探偵小説の形成と構造 ― エラリー・クイーンを事例に ―

中村 大介

中村大介数理と哲学 ― カヴァイエスとエピステモロジーの系譜
青土社 、2021

本エッセイは、3月6日(土)に行われるレクチャーの資料です。


はじめに

拙著『数理と哲学 ― カヴァイエスとエピステモロジーの系譜』(青土社)の補論で、発表者は探偵小説の形成を考えるための枠組みを提示した。本レクチャーではその枠組みを紹介すると共に、著作で取り上げたものとは異なった事例研究を行ってみたい。
枠組みの基礎となるのは哲学者パースの記号学である。まず彼による九つの記号類型を示した上で、探偵小説を論じうるような仕方で、その類型を拡張する。この拡張により、作品分析を行うための出発点となる図式が得られることになる。そして作品分析の例として、エラリー・クイーンの著作をここでは取り上げる。クイーンの著作を取り上げるのは、そこで、図式の構造がいわば変動するような契機が見て取れるからであり、芸術や美学との関係で示唆的なものがそこに含まれているかもしれない、と考えたからである。
なおここではいわゆる「ネタバレ」は行わない。そのため作品分析には一定の制約がかかることなるが、代わりに聴講者に対する間口を広げることができればと考えている。


1.パースによる記号の類型学について

チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce, 1839-1914)はよく知られているように、記号を〈記号・対象・解釈項〉という「三つ組」で考えている。すなわち、ある記号は「対象の代わり」をするのだが、こうした記号と対象に加えて、人の中に「等値な記号、あるいはさらに発展した記号」である「解釈項」が作り出されるのである。そして、彼は一次性(物それ自体の在り方)、二次性(二項関係)、三次性(三項関係)という自身の基本的な三つのカテゴリーを用いて、記号の三つの側面を次のように定めている。

(一)記号の「第一次性的側面」:記号それ自体の在り方

(二)記号の「第二次性的側面」:対象との関係における記号

(三)記号の「第三次性的側面」:解釈内容との関係における記号

その上でパースは(一)から(三)の側面のそれぞれに、さらに三つのカテゴリーを適用し、結果として九つの記号類型を引き出している。
表を挙げた上で説明する。

【表1 パースによる記号の類型】

第一次性について。(一の一)「性質記号」とは、記号として作用するための性質を有しているが、「具体化されるまでは実際に記号として作用し得ない」、可能態に留まる記号のことである(例えば星の「輝き」という性質や、ある文字のもつしかじかの形)。(一の二)「個物記号」と(一の三)「法則記号」は、「トークン」と「タイプ」の区別に各々対応する。
第二次性については例のみ挙げよう。(二の一)肖像写真はその人物のイコンであり、富士山の絵は富士山のイコンである。(二の二)煙は火のインデックスであり、人物のある表情は今起こっている不機嫌を指示するインデックスである。そして、(二の三)「シンボル」の代表例は言語記号ということになる
第三次性について。(三の一)「名辞」とは未発展の命題と言うこともでき、例えば次のような文である。「三角形の内角の和はxである。」(三の二)「命題」とは 「真か偽ではあるが、そうである理由を直接提供しない」ような言明のことである。例えば、「三角形の内角の和は180度である。」そして、(三の三)記号とその第三次性的解釈内容との関係こそ「論証」である。先の命題の「証明」を、こうした論証の例として考えればよいだろう。



2.探偵小説読解図式への拡張

パースによる記号の類型学を探偵小説の読解に適した図式へと拡張するより前に、まずは探偵小説における記号の諸関係を定義する必要がある。ここでは〈記号・対象・解釈項〉という記号の三項関係を踏まえて、探偵小説の三項関係を以下のように定めることにする。

(一)探偵小説における「記号」とは「記述」である。

(二)探偵小説における「対象」とは「事件」である(探偵小説における記述の対象=事件)。

(三)探偵小説における「解釈項」とは「推理・読解」のことである。

 以上を踏まえて、探偵小説の記号図式をまずは一挙に提示してしまおう。

【表2 探偵小説の記号図式】

(一の一)可能態としての記号については、事件を指し示すことが可能であるような記号と読み替えて用いる。そうした記号とは推理に寄与するかどうか分からない諸々の描写、ということになるが、「伏線」と「ミスディレクション」の二つが特に重要である。(一の二)トークンとしての記号とは具体的な事件の個々の記述のことであり、そして(一の三)タイプとしての記号とは事件の記述がもつタイプ=探偵小説における「ジャンル」に相当する。
第二次性についてはやはり例のみ挙げよう。(二の一)探偵小説におけるイコンの例には変装のモチーフや、「ある家a」(記号)と思われていたものが、「別のある家b」(対象)であった、という誤認トリックなどがある。(二の二)探偵小説におけるインデックスの例としては、「部屋の内側から掛金のかかったドア」という記号を挙げよう。それは、「ドアの掛金に結びつけた糸を外から引く→掛け金が落ちる→さらに強く引くとほどける」という因果的連鎖を指示する。(二の三)探偵小説におけるシンボルとしては、例えば「顔のない死体」が挙げられる。それは、「被害者の顔に前日までにはない傷があり、アリバイのある前日に死亡時刻を偽装しようとしていた犯人にとって不都合なため、首を切断して持ち去った」といったことを指示する。
(三の一)「何らかの情報を与えることになるだろう」可能的な命題に対応するものは、手がかりである(ダイイングメッセージなど)。またフーダニット、ハウダニット等の謎もここに含まれる。(三の二)「真か偽ではあるが、そうである理由を直接提供しない」言明とは、探偵小説においては推理に役立つ命題、情報である。そして(三の三)探偵小説における「論証」とは勿論、推理、ロジック、そしてアブダクションのことである。
なお、ある作品で用いられた個別の事件内実や推理が「タイプ」として取り出され、後続作品のうちでミスディレクションなどの別の記号として用いられことがある、という点には注意が必要である(例えば「吠えない犬の論理」など)。図式を個々の作品に適用した読解図は閉じておらず、〈ある作品における推理や事件から発展した記号が別の作品で用いられる〉という仕方で、探偵小説の記号の系列が生まれることになる。


三 パースの記号学を用いる意義、そしてクイーンにみる〈三性からの逸脱〉

パースの記号類型を探偵小説の分析に用いることの意義を明らかにするために、探偵小説固有の進展を二つの相から見ておこう。
―[第一の相]両大戦間の古典的な英米の探偵小説においては、記述(第一次性)、事件(第二次性)、読解(第三次性)という三つの側面は基本的に切り分けられ、図式の縦線を跨ぎ超えることは多くの場合許されない。例えば、読解や推理を披露する探偵が事件の主要人物たる犯人であったり、あるいは記述者が犯人であったりしてはならない。
―[第二の相]しかし第二に、一次性・二次性・三次性の峻別は、探偵小説の運動によってあるいは重ね合わされ、あるいは一つの類型を他のものが含み込むといった形で、部分的に掘り崩されて行くことになる。「第一の相」に属する作品群の充実化と相関しつつも、いわば〈三性からの逸脱〉へと進む運動が生じるように思われるのである。例えば「記述者が犯人」という犯人像を提出した作品が、こうした逸脱を示す典型的な作品といえる。
パースの記号類型が本研究にとって不可欠なのはそれゆえ、探偵小説の基本的な三側面をそれが明らかにしつつ(第一の相)、三つの側面の一部が重ね合わされる、あるいは組み込まれる(第二の相)といった探偵小説独自の形成を可視化してくれるからに他ならない。
ここでは「第二の相」について、エラリー・クイーンの作品群を対象として簡単に見ておきたい。クイーンはその長いキャリアを通じて、三つの側面を峻別する作品群を書き継いでおり、とりわけ初期の作品群の中には、「第一の相」の頂点を印すような探偵小説史上の傑作が多く存在する。しかし彼は同時に、三性から逸脱していくタイプの作品も複数執筆している。例えば初期のある作品において、彼は「あやつり」というモチーフを導入し、「犯人が偽の手がかりをばら撒き、探偵に誤った推理をさせることによって、別の人物を犯人に仕立てる」という、事件の一部(二次性)に探偵の推理(三次性)を組み込む趣向を案出している(この作品にはまた、「探偵が犯人の仕掛けにかかった振りをして間違った推理を敢えて披露し、その推理によって犯人を自滅に追い込む」という筋も含まれている)。そして、後期のとある作品では、この〈二次性への三次性の組み込み〉は、「犯人が事件の一部に探偵の推理を組み込んだ上で、その推理によってさらなる事件を引き起こすことで犯罪を完遂する」というかたちで徹底化されることになるのである。レクチャーではこうした三性からの逸脱について、先の図式を用いてより明確に提示する予定である。