常に振り向かれるように外部からの視線を浴びている

うらあやか

1:引き受けられたパフォーマンス

 参加型アートとは、内部と外部を区分する箱を設定するというようなものかもしれない。何かに対して、選択の余地があった上で「参加」を選択するときは普通、(程度の差はあっても)参加することに対して責任感や帰属意識を持つことになる。

 参加型アートの一番重要なポイントとして、作品に参加する人はみんな、鑑賞者ではなく参加者として関わらざるを得なくなる。作品によっては、作者自身も参加者の一人として作品に取り組むこともある。参加者は作品におけるある種のパーティー(=一行)、つまり内部者として関わることになる。内部者になるとき、同時に外部の存在に気づくことになる。参加型アートは状況を作り出す特徴を持った作品だといえるが、状況というのはそこに巻き込まれた者たちの全てが内部にいながら(内部にいるからこそ、)全体を把握できないという外部性を抱えている状態であるはずだ。それにもかかわらずさらなる外部を作りだすのは、それが純粋な状況ではなく「参加型アート」としてあとから振り返って観測される、作り出された人工的な状況であるからだ。

 わたしは自分の作品のことを「参加型パフォーマンス」と呼ぶことがある。オーディエンスの役割を前提として集まった人たちに参加を促す、パフォーマンス的な作品だからだ。基本的に、現代美術において「参加型」に続くのは「アート」であって、「パフォーマンス」ではない。「参加型アート」と「パフォーマンス・アート」の二つの領域が混ざってしまっていてわかりにくい言い方なので、そう呼ばれていないのだろう。でも、わたしは「参加型アート」という言い方に、宙ぶらりんにされた「参加者」の立場と参加の度合いが巧妙に隠されている様に感じている。

うらあやか《ビーズのネックレスが解けて:詩的身体のライン》2017 Photo:Hako HOSOKAWA

 パフォーマンスの意識を持って参加型アートを眼差すと、参加の度合いの差による作品成立の場を複数的に捉えることができる。参画者(参加の程度を言い表すのに、ここでは作品成立に意識的かつ積極的な立場で参加する人を参画者と書く)と参画者以外のオーディエンス=「目撃者」の二つの立場を浮かび上がらせるのだ(目撃も参加の一部である)。「参加の程度」に自覚的になる「パフォーマンス」という言葉を使うことによって、その二つの立場の人たちが、その立場に自覚的になりながら、ライブでそこに居合わせる状態に注目することができる。

 ある特徴をもつ人の姿の表象がパフォーマティブに働くことを目指した人選による非役者のパフォーマーを雇い、アーティストの代理として行為することを指示する様な「委任されたパフォーマンス」の言い方を変えることで少しわかりやすくなるかもしれない。例えば「引き受けられたパフォーマンス」といってみよう。「引き受けられたパフォーマンス」には自律性が伴う。その自律性とは、例えば公共空間で行われるある種の参加型作品は、参加者自身の置かれる状況が「みせもの」的になることで、参加者の参画者としての意識が強くなるような仮設的なものだ。参加を引き受けることで制作者に近い立場が生産され、その瞬間はパフォーマーの意識を持って公共空間に立つことになる。「参加型パフォーマンス」にとって「参加」は作品成立のパスワードであり、「参加型パフォーマンス」作品の成立には参加を引き受けた「引き受けられたパフォーマンス」を行う参画者の存在がある。「参加型パフォーマンス」では、そういった積極的な立場が参加者自身によって発見されているのである(そして、発見される立場は必ずしもポジティブなものではないことも書いておかなければならない)。



2:推奨されたアート

 「参加型アート」の作品にはいろんな人を巻き込むことで、景色が作られ人が動き、ドキュメンテーションの視点によってそれが切り取られ、映画のようになるものがある(いろんな人、には作者も含まれる)。とはいえ、参加型作品に参加できる人はそう多くない。大体の場合作品を知るときは、参加者としてではなく、目撃者でもなく、副次資料による鑑賞者として知ることになる(もし資料を副次的なものでないとする場合、それは作品制作のためのリサーチ資料だ)。そんなことがあったんだなあと出来事のあらましの記録されたドキュメントを美術館や本、インターネットの記事で観ることが、参加型アート作品を鑑賞するためのほとんどの窓口だ。

 美術業界から離れた場所へ(単純に物理的な距離というだけではありません)アーティストが出かけていき、アーティスト、観客、キュレーターなどの役割を廃した状態で作られるインタラクティブな参加型アート作品では、理念ではなく実際の行動によって状況が構築される。アーティストが出来事の結び目を作りに行く、というわけである。こういった作品につけられる言葉は、能書きとしてのステイトメント(声明)ではなく、ディスクリプション(解説)だ。

 「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)」は面白いけれど面倒で大変だ。社会実践だからそうそう完成するようなものでもない。しかしながら、その有用性も相まって、SEAのようなステイトメントを立てることはある種のトレンドとなっていて、その型だけが取り回されているように感じる。

 また、全く美術業界から出て行く気のない(ただし、美術業界というソーシャルに対してエンゲージする作品もある)SEA風作品がたくさん作られており、実際の行動や問題提起が行えていない作品をSEAの文脈に乗せて評価してしまうその問題の根本には「助成金」の存在があるように思う。参加型アートやアートプロジェクトの有用性のアピールのしやすさと、SEAの型、とりわけその社会包摂的な側面の流通によって、行政など助成金を出す制度からそういった作品が推奨されてしまっている(助成金の申請書類には社会的意義を書く項目すら存在する)。私たちが作り発表し、鑑賞される美術作品の形態が、行政や助成金などの機構との共犯関係によって決定されている可能性を無視できない。

 違う地域にいって作品を作ったりリサーチ(研究)したりする「アーティスト・イン・レジデンシー」に参加することがあるが、前提として、「作品のためのリサーチ」を行うことは植民地主義的な態度であるといえる。勉強すること、研究すること自体がそうだといっているわけではなく、リサーチをすることは当たり前(アーティストでなくてもリサーチはする)で、作品を作るのに有用な情報や素材を探して持ち帰り、自分の成果としてしまうという在り方はどう考えても植民地主義的で気味が悪いと感じる(それに、そういう作品に限ってSEA風のステイトメントを標榜していることは多い)。そもそも、作品化するということは鑑賞や観察の立場を用意することであり、収集と陳列という用途を持った箱である美術館という制度に基づいて培われてきた美術作品の形式が植民地主義思想をその構造にあらかじめ孕んでいるのは仕方のないことだ。それにその構造にそぐわない形式なのだから、参加型アートの作品が展覧会のパッケージングに合わないのは当然だ)。

うらあやか《何も関係のない、切り離された、別の仕事(塩っぱいアイスクリームショップ)》2019

3:鑑賞はいつ行われるのか

 わたしが参加型の作品を作ることを始めたのは、油絵学科の学生であった時に「(まだ)ない絵画について話すことで鑑賞体験だけを取り出してみたい」と思ったからであった。映画や彫刻でもよかったはずだが、アトリエには同級生の書いた絵がたくさんあったので絵に向かうのは自然なことだった。やってみると、「(まだ)ない絵」と「見たことない絵」を感じ分けるのはとても難しかった。かすかな「前に現れたすぐ消える橋」のような感覚を捕まえ操作しながら、その橋を伸ばして不確かに言葉をつなげる。結局、絵画の鑑賞体験は取り出すことができず(というか、絵画の鑑賞体験というのをちゃんと定義づけないで見切り発車したので、どの程度近づいたのかなども不明なままである)、代わりにその過程の体験がふにゃふにゃとした不確かに繋げた橋のような感覚と一緒に現れ続けていた。常に振り向かれるように外部からの視線を浴びている感じがする。枠組みの話だけをし続けるのはやっぱり難しい。

うらあやか《Ballroom dance lesson》2017
うらあやか《何も関係のない、切り離された、別の仕事(塩っぱいアイスクリームショップ)》2019