
カメラが抜く。
バラエティ番組はいまや漫才とコントのハイブリッドで構成されている。「どのレイヤーでネタが行われているか」と「どのレイヤーで笑いが起こるか」が複雑に編まれたひとつの形式に、たとえば「VTRを観ながら、スタジオからコメントする」番組構成がある。
とくに過渡的な例に、千鳥がMCを務める『相席食堂』の「夢のMC超人タッグトーナメント」を挙げよう。ふだんの『相席食堂』は、ゲスト芸能人のロケVTRをスタジオの千鳥が「ちょっと待て」とたびたび停止しながら突っ込んで進めていく構成だ。しかしこの「トーナメント」はさらに複雑だ。代理MCを発掘するという名目で、ロケVTRを代理MCが観ているようすのVTRを千鳥がまた同じ方式でスタジオで観る、という入り組んだ時空間をつくっている。
「観客であること」は、視聴者から千鳥、さらに代理MCへと分配され、たがいに観られている。代理MCの最初の候補である神田うのの、「わたしを演じ」ずに「ただわたしであるだけ」ゆえに要領を得ない回しの「やきもきする」質とともに、演劇性とリアリズムの問いは差し出される。
平場もまたステージに取り込まれることこそ、フリードがミニマル・アートに言う「観客の包含」だ。そしてフリードが予言したように、演劇性はあらゆる芸術を席巻した。
語り手は、三つの文章をスムーズに紹介し終えた緊張がほぐれ、まばたきする。いまいちど平場を眺めて、息を整える。
探偵小説でいえば、事件の起こるのはここからだ。登場人物がすこし増える。
第二幕第一場
あなたの観ているものが、また別の何かの観客であることは、あなたもまた観客である以上、ひとごとではない。
第二幕第二場 パフォーマティヴなリアリズム、ネットワーク化したサイト・スペシフィシティ
アンネ・リング・ペーターセンは、インスタレーションには「パフォーマティヴなリアリズム(performative realism)」が普及しているという。観客は、その行為を通じて作品にかかわることが、受容にあたってもとめられている。
ペーターセンは、観客が作品にかかわるこの「行為」を3つの意味、「身体の運動」と「自己反省」、そして「インタラクティビティ」から理解する。ひとつめは、ミニマル・アートに言えたような、角度や距離の振り付け。ふたつめは、「自分はそう運動している、観ている、知る」ということへの否応ない意識。それは、観ることをきっかけに作動するプロセスだ。観ようと近づけば詳細に見えてくる。穴を覗きこめば、その覗いている様子がまた他人に観られる。映像を観る人を観る人を観る。ペーターセンはそのきっかけを「身体」に限るが、それはインスタレーションを物理的なものにかぎる慣習ゆえだろう。だがいまや、行為が可能な空間は、社会的な場にも、インターネットにも広がっている。
みっつめは、いわゆる参加型アートや、人の常駐する作品、デジタル・インスタレーションにしばしばある、より日常的な行為に近い行為だ。食べる、話す、書く、座る、眠る、読む、動画を開く、リンクをタップしてアクセスする、指でスワイプする、踊る。あるいは、そのどれもをやめる。あらゆる芸術作品は、その場でやめるという行為のインタラクティヴィティに開かれている。
ペーターセンによれば、このどの意味の行為も、任意で自発的なものや、実際的なものにかぎらない。観るということに付随して、あるいはときに、ただ何かを意識したり見たりすること、あなたが何かの「主体」であることに付随して、自然にしてしまう行為も、ただ立っているという行為さえも、さらには想像のなかでなされる行為も、インスタレーションにとっては、プロセスのトリガーとして想定されている。さらにペーターセンは、「心ここにあらず(absent-mindedness)」さえも、その受容のありかたのひとつに数えている。
ならば、鑑賞者はけして、インスタレーションというものの外側に出ることはできないのだろうか。はじめから何も知らない、接触しないということだけが、ラディカルな距離でありうるというのだろうか。
ペーターセンは、インスタレーションは必ずしもパフォーマティヴなリアリズムに支配されるわけではない、とは言っている。たしかに鑑賞者は、没入するにせよインタラクトするにせよ、その受容の仕組みへと取り込まれやすい。いっぽうで、その不気味なアイデンティティを演じているということの自覚をもって、いつでも傍観者でもあることができる。ジョゼット・フェラルを参考にしたペーターセンの「演劇性」理解は、実際の演劇の芸術に由来するというより、もっと実存的で、人のふるまいに根本的に約束されたものだ。
「そのため、フェラルにおける演劇性の概念は、自発的なものではない。それは、鑑賞者がその何かにとりかかるまえにすでに約束されたものにもとづいており、そこには、表象――パフォーマンス、出来事、作品――を作り出そうという意図をもったアクターがあるのだ。鑑賞者の視線はこれにとりかかり、そうして、日常空間とは意味論的な意味で異なる、他者性の空間、フィクション的な空間を作り出す。演劇性とはこの意味で、視線がおこなう何かであり、鑑賞者によるパフォーマティヴな行為なのだ。視線はフレームづけ、そしれそれがフレームづけることで、空間は内部と外部に分けられる〔…〕。そうすることでフィクション的な空間は、たとえ日常的な使用の空間の真ん中においてでさえも、発生する」
日常から隔てられるこの「フィクション的な空間(fictional space)」を、インスタレーションの「空間の空間」の主要メンバーに加えるか、少なくとも「表象の空間」のバリエーションに置いていいだろう。
観客の行動が、ただの素朴な日常からわずかにでも遊離して、美的な意味を負わされる。もはや表象というものは、視覚やテクストの記号だけでなく、もっと身体や心においておこる行為、見る行為それ自体までをも対象とする。あらゆる行動が、インスタレーションにおいては、何か別のためのもの、作品の空間に半ば取り込まれうる。そして観客は同時に、ただ傍観することもできる。
この、没入と傍観との弁証法は、クレア・ビショップのインスタレーション論にも見いだされる。しかしこの二つのあいだで観客が揺れ動くこともまた、インスタレーションが振り付けている「空間」のひとつであるだろう。
ペーターセンの議論をつうじてより押し広げられる空間はもうひとつある。それは「サイト」だ。
ペーターセンはミウォン・クオンの議論を参照する。かつてミニマル・アートやランド・アートにおいて、実際にそこで現象が観られる「その場」を意味していた「サイト・スペシフィシティ」は、コンセプチュアル・アートなどの影響を受け、現象の現場よりも社会や制度の絡んだものとしての「その場」を指すようになった。
さらに1990年代以降、その主戦場はもはや、その場とされるものをめぐっている「文化的議論」そのもののほうが主役になる。それをクオンは「言説的(discursive)」と呼んだ。ペーターセンは、それがなおも「場」であることを強調するため、「網」つまり「ネットワーク化したサイト・スペシフィシティ(networked site-specifity)」と言う。また長い引用を。
「これら新たなプロジェクトの多くを特徴づけているのは、作家によって主導された行為とプロセス、物理的なロケーション、オブジェクト、テクスト、写真、動画記録等々が、ひとつの異質的なまとまったプロジェクトへとすべて結びついていることだ。そのプロジェクトは、多くの異なるサイト――ウェブサイトという、コンピューターと携帯電話がオンライン接続できればどこからでも訪問できる点でサイト・アンスペシフィックであるサイトも含む――と関係し、またインパクトのあるようなものだ。ネットワーク化したサイト・スペシフィシティは、異なるロケーション、そしてその間で動く主体たち――特に、最重要の語り手という立場にあるアーティスト――のあいだにある、言説的で制度的な関係を作り出す。このようにして、このタイプのプロジェクト、あるいは知識の生産といった、このしかたによって帰結するものは、意味と行為の連鎖あるいはネットワークとして現われる」
語り手は、そろそろ結論に向かう。
……作家は、言説のネットワークを取り結ぶため、物理的なロケーション(展示と言おうか)、オブジェクト(作品と言おうか)、写真や動画の記録(アーカイブと言おうか)、そしてテクストを作り出す。
さて、それを「プロジェクト」と言うのは、いまだ「作品が、作者によって作られる」というモデルをナイーブに踏襲しているからだろう。だが上の記述を読めば、いとも簡単にこう言うことができる。その「プロジェクト」は、作家そのものじゃないか、と。
サイト・スペシフィシティとして「ネットワーク化した(networked)」するために、作家は自身を「社会的にネットワーク化する(socially networking)」サービスを活用する。みずからのテクスト、声を投稿して、声に声を重ね、展示を広報し、作品の写真を披露し、記録へリンクする。
「異なるロケーション」とペーターセンがあわてて付け加えるから、それはプロジェクトのために何度か開催される個々の「作品展示」に限られるように思えるが、はたして主体やオブジェクトが置かれる場所は、物理的なロケーションにかぎらず、アドレス(住所)というワールド・ワイド・ウェブの比喩でもあるだろう。
そしていまや作品も作者も同じフォーマットで展示されている以上、それらを区別する必要もないだろう。
美術家はテクストを書き、批評し、ツイートして、そのあとに軽やかに自分の展示を広報して、自分の/自分に触れるものをネットワークにする。作家はいまや、擬人化したインスタレーションではないか。
第二幕第三場
アーティスト登場。
トーマス・ヒルシュホルン 私はアーティストであって、ソーシャル・ワーカーではない。〔退場〕
第二幕第四場 作家というインスタレーション
グラント・ケスターが言うように、作家はプロジェクトの「代表者(delegate)」だ。クオンもこれを参照している。クオンによれば、アーティストは「デモンストレーションなどの政治的なパフォーマンスを通じて、共同体自体をリテラルに表象したり提示する行為をつうじて、作家は自身の政治力を強め、合法化する」。
アート・プロジェクトの場が、社会や政治、土地や歴史なサイトをとることもあるならば、もちろん、ファイン・アートという社会・制度・市場のなかに場をとることもあるだろう。作者が作者としてあることは、ネットワークの中にインスタレーションを立てるような、「外」なきプロジェクトのようだ。
そこでは、もちろんいち個人もまた他人のプロジェクトの要素、オブジェクトになりうる。オルタナティブ・スペース、スクール、アーティスト・キュレーション、批評するアーティスト。生身の他人をオブジェクトとして巻き込むものを、インスタレーションと呼ばないようにしているだけかもしれないが、ヒルシュホルンが地元住民を、サンティアゴ・シエラが契約労働者を、あるいは多くの参加型アートが鑑賞者を要素に含むならば、自分ではない作家(これもまたひとつのプロジェクトだ)を巻き込むものをアート・コミュニティ・リレーショナルなインスタレーションと言うことに、無理はあるまい。
インスタレーションが鑑賞者を「アクティベートする」という理念にかんする、ファイン・アートのインスタレーションの欺瞞を、グレアム・コールター゠スミスは批判する。この批判は、ペーターセンの弁証法を、作家の作品化あるいは作品の作家化をゆるすコンセプトとしてのインスタレーション、というところに持っていく。
いまや作家は、自分の文章を作品で、自分の作品を文章で引用して、言説をつないで、インスタレーションを作る。このネットワークに寄与しているのが、ステートメント(声明)だ。ステートメントが作家にも作品にも展示にも付せられるのは、その証拠だ。
そしてこの「声の権力」はときに、媒体をのらりくらりと変え、他者の口を借りて、自己批判さえして、流通するように仕向けられる。声のロンダリング、腹話術、いうなれば権力の「節税対策」。
むろん、今あなたが読んでいるこのテクストもまたそうした擬人的にネットワーク化する声の典型だ。美術家によって、美術家であることを逃れられない手つきによって書かれたこのテクストは、わたしのテクストを渡り歩くようにして、わたしの諸作品とも協働し、作家というプロジェクトに一貫性を演出する一助になるだろう。適度な引用と口調、演出、なにより自己言及によって、あなたがこの内容を、言葉に沿って把握することの美的な効果を増幅された、テクスチュアルなインスタレーションとして作られている。
プロジェクトが人間じみてまとまって見えるようなこのネットワーキングの手つきを、ペーターセンが「語り手(narrator)」という比喩を使ったことになぞらえて、「態=声(voice)」という用語で比喩して言っても、いまやいいだろう。わたしが許す。
物語において態のプロセス的な一貫性を弁護するのは、語り手と読者とのあいだに今それが伝えられているかのようなコミュニケーションの幻影(イリュージョン)、ともに同じ「場」に置かれているような美的感覚だろう。書かれたテクストにたいして読者はそのプロセッサー、エージェンシー、(被)報告者のように機能する。
「物語は、読者が芸術作品の意味をつかむ典型的なしかたと、インスタレーション・アートの典型的な構造との両方を指す言葉であるという点で有益な隠喩だ」(コールター゠スミス)
語り手は去ろうとする。修道士ロレンス、ジョン登場。
第二幕第五場
ロレンス では、ロミオへの手紙はだれが?
ジョン 届けられなかったので――ここに、こうして、まだ――〔…〕
語り手は手紙を受け取り、淡々と読み始める。
読者への挑戦状
手紙は必ず届くのでも、必ず届かないのでもない。手紙は、ただいつも遅れているだけだ。ずっと前のほうで、「読者への挑戦状」の話をしたのを覚えておいでだろうか。
「読者への挑戦状」は、語りと、それに登場する要素とその順序の一貫性――つまり「態」の擬人性――を確証し、合法化する。この一貫性を物語内から確証するのが探偵という装置だ。
わかることの条件の網の目を司るものとして、作者はあなたの知を利用している。あなたに話しかける、この要素の選択と順序こそにほかならぬ意味があること、そう感じ取れる質は、作者の、語り手である、自分の文脈づけるプロジェクトの代表者であるというある種の政治的立場の表現に存する。
わたしが提案したいのは、そうでない読み、不自然な読みの可能性だ。押し付けがましい作者からすれば迷惑で、勝手で、意地悪な読みのキャパシティを、読者は得ることができる。もちろんそれもわたしのプロジェクトかもしれないが、だが「挑戦」というディスクールは、わたしとあなたとの関係を、一度は「不信」、ビショップのように言うならば「敵対」の形式に置いてくれる。
さて、別に探偵小説ではないので、解明すべき真実があるわけがない。「誰」も「なぜ」も「どのように」も特に訊くことはない。むしろそれは一貫性を確証する装置だ。挑戦はその逆、このとおりだ。
テクストのなかに、それに一貫性があるかのように読ませるプロセスには一切関っていない、「奇妙な同一人物」を探してほしい。
その「奇妙な一致」は、あまり矮小で、ただ美的でしかないゆえに、わたしが見つけたあとも明示する気にもならなかった、くだらないし、内容にも関係のない、わたしにとって予想外の一致だ。それでわたしが書いた何かが大きく変わることはないし、議論がひっくり返ることも別にないだろう。
それでもその存在は、この文章が、構成に効果をもたせたインスタレーションであり、ゆえに読者にとって物語でもあるとすれば、それに逆らうしこりとなって残っている。
探偵小説ならば、自然に見過ごしていた一致が意味をもてば、隠された一貫性、つまり犯行を露わにするきっかけになるだろう。だからそれを「鑑識(identification)」と呼ぶ。
だがわたしはむしろ、強調されて効果を負ったかずかずの隠喩ではなく、ふいに混ざりこんだ、奇妙な双子のほうに、テクストを転覆させる美的な期待を抱いている。
このいまだ無意義だが形あるものを見つけ出すことは、あなたの読むという行為に、作者の仕掛ける自然さを振り切るきっかけ、不自然で、それゆえに決定的に批評的であるような読みのための妙薬を与えるかもしれない。わたしはこの、ただ美的でしかないゆえに、妙薬として振る舞える物質的なセレンディピティ、そのようなもののほうに、芸術においてコンセプトと呼ばれるべき資格を移譲したい。
参考・関連文献
Clair Bishop, Installation Art: A Critical History, Tate Publishing, 2005
Graham Coulter-Smith, Deconstructing Installation Art, brumaria 13, 2006
Miwon Kwon, One Place After Another: Site-Specific Art and Locational Identity, The MIT Press, 2002
Anne Ring Petersen, Installation Art: Between Image and Stage, trans. Annette Fogh and Nicolas Atkinson, Museum Tusculanum Press, 2015
Juliane Rebentisch, Aesthetics of Installation Art, trans. Daniel Hendrickson and Gerrit Jackson, Steinberg Press, 2012
ウィリアム・シェイクスピア『新訳 ロミオとジュリエット』河合祥一郎 訳, 角川書房, 2005
大岩雄典「物語に「外」などない:ヴィデオゲームの不自然な物語論」『LOOP 映像メディア学』vol.10, 左右社, 2020
大岩雄典「ダンスホール――空間の(再)空間化」ART RESEARCH ONLINE, 2020
大岩雄典「インスタレーションの異質な空間の空間化:プロセス化可能性とリテラルネス」『LOOP 映像メディア学』vol.11, 左右社, 2021
大岩雄典「M-1グランプリ2020の「演劇性」――もしくは「演劇性」はなぜそう呼ばれるか」『悲劇喜劇』2021年5月号, 早川書房, 2021