素知覚と制作

畑山 太志

 制作する上で大切にしていることがある。それは、私の周囲を取り巻くさまざまな存在たちとの交流によって自らの内に生起する言語化することの難しい感覚である。これは私にとっての制作のテーマとも言えるものだし、またそれ以前に制作そのものを駆動する原動力とも言えるものだ。

 
今回のエッセイで書きたいことは大きく分けてふたつある。ひとつは、昨年2020年6月のEUKARYOTEで開催された個展でコンセプトとして据えて、過去から現在まで制作の重要なテーマとなっている「素知覚」という私が作った造語について。もうひとつは、制作のテーマやコンセプトとはまた違った位相として存在している、制作そのものに付随する言語化することの難しい感覚について。詳しくは後述するが「素知覚」というコンセプトを広く解釈していくとすれば、制作の現場で起きている「素知覚」の風景を書いていくことになるであろう。

 制作のコンセプトとなる「素知覚」とは、目に見えないものを感覚することのできる人間に本然的に備わっているありのままの知覚のことを示している。この言葉に行き着くまでには、多摩美術大学在学中の制作から考えるとおよそ8年ほどの時間を要している。「素知覚」に繋がる制作初期の印象的な経験をふたつほど振り返ってみたい。ここでの経験を語ることが、「素知覚」すなわち目に見えないものに対する言葉にしがたい感覚をそのまま描写することになるからだ。

 
私が学部二年生の頃に訪れた富士の樹海は、未だかつて体験したことのない森という空間の威圧感や、身体全体に刺さってくるような樹々の放つ空気が今も生々しい記憶として蘇る。持ちこんだコンパスが狂ってしまうという話をよく耳にするが、たとえコンパスを持ちこまずとも、自身の身体を通じてその強烈な磁場を体験することができる。乱立する樹々やうねるような根の視覚的印象を超えた圧倒的な存在感や空気感は忘れがたく、視覚的なものよりも非視覚的なものの体験がより強く印象に刻まれている。視覚よりも触覚や聴覚、嗅覚などがはたらく経験はより直接的に記憶に刻まれることがある。しかし樹海での体験が触覚や聴覚などに由来しているものかといえば、五感のみに収まる感覚ではないように思えるものだ。

 
他にも同じ頃、奈良県の三輪山に登拝した経験が挙げられる。大神神社のご神体として崇められる三輪山のなかを実際に登拝することのできるとても貴重な神社だ。その日はたしか8月で気温30℃を超える真夏日だった。そのような日に山に登ろうとしていたために大神神社に着くまでにも身体中に汗が滲んでいた。ようやく入口に辿り着いて、登拝料を支払い鳥居をくぐり入山する。くぐるやいなや、いささか奇妙な体験をした。鳥居の先の山の空間は、それまでいた空間とは少なからぬ違いが存在し、それは気温として測ることのできる暑さではなく、なにか自分以外の人と直接触れ合ったときに肌で感じるような温かさだ。しかし同時にそれは肉体的な生々しさを伴うものではなく、母が子に向けるような愛のあるまなざしとも受け取れるものか。その温かさは鳥居をくぐった入口付近の空間を満たしており、私の身体はその温かさに浸り、山の内部で流れていた肌温度に触れる。セミの声は鳴り響き、場は夏の様相を呈しているが、その真夏の暑さとともにもうひとつの温度が存在している。不可思議な温度の二重性。決して混じり合うことのない別種の温度がたしかに同時に存在し、私の身体がまさにそのふたつの重なりを受け入れているということ。気温として測られる温度も数値化されることでしか目にすることができないものかもしれないが、物理的な性質をもつ温度として理解することができるものである。しかしそのもうひとつの温度とは物理的に測ることが難しいものである。これこそ目に見えない温度であった。

 
これらふたつの経験は、現在の「素知覚」に繋がる「目に見えないものをどう捉えるか」をテーマにしていた制作初期の印象的な体験である。今改めて記憶を振り返り、このように言葉にする機会を得て、当時描写し切れていなかった細部がまた少しずつ見えてきたように思う。過去は現在の地点からたびたび掘り起こされることによって常に更新を続けるものなのだ。それが万人に共有される歴史的な事実に限らず、たとえ自らの内に潜む主観的な経験であったとしても。そして、ここで掘り起こされたふたつの経験は昨年言葉として象られた「素知覚」と強く結びつく。

 
これらの経験は、目に見えないものを身体が直接的に感覚したものと言える。この特殊とも形容してもよい目に見えないものへの体験が「素知覚」の原点とは言えないまでも、大きくその概念の誕生に寄与していることはたしかだ。樹海での空気感や存在感にせよ、三輪山での温度感覚にせよ、それらは身体が感じ取ったもので、それをなにか具体的なものとして名指すことは難しく、さらに五感で知覚される情報に留まるかといえば、それもまたいかんともしがたいものである。人間が考え得る思考の領域や言語化できる枠組みの外側には、計りし得ない無数の情報に満たされている。そのようなリアリティに触れて、それらを感知することを取りこぼさないように「素知覚」という言葉は生まれた。人間のみの尺度だけでこの世界は成り立っておらず、ありとあらゆる事物と情報が混在している場所に私たちは生きているということに私は魅力を感じる。

 
「素知覚」は、普段の生活のなかではなかなか訪れることのない特殊な場所での経験とも取れるかもしれないが決してそのようなことはない。日常生活のなかにおいても目に見えないものに対する感覚は常に開かれている。例えば、自宅近くの道中で見かける風に揺れる樹木やコンクリートの上に転がる石、カラーコーンなどを目にしたとき、昨日までは特に気にならなかったはずのものが、今この瞬間は気になってしまうことなどが時に起こり得る。「素知覚」はなにも特殊な経験のみにあてがわれるものではない。そのようななぜかわからなくとも気になってしまう事物や風景との出会いは、「素知覚」によって開かれた交通網に情報が流れこんでくるために起こり得る。それは事物たちからの語りかけなのかもしれない。そのような語りかけに気づくためには、心に隙を作っておくことは重要なことだ。外側に存在するものを不意に受け取るように生きていくことは、加速していく(新型コロナウィルスの影響でいくらかは歩みを遅めているかもしれない)社会の時間とは裏腹にゆっくりと自らの時間を楽しむことである。自らの時間を楽しむことは広い意味での制作に繋がってくる。社会で共有される現実を生きるのではなく、本来あらゆる存在は各々が各々の現実を制作しているのだ。自らがなにを感じ、なにを知覚するかは、人、動植物、ものによって大いに異なるものであり、それぞれ固有の異なるかたちで生起する知覚は各々の現実をかたち作る制作そのものである。

 自身の具体的な制作の話に移りたい。私は上述したような「素知覚」というコンセプトをひとつの軸として絵画作品を制作している。目に見えないものを捉えるべく自らの身体感覚を発端に生まれた白基調の絵画シリーズと呼ばれるものもあれば、樹木同士のコミュニケーションのネットワークの総体であるウッド・ワイド・ウェブとデジタル的なネットワークのイメージを重ね合わせた「草木言語」シリーズ、はたまた、シリーズの名前にカテゴライズすることのできない作品が無数に生まれている。

 
目に見えないものを捉えることをテーマとした白基調の絵画は、実際に私が体験し気に留めた樹木や水面などの具体的な風景を黒いドローイングで描画した上から、淡い混色をほどこしたさまざまな白色の筆触を重ねることで描いていく。モチーフとなる風景の場で感じ取った目に見えないものをそこの場で再表象させることが目的かといえば、そういったわけでもなく、そのとき感じ取った目に見えないものに対する感覚をモチーフに、絵画を通じて新たなリアリティが紡がれていく創造行為といった方が近いかもしれない。知覚は制作によって更新され、それが作品となってまた新たな知覚世界のネットワークに取りこまれていくのだ。

遊景 2013 Acrylic gouache on canvas 65.2×91.0cm 個人蔵 ©︎Taishi Hatayama
上述した樹海での体験をモチーフにした作品。

 少し俯瞰したところから制作の話をすれば、以前はひとつの作品を制作しては、その反省点を踏まえ次の作品は別のアプローチで取り組もうと、作品が一歩ずつでも更新するように直線的かつ段階的に制作を進めてきた。しかし、昨年の個展の頃からは複数のアプローチの制作を同時進行させる方法にシフトした。今自らが感じ取っている興味や関心を取捨選択せずに、まずは可能な限りそのまま受け取ってみるようとすることで、自分が意図しない方向に進もうとする作品も受け入れるようにする。こぼれ落ちてしまうものを極力拾い上げることによって、作品同士が自分の意図を超えたところで無数のレベルの関係を取り結び始めるようになる。

 
制作はそもそも自分の意図とは異なる次元で生まれてくる。一枚の絵を描くときも、ある程度の方向性は決めても、最終的にどのような画面になるかは未知の領域に属していて、私と絵画のやりとりから細かい道すじは決められていく。力任せに筆を置いても、対話は成立することなく私も絵画も窮地に追いこまれてしまう。上述した知覚についても、自分が意図したように起こることはない。知覚もまたコントロールすることのできないものだ。目の前に生起する常に未知であり続ける新しい現実に反応していくこと。有限である生が同じ時間を繰り返すことができないことと同様に、制作と知覚もまた不可逆を生きる場なのだ。

 
「素知覚」が感知する目に見えない世界が具体的にどのような場を指し示しているかを明らかにすることは難しい。しかし、制作を通じて感じ取っている現場はまさに「素知覚」がはたらいている。制作は孤独のなかから生まれてくるが、自我という存在ひとりだけで生まれてくるものではない。常に人間ではない他者が顔をのぞかせている。絵の意志と私の意志の絶え間ない交歓。一枚の絵のなかのみならず、作品同士のネットワークもまた私を未知の領域に誘ってくれる。過去に制作した作品と新たに制作した作品のさまざまな位相でのリンク。その予想もしなかった自作の組み合わせがまた新しい作品を生むアイデアに繋がる。実際、四角く切り取られた空間を重ねていく手法が取り入れられた「草木言語」シリーズは、学部一年生の頃に制作した四角い紙をコラージュして無数の記憶の空間をキャンバスに配置していく(発表するにはいくらか拙さの残る)作品から影響を受けて生まれた。コンセプトとなるウッド・ワイド・ウェブという語を「草木言語」の制作以前に知ってはいたが、それが作品のコンセプトとなることは予期していなかった。四角い空間を重ねていく方法の遊びから生まれた作品は、私の内にあるウッド・ワイド・ウェブが保管された記憶の倉庫をくすぐった。コンセプトが先行することなく、手を動かすことが先にあり、手の遊びが新しい作品を生む。人間にとって解釈可能なコンセプトやテーマは、後から追って発掘されるものなのだ。自らの意図を手放した先に広大な関係の網目が広がる。制作によって見いだされるこうした関係は、前半で記述した周囲を取り巻く目に見えないものや事物たちからの非視覚的な情報のやりとりと全く同じものとは言えないまでも、限りなく接近したものとして扱われてよいものだと私は思っている。

草木言語 #1 2020 Acrylic on canvas 45.5×38.0cm 個人蔵 ©︎Taishi Hatayama
「草木言語」シリーズの一作目。

 具体的な場における目に見えないものに対する感覚も、制作の場における自分の意図の外にあるものとの対話も、私を私の輪郭の限界から解き放っていくものだ。認識できる領域を拡張し、コミュニケーションを取ることのできるさまざまな存在たちを増やしていくこと。「素知覚」は私たちの周囲に広がる場を活気づけて、未知なる他者との関係を結び直し続ける楽しい知覚だ。