ミシェル・ド・セルトー日常的実践のポイエティーク

青田 麻未

ミシェル・ド・セルトー日常的実践のポイエティーク
ちくま学芸文庫、2021

 ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』はわたしたちの日常の生について考える際の重要な参照項となりうるもののひとつであり、文庫化されたことの社会的意義の大きさは多くの人が認めるところだろう。権力や制度が秩序をつくりだすことを「戦略」、既成の秩序のなかで隙をつくようにして「なんとかやっていく」民衆的実践を「戦術」と名づけながら、幅広い主題を扱う同書であるが、そのすべてをこの書評でカバーすることはできない。ここでは、「第7章 都市を歩く」に焦点を絞り、これが都市生活者であるわたしたちの現在の日常に対していかなる示唆を与えてくれるのかを考えたい。

 
セルトーは、都市における「上」と「下」の対比から議論を開始する。都市に聳え立つ摩天楼の上から、わたしたちは都市の全体を眼におさめることができる(と思い込むことができる)。これに対して摩天楼の下で、地面に足をつけて歩くとき、わたしたちは自分がたしかにそこにいるはずの都市の姿を見失う。しかし、神の視点を得られない「下のほう」でこそ、わたしたちは日常を生きている。そして都市を歩き回るわたしたちこそが、都市計画によって制定されたひとつのシステムのなかで、「作者も観衆もない物語、とぎれとぎれの軌跡の断片と、空間の変容とからなる多種多様な物語をつくりなしてゆく」(236ページ)。

 
この「上」と「下」の対比は、都市計画と生活者の日常的実践の対比を意味する。セルトーによれば、都市計画は「匿名の普遍的主語」としての都市を創造し、都市空間の隅々にまで管理を行き届かせ、あらゆる意味でシステムに拮抗するものを排除しようとする。しかし、わたしたちは都市のなかを歩くことで、都市計画が想定していない方法で場所を使用したり、ルートを開拓したりする。わたしたちの足取りは量的に数え上げることのできるものではなく、ひとつひとつが質的に異なり、それぞれに固有の仕方で都市の秩序に裂け目をもたらす。都市という場所は、歩行するわたしたちによってこそつくりあげられていくのである。歩行という行為は、修辞や夢と「無意識の象徴法」を分け持つのだとセルトーは言う。歩くことは、権力によって構築された排除された伝説や物語を、再び都市のなかに呼び込むのだ。

 
郊外で過ごした子供時代を通り過ぎ、都市へと生活が流れ込んで以降わたしが感じるのは、都市を歩くことを決まりきった型に押し込めることの難しさである。目的地への最短距離は、いまやスマートフォンのアプリが教えてくれる。方向音痴のわたしは一応それを確認するけれど、時間のあるときなどはそのルートをあえて外れてみたくなる。セルトーが念頭においているヨーロッパの都市以上に、東京の都市には計画の抜け道がたくさん見つかるのかもしれない。いつでも違う道を通れる、違う曲がり角を組み合わせられる──都市での日常はそれゆえ、いつでも自分の生活の外側にあったはずの他なるものの存在を軽やかに組み込んでいく物語である。それは希望でもあり、危険でもありうるだろう。都市での生活はいつも賭けに出ている。セルトーの議論は、日常生活の場でありながら他なるものを本質的に含み込む都市とわたしたちの身体の関係を、鮮やかに描き出す。

 
以上のように、セルトーを踏まえて都市を歩くことの重要性を認識するならば、逆に「都市を歩けないこと」の持つ意味も浮かび上がってくるだろう。第一に、そもそも都市生活者の身体が歩くことを許容されていないという事例が考えられる。たとえば、わたしが妊娠した身体で都市を歩いたとき、ふだんのようには賭けに出られない自分に気付かされた。都市計画というシステムの用意した歩きやすい道をただ愚直に進むわたしの歩行は、ありきたりの散文のようで、象徴に彩られたレトリックを創出することはない。システムの隙をつくことなど不可能で、よくてシステムに則った状態、悪い場合にはシステムに拒絶されただただ行き場を失ったわたしに、セルトーの言うような、秩序の裏をかく戦術を繰り出すことはできなかった。

 
また第二に、この書評を記している現在(※2021511日)、新型コロナウイルスの感染拡大に対していくつかの都道府県に緊急事態宣言が発令されている。今回の緊急事態宣言発令に際して、東京都では大型商業施設や映画館、美術館などへの休業要請に加え、20時以降街の照明を落とすという方法で人手を減らす策が講じられた。もちろん、わたしたちの命を脅かす危険がある感染拡大の状況を放置するわけにはいかない。だが明かりをなくすという政治の介入は、太陽が姿を隠す時間でも歩き回ることができる場所としての都市を消去することであり、わたしたちが紡ぐ物語を停止させ、再びシステムを強化する戦略にほかならない。セルトーは、わたしたちの歩行はひとつひとつ質的に異なると述べていた。しかし先週末と比べてどこそこの街では何パーセント人出が増えた/減ったという報道を耳にするように、パンデミックの都市において歩行の質は捨象され、ただ数として扱われる。またセルトーは、歩行と同様に、都市空間から引き剥がされた物語を回復する手段となるもののひとつとして旅に言及するが、しかしわたしたちはいまや旅さえも気軽に行うことができないまま、家に留まるよう要請されている。

 
都市を歩くというひとつの戦術を失いかけることは、わたしたちの生活にどのような影響をもたらすのか。セルトーは、歩くことの持つ豊かな意味を明らかにすることで、歩けない、歩くことを許されない身体と都市の関係についての思考を誘発する。同書は、わたしたちそれぞれが自身の歩行のありかたについて考えようとする際の出発点を与えてくれるのだ。