高橋尚愛へのインタビュー
マルシア・E・ヴェトロク
マルシア・E・ヴェトロク(MV):
若い青年だったあなたを日本からイタリアへと向かわせた、思いも寄らない出来事の連鎖の話から始めましょう。あなたの冒険はどのように始まったのでしょうか?
高橋尚愛(HT):
始まりは1961年、僕が21歳のとき。ロベルト・クリッパというイタリア人の彫刻家が東京で展覧会を開いたんです。彼はスパツィアリスモを実践したグループの一員でした。ルチオ・フォンタナが始めた運動です。クリッパが展覧会を開いたのは銀座の東京画廊で、僕はまだ多摩美術大学の学生でした。彼に会うために画廊へ足を運びました。鉛で作った彫刻を贈り物として持参して。クリッパと話すために、たしかフランス語ができる友人に同行してもらいました。画廊は人で溢れていて、岡本太郎もいました。抽象画や彫刻の作家として尊敬を集めていた人です。場の会話が途切れたとき、クリッパにこう言ったんです。「個展のお祝いとして、これを贈ります」。クリッパは見栄を張りたかったのか──コレクターやアーティストたちに囲まれていたので──「いくら?」と僕に聞きました。「贈り物です」と言っても「いやいや、買い取りたい」と引き下がりません。いやはや、困りました。有名なアーティストたちに囲まれた状況でしょ。誰かが「欲しい金額を言っちゃえよ」と言うので、口からでまかせで日本円の金額を言いました。クリッパはさらに格好をつけたかったのか、お金を僕に渡しながらこう言いました。「日本で何をしてるの? ヨーロッパで勉強するべきだよ。私のスタジオを使えばいい。我が家に住み込めるかもしれないし」。
MV:
つまり、クリッパの衝動的な招待があなたの心に火をつけた?
HT:
画廊を出る頃にはどうすればイタリアに行けるだろう...と夢を膨らませていました。何も心当たりはなかったのに。そのころ僕は美術大学に在籍していましたが、スタジオを使うだけで、何も学んでいない状況でしょ。そもそも僕はずっと、日本を離れて他のどこかに住みかったの。父が第二次世界大戦で亡くなって、母がひとりで僕たち4人を育ててくれたんですけどね。すると、東京の近くに横須賀という場所があるんですけど、そこで野外に設置するモニュメントの制作を依頼されたんです。
MV:
まだ学生だったのに、最初の仕事として野外彫刻の発注を受けたんですね。すごいデビュー!
HT:
日本の戦艦「三笠」を記念する彫刻でした。1905年にロシアの艦隊を打ち負かした砲艦です。美術大学を出たばかりで就職先を探していた友人が、神奈川県の役人だった彼の実父からこの仕事を依頼されたんですけど、時間がなかったのか、あるいは大きな彫刻を作る技術がなかったのか、とにかくそれを断ったみたい。それで、彼に頼まれて、僕がモニュメントを作ることに。まだ手元にマケットが残っていますよ。そのマケットをもとに、職人の力を借りながら作りました。大理石の粉末をまぶした白いセメントの作品で、2~3トンあったでしょうね。高さもかなりあって。抽象彫刻でした。除幕式には100人くらいの人たちが集まって。「これは何なんですか?」と聞かれたけど、まあその、僕が聞きたいくらい! たしかに作者は僕です。でも、そのとき僕にわかっていたのは、それをゼロから作ったのが自分であるということくらい。数年後、駐車場のためのスペースが必要とかで、モニュメントは海に廃棄されちゃいました。母はカンカン。でも僕は彼女に言ったんです。「まあまあ。ほら、思い出して。僕はイタリアへの片道切符を買うのに十分なお金をもらったんだから」。あの彫刻のおかげで、人生の新たな門出を迎えられたんです。すごくラッキーな人生でしょ。
MV:
すぐにイタリアへ?
HT:
イタリア語で「波」を意味する「オンダ」という名前の貨物船に乗りこんで、4ヶ月かかりました。船の上でイタリア語を覚えたんです──船員が荒っぽい言葉を教えてくれるから! 1962年にヴェネチアに到着。すぐにミラノ行きの電車に乗り込みました。ブレラ美術アカデミーで彫刻を学ぶ予定だったから。でもこの学校はあまりに古くさくて、伝統的でした。大理石の切り方なんて勉強したくないでしょ。これは自分には無理だと思って、退学しました。というわけでクリッパのアシスタントになったんです。地下に小さなスペースをくれたので、そこで自分のアートに取り組むこともできました。
MV:
次の年に、あなたはヴェネチアのカヴァリーノ画廊で展覧会を開きましたね。とても重要だった画廊です。どんな作品を展示したんですか?
HT:
日本から持ち込んだ、木とブロンズの作品です。カヴァリーノという名前のホテルもあって、1点のペインティングと引き換えに、そこに1週間くらい泊まらせてもらいました。食事付き。そうそう、僕の個展が終わった次の日に、画廊がまるごと水浸しになっちゃって。ほんとにラッキーな男でしょ!
MV:
クリッパのアシスタントとして、どんな経験をしましたか?
HT:
クリッパはとてもややこしい、気難しい人でした。僕はクリッパのスタジオ、家族、犬、さらに彼が怪我をしてからはクリッパ本人の世話をしました。彼は航空ショーで小さな飛行機を操縦するのが大好きで、何度も一緒に空を飛んだの。ある日、ひとりのエンジニアが「今すぐに
オフィスに行かなきゃいけないから、悪いけど今日だけ君の席を借りて、クリッパと一緒に飛んでもいい?」と言ってきたんです。おかげで僕は命拾い。墜落したから。エンジニアは病院に運ばれたあと亡くなりました。クリッパは体内で骨が何百本も折れていました。僕は彼の身の回りの世話をすることに──お風呂に入れたり、トイレに連れて行ったり。すると、彼は1964年のヴェネチア・ビエンナーレに選ばれたんす。でも制作できる体ではなかったので、「やってくれないか」と頼まれました。というわけで、ビエンナーレのために、僕が彼のペインティングを10点ほど制作したんです。本人が描いたドローイングをもとに、車椅子に乗った彼の指示に従いながら。これはここ、それはそこ、と言われながら。主な構造はベニヤ板で出来ていて、そこにコルクや銀色の石綿といった素材を貼り付けました。すべてを接着したあと、黒い油性塗料で全体を覆ったら、残らず表面に吸い取られていきました。どれも巨大な作品だったなあ──ベニヤ板をまるごと1枚、ときには2枚使いました。若かったし、言いつけどおりに何でもやりました。後年、ラウシェンバーグの段ボールの作品に携わったときも同じでした。彼がベニヤ板の上にダンボール箱を置く。僕はその輪郭をなぞり、それに沿ってベニヤ板を切り抜いて、合成接着剤を塗りたくる。糊がすっかり乾く前に、ベニヤ板の上にダンボールを置いて、ふたりで踏みつけて平らにする。その作品群はいまも残っていますよ──どれもちゃんと壁にかかったまま。
MV:
1964年にクリッパのもとを離れ、ルチオ・フォンタナのもとで働くようになりますね。彼は当時のミラノで、あるいはもしかしたらイタリア全土で、最も名高いアーティストだったはずです。どんな経緯だったのでしょうか?
HT:
彼とはその前にアルビソーラで会っていました。沢山のアーティストたちが夏の休暇を過ごす場所です。そこで小さな個展を開いたら、フォンタナが僕のペインティングを2点買ってくれて。すばらしい! それが僕たちの関係の始まり。クリッパから離れてお金が必要になったとき、「アシスタントは要りませんか?」とフォンタナに聞いてみました。すると「アシスタントを雇ったことは一度もないが、いいだろう」と言ってくれたんです。まずは筆を洗うことから。それからキャンバスも準備するようになって。基本的には白い下地を塗ります。そのあとキャンバスを中庭に置いて、乾かして、すっかり乾いたら室内に戻して、フォンタナが望む色を用意します。彼はよくクライアント、つまりコレクターから電話を受けていました。「この色、このサイズでよろしく」と言ってくる。そうやってペインティングを依頼する人の気が知れなかったけど。そうこうしているうちに、僕もベルガモで展覧会をして、ほとんどの作品が売れました。それで、自分だけのアパートに住めるようになったんです。
MV:
ベルガモではどんな作品を見せましたか?
HT:
「スカルプチャー・ペインティング」と呼んでいたものです。作品を構造的にしたかったの。たとえば、絵具を塗った木のパネルにブロンズをはめ込んだ作品。亀の甲羅をペインティングに貼り付けたり、金箔を使ったりもして。絵具に合成洗剤を垂らすと、円ができるでしょ。それが広がって、日の出や日の入りに見えるまで放っておいたり。
MV:
1966年には無題のペインティングのシリーズを開始しましたね。それによって国際的な注目を受けることになります。どういった手順で制作していたんですか?
HT:
このシリーズでは、市販のゴム製のローラーを使って、蛍光色と畜光色の絵具で、ベタ塗りの下地に模様を転写したんです──花柄だったり、他の柄だったり。このシリーズのペインティングは1966年にミラノのモンテナポレオーネ画廊で、次の年にはアントワープのワイド・ホワイト・スペースで展示しました。
MV:
コンセプチュアル・アートの国際的な展開における草分け的な画廊として、ワイド・ホワイト・スペースの評価は定着しています。あなたの個展は、同画廊で開催された9番目の展示でした。どのような経緯で実現したのでしょうか?
HT:
ベルギー人のアーティスト、ジェフ・ファーヘイエンのおかげ。彼はアントワープにスタジオを持っていて。フォンタナの友人で、ときどきイタリアに来ていました。ちょうどそのころ、僕はフォンタナにコラボレーションを持ちかけたんです。模様を使った小さなペインティングを僕が作って、そこにフォンタナが切れ込みを入れるというもの。ファーヘイエンは「アントワープにおいで。展覧会をやればいい。スタジオを使わせてあげるから」と言ってくれました。ワイド・ホワイト・スペースで見せたペインティングは、ファーヘイエンのスタジオで描いたものです。階下にはチョコレート工場があって、美味しいコーヒー豆も炒っていました。ああ、朝から晩までチョコレートの香り! チョコレートとコーヒーの香りが肌に染み付きました。何年か前にイヴ・クラインが亡くなっていたのですが、ファーヘイエンは彼の友人だったんです。「手元にクライン・ブルーの絵具が2ガロンあるんだけど、僕の作品では使えなくてさ」と言うので、アントワープの個展のために、それで青い作品を制作したり、他のペインティングで部分的に使ったりしました。これもコラボレーションみたいなものだなあと感じましたよ。
Hisachika Takahashi and Lucio Fontana, COLLABORATION (formerly known as Concetto Spaziale, Attese), 1966,
synthetic paint on canvas, 62 x 50 cm, recto; Consolandi Collection, Milan, photographer: ©Roberto Marossi
MV:
ワイド・ホワイト・スペースで展示されたペインティングたちは、最近になって、目覚ましい「第二の人生」を謳歌しましたね。
HT:
そう! アントワープで見せたペインティングのうちの7枚が、2013年にブリュッセルのウィールズ現代美術センターで展示されました。日本人アーティストの奥村雄樹が集めてきて。また別のコラボレーション! ブリュッセルの展覧会を記録した写真や映像は、東京の森美術館でも展示されました。7枚のペインティングは、そのあとベルギーでグループ展に出品されて、リバプールにも行きました。そして、そのうち5枚を東京の画廊であるMISAKO&ROSENがロッテルダムのアートフェアに出品して、完売しました。1枚の行先はダラス美術館。ショッキングでした!
MV:
アントワープからミラノに戻ったあと、フォンタナとの仕事はどのくらい続けたのでしょうか?
HT:
ほんの少し。1968年に、フォンタナはミラノを離れて地方に移る決心をしました。呼び出されて、「田舎まで一緒に来る必要はない。君は若い。君は未来に進んでいる。君の居場所は都市しかない」と言われて。彼はその年、移った先で亡くなりました。フォンタナは素敵な人でし
た──短気だったけど、とても優しかったんです。
MV:
あなたはミラノにひとり残ったわけですが、すぐに状況が変わりましたね。人生の新章はどのように始まったのでしょうか?
HT:
ナンシー・マーティンというアメリカ人の友人がいました。とても頭が良くて、クリエイティヴなアーティスト。1969年に、アンディ・ウォーホルの映画をふたつ上映するために、ジョン・デ・メニルがミラノに着いたんです。ナンシーのところでディナーに同席したとき、デ・メニルから「君は何をやってるの?」と聞かれたので「僕は画家です。家まで見に来てください」と答えました。彼は僕の抽象画を見て、「これが気に入った。値段は?」と言いました。ああ、またもや、いくらにすべきか見当がつかない。するとデ・メニルが「じゃあ、この作品をニューヨークまで持って来てくれない? 3週間のバケーションだと思ってさ」と言ったんです。なんと! ニューヨークに着くと、空港で大きなリムジンが待ち構えていました。持参したのは、5個のスーツケース、20足の靴、そしてデ・メニルに売れた1点を含めて計10点のペインティング。残りの9点はアレクサンダー・イオラスが買ってくれました。イオラスはデ・メニルと知り合いで、パリとニューヨークにギャラリーを持っていて。すでにミラノで、クリッパやフォンタナと一緒だったときに会っていたんですけどね。とにかく、僕にとっては何もかも大成功。
MV:
3週間だったはずのニューヨーク滞在が、どうすれば40年に?
HT:
デ・メニル夫妻が自宅で催した盛大なディナーの場で、ロバート・ラウシェンバーグと出会いました。《肉欲の時計》のひとつを手伝ってくれないかと頼まれたんです。ボブのアシスタントはブライス・マーデンだったけど、ちょうど個展が迫っていて、手が回らなかったみたい。僕はまだ英語も喋れなかったけど、ラウシェンバーグは一種の国際言語を操る人でしょ。まずシルクスクリーンを手伝いました。次に任されたのが、キャステリ・ギャラリーに《肉欲の時計》を設置すること。3週間の会期中、すべての部品がずっと同期して動きつづけるように、僕が手筈を整えたんです。オープニングには、キャステリの関係者がひとり残らず来ていました。深夜0時、すべての部品がぴったり点灯。夢みたいでした。
MV:
すぐにあなたは、ラウシェンバーグのための仕事にすべてを捧げるようになります。ニューヨークにある彼の住居とスタジオに目を光らせることから、キャプティーバにいる彼と合流し、制作をアシストして、特別なプロジェクトのために外国へ同行することまで。そんな中、あなた自身の作品も、さまざまな媒体を使って継続されました。そこでは「記憶」が顕著な主題になっていきます。この主題はどのように発展したのでしょうか?
HT:
1970年に、わら半紙に鉛筆とクレヨンで描くドローイングのシリーズを始めました。タイトルは《メモリー・オブ・ノー・メモリー》です。大好きだった赤いハンティング・ハットを描きました。失くして、見つけて、また失くして、買い替えるという。大好きな帽子! このシリーズを何年か続けました。同じ帽子をモチーフに、ポラロイドの作品も作りました。1枚には僕自身が写っていて。1973年にパリで発表しました。イレーナ・ソナベントのギャラリーで、秋の芸術祭にあわせて開催された展覧会でした。
MV:
あなたが探求しているのは、記憶それ自体と、何かを失くしたり取り戻したりする経験との関係であるように思えます。
HT:
記憶はあっさりと消えてしまいます。でも記憶のためのプロジェクトがあれば、それに立ち戻ることができるでしょ。生きている限りずっと。すばらしいことに、イメージはそのまま保つことができる。そしたら記憶が事実になるでしょ。でも、記憶を自分だけのやり方で見せたいのがアーティストです。だから地図のプロジェクトをやろうと思ったの。
MV:
私たちは今日、他に類を見ないコンセプチュアルなプロジェクトとして、そして40数年前のニューヨークのダウンタウンを舞台とするアーティストたちの生活の記録として、あなたの地図のプロジェクトに目を向けています。でも最初の段階では、あなたのプロジェクトは何よりもパーソナルで密やかなものでした。仲間内の戯れだったとさえ言えますね。どのように始まったのでしょうか?
HT:
始まりは、ラファイエット通り381番地のキッチンです。ラウシェンバーグの自宅とスタジオが入っていた建物で、僕はそこに住んでいました。最初にお願いしたのはラウシェンバーグ。次が同じくそこに住んでいたボブ・パターソンでした。ああ、パターソンは、僕が持っていたカランダッシュのクレヨンを使い切っちゃった! サイ・トゥオンブリも同じ場所で描いてくれて。彼は「君のためにジャスパー・ジョーンズに頼んであげるよ」と言ってくれたのですが、一週間後に、ジョーンズは他人のアートのためには何もしないようだと伝えられました。最初は「しょうがないや」と思ったんです。でもジョーンズの美しい地図の作品がどうしても頭から離れなくて、自分で彼のドアを叩くことにしました。でも開けてくれなかったの。電話をかけると「なるほど。日曜に来て」とのこと。行ってみると、上院議員の妻で、ラウシェンバーグの友人でもあったマリオン・ジャヴィッツがいました。いろいろお喋りをして。ジョーンズはランチを用意してくれて。いろいろお喋りをして。ランチを食べて。すると彼は「紙を置いていって。来週、取りに来るように」と言ったんです。ジョーンズが描いてくれたドローイングは美しかった。
MV:
何らかの意味で、政治的なプロジェクトであるという意識はありましたか?
HT:
いやいや。でもラウシェンバーグにとってはそうでした。紙と画材を持っていくと、彼は黄色とピンクのクレヨンを選びました。そして「灯りを消して」と言うんです。「そしたら見えないでしょ」と言ったんですが「見なくていい」と言うんです。彼はキッチンの照明を自分で消
して、ドローイングを始めました。出来上がった地図があまりに小さいので、びっくりしました。どうして?と聞くと「アメリカはどんどん縮んでいる」って。彼は全世界のことを考えていたんですね。そうそう、地図のドローイングの多くは、そのキッチンのテーブルで描かれたんです。
MV:
それ以外のドローイングについては、アーティスト本人のスタジオを訪れたのでしょうか?
HT:
とにかくスタジオを訪ねて、ドアを叩くんです。そしてこう尋ねる。「僕のプロジェクトに手を貸してもらえませんか? アートのためのコラボレーションを実現させたい。何でも、思うままにやってほしい」。ジョーンズの場合を除いて、その場でアーティストが描き終えるのを待ちました。いつも鞄をふたつ持参して。ひとつには、それまで描かれたドローイングを入れていました。描き終わった後に見せるために。事前には見せません。もうひとつにはIBMのB2の鉛筆、スイス製の美しいカランダッシュのクレヨン、水彩、グアッシュ、マーカー。午前中の遅い時間、たぶん11時くらいに、キース・ソニアを訪ねたときのことが忘れられません。彼は寝起きでした。アーティストの起床は遅いでしょ。夜通し制作すると、起きるのは午後3時になることもあるでしょ。キースはどうしてもコカコーラが飲みたいと言いながら部屋を出て、大きな瓶を手に戻ってきました。そして描き始めたんです。ほとんどの場合そんな感じでしたね──アーティストはみんな言うんです。「やってもいいよ!」って。
MV:
ジョーンズの他にも、最初は拒んだのに最終的に折れた人はいましたか?
HT:
えーと、近所にローレンス・ウェイナーが住んでいたんです。でも彼の最初の反応は「ドローイングはやらない」でした。「でも君はアーティストじゃないか!」と言うと「ドローイングはやらない。けど、君のために1枚やってみよう」と言ってくれました。あれは、正確な地図を描くことから遠く離れていたなあ。彼のフロリダ、見ました? まるっきりイマジネーションでしょ。実は、コンセプチュアル・アーティストたちに頼んだのは、予想外の結果が生まれると思ったから。ジョセフ・コスースときたら──目を疑いました! ふたつの円を描いただけ。「なにそれ?」と聞いたら「これでいい」と彼は言いました。そして「ニューヨーク」「ロサンゼルス」と書いたんです。わあ!
MV:
もうひとりの隣人として、ハウストン通りの数ブロック先に住んでいたのがアラカワですね。同じニューヨークに住む日本人として、親近感はありましたか?
HT:
まあ、僕は文化のミックスを求めていたから。女性のアーティストたちにコラボレーターになってもらったのも、そういうことなんです。ドロシア・ロックバーン、スーザン・ウェイル、ジェーン・ロージェマン。たぶんアラカワとは初対面でした。彼のドアを叩いて、やりたいことを説明して。あとですごく仲良くなりましたよ。
MV:
ゴードン・マッタ=クラークとはどんな出会いだったのでしょうか? 「フード」でゲスト・シェフになった経緯は?
HT:
マッタ=クラークも近くに住んでいたので。特別な人でした。何度も作品のアイディアについて意見を聞かれたので、「家をまっぷたつに切って彫刻にするしかないでしょ」と答えたりね。まさか実行するなんて! 僕たちの関係は愉しいものでした。ある日、彼が言ったんです。「仲間とレストランを開くんだ。貧乏なアーティストたちがスープや手作りのパンにありつけるように」って。「ゲスト・シェフが必要ならいつでもやるからね」と伝えました。腕をふるったのは2回。天ぷらを作って、刺身を出して──当時は誰も刺身なんて知らないでしょ。アーティストに日本食のレストランに行くお金なんてあるわけないし。みんな深夜まで残っていましたね。お酒は無料だし、食べ物は無限にあるし。すべて食べ尽くされました。価格も覚えてますよ。7ドルちょっと。3日間、朝から晩までかけて準備したのに、赤字でした。でも給料として50ドルもらったはず。とても嬉しかった!
MV:
あなたにはアーティストたちを納得させる力があるようです。それでも取り逃した人はいますか?
HT:
アンディ・ウォーホルに頼む機会を逃しました。ロイ・リキテンスタインも頭に浮かんだけど、地図のことでは声をかけませんでした。1974年に、チェンジ・インク──お金のないアーティストを助けるためにラウシェンバーグが作った基金です──を支援するために、ニューヨーク近代美術館で版画の展覧会が催されたんですけど、終わったあとにラウシェンバーグとレストランに行ったら、隣のテーブルにリキテンスタインが座っていたんです。サインをもらえたら嬉しいなあと思って、ナプキンを渡して、「これにサインしてください」と頼みました。でもペンがない。隣のテーブルの人が赤いマーカーを持っていたので、借りました。リキテンスタインは、それを使って夕日を描いたあと、サインしてくれました。自分のテーブルに戻ると、ラウシェンバーグが「僕もやろうか」と言うんです。もう一度マーカーを借りに戻って、ラウシェンバーグに手渡しました。彼は小さな波を描いて、そこにサインも書いてくれました。そのナプキンを額装して10年くらい経ったころ、ふと「僕もサインするべきでしょ」と考えました。表面のプレキシグラスに僕の名前を書いて、夕日を眺める男性の絵を描きました。座った犬の姿も隣に描いて。リキテンスタイン=ラウシェンバーグ=タカハシによるコラボレーションの出来上がり。
Photo by Yuki Okumura, taken at the artist's home in Vermont, 2015, with special thanks to Agathe Gonnet
Courtesy the artists and MISAKO & ROSEN, Tokyo
MV:
先行例としてジャスパー・ジョーンズによる地図のシリーズが挙げられますが、それ以外で、このプロジェクトを構想する際に影響を受けた経験や考え方はありますか?
HT:
小学生のとき、日本地図を描くという課題があったんです。日本は4つの大きな島──九州、四国、北海道、本州──と沖縄など小さな島々で成り立ってるでしょ。授業の中で、日本地図を描いて、県境で区切るように言われました。しかも、すべて記憶だけをたよりに。友達と比べたら、僕はあまりうまくなかったの。すべての島を覚えている子もいて。それでも、どの地図も違っていたんです。そのことに魅了されました。かなり昔の話ですけど。でも、記憶や想像というアイディアがずっと好きでしたね。
MV:
今日の話の中で、物質的な側面から、そしてもっと詩的な側面からも、あなたはコラボレーションに言及してきましたね。模様を使ったあなたのペインティングに、フォンタナは切れ込みを提供しました。あなたはイヴ・クラインと死後のコラボレーションを実行し、10年の時を隔てて、リキテンスタイン=ラウシェンバーグ=タカハシのコラボレーションを達成しました。そして1972年には、「記憶」と「コラボレーション」という問題が、112グリーン・ストリートでインスタレーション作品《ミラー・ピース》として結集しましたね。経緯について説明してもらえますか?
HT:
人々の鏡像を作品に使いたくて。鏡をずっと使ってきた持ち主の姿をギャラリーに持ち込みたかったの。画家、彫刻家、ダンサー、レストラン経営者、会計士、キュレーターなど、多くの友人たちからバスルームの鏡を借りて、自分の鏡も混ぜました。ちょっとしたファンタジーに基づいていたんです──もしも鏡に記憶があるとしたら。鏡を使うことで、人々の記憶を運び入れようとしました。鏡像の記憶がギャラリーに入り込む。そうすることで、過去の記憶と、ギャラリーを訪れた人々が自分の鏡像を目にする現在の時間を組み合わせようと思ったんです。展覧会の会期は2週間。でも、持ち主が何度も現れては「まったく、自分の鏡が恋しくて仕方ない」と訴えられました。会期が終わった途端、みんな急いで駆けつけて、自分の鏡を回収していました。
さて、ここで僕からも質問。僕の未来の話にも関心はあります?
MV:
はい、もちろんです。
HT:
無題のペインティングのシリーズがロッテルダムのアートフェアで展示されたとき、その場で、アムステルダムのアネット・ゲリンク・ギャラリーから、2015年3月に展覧会をしてほしいと声をかけられました。何をしようか、いま計画中ですけど、化石になった聖書から始まる展覧会になります。1971年に、イレーナ・ソナベントから100枚綴りの大きなスケッチブックを贈られました。ワクワクして、1日に1枚ドローイングを描こうと決めました。でも結局は2枚で終わっちゃった。その最初のドローイングは、聖書の化石を描いたもの。つまり、僕が想像したのは、いまから3000万年後の未来のことで、誰かが壊した岩の中から化石になった聖書が出てくるんです。それから少し経って、1972年には、西暦2000年のカレンダーを作ろうと思いました。日々の予定を想像して書き込みたかったの。1972年のカレンダーは2000年のカレンダーと曜日が一致していたから。でも実行しなかった。そんなに長く生きないだろうなあと思って。ところが、生き残っちゃった! だからアムステルダムでは、ふたつのアイディアをまとめるつもりです。化石になった聖書のドローイングも見せたい。未来のカレンダーは、あらためて1000年後の分を作りたい。12枚組みで、1枚が1ヶ月。ほら、僕の誕生日は5月23日でしょ。3015年にはギネスの世界記録が生まれますよ。僕が1075歳になるから。誰が無理と決めたの?
以上は2014年6月3日と7月30日に高橋尚愛とマルシア・E・ヴェトロクとの間で交わされた会話から抜き出して編集されたものである。
-
原文:Marcia E. Vetrocq, “An Interview with Hisachika Takahashi,” in Hisachika Takahashi: From Memory Draw a Map of the United States, essay by Lucy R. Lippard, essay and interview by Marcia E. Vetrocq, published by Hatje Cantz, 2015, pp. 99-114
和訳および各リンクの選定 : 奥村雄樹
-
高橋尚愛(たかはし・ひさちか)
1940年東京都生まれ。アーティスト。1962年にイタリアに渡ったあと1964年から1966年にミラノでルーチョ・フォンタナそして1969年から2008年にニューヨークでロバート・ラウシェンバーグのアシスタントを務めたほか両者とのコラボレーションによる作品も手がけた。主な個展に「Hisachika Takahashi」(ワイド・ホワイト・スペース | アントワープ | 1967 / ウィールズ現代美術センター | ブリュッセル | 2013 ほか)や「Collage Reflection: A Work in Progress」(112グリーン・ストリート/ワークショップ | ニューヨーク | 1973)や「From Memory Draw a Map of the United States」(タンパ美術館 | 1987 | タンパ / ショーン・ケリー | ニューヨーク | 2013)や「This is Hisachika Takahashi」(MISAKO & ROSEN | 東京 | 2021)などがある。主なグループ展に「Aspects de l’art Actuel: Festival d’Automne à Paris」(ギャルリ・ソナベンド | パリ | 1973)や「Works from Change, Inc.」(ニューヨーク近代美術館 | 1974)や「Pastiche」(エミリー・ハーヴェイ・ギャラリー | ニューヨーク | 1982)や「Thomas Demand: L’image volée」(プラダ財団|ミラノ | 2016)や「視覚芸術百態:19のテーマによる196の作品」(国立国際美術館 | 大阪 | 2018)」などがある。
Marcia E. Vetrocq(マルシア・E・ヴェトロク)
1951年ニューヨーク生まれ。著述家、教育者、編集者。モダン・アートおよびコンテンポラリー・アートについて幅広い執筆と講義を展開。1998年から2011年まで『Art in America』誌の編集に携わる(2008年から2011年まで編集長)。カルラ・アッカルディ、アグネス・ディーンズ、ロバート・ポリドーリ、シャビエラ・シモンズ、サイモン・スターリングなどに関する論考やインタビュー記事を『Brooklyn Rail』、『Art in America』、『Modern Painters』、『Arts Magazine』各誌に寄稿してきたほか、エイヤ=リーサ・アハティラ展(東京オペラシティアートギャラリー、2003)、エンリコ・カステラーニ展(ハウンチ・オブ・ヴェニソン・ギャラリー、ニューヨーク、2011)、マルコ・ネリ展(フォンダツィオーネ・ペスケリア・セントロ・アルティ・ヴィジーヴェ、ペサロ、2012)、ジュディット・レイグル展(シェパード・W&K・ギャラリーズ、ウィーンおよびニューヨーク、2013)、モーガン・オハラ展(チリ国立美術館、サンティアゴ、2016)などのカタログに論考が掲載されている。プリンシトン大学の美術史専攻で学士号、スタンフォード大学の美術史専攻で博士号を取得。ニューオーリンズ大学、コロンビア大学、モントクレア州立大学、プラット・インスティテュートの大学院で教鞭を執ってきた。
奥村雄樹(おくむら・ゆうき)
1978年青森県生まれ。アーティスト/翻訳者。アントワープにあったワイド・ホワイト・スペース(1966–1976)の記録集より「ヒサチカ・タカハシ」という謎のアーティストの個展が同画廊で1967年に開催された事実を知ったことから2013年初頭にプロジェクトを開始。当時の記録写真は皆無だったが同画廊の設立者のひとりアニー・デ・デッカーの倉庫に45年以上も残されていた実際の展示作品群を借りたうえでパリで遂に対面した高橋本人にそれらの絵画を現場で配置してもらうことによって2013年5月に同展をブリュッセルのウィールズ現代美術センターへと時空を超えて「巡回」させた。それは同年12月にはリバプールのエキシビション・リサーチ・センター(アントニー・フデックとの共同企画)そして翌年2月にはアート・ロッテルダム(MISAKO&ROSENのブース)へと旅を続けた。一方でブリュッセル展において45年越しで実現した展示風景の記録は奥村の写真作品として同年9月に森美術館「六本木クロッシング2013展:アウト・オブ・ダウト―来たるべき風景のために」にて発表された。奥村自身を依代として高橋の実践や人生を「媒介」する試みに《高橋尚愛とは誰か:ダニエル・バウマンによるインタビュー》(2015 | HDヴィデオ | 18分10秒)や「奥村雄樹による高橋尚愛」(2016 | 銀座メゾンエルメス フォーラムにおける展覧会 | 企画:説田礼子)や「Collaboration Study」(2019 | 高橋の1966年のスタディと奥村の2013年のスタディの重ね合わせ | バーゼルのジュンにて発表)などがある。