保存修復史の編み手たち──ピエトロ・エドワーズ1744-1821の一歩

田口 かおり

1. 美術史のバックヤードから


 保存修復史の起源や発展史を正確に捉えることは、存外に難しいことである。その理由はいくつか挙げられる。第一に、保存修復の技が、制作や贋作作りのそれから明確に区分され一分野として確立したのが一体いつのことなのか、ピンポイントで指摘することが困難であること。古代ギリシアまで時代をさかのぼれば、神々が住まう神殿や神の模像シミュラークルを構成している素材の一部を新品に交換する「修復」の様子をパウサニアスの『ギリシア案内記』などに見出すことができるが、果たしてそこに近代的な保存修復の技法と理念に通ずる何かであったかと問えば、いささかの注釈が必要になる*1。第二に、一体いつ、誰が、どのような目的で、いかなる保存修復処置を施したのか、保存修復にまつわる介入の実施記録が書き残されていない事例が多いこと。第三に、そうした介入を手がけた保存修復史の編み手たち──専門的な保存修復士に着目し、個々の活動のねらいや国を超えた影響関係について再考を試みるような研究が未だ十分に行われていないことがある。

 近代以降に活躍した修復士たちのバイオグラフィを追っていくと、その輪郭は中途でぼんやりと滲みだし、具体的に彼らがしてきたことを浮き彫りにする作業が容易ではないと気づかされる。多くの場合、彼らの情報は、作品来歴が記された頁の脚注にかろうじて見つけ出せることがあるかないかである。こうしたある種の匿名性が、修復士たちを研究対象とする際の障壁となることは、言うまでもない
*2。収集困難な情報を苦労して拾い集めてまで、美術史のいわばバックヤードで活躍してきた彼らに光をあてることにどのような意味が見いだせるのか、と、あるいは疑問を呈されるかもしれない。筆者は、作品の内外―構造と表層―に蓄積する情報をいかに取り扱うべきかを考え続けてきた彼らの実践を紐解くことで、美学/美術史や材料技法史との相互影響のなかで変容してきた保存修復学の歴史を再構成できるのではないか、と希望をもっている。


2.
職業的修復士の誕生

 
「修復士」の語が様々な書物に散見されるようになるのは1600年代からのことである。医者でもあった著述家ジュリオ・マンチーニ(1558-1630)はいわゆる恣意的な美術品改作を疑問視し、とりわけ洗浄は「修復を専門とする者たち」によって行われるべきであると断じ*3、技術面にかんしていえば、1600年代以降、画布を裏から補強する「裏打ち」をはじめとした修復介入が画家カルロ・マラッタ(1625-1713)らにより行われはじめていた。マラッタは、損傷が進んだ箇所と欠損部の補彩を行うにあたって後に除去が可能な水彩顔料を使用しており、さらにはオリジナルの箇所と修復個所をリスト化して詳細に記録するなど、介入個所とオリジナル個所を視覚的に区分することで、修復介入の領域を注意深く制限しようと試みている*4

 「修復士」が認知され始めたこの時代にあって、保存修復にかんする重要な言説は、イタリアに数多く集中している。この頃当国においては、ポンペイ遺跡をはじめとする考古遺跡の相次ぐ発掘が影響し、国内の文化財や美術品へこれまでにない高い関心が寄せられていた。結果として、遺跡から見つかった蜜蠟画の技法研究なども飛躍的に進むことになる。上の事情に加えて、戦争による多大な被害と、特殊な風土の影響を受けて他都市と比較しても作品保存についての対策を求められる機会の多かった都市ヴェネツィアの存在が、イタリアに保存修復学をめぐる考察を深く根付かせる契機になったのではないだろうか。

 ヴェネツィアは、アドリア海から吹き寄せる冷たい風、高潮、洪水、塩水による被害などによって、常に美術作品の保全について対策を求められてきた都市である。とりわけ、低気圧や南風の到来が重なる10月から11月にかけて起こる高潮(アクア・アルタ)は、たびたび町の冠水を招き、石造りの建造物や公共空間に展示された美術作品の数々が被害を被った。こうした事態を前に、保存修復の理論と実践を結び、科学的なアプローチの重要性をいち早く主張し、可逆性の原則に基づいた介入を推奨しながら修復者の専門的地位の向上のために尽力したのが、ヴェネツィア近郊の町ロレートで1774年に誕生した美術史家ピエトロ・エドワーズ(1744-1821)である。歴史の影にひっそりと身をひそめる修復士たちを目の当たりにしたエドワーズは、修復者の地位を職人から専門家へと引き上げるためには、芸術家とは異なるスキルを体系的に身につけるための「学校」を設立すべきだと主張するのである。


3.
公共絵画修復監督官 ピエトロ・エドワーズの「覚え書」

 
エドワーズがどのような一生を送ったのかについて、詳細はほとんど知られていないが、限られた先行研究により、彼が英国カトリック教徒の駐在員の子としてイタリアに生まれたこと、また、幼少期から絵画制作に親しみ14歳の時に画家ガスパーレ・ディツィアーニの元に弟子入りしたことが知られている*5。当時のヴェネツィアは文化財の保護を画家組合(Colleggio dei Pittori)に一任していたが、結果として杜撰な作品管理や組合所属の画家による過剰な保存修復が横行し、多くの作品の状態が不安定になっていた。そのような状況下、公共財産としての美術品の管理と保存の責任を担う人物を据え、計画的な作品保全を考えていく必要を訴える声が高まり、ヴェネツィア美術アカデミーのメンバーであったピエトロ・エドワーズが初の「公共絵画修復監督官」に任命されることになるのである。エドワーズは業務に意欲的に取り組み、1777年には作品を修復する修復士と、作品を検分し調査する検査官のための「覚え書/義務一覧(Decalogo)」を執筆している。ここにおいて彼が重要視しているコンセプトは、後に近代保存修復理論の礎を築く美術史家チェーザレ・ブランディ(1906-1988)が展開する論の骨子となるものといえよう。エドワーズは、作品を取り扱う際の基本的な心構えから、旧修復の取り扱い方や除去の方法までを簡潔に指示している。エドワーズの覚え書が興味深いのは、それぞれの文言から、当時ヴェネツィア、イタリアひいては西洋の保存修復学において、どのような事態が問題視されていたかが可視化されるからである。

 例えば、修復士のための覚え書第II項「経験の浅い洗浄担当者によって作品が被ったすべての損傷を修復すること、ただし実行可能な範囲で行うこと(Di rimediare a tutt'i danni inferiti al dipinto dall'imperizia di altri pulitori inespertii; sempre però nei limiti del fattibile)」からは、当時の文化財が過剰な洗浄の被害を被っていた状況が見てとれ、また、第III項「元の絵画の上に重ねられている、非オリジナルの加筆はすべて削除すること、なお、作業の際には作品に大きな損傷を与えないようにすること(Di levar tutti i ritocchi non originali che ritroveranno soprapposti al dipinto vergine, e di scoprir questo senza suo maggior detriment)」からは、描き重ねられた絵画層についての処置が求められていたことがわかる。第XV項で明記されている「(将来的に)取り除くことができない素材は使用しないこと(non usare sui quadri ingredienti che non si possano più levare)」「(修復に)使用される材料はすべて、望む時にはいつでも除去可能であること(sarà amovibile da quelli dell'arte ogni qual volta si voglia)」からは、「取り除くことができない」素材が多用されていた悩ましい状況が浮き彫りになり、同時に、近代保存修復学における基本原則「可逆性」「最低限の修復」のコンセプトの萌芽がすでにこの時代にあった事実を見てとることができるのである
*6

 ただし、第XII項で述べられている欠損部の補彩についての文言「頭、手、衣服のドレープなどの欠損部分を補彩する際には常に画家の様式を模倣すること (Di risarcire i pezzi lacerati e mancanti, come teste, mani, drapperie, etc. sempre imitando il carattere dell'autore)」については、注意を払っておく必要があるだろう。なぜなら、制作者の様式を「模倣する」ことを推奨するこの文言は、後世、オリジナルとの差異化をはかるために欠損部を細い線や点で埋めていく補彩技法、色彩判別補彩法
セレツィオーネ・クロマティカ selezione cromatica 補彩などを介して実践される「修復箇所とオリジナルの判別可能性」の原則と必ずしも合致しないためである。介入の領域を空間的かつ色彩的に制御しようとするこれら技法の確立までは、エドワーズの逝去から1世紀と少しを待たなくてはならない。


4.
教育とドキュメンテーション

 
公共絵画の保全と維持改善を呼びかける計画論の執筆を通じ、エドワーズは修復士には報告書執筆を提出する義務があると述べ、作品の損傷原因の分析や、作品保護の実施計画の添付を呼びかけていく*7。実際、1778年から95年にかけてエドワーズが残した作品調書には、当時、彼が公共絵画修復監督官として調査に立会い状態を記録した作品についての貴重な情報が残されている。ここで彼は、作品上に見られる汚れや裂傷の理由について分析を行っているほか、状態によって複数のグループに作品をトリアージするなどの試みを実践している。使用薬剤の正確な成分も配合の比率も塗布法も書き残さず、一時的な外観の美的な回復のみを求めた当時の修復は、ある種、制御不可能なものであった。作品の「完全洗浄」や「過剰加筆」が横行するなか、エドワーズはその不可逆性に警鐘を鳴らしていたのである*8。作業のなかでエドワーズが何よりも実感したのが、専門的な技術を身につけた修復士を養成する学校の必要性であった。結果、彼は1819年に公開する「修復学校計画」をもって、世に教育機関設立の重要性を訴えるに至るのである。この晩年近くに執筆された文書において、エドワーズは、湿気が多い安定しない気候のヴェネツィアにおいて作品の保存修復に携わることを「きわめて困難なこと」 と前置きしたうえで、保存修復作業の作業規定を明確にしておくことや、作品の正確なドキュメンテーションの必要性を認識することの重要性を重ねて強調する*9。前提となっているのは、決して恵まれているとはいえない気候風土の弱点を受け入れた上で、他でもないそのヴェネツィアから、ドキュメンテーションを基盤とする修復作法を広げていこうとする強い意志である。 エドワーズにとって、あるべき保存修復のかたちが常に「記録化」と足並みを揃えていた様子が伺える点も、改めて注目に値するだろう。


 エドワーズの活躍からほぼ200年という時間の経過を経て、同街で文化財の保存に従事するヴェネツィア歴史文化財保護局のヴァスコ・ファッスィーナは、継続する変容体としての芸術作品は常に進行する劣化のなかにあると述べつつ、ありとあらゆる修復行為こそが未来にある種のリスクを提供するものであると述べている
*10。「保存修復行為」こそが、大きな歴史の流れのなかでの物理的な経年変化以上に作品を大きく損傷させかねないのだ、と十分に認識しながら、「望む時にはいつでも除去可能(sarà amovibile da quelli dell'arte ogni qual volta si voglia)」な方法を採用するよう訴えたエドワーズの警句群は、今日にあっても指標としての力を失わないまま、保存修復学分野の根幹において静かな存在感を放っている。




*1 Musti, Domenico & Luigi Beschi. Testo di riferimento: Pausania, Guida della Grecia (110-180 d.C) , Arnoldo Mondadori, Milano, 1982, V-16-p.1

*2 Darrow, Elizabeth. “Necessity Introduced These Arts: Pietro Edwards and the Restoration of the Public Pictures of Venice 1778-1819” in Past Practice, Future Prospects, British Museum Occasional Papers 145, British Museum, 1993, pp. 61-65.

*3 Mancini, Giulio. Considerazioni sulla pittura a (1614-21) , (ed. di Marucchi, Adriana, 1956) , Accademia nazionale dei lincei, Roma,1956, p. 38

*4 1702年から1703年にかけて行われたヴァチカンの《ラファエッロの間》の洗浄介入においては、マラッタは、作業前に現場のデッサンを行わせ、修復前の保存状態を記録として残すことを試みている。ここにおける「線の (a tratto) 」技法が、後にブランディが積極的に用いる「線描技法トラテッジォ」に大きなヒントを与えたことは間違いないと思われる。以下を参照。Varoli-Piazza, Rosalia. Raffaello: la loggia di Amore e Psiche alla Farnesina, Silvana, Cinistello Balsamo, 2002.

*5 Darrow, Ibid.

*6 美術批評家たちが、実践的な行為としての介入を倫理的判断に照らして検証する本格的な思索の重要性を主張しはじめるのは、二〇世紀半ばのことである。ここにおいて、介入の重要な指標として見出された原則が「可逆性 reversibilità 」「判別可能性 riconoscibilità 」「適合性 compatibilità 」「最小限の介入 il minimo intervento 」の四点であった。これらの原則は、修復が「権力」あるいは「破壊行為」として作品に大きな損傷を与えうる可能性を踏まえた上で技法介入の程度と領域を検証することを目的に定められている。

*7 Edwards, Pietro. 1785 B, MS 787.6-876.7/10, Dissertazione preliminare al piano di custodia da istuirsi per la possibile preservazione,e per il miglior mantenimento delle pub.che. pitture, 1785, S.P.V.

*8 Tiozzo, Vanni. Dal decalogo Edwards alla carta del restauro —pratiche e principi del restauro dei dipinti—, Il Prato, Saonara, 2001, p. 9.

*9 Edwards, Pietro, 1819, MS 788.15-877.15, Instituzione d’una formale pubblica scuola pel restauro delle dannegiate pitture, May 6, 1819, S.P.V.

*10 Fassina, Vasco. “La conservazione dei monumenti nel bacino del Mediterraneo” in Atti del 3. Simposio Internazionale Venezia, 22-25 giugno, Soprintenenza ai beni artistici, Venezia, 1994.