参加型アートにおける参加者の「役割」について

中川 千恵子

はじめに


クレア・ビショップは、著書『人工地獄──現代アートと観客の政治学』で、多数の人々が関与することによって成立する演劇・パフォーマンスやプロジェクトを参加型アートと呼んだ。本稿では、「参加型アート」に包括されている表現活動のうち、ソーシャリー・エンゲージド・アート等にカテゴライズされるソーシャルプラクティスではなく、パフォーマンスの性質を多く含む作品について取り上げる。ビショップが語るように、かつての劇場という公共的な場所から発展してきた演劇やパフォーマンスは、その性質上、参加の取り組みがもっとも力強く表出する臨場的な出会いを作り出すと考えられる*1。また、ここで取り上げるパフォーマンスは、ゴッフマンが定義した「ある特定の機会にある特定の参加者がなんらかの仕方で他の参加者のだれかに影響を及ぼす挙動の一切」*2とし、より広い事象を検討対象とする。
本稿では、パフォーマンスが起こる「舞台」が、作家によってどのように設定されているのかを細分化する。芸術表現を簡易的な視点のみで解体することは不可能なので、いくつかの視点からパフォーマンスの枠組みの設定を観察することで、その構造によって定められた参加者の「役割」に意識を向けることを目的とする。次に、それらの参加者に与えられた役割がパフォーマンス中に変化することによって起こった例を取り上げ、役割の撹乱が、どのような作用をもたらすのかを検討する。



I. パフォーマンスの中の参加の様式:強いられる参加


初めに、参加型アートは、意識的かどうかに関わらず、参加するか・しないかという選択を参加者が行い、初めて参加することができることを確認したい。それは、招待を受け入れることや、特定の展示室に入ること、特定のアクションを起こすことなど、様々な形式が想定される。いずれの場合も、どのような動作をもってその作品に参加するのかは、参加者の存在が作品の成立にどのように寄与するのかという判断そのものに直結している。参加方法を規定することができるのは作品の作者であり、作者が意図的にその構造を壊そうとしない限りは、作者と参加者の間にある主客関係は維持される。そのため、参加者にとっては、真に「自由な」参加というものは存在しないと言えるだろう。作家が規定する枠組みにアクセスしない・できない参加者は、作品を構成する要素からは阻害されることになるからだ。本稿では、このような参加という方法論そのものが帯びる非対称・政治性と権力構造について留意しながらも、その非対称な関係性について詳細を検討していきたい。



II. 作家による「参加」のための枠組みの設定


では、作家による「参加」を促す作品の枠組みは、どのように規定されるのか。下記の3つの要素は枠組みの設定のために相互に関わり合い、多くの場合は作家が設定するものである。


1. どこで行われるのか?

パフォーマンスは本来あらゆる場所で遂行されうるものであるが、行う場所によって、その場所が持つ特定の文脈を強調することになる。制度の中/外、プライベートな場所/パブリックな場所、中心/マージナルな場所など、場所は様々な意味合いを含んでいるからだ。例えば、リクリット・ティラバーニャの《Untitled (Free)》(1992)は、料理と、それを食べることができる器具や家具などをアートフェスティバルやギャラリーに持ち込み、そこで人々が食事をし、他の人と話すなど交流する場所を作った。周知の通り、ティラバーニャのこの試みはキュレーター・ニコラ・ブリオーによって定義された「関係性の美学」の代表的な作品の一つだ。ブリオーは、リレーショナル・アートは、インターネットが普及しはじめた当時のマス・コミュニケーションのイデオロギーから離れようと試み、人間の相互間に起こる経験と関係、時空を生み出すと考えた*3。のちに、美術史家クレア・ビショップの論文「敵対と関係性の美学」で「未来のユートピアを待ち望む代わりに、現在において機能するもろもろの「ミクロトピア[microtopia]」を作り上げる」*4芸術であり、「いまここにおける一時的な解決策を見つけ出す」*5態度について批判を受けることになるが、この批判こそ、リレーショナル・アートと定義された表現活動のいくつかが、アートフェスティバルやギャラリー空間などの美術的な制度やシステム内部に留まっている実態をより鮮明に浮かびあがらせる。

Rirkrit Tiravanija, untitled (free/still) 1992/1995/2007/2011-https://www.moma.org/collection/works/147206

同論文では、ビショップがエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフによる書籍『ポスト・マルクス主義と政治―根源的民主主義のために』内で取り上げられている「敵対」という概念を用いてリレーショナル・アートを批判している。この中で取り上げるトーマス・ヒルシュホルンのプロジェクトが展開される場所について見てみよう。

《バタイユ・モニュメント》は、第11回のドクメンタで開催されたプロジェクトである。ドクメンタの主要会場があるカッセルの郊外の公営住宅団地の中に建てられたモニュメントである。来場者は会場に行くまでに特定のトルコ系のタクシーに乗って移動せねばならず、来訪者たちはそのモニュメント内のバーやライブラリーで過ごすことになった。ヒルシュホンは、他に、スピノザ、バタイユ 、ドゥルーズ、グラムシ―の名を冠したモニュメントを制作・設置しているが、いずれもアムステルダムの風俗街、アヴィニョンの移民が多く居住する地域、ニューヨーク市の低所得者層用団地など、本来のモニュメントがあるような広場や公園とは異なった場所だ。特定の社会属性やエスニックを持つ人々が生活する場所にモニュメントを設置することにより、地域の住民たちと、芸術作品を好んでその地を訪れる人々­—例えば、ティラバーニャが料理をふるまるフェスティバル会場に出向き、そこにいる他の人々と自然にコミュニケーションをとる所作を心得ている人々—を接近させることを企てた。


2. 誰が参加するのか?

ビショップは、『人工地獄──現代アートと観客の政治学』で、1960〜80年代に突出してみられたアーティストが自らの身体を使ってパフォーマンスを行うボディ・アートではなく、アーティストが他の集団や個人を雇用し、パフォーマンスを依頼する傾向について論じている。ビショップは、この動向を「委任されたパフォーマンス」と名付け、「プロではない人々へと外部委託されたアクションで構成」されたものと、「作家とは異なる専門領域のプロフェッショナルな人々を招聘するもの」、「ビデオやフィルム作品のためにつくられた状況」と分類している*6

ビショップが紹介している作品の中で、筆者も体験したことのある、ティノ・セーガルの《プログレス》(2006)について、2016年にパレ・ド ・トーキョーで演じられていた回について検討したい。

展示室は、展示品もなく、塗装もされていない何もない空間だった。小さな男の子が歩いてきて、「あなたにとって進歩とは何ですか?」と尋ねてきた。躊躇しながらも、その質問に自分なりに答えた。その後、彼の独り言のようでもあり、会話らしくも思えるやりとりが続いた。しばらくして、前方から30代くらいと思われる男性がやってきたかと思うと、男の子は私の元を歩いて去っていった。今度は男性が話始める。パレ・ド・トーキョーのゆるやかなカーブの回廊を2人でゆっくりと歩きながら、前方を歩いている自分と同じような鑑賞者とパフォーマーをぼんやりと見ていた。この会話をどのように発展させることが正解なのかわからず、とまどいと気まずさを感じていた。最後にやってきたのは初老の男性である。「私はまだ写真を現像するんだ。物質主義なんだよ。君は?」空の展示室で起こったことは、パフォーマーとの会話のみであった。

《プログレス》では、展示室に入った時点で、会話に応答することによってパフォーマンスの継続の一部を担うことを強制される。鑑賞者(参加者)がパフォーマーの会話に応答しなければこの作品は成立しない点では、参加者はこの作品に参加していると言えるだろう。ただし、参加者は、パフォーマーは、セーガルの指導通りに何パターンか存在する質問を投げかけており、多少やりとりに変化があったとしても、パフォーマンスの結末を変えることができるわけではない。《プログレス》は、パフォーマンスという形態であってもなお強固に存在する参加の限定性を示唆する。


3. 何を「行う」のか?

参加者が「何を行うのか」、言い換えれば、何を持って作品に「参加」したかみなされるのかも、作家が定める大きな条件の一つだろう。

分かりやすい例は、「参加」のための明確なインストラクションが提示されているものだ。アラン・カプローの《6つのパートからなる18のハプニング》(1959)について考えてみる。このパフォーマンスは、ニューヨークのリューベン・ギャラリーで行われた。ギャラリーは半透明のシートと木材によって分けられた3つの空間で、パフォーマンスは6つのパートに分かれており、それぞれのパートは3つの同時に起こるハプニングで構成されていた。そのため、鑑賞者はすべてのパフォーマンスを見ることができなかった。開始時には一度、終了時には2度ベルが鳴らされた。パフォーマンスを指示された参加者は、「フルート、ウクレレ、バイオリンを演奏し、手にしたプラカードを読み上げ、カンヴァスに絵を描き、蓄音機を手押し車で運び込んだ。」*7《6つのパートからなる18のハプニング》では、参加者は自身がインストラクションに従ってアクションを起こしている状態しか体験することができなかった。スーザン・ソンタグは『反解釈』で、ハプニングの注目すべき特徴は「観客の処理」だと述べている。パフォーマンスで起こる出来事は、観客をからかったり侮辱したりするように仕組まれており、観客は、すべてを見たいという気持ちが充たされないのだ*8

Fred W. McDarrah, 18 Happenings in 6 Parts, Reuben Gallery, New York, October 1959. 1959 (printed 1992).

https://www.moma.org/collection/works/175001?association=associatedworks&page=1&parent_id=173008&sov_referrer=association

パフォーマンスのみで構成される作品ではないが、「観客の処理」について、泉太郎の《Worms can differentiate between the laughter and cries of locusts》(2017)について取り上げたい。この作品は、2017年にパレ・ド ・トーキョーで開催された個展「Pan」で展示された作品であり、同展では展示室自体がパフォーマンスの会場として使用され、インスタレーションとして展開されていた。ニット帽で目隠しをした無数の人々と、網がついたカゴの中に物体を落とす数人の姿が映し出されている。目隠しをしたパフォーマーたちは、膝近くに靴を履いており、まるで小人のように足が短く映っている。目隠しをしていない数人が、果物や皿などをカゴの中に落とすと、割れたような音がなり、パフォーマーたちは身体を動かす。目を隠したパフォーマーたちは、作家の指示に従って音が鳴った方向に身体を動かし続ける。個人としてのアイデンティティや主体を失った姿は、音という外部からの刺激に盲目に反応するだけの私たちへの痛烈な批判とも捉えられる。この場合、参加者の動きは作家によるインストラクションによって明確に定められ、その働き自身も作家の意図に合致するものだと考えられる。

以上、作家によって設定される枠組みを、3つの観点から、いくつかの作品を比較しながら検討した。繰り返しになるが、作家の意図や思索などが複雑に重なったパフォーマンスの「参加」の構造についてこの条件のみで捉えようとするのは簡易的すぎるが、最初の手がかりとして3点に絞り、参加者の参加の限定性について明確にした。



III. パフォーマンスにおける参加者の役割の揺らぎ・撹乱

エリカ・フィッシャー=リヒテは、『パフォーマンスの美学』で、役割交換は演劇にとっての主体/客体関係が、一義的に把握しがたい変化自在の関係に変わる過程であると特徴づけた*9。作家が設定した枠組みの中で、参加者の役割の変更によって、パフォーマンスの結果がどのように変わるのかについて検討する。

1. 役割の未遂行
作家が意図した役割を参加者が遂行しない、といったことも起こる。

1921年、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアールなどが率いる12人のダダイストたちによってパリの《サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会訪問》が企てられ、4月14日実施された。これは、当時実際にパリ友の会で実施されていた観光案内のパロディだった。パリ友の会のプログラムでは、街の知られざる場所で案内人及び講演者によって参加者にレクチャーが行われるものであったのに対し、ダダイストたちが選んだサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会は、ごく一般的な建築の教会で、歴史的・観光的な価値があるとは思われない場所だった。

ダダイストたちは当初、教会近くのホテルの窓辺について話すだけにとどめ、観客たちが不満を表して抗議をするまで沈黙を守る予定であった。ダダイストの人々を嘲弄する典型的な意図があった。しかし、開催日当日は大雨に見舞われ、濡れながら彼らを待っている参加者のためにダダイストたちは急遽演説を行うことにした。ダダイストたちは彼らが意図していたような働きを参加者が行わなかったため、その失敗を認めざるをえなかったのである*10。《サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会訪問》の例は、パフォーマンスにおいて、参加者がその役割を果たさない場合に、パフォーマンスの完了自体に大きく影響を及ぼす可能性があることを示しているだろう。

Tristan Tzara, Excursions & visites DADA,1ère visite: Église Saint Julien le Pauvre, 1921

© 2021 Christophe Tzara

https://www.moma.org/collection/works/184056

2. 役割の変更

一方で、参加者が自らアクションを起こし、割り当てられていた役割を変更することによって、パフォーマンスに影響を及ぼすこともある。2020年12月25日に十和田市現代美術館で太田泰博、 神村恵、 佐々木文美、 津田道子によって行われたレクチャー・パフォーマンス《引力のダンス》を例に検証したいと思う。パフォーマンスは、「インター+プレイ」展の出展作家であった津田の作品展示室だけでなく、美術館のエントランスや休憩スペース、また屋外の前庭も使った美術館内を巡るツアーのようなレクチャー・パフォーマンスだった。美術館閉館後の18:00から、休憩スペースをスタート地点に開始された。主に津田と神村の2人が「引力」について話し始め、参加者たちを津田の展示室に誘導し、真っ暗な展示室内の機械や空調設備が発する音をマイクで拾う。部屋の明かりを付けたあと、コンクリートの床の亀裂が作る線を見つける。展示室の亀裂の観察を続ける中でそれが地図上の山脈のように見えると話し出す。

その時、近くにいた参加者の男性が小声でつぶやいたのを聞き、神村が「山、どうやってできたか知ってます?」と尋ねた。男性は「隆起してできた場合もあるし、沈んでいった場合もある。三陸なんかもそうじゃん。」と饒舌に話始める。*11ここから、太田、 神村、津田の会話に男性が積極的に関わる、といった場面が度々見られる。演出担当の佐々木が、少し距離を置くように男性に促す場面も見られた。

このやりとりで、参加者の役割の変化がパフォーマンスの途中に発生したことが分かる。男性は自ら自身の参加のレベルをその時のコミュニティで合意されていた参加のレベルからさらに積極的に関与するものに変更した。出演者の神村がその変化を予想し、どの程度のパフォーマンスへの介入を許容して男性に問いかけたのかは定かではないが、この変更によってその後のパフォーマンス内容は多かれ少なかれ変更を余儀なくされた。

他方、その他の鑑賞者は目立った発言をすることなく、傍観・傍聴することに徹していた。これは、この男性以外の参加者にとっては、自身の役割についての認識が共通していたことを示唆している。すなわち、積極的にパフォーマーに対して発言を行わず、彼女たちの話を聞くということである。

《引力のダンス》は、《サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会訪問》のように参加者の役割が明確に定められたものではない。男性の発言はパフォーマンスには影響があり、パフォーマーたちの動きにも変化があったのは間違いないが、それ自体がパフォーマンスの完了に支障をきたした訳ではないだろう。ただし、たった1人の発言が、その後のパフォーマンスの進行を大きく変化させうることができる程度に、参加者の役割の程度は大きく開かれていた、と推察することができる。



おわりに

パフォーマンスでの参加者の役割について、作家が設定する枠組みの条件と、それによって定められた役割を撹乱することによって起こるパフォーマンスへの介入の可能性について考察した。参加者が与えられた役割の中を揺れ動くこととパフォーマンスの達成の関係性を、より仔細に検討することは、今後の課題としたい。






*1 Claire Bishop, Artificial Hells: Participatory Art and the Politics of Spectatorship, [London: Verso, 2012] p. 3. (クレア・ビショップ『人工地獄­­——現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年、15頁)

*2 アーヴィン・ゴッフマン『行為と演技──日常生活における自己呈示』石黒毅訳、誠信書、1974年、18頁

*3 Nicolas Bourriaud, Esthétique relationnelle, [Dijon: Les presses du réel, 1998], p. 47.

*4 Claire Bishop, “Antagonism and Relational Aesthetics,” October, 110 (Fall 2004), p. 54. (クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」星野太訳、『表象』第5号、2011年、78頁)

*5 同、78頁

*6 Claire Bishop, Artificial Hells, op. ct., p.p. 219-226. .クレア・ビショップ『人工地獄』前掲書、335-343頁)

*7 artscape Artwords(アートワード) 《6つのパートからなる18のハプニング》アラン・カプロー

*8 スーザン・ソンタグ『反解釈』高橋康也、由良君美、河村錠一郎、出淵博、海老根宏、喜志哲雄訳、ちくま学芸文庫、1966年、414頁

*9 エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』中島裕昭、平田栄一朗、寺尾格、三輪玲子、四ツ谷亮子訳、論創社、2009年、57-58頁

*10 ミッシェル・サヌイエ『パリのダダ』安堂信也、浜田明、大平具彦訳、白水社、2007年、221頁

*11 当該パフォーマンスの編集された記録映像は、十和田市現代美術館のYoutubeチャンネルで公開予定
https://www.youtube.com/channel/UCqgi-S9hzU11GuEZ1gaipZw/featured