梅沢和木は、キャラクターの画像を中心にしたデジタル画像のコラージュで知られる作家である。東浩紀が著書『動物化するポストモダン』の中で「デ・ジ・キャラット」のキャラデザインが、猫耳やメイド服などのオタク的なクリシェ=記号性によってできあがっており、消費者はそのパーツそのものに反応しているという指摘を踏襲するように*1、梅沢はキャラクターの中でも特徴的なパーツを選び出し、それを構成することによって作品化する。そして、記号性への敏感な態度が作品化に成功した時が、梅沢作品の成功だろう。
梅沢の「記号性への反応」は、実際にはキャラクターデザインに対するものにとどまらない。梅沢は「Beatmania」シリーズなどの音楽ゲーム(いわゆる「音ゲー」)や、「東方シリーズ」といったシューティングゲーム(以下「STG」)についてもしばしば言及する。音ゲーは、言ってみれば一方向に流れる動的な楽譜を見ながら、タイミングよくボタンを押していくゲームだ。視界に次々に流れてくる「バー」(楽譜で言う音符にあたる)を見ながら(あるいはもちろん予測しながら)、手元のボタンを押していく。タイミングが良ければ成功のグラフィックが表示され、スコアが加算されていく。あるいは失敗し続けるとゲームオーバーとなってしまう。ここでは「バー」という記号が、ゲームシステム上で非常に有意味な存在となる。STGは、敵の放つ弾を避けつつ、こちらの攻撃を当てることでクリアしていくゲームであるが、ここでは今度は、敵の弾というごく単純なグラフィックが、「当たってはならない」非常に重要な意味をもつ「記号」ということになる。
あるいは、梅沢の画像の収集に用いられていたリブログサービスの「tumblr」では、大量の「リブログ*2」によって流れるタイムラインに対して、「ライク」と「リブログ」の二種類の反応を返す(あるいは返さない)という反応をし続けることになる*3が、ここにも音ゲーやSTGと同様の構造がある。つまり「次々に流れてくる記号に対してリアクションを返し続ける」というものだ。インターフェイスのシステムとしては、ゲームと同様の構造を持ちながらも、流れてくる「画像の記号性」は、梅沢にとってはまさにオタク的なクリシェやフェティシズムの有無という意味での記号性ということになるだろう。「キャラクターのパーツ」と「ゲームにおける弾のグラフィック」という異なる水準の記号性が、梅沢の中では同一の水準の関心事に見えるのは、このようなインターフェイスの共通性によって体験された経験によって形成されているように見える。
(やや比喩的だが)この「記号性への反射神経」が画面に現れているのが《少女千万魑魅魍魎》だ。この作品は、今まで見てきたような、「一見単純に見える記号性の連鎖」によって画面が作り出されている。ここで用いられている「記号」には、あまりにも梅沢個人という「偏った主体」によって選択された記号群が並んでいるのだが、しかしこの「偏り方」がそのまま「インターネットの表象」と化している*4。
一方、東日本大震災以降、梅沢は、被災地に赴いた際に自身が撮影した写真も作中に用いるようになるが、その画像はそれまでの記号性とは遠い。また、画像の量が増大し、それらが細かくなる傾向と相まって、「物量」に頼る表現手法へと傾いていくことになる。この変化は、梅沢が所属するカオス*ラウンジ全体が炎上し、梅沢のコラージュへの手法の批判が大きくなったことや、「福島第一原発観光地化計画」へコミットしたという要因は無視できないだろうが、それが故に個人の記号への欲望がそのまま画面に反映されるという梅沢作品の特質を欠いているように映る。さらには《BOSS ON PARADE》では、増大した物量に対して、最終的に「鬼らしき形態」が与えられてしまっている。これは、「一見単純に見える記号性の連鎖を使って画面を作る」という達成からすれば明らかな後退で、記号性を欠くほどにパーツの大きさが小さくなったことによって、最終的な輪郭に記号的表象が再帰してしまっているのだ。
震災というモチーフに必然性があったとして、しかし、それを扱う方法、つまり「震災、そして原発事故下における記号的なモチーフ」はいくらでもあり得ただろう*5。そして炎上という批判の目がなければ、梅沢個人の欲望に従ってそれらが選び取られた可能性も十分にあっただろう。あるいは、投げつけられる批判と非難の中の記号性さえもモチーフとして、それが結晶化していたとしたら。梅沢の「記号への反射神経」はそれが可能な水準にあったはずだ。