鑑賞者について:序

長谷川 新

「男性目線のサラ金がポケットティッシュを配布しはじめたのは一九七三年とも言われる(市川一九九六)。[...]一九七三年、サラ金が女性向け融資を拡大していたまさにその時期に、初めてポケットティッシュが配布されたという説である。」

小島庸平『サラ金の歴史 消費者金融と日本社会』中公新書、2021年、p.148)

まったく共感してもらえないらしい話から始める。これは僕の鑑賞。東京で電車に乗っているとひっきりなしに目にする広告がある。ツヤツヤした肌のローラがキリリとこちらを見ている。明朝体のコピーはこうだ。「終わりのある脱毛」「ゴールがあるから美しい」。なんてことはない脱毛を促す広告で、延々とお金をむしられ続けるのではないかと不信感をもつ人びとに、うちはきちんと終わる治療ですよと無料体験を訴求している。だがこの広告で最も大きく書かれた企業名には「TBC」とある。でかでかと、TBC=To Be Continued=続くと書いてある。この広告を観るたびに「おい!」と突っ込む気持ちを抑えきれない。百歩譲って会社名は変えられないとしよう、であれば、このコピーは別のかたちにできなかったのか?会議で誰も疑問に思わなかったのか?終わりを謳う会社の名前が「続く」ってどうなの──ひとしきりまくしたてたところで友人がうんざりした声で言う。「ふつう人はそんなに表象分析をしないんですよ」



これはパートナーの鑑賞。夜遅くに帰ってきて、ベッドの中でハイボールをちびちびやったり髪を乾かしたりしながら「ヘラヘラ三銃士」の動画をかろうじて観ている。何も観ないで寝たのではあまりに非人間的すぎるのだ。ワンデイのコンタクトを外し、観れてるのか観れてないのかの間で映像は流れ続け、YouTubeは自動で次の動画を再生する。「限界学芸員のナイトルーティーン」と男梅サワーを空にして彼女は言う。ヘラヘラ三銃士の話をする。とある動画(【お泊まり】最後のありしゃん家)でありしゃんがこんなことを言った。


「コメントみてて思うんだけどさ、カットって知らないのかな?って思っちゃうんだよね」


さおりんがわかるわかると相槌を打つ。以下ありしゃん=あ、さおりん=さ、まりな=ま、でセリフをざっくり抜き出す。


あ「編集にカットがあるって言う事を知らないのかな?って思うから」

さ「それが全てって思ってるよね」

ま「知らない人いると思う」

あ「だから、ここでこれをしてないって事は〜ですよね、って言う」

ま「そこまで考えてないと思う」

あ「それを踏まえて、目を肥えて動画を見てほしいなあ、うちらの視聴者の方は。これはカットいれてるから、あぁなるほどねみたいな。でもそこまで観られるとうちも編集しにくいな」

ま「でもうちもYouTubeやってなかったら多分今頃めっちゃ[コメントで批判を]書いてる」

あ「でもこれもカットかもしれないし!うちらが食べてるところカットされてまりなだけが食べてるように見えてるかもしれない」

さ「そうだよね」

あ「まあ事実こいつしか食ってないんだけどね」

ま「まあ美味しいから」


その後動画は「案件」(スポンサーの商品を紹介する企業案件の意)になりこちらの興味は減退していく。そういえば、さおりんがひとりで食べるだけの動画(夜中のサムギョプサルと酒は美味い。)には字幕がないんだよね。ああ、たしかに。夜疲れて帰宅して、適当なご飯をiPhoneを横置きにして動画を観ながら食べるとき、さおりんのサムギョプサル動画は、友人との会食のような感覚を与えてくれるのだろう。そのとき、たとえ聞き取りづらかったとしても、字幕は邪魔になる。とはいえストレスの軽減として、あーとかえーみたいなフィラーはきちんと取り除かれている。批判したいのではない。そこに技術がある、と言いたいのだ。動画を観ながらコンビニの冷凍をチンして食べることを貧しい経験だとか孤独だとか不健康だとか言うことのほうが貧しい語りだったりするだろう。「ファンになること」と「鑑賞すること」の間に技術がある、ということをヘラヘラ三銃士の動画はそれとなく教えてくれている。ありしゃんの「目を肥えて動画を見てほしいなあ、うちらの視聴者の方は」ということばがずっと頭に残り続ける。

「観客研究においては、しばしば「観客」という集合的な総体が想定される一方、そこにいるひとりの個人が注目されなくなってしまうという問題が指摘されている。」

北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』白水社、2018年、p.228)

ここまではほぼ余談である。「近現代美術を影ながら支えてきた人物に関するエッセイを」という依頼に対して僕は匿名の鑑賞者たちについて書きたいと返した。僕が書きたかったのはここからである。これまでに一度だけ母が展示を観に来たことがある。「クロニクル、クロニクル!」という大阪の旧造船所で行った展覧会で、物故作家から若手作家まで20名ほどの作品が集う、それなりに大きな規模のものだった。母は会場をすたすたとまわり、しばらくして階段をのぼるのが疲れるからと最上階を観ずに帰っていった。感想としては「マネキンが怖かった」ということであったが、そのとき僕は「全部観ろよ...」という気持ちもありつつ、とても嬉しかったことを覚えている。ときはまさに数年に渡る仁義なき親子喧嘩および冷戦状態のさなかであった──という経緯は一旦脇において言いたいのだが、全部観ないことも、マネキンが怖かったという感想も、どうして鑑賞じゃないことがあるだろうか。



鑑賞者について書いてみたいと思っている。鑑賞することを能力の問題ではなく、権利の問題として書いてみたいと思っている。書かれていくだろう文章の多くは、匿名の労働について考えたことがぴったりと張りついているだろう。これは突然の飛躍ではあるが、予感である以上に確信に近い。「こういう人たちがいる」と書けばいいってもんではない。立ち入ってはいけないのではないが、立ち入るならそれは応援(rooting)ではなくて収奪(looting)なんだという領域がある。「クロニクル、クロニクル!」では搬入と搬出がとてもおもしろいんだということを見せたくて、搬入出を会期に組み込んだりもした。その判断は間違っていたとは思っていないし、インストーラーをはじめとして、展覧会を構成するさまざまな人びとがいること、アーティストとキュレーターと鑑賞者だけで展示が回っているわけではないことをうまく伝えたいなと今でも思っている。あるいは、そうした光の当たりづらい領域において不当な待遇を受けている人がいるならば、それらは是正されていかなければならない。それでも、一方的に光を当てていいことにはならない。鑑賞について書くということはきっとそういう領域に、まず光を当てることなく触れるということだ。影ながら、という修飾語を倫理化するといえばいいのだろうか

「私しか見なかったことを先々へ残すことに、私は──少しあせっているかもしれないが──本気である。そのために一人で口を噤みながら練習足らずの言葉をあれこれ尽くしているというのに、そのために本当に必要とするのはあらゆる意味で無垢で信心深いお喋りな人間たちだという事実が、また私をあせらせる。」

乗代雄介『旅する練習』講談社、2021年、p.97)

表現というのは発泡するように無数に常に生まれ続けてはその99.999%はほぼ知られないまま消滅している、という気持ちがある。この泡がなくなることはないだろうという確信もある。それらがアートとして承認されるかどうかという問題や、それらがアートに組み込まれることで致命的に弱体化するのではないかという危機感は、この前提によって一旦保留できる。優先すべき課題は、「アートの肥大化」とはまったく逆方向にあるからだ。僕たちは全然残せていない。この表現の遍在という視点からも、鑑賞について考えることができると思う。僕の生活はだいたいが事務仕事と現場での悪戦苦闘であり、めいっぱい肯定的に言えば自分の小ささや無力さのなかから共有可能な技術を探査する作業であり、愛すべきたくさんのキュレーターの面々と同様、残せるかどうかわからないが絶対に残すべきだ、表出させるべきだと思う表現に可能な限り同行するということだ。この同行としての鑑賞については筆が進む──進むのだが、止まる地点は存在する。石工の人たちについて考えるときだ。僕が彼らの仕事場を訪れるときにはいつも、決して不快でも攻撃的でもない沈黙があり、うわっつらの物語を拒むコミュニケーションの断絶がある。石が中心となっている時間がある、という地点からのみ、何かを残しあっている。だが「敬意を示すこと」と、こうやって「敬意を示していると書くこと」の間には驚くほどの差がある。書きたかったのはそういう話だ。