分析美学から見た参加型アートの芸術的価値と美的価値

伊藤 迅亮

凡例
本稿は一般的な表記規則に従って記述するが、WEB上での表現の制約への対応の為、圏点についてはアンダーラインを用いて表記する。

 1990年代以降、アトリエでの制作やギャラリーないし美術館での観賞に留まらない芸術実践の存在感が高まってきた。これらの実践は今日では、リレーショナル・アート、対話型(ダイアロジック)アート、参加型(パーティシペトリー)アート、協働型(コラボレイティヴ)アート、ポリティカル・アート、ソーシャルプラクティス、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(以下SEA)などと実に様々な呼称をもち、現代アートにおける無視できない重要な動向を形成している。呼称が様々あるように、それぞれの実践において重視される点も様々であり、その上、これらに関わるアーティストの中には、自身の活動について「芸術」や「美的な実践」と自称するのを憚る者もいるが、さしあたり以下ではこれらの実践を総称して「参加型アート」と呼ぶこととしよう。

 
伝統的な芸術作品の芸術的価値とは異なり、参加型アートの芸術的価値を説明するのは一見したところ困難である。例えば、絵画や文学は、「人物の描写が非常に優美だ」といった美的価値をもちうるし、それらの価値は芸術的価値を構成するだろう。しかし、参加型アートはそうした意味での美的価値をもっていないことも多い。さらには、こうした芸術実践には、社会的・政治的な活動も多分に含まれており、〈それらの活動は芸術としての価値を構成するのか〉という疑問も生じるだろう——少なくともそれらの活動は、芸術だけがもつような価値を構成しそうにない。

 
こうした「参加型」の芸術実践およびその価値は—— 代表的な論者を挙げるならば——ニコラ・ブリオーやクレア・ビショップ、グラント・ケスターなどによって論じられてきた(Bourriaud [1998]2002; Bishop 2012; Kester 2013)。その一方で、いわゆる分析美学の分野においては、参加型アートはあまり取り沙汰されてこなかった。しかし最近になって、分析美学における芸術的価値および美的価値の議論を応用して、参加型アートを論ずる動向が現れてきた。本稿では、近年の分析美学における、参加型アートの芸術的価値と美的価値についての議論をいくつか紹介・検討することを目的とする。

 
まず第1節では、導入として、議論の前提となる用語・概念についての区別を示す。第2節では、参加型アートのうち特にSEAの芸術的価値を論じたヴィド・シモニティの主張——〈SEAの芸術的価値は既存の立場では説明不可能であり、実用的な観点から説明される〉——を取り上げる。続く第3節では、シモニティの主張の問題点を指摘し、〈芸術的価値には多様な価値が寄与する〉と主張する既存の立場をSEAについても維持する。最後の第4節では、SEAの芸術的価値をめぐる議論からそれて、参加型アートの美的価値を変容的表現によって明らかにするリグルの主張を概説する。


1. 導入——区別すべき用語の確認 

 
本題に入る前に、区別すべき用語・概念を確認しよう。まず区別すべきは、「美的価値(aesthetic value)」と「芸術的価値(artistic value)」の区別である。美的価値をどう説明するかは議論を要する問題であるが、一旦ここでは〈何らかの対象の特徴に感性を働かせて注目することで快楽や喜びが得られる〉という点で評価される価値だと考えておこう*1。具体的には、「美しい」「優美な」「ダイナミックな」といった語で評価される価値である。これらは芸術作品のみならず、自然環境や日常生活においても見出される価値である。他方で、芸術的価値は、芸術作品でないものがもつことはない価値であり*2、良い芸術作品がその良さに応じてもつ価値が、芸術的価値であると考えられる*3。「なぜこの芸術作品は優れているのか」という問いに対して、「芸術的価値があるからだ」と答えても全く用を成さないことを考えれば、これは納得のいく考えだろう。要するに、「芸術的価値」は、「良い芸術作品である度合い」の言い換えのようなものだ。さらに付け加えると、芸術的価値には、歴史的価値(「美術史の転換点となった」)や認識的価値(「現実世界の新たな見方を提供する」)のように、非美的な価値も含まれうる*4。このように、自然環境のような美的かつ非芸術的な価値をもつものと、レディ・メイドのような非美的かつ芸術的な価値をもつものとがあるため、美的価値と芸術的価値は同一視すべきではないだろう。

 
次に注意すべき区別は、「芸術作品がもつ価値(values in art)」と「芸術的価値(artistic value)」の区別である。芸術作品それ自体は実に様々な価値を持っている。先に述べたような、美的価値や歴史的価値、認識的価値のほかに、金銭的価値や政治的価値、そして時にはドアストッパーとして使えるといった実用的価値を芸術作品はもっているかもしれない。しかし、単に芸術作品がもつ価値は、芸術的価値とは——すなわち芸術としての価値とは——区別すべきである。例えば、ある彫像がドアストッパーとしていくら優秀であっても、その実用的価値は芸術的価値を高めることには貢献しないだろう。他方で、その彫像が今にも動き出しそうなほどダイナミックな見た目をしていることは芸術的価値として算入されうる。ここで、〈芸術作品がもつ価値のうち芸術的価値に寄与するのはどの価値なのか〉、さらに〈作品がもつ価値のうちそれらの芸術的価値を特定することは可能なのか、可能ならばそれはいかにしてか〉という疑問が浮かぶかもしれない。これは以下の議論でも争点となる、芸術的価値をめぐる重要な問題である。ただ、ひとまずここで押さえておくべきは、〈芸術作品がもつ価値は芸術的価値とは別物であり、後者は前者に含まれるがより限定された価値である〉という了解である。


*1 近年の分析美学の分野における美的価値の論争状況は、森(2021)によって概観を得ることができる。美的価値を含め、美的経験、美的判断、美的性質といった「美的なもの(the aesthetic)」についての議論はStecker(2010, chap. 3-4)を参照のこと。
*2 〈芸術的価値は、芸術作品しかもつことのできない価値である〉という説明についてはStecker(2010, 241, 邦訳387-88)を参照した。
*3 〈芸術的価値とは、芸術作品が良い芸術作品である度合いに応じてもつ価値である〉という説明についてはHanson(2013, 498-501)を参照した。
*4 第2節で述べるが、芸術的価値を美的価値のみによって説明しようとする立場も存在する。


2. 社会的な実用性によって説明されるSEAの芸術的価値

 
ヴィド・シモニティは「ソーシャリー・エンゲイジド・アートを評価する」(2018)において、芸術的価値についての既存の立場を唯美主義と多元主義とに整理した上で、〈SEAの芸術的価値はこれらの既存の立場では評価できず、それゆえ、社会的な有用性によってのみ評価される〉と主張した。以下では、シモニティがどのように芸術的価値をめぐる立場を整理したのか、そしてそれがSEAの芸術的価値の評価方法にどのような帰結をもたらすのかを辿ろう。


2-1. シモニティによる芸術的価値についての立場の整理——唯美主義と多元主義

 
前節で触れた通り、〈芸術作品がもつ価値のうち、どれが芸術的価値に算入される価値なのか〉という問題は、芸術的価値をめぐる争点の一つである。シモニティによれば、この問題に対する回答は、主に唯美主義(aestheticism)と多元主義(pluralism)の二つの立場に分けられる(Simoniti 2018, 74-75)*5。唯美主義とは、〈作品がもつ価値のうち、美的価値だけが芸術的価値に寄与する〉と考える立場である。一方、多元主義とは、〈より多様な価値(美的、認識的、倫理的、政治的、など)が芸術的価値に寄与する〉と考える立場である。

 芸術的価値の論争において答えるべきもう一つの問題があった。〈作品がもつ価値から芸術的価値をいかにして特定するのか、両者を区別する明確な基準があるのか〉という問題である。この問題に唯美主義と多元主義はどう答えるのか。シモニティがまとめるところによると、両者は共通して次のように答える。作品がもつ価値のうち、「作品が
芸術として——つまり、認識できるほどに〔recognizably〕芸術的な特徴を通して——実現する価値だけが芸術的価値に算入される」(Simoniti 2018, 75; 強調原文、〔〕内引用者(以降も同様))。絵画で言えば、構図法や色合いの調和、荒々しいタッチといった特徴のおかげで実現される価値が、芸術的価値として認められるということである。たしかに、この回答によって、単に作品がもつ価値から芸術的価値をうまく抜き出すことができそうである。例えば、ある絵画作品が十分な大きさをもち、それによって私の部屋に差し込む西日をうまく遮るという実用的価値をもつとしよう。この回答に従えば、その実用的価値は芸術的特徴のおかげで実現された価値ではなく、よって芸術的価値ではないと言える。

 
これを踏まえて、シモニティは次のような定式化によって芸術的価値についての立場を説明している。

(芸術としての価値)芸術作品Xがもつ価値Vは芸術的価値である← →Vは種Yの価値であり、かつVは作品のメディウムジャンルテーマ技術展示方法芸術種に特有の特徴を通してあるいはその他の芸術的特徴を通して実現される。(Simoniti 2018, 76)

繰り返しになるが、要点の一つは、この定式における種Yに、美的価値しか認めないのが唯美主義で、他方、複数の価値を認めるのが多元主義だということである。要点のもう一つは、唯美主義と多元主義はともに、芸術に特有の特徴を通して実現される価値を芸術的価値として特定する、ということである。


*5 論理的には、これ以外にニヒリズムや非美的一元論といった立場も可能である。しかしシモニティは、唯美主義と多元主義によって近年の議論のほとんどがカバーできると考えている(Simoniti 2018, 74-5)。


2-2. なぜ唯美主義と多元主義ではSEAの芸術的価値を評価できないのか

 
SEAの芸術的価値が抱える問題を見る前に、もう一つ確認しておくべきことがある。SEAとしてどのような作品群が想定されているのか、である。シモニティ自身としては、次の二つの特徴をもつ作品群をSEAと呼んでいる。

(1)アートプロジェクトの意図された価値が、その社会的かつ政治的な影響と共外延的〔coextensive〕であること、そして(2)その影響を生み出すために用いられる方法が、政治的かつ社会的な運動の非芸術的な形式とよく似ていること。(Simoniti 2018, 72)

この具体例として、シモニティは、治安が悪く困窮した地区にアーカイブ施設を設立するシアスター・ゲイツの《ドーチェスター・プロジェクト(Dorchester Projects)》(2009-)、鉱山労働者のストライキとそれに対する機動隊の制圧を再現するジェレミー・デラーの《オーグリーヴの戦い(The Battle of Orgreave)》(2001)、ごみ処理場で働く人々と協働で肖像画を制作するヴィック・ムニーズの《ゴミの絵(Pictures of Garbage)》シリーズ(2008)、送電網の整備されていない地域のために製作された読書灯であるオラファー・エリアソンの《リトル・サン(Little Sun)》(2012)などを挙げている。


 こうしたSEAを、シモニティは次のように理解している。「政治的な文脈に直接関与するため、ソーシャリー・エンゲイジド・アートは、ほとんど前例がない程度にまで芸術的活動と政治的行動とを一致させる」(Simoniti 2018, 74)*6。続けてシモニティは、SEAが芸術作品であることと、SEAの中には優れた芸術作品もあることを認めることで、〈SEAの芸術的価値とは何か〉という問いを引き受けることになる(Simoniti 2018, 76-78)。つまり、シモニティが論ずるのは——芸術的価値一般ではなく——社会的・政治的活動と近しい性格をもつ、SEAという個別の芸術ジャンルの芸術的価値である。


 さて、このようなSEAの芸術的価値は、先に紹介した唯美主義あるいは多元主義によって説明可能だろうか。シモニティはどちらの立場によっても不可能だと答える。まず唯美主義で説明できないことは明らかだろう。なぜなら、唯美主義によれば美的価値のみが芸術的価値に寄与するが、優れたSEAは実用的価値をもっており、SEAの芸術的価値は美的価値に尽くされてはいないからである。


 唯美主義が望み薄ならば、様々な価値を芸術的価値として認める多元主義であれば首尾よく説明できるように思われるかもしれない。しかし——唯美主義もだが——多元主義において、芸術的価値として特定される価値は、芸術的な特徴を通して実現されるのであった。まさにこの点において多元主義は困難に直面するとシモニティは考える。シモニティは、この困難について三つの理由を説明している(Simoniti 2018, 79)。

 
第一に、ムニーズの《ゴミの絵》で絵画が制作されているように、SEAは伝統的な芸術的特徴を伴うこともあるが、それらの特徴は「〈それらを通してある価値が実現される〉という手段ではなく、[……]目的に対する交換可能な手段として用いられている」(Simoniti 2018, 79, 省略引用者(以降も同様))*7。第二に、SEAは、アーカイブや学校を設立したり、抗議運動を組織したりするような芸術外でふつう見られる特徴を伴っている。これはつまり、SEAの実用的価値は非芸術的な手段を通して実現されるため、多元主義はSEAの実用的価値を芸術的価値として数え入れることができない、ということである。第三に、芸術雑誌で特集されたり、批評されたりするといった、SEAを芸術作品としてみなすことを可能にする特徴があったとしても、それらはSEAの価値の実現に不可欠ではない。実際、デラーの《オーグリーヴの戦い》はアートワールドのメンバーではない参加者に過去のストライキを思い出させることを達成としていた(Simoniti 2018, 79; Slyce 2003, 76)。以上三つの理由から、多元主義は退けられる。


 ただし、興味深いことにシモニティは、参加型アートの一部は唯美主義か多元主義を受け入れることを認めている。参加型アートの中には、参加者に対して美的に影響を与えるものがあるからである*8しかしそれでもなお、シモニティは、ティノ・セーガルやリクリット・ティラヴァーニャなどに代表される、美を志向する類の参加型アートとは、SEAは原理的には区別可能だとして、SEAについては唯美主義も多元主義も認めない。シモニティは、参加型アートの中でもとりわけSEAという——政治的な活動と軌を一にする——極限的な芸術の価値を問うており、SEA固有の問題を提示しようとしているのである。


 こうして、唯美主義と多元主義は封じられたが、シモニティはその代わりに、SEAの特徴に鑑みて「実用説」という立場を提案している。

(実用説)芸術作品Xがもつ価値Vは芸術的価値である← →VはXの肯定的な〔positive〕政治的、認知的、倫理的インパクトである。(Simoniti 2018, 76)*9

唯美主義と多元主義は〈芸術的価値は芸術に特有の特徴を通して実現される〉という条件を伴っていたが、実用説はこれを除外している。それによって、いま見た多元主義が抱える困難を実用説は免れることができる。これがシモニティの提示する実用説のメリットである。


 最終的に、シモニティは参加型アートの中でも特に社会的・政治的活動を行うSEAについて、次のように結論づける。

政治的な過程に違いを生み出そうというこれらの芸術実践の意図を真摯に捉えるならば、これらの作品の価値は実用的に評価されるべきである。つまり、ソーシャリー・エンゲイジド・アートは、作品が用いる手段にかかわらず、政治的に価値ある目的の実現度にのみ応じて、良い芸術となる。(Simoniti 2018, 80)

芸術制作におけるこの部分集合のためにこそ、私たちはそのインパクトを通じて、すなわちそれを「芸術ではない」政治的取り組みと比較することを通じて、芸術を評価するべきである。(Simoniti 2018, 80)

「「芸術ではない」政治的取り組みと比較すること」とは例えば、シンクタンクによって調査されるような文化政策の影響と比べることで評価すべきだ、ということである。つまり、芸術の領域内の営みに限定して(SEA同士で)与えた影響の大きさを比べるのではなく、芸術の領域外にある社会的・政治的営みとも比べよ、とシモニティは勧めるのである。


 以上のシモニティの主張をまとめると、次のようになるだろう。非芸術的な特徴を通して実現されるSEAの芸術的価値は、唯美主義や多元主義では説明できず、実用説によって説明される。すなわち、政治的・認知的・倫理的に価値ある目的を達成する程度に応じてSEAは評価され、この評価の際には芸術ではない社会的・政治的活動と比較すべきである。


*6 シモニティは、ジェイソン・ガイガーとミウォン・クウォンによる、20世紀中頃からSEAを含む現代に至るまでの美術史の理解を紹介している(Simoniti 2018, 72-74; Gaiger 2009; Kwon 2002, 11-33)。シモニティが提案するSEAの歴史理解は、ガイガーによる「芸術の自律性」の観点からの説明と、クウォンによる「サイトの概念」の観点からの説明を掛け合わせたものである。これはつまり、〈SEAは、芸術以外の政治や宗教や倫理などの基準によって評価されるようになり、そして、ギャラリーに留まらずより広い政治的な言説と行動を作品の場とするようになった〉という理解である(Simoniti 2018, 72-74)。
*7 シモニティは、《ゴミの絵》でのムニーズと《ドーチェスター・プロジェクト》でのゲイツの主要な目的が、資金調達であったことに言及している(Simoniti 2018, 79)。これらの実例は、多元主義を退ける理由のうち一つ目と二つ目を支えていると考えられている。
*8 ここで言及される参加型アートの美的価値は、第1節で述べた感性を働かせるという意味で評価される美的価値とはいくぶん異なる。シモニティがこの点において参照するサラ・ヘーゲンバートは、参加型アートの美的価値(ないしそれに伴う倫理的価値)について「徳による説明(virtue account)」を試みている(Hegenbart 2016)。ヘーゲンバートによれば、参加型アートの参加者は芸術家と協働することを通して美的徳を養うことができ、参加型アートは美的徳を洗練させる場を用意するという意味で美的価値をもつ。そして、芸術と生活が重なり合う参加型アートにおいては、美的徳を育むことは倫理的徳を育むことでもあり、美的価値と倫理的価値は不可分に結びついている(Hegenbart 2016, 333-35)。
*9 シモニティ自身、淫らな(prurient)、商業的な、美的な影響といった他の種類の価値についての実用的な立場を定式化することも可能だと示唆している(Simoniti 2018, 82)。いずれにせよ重要なのは、実用説での価値は全て実用的な観点から理解されるということである。



3. シモニティの主張の検討——多元主義を維持することは可能か

 
たしかに、SEAには社会的・政治的な活動と見かけ上は区別がつかないようなものもあり、その上、優れたSEA作品は私たちの現実の社会に変化をもたらすだろう。SEAは芸術外の活動とも比較して評価すべきだという主張にも、一定の妥当性がある。社会活動や政治活動と同じような手段で達成される実用的価値を適切に評価するためには、従来の芸術を語るための批評だけでなく、芸術外で行われてきた活動に対する調査と同様の実証的な調査が必要だろう。実際、そのような主張は、参加型アートやSEAをめぐる言説でしばしば見られるものである(加治屋 2017)。しかし、シモニティの議論およびそこから導かれる帰結には受け入れ難いものもある。以下では、シモニティの主張の抱える問題点を挙げ、それらを解決できる立場を探ろう。


3-1. シモニティの主張の問題点——「芸術的価値の識別の困難」と「手段の度外視」

 
一つ目の問題は、〈実用説は、作品が実社会に与える影響のうち、芸術的価値に寄与する影響を抽出できているのか〉という点にある。「作品がもつ価値」と「芸術的価値」の区別を思い出そう。無数にありうる前者からより限定的な後者を特定するために、既存の立場(唯美主義と多元主義)は〈芸術に特有の特徴のおかげで実現される価値が芸術的価値である〉という条件を提示する——これがシモニティの理解であった。一方の実用説は、SEAの芸術的価値を説明するために、まさにこの条件を放棄するのだが、それゆえにこのとき、実用説は、〈作品がもつ影響のうち芸術的価値に関係するのはどの影響なのか〉という疑問に答えなければならないだろう。

 
ここで実用説を手直しして、「作品がもつ影響」ではなく「作者の意図した影響」に限定することで芸術的価値を識別できるかもしれない。実際、シモニティはSEAの特徴づけに意図を重視している(SEAの特徴づけの(1)を見よ)。しかし、作者の意図から外れる影響が芸術的価値に関与しないという想定は現実的でない。現に、デラーは《オーグリーヴの戦い》によって、参加者に過去のストライキを思い出させる——それが辛い経験であっても——ことを目的としていたが、中にはリエナクトメントは癒しの経験だったと述べる者もおり、この効果はデラーの想定外であった(Bishop 2012, 32n60, 邦訳58n60; Slyce 2003, 76)。この治癒の効果は、ストライキを思い出させるという影響と同様に、芸術的価値に寄与しそうであるが、変更後の実用説では除外されてしまう。

 
二つ目の問題は、SEAは「作品が用いる手段にかかわらず」評価される、という帰結である。これはつまり、手段は評価の際の判断材料に入らないということだ。しかし、SEAの実際の批評実践からして、〈どのような仕方で現実の社会に変化をもたらしたか〉は決して無視できないはずである*10。「手段の度外視」とも言えるこのシモニティの主張は、SEAのあり方と大きく食い違う、あるいは私たちの現行の評価の仕方をラディカルに改訂するよう勧めるという点で受け入れ難い帰結である。もちろん、評価の仕方の変遷それ自体は、芸術史上でもしばしば見られることである。とはいえ、作品の特徴や手段に注目するという点において、これまでの批評実践は共通しているだろう。SEAの評価について、実証的な調査を盛り込もうとすることは、現代の芸術実践を特徴づける一つの転回である。しかしそれでもなお、SEA実践があくまで芸術として理解される限り、作品がいかにしてその影響を生み出すに至ったのかを分析することなくしては、SEAの芸術的価値は十分に評価できないだろう——SEAの実践者が影響を与えようとするのが芸術や批評に不案内の人々であったとしても*11   

 
以上の二つの問題は、シモニティのある理解に端を発している。それは、〈唯美主義と多元主義では芸術的価値は芸術に特有の特徴を通して実現されるが、SEAは芸術でない特徴を通して価値を実現する〉、という理解である。ここで、〈SEAに含まれる社会的・政治的活動——つまりシモニティが言うところの非芸術的な特徴——をも芸術的特徴として認めて、多元主義を維持してはどうか〉と提案することは、シモニティの抱える問題を解決する上で有効な手立てだろう。実際、過去の「芸術作品」が、従来では芸術とは言えないような(醜い、ありふれた、……)要素を芸術の領域に引き入れてきたのと同様に、SEAは社会的・政治的活動を芸術の領域に導入していると言える。しかしながらこの提案は、次のような——シモニティの一つ目の問題と同様の——懸念を抱えることになる。芸術的特徴に社会的・政治的活動も含まれるとき、そうした多様な芸術的特徴によって芸術的価値を特定することはできるのか。単に作品がもつ価値から芸術的価値を抽出しようとするとき、あまりに様々な要素を含む芸術的特徴は役に立つのだろうか。


*10 Americans for the Artsの一部門であるAnimating Democracyは、SEAなどの「変革のための芸術〔Arts for Change〕」を評価する際に注目すべきポイントとして、次の11項目を挙げている(Americans for the Arts 2017; 訳は(秋葉 n.d.)を参照)。「深い関与〔Commitment〕」、「目的の共有〔Communal Meaning〕」、「既存の価値観の破壊〔Disruption〕」、「文化的一貫性〔Cultural Integrity〕」、「感情的体験〔Emotional Experience〕」、「感覚的体験〔Sensory Experience〕」、「リスクをいとわない〔Risk-taking〕」「開放性〔Openness〕」、「高いリソース処理能力〔Resourcefulness〕」「統一性〔Coherence〕」、「持続する粘性〔Stickiness〕」。全てではないにせよ、こうした評価項目は、SEAがどのような手段を講じているのかという点に着目する批評実践が現に存在することを明確に示している。
*11 ここで、〈SEAは芸術ではない〉あるいは〈SEAの中には芸術ではないものもある〉と答えて、手段を度外視して実際に与えた影響のみによって評価することも可能だろう。そのように答える実践者も存在することは、本稿冒頭でも述べた通りである。(ただし、これは評価の仕方をラディカルに改訂することではない。なぜなら、こうした実践者の社会的・政治的な活動は、社会的・政治的活動としていつも通り手段に関係なく評価されるからである。)しかし、SEAが芸術作品であることを認めるシモニティは、このように回答することはできない(第2節第2項を見よ)。




3-2. ロバート・ステッカーの識別テスト——多元主義再び

 
いま述べた懸念を解消するためには、多元主義者の一人であるロバート・ステッカーが提出する、作品がもつ価値から芸術的価値を識別するためのテストが鍵となる。ステッカーのテストは次のような形で表される。

(AV+)〈芸術作品wは価値Vをもつ〉ということを知るために、wを理解しつつ経験するか、もしくはwについて、wの解釈から引き出されるような理解をしなければならないのだとしたら、wの中に発見されるそのVは芸術的価値である。(Stecker 2015, 397; 訳は森(2017, 160)を参照したが一部変更した)

簡単に言ってしまえば、作品がもつ価値のうち、作品を解釈したり観賞したりせずには評価することができない価値こそが、芸術的価値だということである*12。確かに、このテストによって、金銭的価値やドアストッパーとしての実用的価値などの関係のない価値を芸術的価値から除外することが可能だろう。それらの価値は、オークションでの落札価格を伝えるニュースを見たり、単に(見もせずに)持ち上げて重さを確認したりすることでわかるからだ。その一方で、「人物の描写が優美だ」といった美的価値や、「世界の新たな捉え方を教えてくれる」といった認識的価値は、作品を実際に観賞しなければ有無を判断できないため、順当に芸術的価値として認められる。このようにしてステッカーは、作品の理解や解釈によって作品がもつ価値から芸術的価値を抽出できるとして、多元主義の立場をとるのである。

 
さらに、自然主義小説の実用的価値についてのステッカーの次の考察は、SEAの実用的価値について考える上で大きなヒントとなる。

それら〔=アプトン・シンクレアの『ジャングル』やエミール・ゾラの『ジェルミナール』のような自然主義小説〕は、危険で不当な慣行を変えるためにも、そうした慣行を生き生きと記述することを目的としていた。[……]〈社会に関わる〔socially engaged〕ことがこのタイプの文学作品に典型的な特徴である〉ということが、生き生きとした記述のような文学的特性のおかげで成功するとき、そのことは観賞する作品の理解が必要となる芸術的な徳である(Stecker 2012, 358)

これは要するに、自然主義小説がもつ慣行を変えるという実用的価値は、生き生きとした記述を味わうことで知られるのであれば、芸術的価値として認められる、ということである。ステッカーは、「生き生きとした記述」を「文学的特性」と述べており、これはシモニティの言葉で言えば「芸術に特有の特徴」である。しかし、ステッカーの主張として重要なのは——先のテストで述べられているように——その特徴が文学的(芸術に特有)であることよりもむしろ、その特徴を観賞して理解することである。つまり、ステッカーが挙げる事例が伝統的な芸術的特徴であるとしても、ステッカーの識別テストの射程は、現代の異種混合的な芸術的特徴にまで——観賞や解釈が関わる限りで——及んでいると考えることができるのである。

 
ここで先に述べた懸念に立ち返ろう。広範な活動を含む芸術的特徴によって、作品がもつ価値からより限定的な芸術的価値を識別することはできるのか。ステッカーのテスト、および自然主義小説の実用的価値についての考察を踏まえれば、その答えはイエスである。つまり、SEAの用いる社会的・政治的手段を芸術的特徴として認めることで、芸術的特徴は芸術的価値を特定するにはあまりにもないまぜになってしまうのだが、それらが観賞や解釈の対象である限り、SEAの実用的価値はステッカーのテストの守備範囲に収まり、芸術的価値として計上可能なのである。デラーの《オーグリーヴの戦い》が、芸術に特有ではない特徴によって参加者に何らかの社会的・政治的インパクトを与えたときでも、その特徴を観賞・解釈してそのインパクトを知るのであれば、それらの実用的価値は芸術的価値を構成するのである。

 
星野太は、シモニティのような、社会的インパクトを芸術的価値として考える議論に対して、芸術という営みに欠かせない作品の形式的な面に対する配慮が抜け落ちてしまうのではないかと危惧している(星野 2018, 143-44)。この懸念は前項で見た「手段の度外視」とも相通ずるものである。しかし、すでに見た通り、ステッカー的な多元主義は、SEAの社会的なインパクトや実用的価値を芸術的価値として認めるためには、観賞や解釈を通して作品の形式的な面に注目することを要請する。つまり、作品の形式面への注目は、〈実用的価値は芸術的価値を構成する〉という考えと両立するどころか、むしろその考えを正当化するのである。先の危惧に続けて星野は、SEAの「パフォーマンス」的側面に着目することで、社会的評価とは異なる、美的・芸術的評価の可能性が開かれるのではないかと示唆している(星野 2018; 144-47)。なるほど、SEAの具体的な着眼点を指摘しているという意味で、星野の示唆は意義深いものである。ただし、ステッカー的な多元主義の立場からすると、作品の形式面への着目は、美的評価だけでなく社会的評価さえも芸術的価値として認める契機となるのである。

 
さて、ステッカーのテストを用いてSEAの実用的価値を芸術的価値として数え入れることができるとわかった今、シモニティのように多元主義を諦めて実用説を取る積極的な理由はないだろう。ステッカーのテストを備えた多元主義は、実用説の抱える〈作品の実用的な影響から芸術的価値に寄与するものを抽出できないのではないか〉という懸念と、〈手段とは無関係に評価される〉という受け入れ難い帰結の両方を回避することができるのである。

 
さらに、シモニティは、SEAを評価する際に芸術ではない政治的な取り組みとも比較することを強調していたが、多元主義およびステッカーのテストは必ずしもこれを否定するわけではない。シモニティは——手段を度外視していたことからわかるように——社会的・政治的取り組みとの比較対象として、SEAが与えた影響の種類強度範囲を主に念頭に置いていると考えられるが、ステッカーのテストで鍵となる観賞や解釈は、作品の諸特徴がどのように影響に貢献しているのかを分析するものである。また、多元主義は、単に〈芸術的価値として算入される価値には複数ある(特にSEAについては実用的価値が算入されうるだろう)〉と主張するまでである。つまり、SEAを芸術でない活動と比較して評価すべきか否かと、ステッカー的な多元主義の立場をとるか否かは、別個に答えることができる問題なのだ(もちろん、お望みであれば、ステッカー的な多元主義を取りつつ、シモニティとは反対に〈SEAは芸術作品と比較されるべきだ〉と主張しても構わない)。そのため、ステッカー的な多元主義を採用するとしても、シモニティが自身の主張の全てを撤回する必要は——手段を度外視することを除いては——必ずしもないのである。

 
以上より、SEAの芸術的価値については次のように結論づけられるだろう。SEAの芸術的価値を説明するために、シモニティの主張する実用説を取る必要はなく、ステッカーのテストを備えた多元主義は、実用説の問題を回避しつつSEAの芸術的価値を説明できる。さらに、このステッカー的な多元主義の提案は、シモニティがSEAの評価において重視する非芸術との比較を直ちに退けるものではないため、シモニティにとっても鞍替えしやすい 一つの選択肢だと言えるだろう。


*12 (AV+)の基本的なアイデアはStecker(2010, 240-41, 邦訳385-87)でも示されているが、Stecker(2012)を契機とするジュリアン・ドッドとの論争を経て、ステッカーのテストは(AV+)の形に至った(Dodd 2013; Stecker 2013; Dodd 2014; Stecker 2015)。



4. 参加型アートの美的価値——変容的表現を誘う芸術

 
第4節では、SEAの芸術的価値から離れて、参加型アート全般の美的価値をめぐる近年の議論を紹介しよう。参加型アートはしばしば、伝統的な「美しい」芸術がもつような美的価値を欠いている。その一方で、〈参加型アートにおける協働や対話といった営みもまた美的価値をもつ〉というのは、現代では理解可能な見解である。とはいえ、参加型アートの美的価値が伝統的な芸術の美的価値と全く同じ性格をもっているとは考え難い。以下で取り上げるのは、「変容的表現transformative expression)」を基本コンセプトとして参加型アートの美的価値を考察するニック・リグルという論者である(Riggle 2020)。変容的表現とは何か、そして、変容的表現を誘う参加型アートはどのような意味で美的価値をもつと言えるのか。順を追って説明していこう。


4-1. 変容的表現とは何か

 
以下は、リグルが変容的表現について説明する部分の引用である。

変容的表現という考えは、行為をする前にはその人がもっていなかった自己の特徴のいくつかをその行為が表現する——そして、行為によって、あるいは行為を通して、その行為やそれが表現・体現するものが、自己ないし人生を肯定するものとして、本人にとって非常に重要であることを理解するようになる——というものである。(Riggle 2020, 167)

ふつう自己表現においては、私たちは自身を構成する気質(disposition)をそのまま表していると考えるだろう。例えば、引っ込み思案な人の価値観が、控えめな振る舞いや言動、飾り気のない服装などに反映されるように——しかし、変容的表現においては、それ以前には自身を構成していなかった特徴によって自己を表現するのである。リグルはメイクオーバー(わかりやすく言い換えるならば「イメチェン」だろうか)を、変容的表現の一つの事例として紹介している(Riggle 2020, 164-65)。メイクオーバーをする以前、ダグニーという女性は、80年代の髪型と肩パッド入りのブレザーに満足し、そのスタイルを変えたくないと思っていた。しかしメイクオーバーの後、ダグニーは新しいスタイルを大変気に入り、いつもそのようなスタイルをすることが自分にとって意義あることのように思われた。このように、以前には当人の中核的なコミットメントを反映していなかった行為が、その行為が実現するときを境に、中核的コミットメントを表現する行為となる——。これこそが変容的表現が変容的たる所以である。

 
続けてリグルは、20世紀以降の前衛芸術の伝統において追求されてきた価値を、この変容的表現によって理解しようとする。これらの芸術実践の例としてリグルは、シチュアシオニスト・インターナショナルの結成メンバーであるギー・ドゥボールの言説や、エイドリアン・パイパーの《マイ・コーリング(・カード)#1(My Calling (Card) #1)》(1986)、ステファン・ウィラッツの《ブレントフォード・タワー(Brentford Towers)》(1985)、元ボゴタ市長のアンタナス・モックスが治安向上のために導入した「サブ・アート」構想などを挙げている(Riggle 2020, 167-171)。


 パイパーの事例を用いて変容的表現をさらに説明しよう。黒人であるパイパーは、肌が白いために頻繁に白人だと勘違いされ、人種差別的な発言やそれに対する同調を受けることがある。そうした人々に対してパイパーはカードを手渡す。カードには、パイパーがカードを出すことによって差別に対応するようになった理由や、〈黒人がその場にいないとしても白人は人種差別的な発言をしないと想定し、そのような発言があったときにはカードを配る 〉というパイパーのポリシーなどが記されている。また、カードは、人種差別的な行為・発言を諌めつつも、あくまで「友人」宛として差し出されるものである。リグルは、このようなパイパーの介入は、「友人」に対して自分たちがしてきたことから身を引き、否定する機会を与えるものであり、変容的表現の図式に相応しいと述べている(Riggle 2020, 169)。上で挙げた他の事例も同様に変容的表現という観点から紹介したのち、リグルは次のようにまとめる*13

これらの事例は次のことを示している。参加型アートは私たちに、(とりわけ)遊び心をもつこと〔playful〕、自己内省的であること、探検的ないし冒険的であること、自発的であること、心を広くもつこと、ごっこ遊びに従事すること、創造的であること、想像的であること、あるいは見知らぬ人との探検的な対話に従事することを求める。これらの活動の共通点は、私たちの中核的なコミットメントと特定の関係をもっているということである。つまり、それらは変容的表現を可能にして自身の中核的コミットメントから私たちを遠ざけるのである。(Riggle 2020, 171-2)

*13 とはいえリグルは、前衛芸術の関心と価値が、変容的表現に尽くされるわけではないことを認めている(Riggle 2020, 173)。




4-2. 変容的表現を誘う芸術の美的価値とは何か

 
続いて〈変容的表現を重視する芸術実践はどうして美的価値をもつと言えるのか〉という問いに移ろう。まず、美的価値の理論をめぐる問題には、線引き問題(demarcation question)と規範問題(normative question)の二つがある。線引き問題とは、〈美的価値は何によって他の価値とは区別され美的価値として分類されるのか〉を問い、規範問題とは、〈美的価値の価値とは何に存しているのか〉を問うものである。分析美学における伝統的な回答は、前者については形式主義(formalism)——美的価値が美的であるのは、形式的特徴に付随しているからだ——で、後者については快楽主義(hedonism)——美的価値が価値であるのは、快を与えてくれるからだ——で答えるものである*14。しかし、この伝統的な見方では、変容的表現をもたらそうとする芸術の美的価値を説明することはできない。リグルが説明するように、先に見た例でいえば、パイパーの手渡すカードが美的な特徴をもっているとしても、それはパイパーのパフォーマンスの美的価値を捉えておらず(よって形式主義は非妥当)、また、パイパーのパフォーマンスは社会的な不正に立ち向かい、変容させることを目的としており、快への注目は適切でないのである(よって快楽主義は非妥当)(Riggle 2020, 175)。

 
同時に、これらの芸術実践の美的な性格が倫理的にも重要であることは批評実践においてもしばしば指摘されてきたことである。例えば、ケスターは協働型アートの芸術実践を「対話的なやりとりの創造的組織化〔orchestration〕」に注目して分析しており(Kester [2004]2013, 189)、ビショップは「倫理的転回」という観点から、現代の芸術実践の据わりの悪さ——「まさにそれが非芸術であるために価値を見出されるという事実にも関わらず、その比較と参照点は常にコンテンポラリー・アートへと舞い戻る」——を考察している(Bishop 2012, 19, 邦訳42)。リグルは、こうした動向を受けて、答えるべき問題として次の三つを掲げる(Riggle 2020, 176)。一つ目は、変容的表現を誘う芸術の美的価値を説明することであり、二つ目は、これらの作品の美的な性格の倫理的な重要性を示すことであり、三つ目は、これらの作品とその他の美的に価値あるものとを比較する批評動機(critical impulse)を正当化することである。

 
この三つの問題に答えるために、リグルは変容的表現を、遊び(play)という面からさらに説明する*15

それ〔=遊び〕のおかげで、私たちは他者に対して自身の個性を表現するために、創造的な仕方で、社会的な規範や毎日のルーティーンを利用し〔riff on〕あるいはそこから脱出することが可能になり、その結果として私たちは、単に社会的な役割を演じる人々としてでも、また尊重に値する主体としてでもなく、個人として互いに繋がることができる。遊び心をもつこと〔being playful〕は個人としてのあり方の一部なのである。(Riggle 2020, 177)

そして遊ぶとき、リグルが「純粋個性(pure individuality)」と呼ぶものに私たちは従事している。この純粋個性とは、「私たちに課されるいかなる規範、ステレオタイプ、役割、規則から脱出し、ただその場で行為ないし存在する私たちの基本的な能力」である(Riggle 2017, 24)。変容的表現を誘う芸術実践に関わり、純粋個性を働かせて遊びや冒険や実験を行うことを通して、私たちは自分自身を個人として形成し、磨きあげるのだとリグルは主張する(Riggle 2020, 178)。この意味で、変容的表現を誘う芸術に見られる遊びや冒険や実験といった特徴は、倫理的に重要だと言えるだろう。

 
では、どうしてこの遊びの側面は美的価値をもち、また、他の美的価値をもつものと同じ批評という次元において比較されるのだろうか。先に挙げた三つの問題のうち、これらの残された一つ目と三つ目の問題に対して、リグルは「無関心性」によって応答する。この無関心性とは伝統的には次のような考えである。

私たちが外形的な特性をある仕方で、すなわち「無関心に〔disinterestedly〕」経験して初めて、それらの特性に付随する美的性質を経験し、そしてそれらが生じさせる快を適切に経験することができる。(Riggle 2020, 178)

つまり、リグルの表現によれば、「無関心性は形式主義と快楽主義をつなぐ糊」なのである(Riggle 2020, 178)。続けて、リグルは変容的表現についても同様の考え方を適用する。

私たちが変容的表現に関わる芸術の招待状を手に取って——いわば「無関心に」、中核的なコミットメントから自分自身を遠ざけて、あるいはそれらを括弧にいれて——初めて、私たちはそれらの作品が意図したように影響を受ける立場にあるのである。(Riggle 2020, 179)

こうして、私たちを中核的なコミットメントから引き離す変容的表現は、無関心性によって美的価値をもつと説明される。続けてリグルは、作品の諸特徴が私たちに「無関心に」観たり聴いたりするよう促すのと同様に、変容的表現をもたらす参加型アートもまた、私たちに「無関心に」行動するよう促すと述べる(Riggle 2020, 179)。つまり、どちらの場合も無関心性が重要な役割を果たしており、このことは、参加型アートと美的価値をもつその他の作品とを比較する批評動機を正当化しうる、とリグルは考えているのである(Riggle 2020, 179)*16

 
注意されたいのが、この無関心性は〈あくまで変容的表現をする個人の気質やコミットメントに対する無関心性であって、社会での実際の影響や効果に対する無関心性ではない〉という点である。実際——第3節までの議論で見てきたように——参加型アートの中には、社会に実際の影響を与えようとするものが多い。実践者の中には、自身の活動はむしろ現実の世界に大いに関心をもっていると考える者も当然いるだろう。ただし、そのような芸術実践であっても、人々に対して信念や信条を変えようと働きかけるのであれば、人々を無関心に行動させるという意味で、美的価値は説明可能なのである*17

 
まとめよう。リグルは参加型アートを変容的表現という観点から捉えることで、その美的・倫理的な側面を明らかにしたのだった。変容的表現を誘う芸術実践は、人々を個人的・社会的な規範から解放し、純粋個性から行動させて自己を再構成させる。その意味でこれらの芸術は倫理的な重要性をもっているのである。そしてこのような芸術実践は同時に、人々に「無関心」に行為するよう促していると言える。その意味で、変容的表現を誘う芸術には美的な価値があり、さらには他の美的な価値をもつものとの比較も正当化されるのである。


*14 森(2021)は、分析美学における近年の美的価値の論争を、「快楽主義とその敵」という観点からまとめている。
*15 個人的・社会的規範から抜け出すことについて、より広範な「オーサム(awesome)」という観点から分析したものにRiggle(2017)がある。Riggle(2017)においても、芸術の変容的な側面が説明されている(56-64, 179-191)。
*16 リグルによる美的価値の説明は、注8で言及したーゲンバートによる説明よりも、美的価値をもつ他のものとの批評動機を適切に正当化するという点において優れていると言える。ーゲンバートは、参加型アートの美的価値を、美的徳の養成によって説明するが、この説明では美的徳を育むその他の活動(料理教室やデッサンの授業など)と参加型アートが——現実ではふつう前者は批評の対象にはならないにも関わらず——同じ批評という基準で評価されかねないからである。
*17 第2節で説明したように、シモニティは、美を志向する参加型アートと実際の社会に影響を与えることを目的とするSEAとを区別していた。しかし、リグルの主張を踏まえれば、SEAにおいても美的な価値(あるいは実用的な観点から理解される美的な影響)を想定することは可能である。


 結に変えて、美学者に限られない、芸術家や批評家にとっての、あるいはその他の参加型アートの実践に関わる人々にとっての本稿の意義を述べよう。これまで、近年の分析美学における芸術的価値と美的価値をめぐる議論を紹介してきたが、すでにこれらの芸術実践に馴染みのある人々の中には、〈SEAの実用的な影響が芸術的価値に含まれること〉や〈参加型アートが美的な価値をもつこと〉は、ごく当然のつまらない主張に映る者もいるかもしれない。しかし、本稿の意義は、そうしたふつうに受け入れられている事態を単に述べ直すことにあるのではない。そうではなくて、実際の芸術実践を参照しつつ、それらの事態がどのような理論上に成り立っているのかを示すことにある。こうした理論的な探究は、〈社会的・政治的活動とほとんど同じに見えるSEAがどうして芸術的価値をもつのか〉や〈参加型アートはなぜ美しいと評価されるのか〉といった、どこか素朴だが核心に迫る問いに対して——「今や美や芸術はそういうものなのだ」とだけ答えてお茶を濁すのではなく——真摯に回答する一つの視座を提供してくれるだろう。


参考文献

Americans for the Arts. 2017. Aesthetic Perspectives: Attributes of Excellence in Arts for Change. Washington: Americans for the Arts. http://www.animatingdemocracy.org/aesthetic-perspectives (accessed March 14, 2021).

Bishop, Claire. 2012. Artificial Hells: Participatory Art and the Politics of Spectatorship. London: Verso. (『人工地獄——現代アートと観客の政治学』. 大森俊克(訳). フィルムアート社. 2016.)

Bourriaud, Nicolas. (1998)2002. Relational Aesthetics. Translated by Simon Pleasance and Fronza Woods. Dijon: Les presses du reel.

Dodd, Julian. 2013. “Artistic Value and Sentimental Value: A Reply to Robert Stecker.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 71(3): 282–288.

Dodd, Julian. 2014. “On a Proposed Test for Artistic Value.” The British Journal of Aesthetics 54(4): 395–407.

Gaiger, Jason. 2009. “Dismantling the Frame: Site-Specific Art and Aesthetic Autonomy.” The British Journal of Aesthetics 49(1): 43–58.

Hanson, Louise. 2013. “The Reality of (Non-Aesthetic) Artistic Value.” The Philosophical Quarterly 63(252): 492-508.

Hegenbart, Sarah. 2016. “The Participatory Art Museum: Approached from a Philosophical Perspective.” Royal Institute of Philosophy Supplements 79: 319-339.

Kester, Grant H. (2004)2013. Conversation Pieces: Community and Communication in Modern Art. Berkeley: University of California Press.

Kwon, Miwon. 2002. One Place after Another: Site-Specific Art and Locational Identity. Cambridge: The MIT Press.

Riggle, Nick. 2017. On Being Awesome: A Unified Theory of How Not to Suck. New York: Penguin Books.

Riggle, Nick. 2020. “Transformative Expression.” In Becoming Someone New: Essays on Transformative Experience, Choice, and Change, edited by Enoch Lambert and John Schwenkler, 162-181. Oxford: Oxford University Press.

Simoniti, Vid. 2018. “Assessing Socially Engaged Art.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 76(1): 71-82.

Slyce, John. 2003. ‘Jeremy Deller: Fables of the Reconstruction.’ Flash Art 228(January-February): 74-77.

Stecker, Robert. 2010. Aesthetics and the Philosophy of Art: An Introduction. 2nd edition. Rowman & Littlefield. (『分析美学入門』. 森功次(訳). 勁草書房. 2013.)

Stecker, Robert. 2012. “Artistic Value Defended.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 70(4): 355–362.

Stecker, Robert. 2013. “Testing Artistic Value: A Reply to Dodd.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 71(3): 288–289.

Stecker, Robert. 2015. “Entangled Values: A Reply to Dodd.” The British Journal of Aesthetics 55(3): 393–398.

秋葉美知子. n.d. 「SEAの芸術的なエクセレンスをどうとらえるか」. SEAリサーチラボ. http://searesearchlab.org/blog/aestheticperspective.html (参照2021年3月14日).

加治屋健司. 2017. 「ソーシャリー・エンゲージド・アートの批評基準」. 『美術評論家連盟会報 aica JAPAN NEWS LETTER ウェブ版』 第7号: 4. https://www.aicajapan.com/ja/no18/ (参照2021年3月14日).

星野太. 2018. 「ソーシャル・プラクティスをめぐる理論の現状——社会的転回、パフォーマンス的転回」. 『ソーシャリー・エンゲイジド・アートの系譜・理論・実践——芸術の社会的転回をめぐって』, アート&ソサイエティ研究センター SEA研究会(編), 121-152. フィルムアート社.

森功次. 2017. 「芸術的価値とは何か、そしてそれは必要なのか」. 『現代思想』 45(21): 154-168. 青土社.

森功次. 2021. 「美的なものはなぜ美的に良いのか——美的価値をめぐる快楽主義とその敵」. 『現代思想』 49(1): 86-100. 青土社.