図解と説得:チャートジャンク論争とダイアグラムのリアリズム

伊藤 未明

1.はじめに:なぜ図解するのか

 
ブルーノ・ラトゥールは、なぜ科学者は現実の現象そのものではなく、その表象としての図やグラフのほうを見て思考することを好むのかという問いを提示して、科学の営みにおける「図像主義への執着(the obsession for graphism)」を指摘している。ラトゥールによれば、このような図像主義は、科学者の営みに限らず広く我々の文化に認められる特性でもある(Latour 1986)。確かに我々は、職場や学校で、紙やホワイトボード、パワーポイントのスライドなどを示しながら何かを説明することは、職業的日常動作の一部になっている。図解の技能は社会生活を送る上で重要な技能であると考えられており、様々な職業訓練や研修サービスが提供され、図解のためのハウツー本も多く出版されている(図1)。

1:図解の技能トレーニング(左:https://school.nikkei.co.jp/s/schm.html、右:日高. 2020

 図解することの効用とは、多くの場合、それが世界を理解する方法として「わかりやすい方法」であることだと説明される。しかしもちろん何かを視覚化するということのみが、一定の「わかりやすさ」を保証するものではない。それは、パンデミックにおける統計データの様々な視覚表現に、右往左往させられた我々の経験に照らしても明らかだろう。ここでは「どのように図解するのか」が問題にされるけれども、そもそも「なぜ図解するのか」という疑問は問われないままにされているのだ。
 
 ところで、こうした図解で多く用いられているのはダイアグラムである。実際、
研修プログラムのバナー写真(図1左)で女性の背景に並べられている図像群には、数量グラフやネットワーク図のようなダイアグラムが認められる。また、ハウツー本の表紙(図1右)には「丸と線が書ければいい!」というキャッチコピーが踊っており、写実的な絵画表現ではなく、簡素化された抽象的記号表現としてのダイアグラムを制作できればあらゆる図解が可能だと訴えている。そもそもダイアグラムとはどのようなイメージか?ダイアグラムの最も広い定義としては、「複数の要素の間の関係をトポロジカル、あるいは幾何学的に示す図である」(Larkin and Simon 1987, 66)というものだが、この定義によると地図や数量グラフもダイアグラムとして分類されることになる。


2:ダイアグラムの例(左:Larkin and Simon. 1987, 73右:https://www.mir.co.jp/route_map/

 しかし、こんにち通常我々がダイアグラムとして思い浮かべるのは、抽象的な図形や線(まさに「丸と線」)で構成されたイメージであって、数量グラフなどとは区別することが普通だろう(図2)。もちろんダイアグラムの定義によっては、数量グラフや地図などもダイアグラムに含める場合がある。Bertin (2011)は、グラフィックスを「ダイアグラム」「マップ」「ネットワーク」の3種類に分類しているが、彼の言うダイアグラムとは我々が通常「数量グラフ」と呼び、丸や線で描くようなダイアグラムとは区別されるものである。こうしたダイアグラムの多義性はこれまで多くの理論家を魅了し、人文学においても様々な論考が書かれてきた(ブレーデカンプ 2010; Bender and Marrinan 2010; Gansterer 2017)
 
 
しかしそのような多義的で曖昧な特性を持つイメージを、情報のわかりやすい視覚化という実利的な目的に使用することは、不適切とは言わないまでも効果的とは言えないのではないか?なぜ、ダイアグラムという表現形態を我々は好んで図解の方法として使用するのか?あるいは、ここで言う「ダイアグラムの多義性」とは何なのか?

2.チャートジャンク論争とミニマリズム

 
この問題を考えるために、チャートジャンク論争というトピックに着目しよう。チャートジャンク論争とは、図解の方法をめぐってグラフィックデザインの分野で起こった論争である。図3を使ってチャートジャンクとは何かを説明しよう。左上のグラフとその下のグラフを比べると、上のグラフは絵画的(漫画的)に描かれている図だが、下段のグラフはシンプルな棒グラフで記号的な表現である。この時、絵画的に描画されたほう(上)のグラフは、グラフの棒の長さがデータの量的関係を厳密に表象していないという意味で、チャートジャンクすなわち「屑チャート」であると批判される。
 
 
同様に右上のような3Dグラフもチャートジャンクとされる。立体感を演出することによって、棒グラフの棒の高低差とデータの大小関係の対応が歪められ、数量関係の表現における真正さが犠牲にされてしまうからである。


3:数量グラフにおけるチャートジャンク(左:Bateman et al. 2010、右:筆者作成)

 こうしたチャートジャンクに対する批判は1980年代に、データ・ヴィジュアライゼーションの第一人者と言われるエドワード・タフティによって展開された(Bateman et al. 2010; Bowie 2011; 永原 2016, 108-11)。彼が特に攻撃したのはグラフィックデザイナーのナイジェル・ホームズによるデータ・ヴィジュアライゼーション技法であった。ホームズは、絵画的な図像をグラフに持ち込んで、見る人に強い印象を与え、記憶に残るようなデザインを称揚した(Holmes 1991)。
 
 
これに対してタフティは、データを表現するための図的要素以外は装飾であり、こうした装飾的要素は表現の効率性を低下させるだけでなく、表象の正しさを阻害することにもなると批判した(Tufte 2006, 152-53)。タフティによれば、データの真正で効果的な視覚化にのためには、装飾的要素をできるだけ排除することが必要だというのだ。このようなタフティの主張はしばしば「ミニマリズム」と呼ばれる1Cairo 2013, 61-72)。 一方これに対するホームズの立場を「デザイン主義」と名付けることにしよう。
 
 
さらにタフティは、データによる表象の真正性を測る尺度として「データインク比」なる尺度を提案している(Tufte 1983, 91-105)。これは、図の中でデータを表現するために使われているインクの量を、図全体で使われているインク量で割ることによって得られる比率で、比率が高いほど、データ表現としての効率が良く、真実性が高いとされる。これによればチャートジャンクは、データインク比が低い図ということになる。 
 
 
ミニマリズムとデザイン主義の立場の違いをまとめると以下の表1のようになる。ホームズのデザイン主義において、データ・ヴィジュアライゼーションで重要なことは、遊びとユーモアのある描画によって、見る人の感情に訴え、記憶に残るようなイメージを提示することである。ホームズはこのようなデザインポリシーを「忙しい一般人(専門家ではない人)がデータを瞬時に理解できる」というメリットを持つことを強調する(Heller 2006, sec. 17)。これに対してミニマリストは、見る人の分析的思考を促すということこそがデータ・ヴィジュアライゼーションの重要な目的であって、単純な図形や記号からなる図式的な表現を重視すべきであると主張する(Tufte 1997, 27-53)。また、ミニマリズムという言葉が示唆するように、ミニマリスティックな描画では制作者の属人性は除外されるべき(自己抹消的)である一方(Grady 2006, 262 n1)、デザイン主義では制作者の遊びやユーモアのセンスによる創造的で個性的な描画(自己主張的)が推奨される。

表1:ミニマリズムとデザイン主義の主張の比較

 ミニマリズムとデザイン主義の主張の対立は、グラフやダイアグラムの「表象の真正性」をめぐる立場の相違によるものである。もちろんホームズも、見る人の感情に訴えるためならデータを歪めて表現しても良いと言っているわけではない。しかし彼が自らの著書でそうしたデータの歪曲について注意を喚起するのは、七つの章から成る彼の著書の中でようやく第6章になってからである点から見ても、彼の主張は表象の厳密な正確さよりも、見る人に対する効果にその主眼が置かれているのは明らかである(Holmes 1991, 166-177)。これに対して、タフティによるデザイン主義への批判はその激烈さが特徴であり、「プレゼンテーションを制作することは、知的活動であるだけでなく、道徳的行為である」(Tufte 2006, 141)などと主張し、デザイン主義的なヴィジュアライゼーションは倫理的にも許されない行為であると断罪するのだ。
 
 
ミニマリストによれば、デザイン主義者たちが提唱するイメージに見られるような、冗長かつ装飾的な要素は、ある種のプロパガンダのために置かれるとされる。タフティ(Tufte 2006, 159)は、パワーポイントのスライド上で作画されるダイアグラムを、プラウダ紙のイラストと比較し、ソ連時代のプロパガンダに使われた政治的なイメージとチャートジャンクの間に共通点を見出している。ミニマリストにとって、図解とは理性的かつ分析的な思考の場であり、見る人を強引に説得するために図をプロパガンダの装置にするようなことはあってはならないのである。

1 ただし「ミニマリスト」という呼称をタフティ自身は使用していないが、チャートジャンクに関する多くの論考ではタフティの立場をミニマリズムと呼んでおり、本稿でもそれを踏襲している。

3.概念ダイアグラム

 
さて以下では、「概念ダイアグラム」と呼ぶタイプのダイアグラムを議論の対象とすることにしよう。地図、回路図や組織図などのように、物理的な実体とその間の物理的あるいは制度的な関係性を示す図とは異なり、概念ダイアグラムは、抽象的な概念や思想の間の、形而上学的な関係性(因果関係、包含関係、対立関係など)を示す図である。概念ダイアグラムはほとんどの場合、円、三角や長方形などの幾何学図形と、リンクや矢印によって構成され、しばしば図形やリンクに言葉ラベルが添えられるようなダイアグラムとして描かれる。
 
 図
4に概念ダイアグラムの例を示す。図4左は、品質管理のアクティビティの概念としてしばしば引き合いに出されるPDCAサイクルのダイアグラムだが、ここで提示される「計画」「行動」といった言葉ラベルで指示されるのは、具体的な〈モノ〉ではなく概念であり、矢印が示すのも物理的な連結(線路や道路のような連結線)ではなく、順序関係という概念的な関係性である。同様に図4左のアルフレッド・バーによる抽象芸術の系譜ダイアグラムも、言葉ラベルが指示するのは芸術運動の理念であり〈モノ〉ではなく、矢印が示すのは影響関係(どの理念がどの理念に影響したか)という抽象的な関係性である。
 
 
冒頭に示したような図解のハウツー本において、こんにち主に扱われているのは、数量グラフとともにこうした概念ダイアグラムの描き方である。概念ダイアグラムは現代のマネジメントの言説を構成する重要な要素となっていることが指摘されており(Ledin and Machin 2016)、我々が企業などの組織などにおいて日常的に目にする図解の形式である。したがって、なぜ我々が概念ダイアグラムを図解に用いるのかを考えることによって、こんにちの我々の図解行為の意味に迫るヒントが得られるだろう。


4:概念ダイアグラムの例(左:イラストAC、右:https://www.museopicassomalaga.org/en/alfred-h-barr-jr-1902-1981

 さて、ここまで見たチャートジャンク論争は専らデータ・ヴィジュアライゼーションにおける数量データの表現に関しての論争であったが、概念ダイアグラムにおけるミニマリズムとデザイン主義の間の対立関係とはどのようなものだろうか?
 
 
実際タフティは、数量グラフだけでなく概念ダイアグラムにおけるチャートジャンクも批判対象としている。例えば、概念ダイアグラムでしばしば用いられる矢印の描き方について、タフティは「多くの場合、ダイアグラムのリンク線や矢印を理解するためには、余りに多くのことを前提しなければならないと同時に、そこから得られる説明はあまりにも少ないために曖昧さを生む」(Tufte 2006, 68)と指摘し、こうしたリンク線や矢印の意味について、曖昧さを排除するように描画することが重要だと主張する。そのためには、漫画的な立体感や彩色を矢印に施すことは避けることと、言葉による注釈をリンク線や図形に書き添えて意味を明確にすることが推奨されている。特に線や図形の色使いについては、彩色された太い矢印や輪郭線ではなくて、細い単色のリンク線を使用することを強く推奨するほか、図のカラーコーディングにおいても1つの色が1つの意味に対応するような規則を厳密に定めるべきだと主張するのである。
 
 
このような概念ダイアグラムにおけるミニマリズムとデザイン主義の対比は、図5のような例の中に確認できる。左端のイラストのようなダイアグラムは官公庁などの文書に見られる、いわゆる「ポンチ絵」であるが、人物や〈モノ〉の類像的図像が多彩な色使いで描き込まれており、チャートジャンクに近い印象を受ける。中央のダイアグラムはそれにくらべるとシンプルで、記号的な表現であり装飾的要素は抑制されている。右端はもっともミニマリスト的なダイアグラムの例であり(九鬼周造の『「いき」の構造』)、単色の直線とラベルによってのみ構成されており装飾的な要素は少ない。


5:概念ダイアグラムにおけるチャートジャンク(:内閣府https://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/、中央:帝国データバンクhttps://www.tdb.co.jp/knowledge/marketing/02.html:九鬼周造. 2009. 49

4.類像的リアリズム

 
さて、パンデミックに関する行政機関やマスメディアの情報に振り回された我々の経験からすれば、情報コミュニケーションとしてのダイアグラムはデザイン主義的であるよりもミニマリスト的であるほうが望ましいと思うだろう。「パッと見てわかりやすい視覚デザイン」などというものは、不正確でミスリーディングな情報伝達になる危険性が大きい。そのような危険性を孕む図解よりも、真実を正確に伝える図が好ましいと思うことだろう。
 
 
さらに、マネジメントの言説では、「社会全体のスピードアップ」が「社会のビジュアル化」をもたらしているからヴィジュアル・コミュニケーションが重要になった(久恒 2003, 180)などという主張にしばしば遭遇する。このようなクリシェに批判的に対峙しようとすれば、忙しい現代人のためだと主張するデザイン主義の立場とは反対側の極、すなわちミニマリズムに与することになることになるだろう。
 
 
しかしミニマリズムの問題は、何が装飾的なのかの判断がしばしば恣意的にならざるを得ないという点にある。特に、概念ダイアグラムにおける表象の真正性は、データインク比によって評価することは難しい。ネルソン・グッドマンによると、ダイアグラムにとって線の色や太さといった属性は偶発的な要素であって、図の表現に本質的なものではない(グッドマン 2017, 192-96)。しかし、あらゆる彩色やフォントが余計な装飾かどうかは、ダイアグラムの制作目的や読み方によって変わるのである(同書, 261-68)。
 
 
何が装飾で何がそうでないかを決めるのは、結局のところ、ダイアグラムの〈外部〉から何かの方向づけが介入する必要がある。それは、ダイアグラムに内在する要素や関係性だけでは判じられないからである。
 
 
こうした介入はダイアグラムに類像的なリアリズムが持ち込まれることによって行われる。例えば、図6に見るマインドマップというダイアグラムは、発想法の一つである。自分の頭に浮かんだ様々なアイディア(概念)を単語ラベルとして表記し、その間の関連性を表すリンクでつなぐという簡単な構造を持っており、概念ダイアグラムの一種と見なすことができる。しかしこのダイアグラムを、図6に示されているように、まるで脳神経のシナプス結合のようなデザインで描画する必要性は無い。言葉ラベルとその間の関係をリンク線で示すという目的から見れば、このような絵画的なデザインは装飾的要素にすぎない。しかし、マインドマップの方法論では、これらの類像的イメージは「見るものを引きつけ、楽しませ、注意を引く」(ブザン 2005, 93)という効果をもたらすものとして重視される。また、リンク線を「有機的な曲線にすると、視覚的面白さも生まれる」(同書, 99)とされ、ホームズのデザイン主義の主張(遊びやユーモアによる印象的な描画を重視する)との共通点が見られる。
 
 
マインドマップの手法を解説する書物(ブザン 2005)の副題(図6左)に謳われているように、マインドマップは脳科学の知見を利用して「脳の力を強化する」手法であるとされていることから、神経回路のような描画をすることが作画技法として推奨されるのであろう。つまり、概念ダイアグラムの中に、脳や神経の類像的なイメージを取り入れることによって「脳」のリアリティを表現しながら、ダイアグラムにおける表象としての真正性を担保しようとしている。

6:マインドマップのダイアグラム(左:ブザン. 2005、右:photo by leuviah/iStock

 一方、タフティが攻撃したのは、デザイン主義的なダイアグラムの中に見出される、まさにこうした類像的な形象であった2。マインドマップのようなデザイン主義的ダイアグラムは、類像的図像を持ち込むことでリアリティを演出し、表象の真正性を担保しようとしているのだと言えるだろう。そして興味深いことに、ミニマリスティックなダイアグラムにもこうした類像的リアリズムが持ち込まれることがある。その例として、カイザー(Kaiser 2000; 2005)によるファインマンダイアグラムの議論を取り上げよう。
 
 ファインマン・ダイアグラムは、量子電磁力学の電磁作用の複雑な計算を正しく行うために、リチャード・ファインマンが
1948年に考案したダイアグラムである(図7)。一つのファインマンダイアグラムを制作することによって、物理学研究者はただ一つの方程式を正確に書き下すことができる。つまり粒子の運動や衝突を、図で表現することによって計算式を正しく書き下すことを容易にして、誰でも正確な計算ができるような道具として考案された。その便利さが評価されて、第二次大戦後の物理学研究者のあいだで広く使われるようになり、学部の教科書にも載るようになった。

7:ファインマン・ダイアグラム(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Feynmandiagramm.png

 しかしその時繰り返し強調されたのは、ファインマン・ダイアグラムが物理現象の視覚表象ではないという点であった。ダイアグラムは、計算式を書き下す時に、間違いや漏れがないように手順を定めるためのものであって、ダイアグラムの中に描かれた線や点は、実際の電子やニュートロンの「見た目」(もちろん目には見えないのだが)とは何の関係もないことを、研究者たちは心得るべきだとされた。つまり、安易な類像的連想に抗するための注意が繰り返し喚起されたのである。
 
 
すなわち、ファインマン・ダイアグラムは類像的な図像ではなく、計算項と厳密に11対応するように、一定の規則によってリンク線やラベルが描かれている。その意味において、「『いき』の構造」のダイアグラム(図5右)と同じように、タフティの推奨するミニマリスティックな概念ダイアグラムとして考案されたのだと言えるだろう。
 
 
ところが1950年代後半に入るとファインマン・ダイアグラムは、物理現象の類像的な視覚イメージとして見られるようになる(Kaiser 2005, 370-73)。1960年代になると、泡箱(bubble chamber)による素粒子の衝突の軌跡を記録することが行われるようになった。この軌跡のイメージは写真に撮られたり、研究者の手によってスケッチされることによって、世界中の物理学者のあいだで広く参照されるイメージとなった。やがて、素粒子衝突の軌跡イメージとファインマン・ダイアグラムにおける素粒子の表現を、類似したイメージであるとして説明する物理学者が現れた(図8a)。さらには、ファインマン・ダイアグラムをあたかも素粒子の物理現象の表象として、人間の肉眼と並べて説明するような専門書も現れた(図8b)。カイザーによれば、ファインマン・ダイアグラムにこのような類像的なリアリズムが導入されたことが、このダイアグラムが戦後の物理学者たちに広く受容された理由の一つとなったのである。

8a:泡箱とファインマン・ダイアグラム(Kaiser. 2000. 76


8b:観察者の眼とファインマンダイアグラム(Kaiser. 2000. 71)

 計算式を定めるというファインマン・ダイアグラムの目的からすれば、類像的なリアリズムは装飾的な要素でしかないはずである。しかし、ファインマン・ダイアグラムはその受容のために、類像的リアリズムを必要としたのであり、その意味では類像的リアリズムは装飾的要素ではない。むしろミニマリズムのダイアグラムであっても、類像的リアリズムによって表象の真正性を担保しようとしていることが認められるのである。こうしてみると、チャートジャンク論争における「ミニマリスト対デザイン主義者」の対立する両極は、ダイアグラムにリアリズムを持ち込もうとする傾向を共有しているという意味では、必ずしも明確な対立構造になっているわけではないのだ3

2 このような類像的なイメージ記号は一定の抽象化が加えられるとピクトグラムになる。ピクトグラムのデザイン史的な起源は、オットー・ノイラートのアイソタイプに遡るとされるが、ナイジェル・ホームズはノイラートから最も大きく影響を受けたと述べている(Heller 2006, sec. 2)。
3 ここで、リアリズムが持ち込まれるのは、図解が受容されるためであると書いたが、ダイアグラムとは他人に見せるための情報伝達手段ではなくて、思考あるいは心理的操作の過程の痕跡であるという指摘もある(例えば、個人的にメモ用紙に描きつけた手描きのダイアグラム)。この見方はダイアグラムの別の側面を示唆するものだが、これについては別途の考察としたい。

5.黒い線のリアリズム

 
タフティが提唱するミニマリズムのダイアグラムには、このほかに、より構造的な、隠されたリアリズムを指摘することができる。それは「黒い線のリアリズム」とも呼べるものである。
 
 ティム・インゴルドは『ライフ・オブ・ラインズ』(
2018)の中で、ドゥルーズ=ガタリおよびミシェル・セールを参照しながら、デカルト主義的な近代的科学の知は、「ホワイト・ウォール/ブラック・ホールのシステム」で刻印されると指摘する。このシステムにおいては、観察する主体(デカルト的知性)は黒い点の背後に隠れている。「ホワイト・ウォール/ブラック・ホールのシステム」とは、この黒い点(主体)と独立して置かれた白いスクリーンの上に、主体によって知識とその意味が投影されるようなシステムのことである。

描くとき、隠された主体の心から出てくる黒の線は、きまって手によって白紙の表面の上に刻み記される。このシステムの下では、色は表面的なもの、むしろ人の眼を欺くものである。刻まれたり描かれたりするための単なる飾りや装飾、あるいは「化粧」であり、書いたり描いたりするときの思考の過程を伝えるものではない。マイケル・タウシグによれば「真実は哲学者に白黒で現れる。姿と形。輪郭と印。それこそが真実である。色は別世界のもので、豪華さ、過剰、充填材、装飾である」。(インゴルド 2018, 202

 タフティが推奨するミニマリズム的なダイアグラムは、インゴルドが指摘するこのようなデカルト主義的な真実の記述システムの特性をそっくり共有している。単色の線と直線で描かれるダイアグラムは、そのミニマリスティックな描かれ方そのものによって、真実らしさのリアリズムを生む。タフティのミニマリズムは、いわば「黒い線のリアリズム」によって表象の真正性を担保しようとするのである。この黒い線のリアリズムの効果とは、科学的な価値中立性それ自体のリアリティを構築することに他ならない。黒い線と記号的な図形で描画されたダイアグラムは、科学的客観性の雰囲気を生じさせることによって、イメージの表象の真正性について、見る者を説得しようとするのだと言うこともできるだろう。
 
 
類像的リアリズムは(前節で見たように)表象の内容(「これはAである」)の真正性を担保しようとするが、黒い線のリアリズムはこの表象に関して「そしてこの表象は真である」という言わばダメ押しのような宣言を自己言及的に行う。ここに至って、ダイアグラムの制作者の〈声〉が聞かれる。表1で確認したように、もともと「ミニマリズム」という言葉が示唆するのは、表象の主体を抹消しようとする傾向(self-effacement)であったにもかかわらず、「これが正しい表象である」と宣言し得る権威が、制作者の〈主体〉に付与されるのだ。
 
 
ダイアグラムは確かに、事象を抽象化・記号化することによって世界を表象するためのシステムであり、タフティのミニマリズムとは、抽象化と記号化を極限まで実現するべきであるという主張なわけだが、それと同時に「黒い線のリアリズム」による自己言及的な宣言によって、見る人を説得するという契機もそこに認められる。そしてこの説得の契機こそ、ミニマリズムがイメージから除去したいものであった。言い換えるならば、ダイアグラムにおけるミニマリズムは、制作者の〈主体〉の痕跡を抹消しようとする、まさにその同じ身振りのなかで、「真理を宣言する〈主体〉」の権威による説得の契機を内包している。このような「図解(表象)」と「説得」という二面性において、ダイアグラムは多義的で曖昧なイメージにならざるを得ない。客観的で科学的な表象の形式と、隠された主体による説得の契機との間を、一つの図像の中で自在に往来できることこそが、我々が図解のためにダイアグラムを用いる理由なのだろう。

本稿は、20201220日に開催された表象文化論学会第2回オンライン研究フォーラムにおける筆者の口頭発表(オンライン)をもとに執筆されたものである。


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