バイオアートと生命記号論

齋藤 帆奈

1. 私と文鳥ソラリスで構成される記号システム


私はソラリスと名付けた1羽のメスの手乗り文鳥を飼っている。手乗りの鳥は、まだ餌を自力でついばむことのできない雛のころに親鳥から離され、人間によって餌を与えて育てられる。被捕食者であるからか、基本的に新しいモノに対して文鳥はひどく怯えるのだが、手乗りとして育てられた文鳥は人間の身体を恐れることがほとんどない。手乗りの文鳥は慣れ方によっては、手の中に握り込むことすら可能であり、手乗りよりもさらに慣れた存在として「にぎり文鳥」と呼ばれている。どんな種の鳥でも雛のころに人間から餌を与えられていればよく慣れるというわけではないらしく、例えばカナリヤは比較的慣れにくいと言われている。カナリヤは求愛行動をする時に、お互いが別の木に止まった状態などの、離れた位置で行うが、文鳥は10センチほどの距離感で行うことが関係しているのかもしれない。飼い犬は人間を同じ群れの構成員やリーダーとして認識するようだが、鳥は人間をつがいのパートナーとして認識することが多いようである。このように手乗りの鳥は生得的な性質と、環境の操作の両方によって構成されている。

日々近い距離でソラリスと接していると、段々と彼女の世界観がわかるようになってくる。ここで言う世界観とは、ユクスキュルの言葉を借りれば環世界、記号論の言葉に当てはめれば記号システムである。

例えば私の指をソラリスの嘴の前に差し出した時は、近づいてきて軽くついばむという挨拶のような行動をする。文鳥の嘴は血液の色に由来するピンクであるために、このような指に対する親愛行動は、嘴と人間の爪が似ているからではないかと文鳥飼いの間では言われる。つまり、彼女にとって私の爪は嘴と同等の意味を持っていると言えるだろう。また、文鳥は求愛行動をする時に、ジャンプを数回繰り返すホッピングという行動を取る。文鳥飼いの間では、この求愛行動を2本の指で再現するという遊びが知られている。ソラリスも、目の前で2本の指でトントンと彼女の止まっている面を叩くような仕草をすると、同じくホッピングをしたり、嘴を何度も止まっている面に擦り付けたりといった求愛行動で答える。この時彼女にとって私の指は文鳥の足と同等の意味を持っていると言えるだろう。つまり人間の指は、手乗り文鳥にとって足と嘴の二重の意味を持つ。また、文鳥は毎日水浴びをするのだが、ソラリスは特定の器で水浴びをすることに慣れている。ソラリスが小さい飲み水入れに頭をつっこみ、羽根を震わせる仕草をすると、私は彼女が水浴びをしたがっていることに気づき、いつも水浴びに使っている青い花柄の入った浅い鉢を持ってくる。そうすると彼女はもっと広い器で水浴びができることにすぐ気づき、飛んできて私が鉢に水を入れる前に鉢の中におさまる。また、ソラリスは本のページ、海苔、鰹節、裂いた状態のさけるチーズといった、薄くてペラペラしたものや、細くて長い形状のものが大好きである。海苔や鰹節を私が食べようとすると、興奮して飛んできて、小片を加えて持っていってしまう。そして自分が普段から長時間こもっている狭くて薄暗い場所へと運ぼうとする。さけるチーズの場合は、裂いた瞬間に大変興奮するのだが、持っていくことはなく、食べてしまう。これらの形状はソラリスにとって巣材を思わせるのだろう。しかし、チーズの場合はかじってみたら美味しかったと言う経験を蓄積したため、巣材と食物の両儀性を持つものとなっている。このような彼女の行動に対して私は家の材料と、食物を混同することはあるのだろうかと自身に問いかけ、そういえば壁材に対して美味しそうだから魅力的だと思うことはよくあるなと気づく。

このようにして日々を共に過ごしていると、全く生得的に異なる形状を持っている私とソラリスの間で、共通の意味を持つ文脈が形成されてくる。つまり、記号システムの共通部分を持つようになるのである。




2. 記号論による批評の文脈


現代において「記号」という言葉は「本質を欠いたもの」というニュアンスを持っているように思われる。そこで記号的なものと対比されるのがリアルなもの、リアリティを持ったもの、「物質」的なものである。しかし、この印象は記号という概念の一側面を表しているにすぎないだろう。


記号論を用いた芸術批評の方法論は、作品の意味を作者の意図と切り離して論じる方法として、ロラン・バルトを中心として、ヨーロッパにおいて50年代から60年代にかけて構築された。その後、ボードリヤールによって大量消費社会を描写する道具立てとして用いられた。ボードリヤールは資本主義社会において商品の記号的な側面が消費の対象になっていると考えた。そこでは冒頭に述べた「記号」という言葉に対する印象のような、本質やリアリティを欠いたものとして記号という概念が用いられている。


現代において、記号論を用いた文化批評は一時期と比較して下火になっていると考えられる。記号論を用いた批評の方法論は、言語学から派生しており、そこで第一に射程となっているのは言語を用いた芸術である文学である。この方法論を用いる以上、あらゆる表現を言語のモデルで解釈するということになるとも言えよう。80年代から90年代にかけて、言語モデルに還元するような批評の方法論が批判された。そののち、ニューマテリアリズムといった、人類学におけるマテリアル・ターンといった、改めて世界の物質的な側面に注目する思想の潮流が起こった。これらの潮流は、人間中心主義への批判も内包しており、言語外のリアリティを求める傾向と轍を一にしていると考えられるが、単純に記号論的なものを否定してマテリアルなものを重視しているというわけではない。電子機器に囲まれた現代の私たちにとっては、リアリティを感じさせるもの、マテリアルを感じさせるものへの郷愁は避け難いものであるかもしれないが、安易に記号的なものとリアルなものを対比させた時、そこにはむしろ避け難い断絶が生じることになるだろう。


ロラン・バルトの批評理論で用いられる「記号」は主としてフェルディナンド・ソシュールの記号学を基盤としている他、バンヴェニストやチョムスキーといった言語学者、そしてソシュールと並び称される記号論の創始者のチャールズ・サンダース・パースからも影響を受けていると言われている。しかし、ソシュールの記号学とパースの記号論には重要な相違点がいくつもある。

ソシュールの記号学が記号(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の二項で構成されるのに対して、パースの記号論は、記号、内容、解釈項の三項で構成される。ソシュールの記号論が二項の結びつきを社会的慣習による恣意的なものだとするのに対して、パースの記号論は二項の結びつき方を記号が解釈される文脈として三項目に置くことで、より可変的で動的な記号システムの世界を描き出しているとも言える。また、ソシュールにおける記号は主に言語を指しているが、パースはシンボル、インデックス、イコンの三分類を設けている。自然言語や数学記号など規約や慣習によって恣意的に結びついた記号はシンボル、煙に対する火など、空間的、時間的な隣接性や、因果関係によって結びついたものがインデックス、リアリズムの絵画とその描かれた対象など、記号と内容が物理的な類似性を持つものがイコンである。パースの記号論の場合、解釈項は別の解釈項から見れば記号になるために、記号の三つ組の要素はネットワーク状に発展していく。記号の三要素がパースペクティブによって可変であるため、物質と記号の断絶を絶対的なものとしないと考えられる。また、ウンベルト・エーコによれば、ソシュールの記号論は明らかに記号の使用者として人間を想定している。しかし、パースの記号論はそうではなく、解釈項の位置に人間でないものが入りうる。




3. ホフマイヤーの生命記号論


生物学者のホフマイヤーは、パースの記号論とユクスキュルの環世界論を援用し、生命記号論という分野を立ち上げた。ホフマイヤーは、生命は記号過程のネットワークだと論じている。生物は、DNA配列という一次元の記号と、血と肉から成る三次元の身体を持っている。受精卵はDNA配列に示されたゲノムの暗号を解読し、何十億に分裂しながら生体を構成していく。ここではDNA配列が生体を内容とする記号、解釈項は受精卵ということになるだろう。生物と環境との関係においても記号過程がみられる。有性生殖を行う生物の場合、雌雄相互の配偶者選択は環境の変化に対応する。つまり、現世代の遺伝情報のどの部分が次世代に伝えられるかが環境との相互作用で決定されると言うことである。ホフマイヤーは、この過程を、系統によって生殖のたびに能動的に環境が翻訳される記号過程とみなす。ここでは系統が解釈項、環境が記号内容、環境が反映された遺伝情報は記号内容とみなすことができる。また、細胞同士のネットワーク、免疫系などにも記号過程のネットワークを用いて説明を行っていく。

生命記号論は、意味の領域を人間の領域に限定するのでなく、非人間の領域に拡張するものである。文化批評における記号論は、ロラン・バルトによる著作『作者の死』というタイトルからもわかるように、それまで作者の主観的な意図と切り離して論じることが困難だった芸術批評に関して、ある種の客観的、外在的な方法論として提案されたものであったと考えられる。それに対して、ホフマイヤーの生命記号論は、むしろ人間以外の生物や、生物を構成するDNAや細胞に対して主体的、内在的な視点を附与するものである。この意味において生命記号論と、文化批評における記号論は正反対のベクトルを帯びているとも言える。人間以外の生物に対して主体的な視点を想定したとしても、私たちがその視点を直接経験することができるわけではないが、ユクスキュルの方法論を参照してみよう。ユクスキュルは、実験による知見と理論的考察によって、生物を機械でなく主体とみなし、その意味世界を環世界と名付けた。

ホフマイヤーにも言及されている生物学者のスタンリー・ソールスは、ユクスキュルの環世界論を取り上げて、外在的 / 内在的方法論だと述べている。ホフマイヤーも、生物学分野の実験によるデータを総合し、意味づけを行うというユクスキュルと同様の方法論をとっている。

外在と内在を両儀的なものとして一手に扱おうと言う意味においては、文化批評における記号論と、生物学における生命記号論は同じ位置を占めるとも言える。




4. バイオアートにおけるジレンマ


バイオアートは、広義には生物を素材として用いた芸術作品や、生物学的なコンテクストで生命に関するテーマを扱った芸術作品全般、狭義には遺伝子組み換え技術を用いた現代美術作品を指す。ここでは広義の方の定義を採用する。バイオアートは、生物素材そのものを用いるという点で、「記号」的でないもの、リアリティやマテリアリティを求める現代の傾向に応答していると言えるだろう。

バイオアートにおける生物素材の扱い方には、二つの側面があると考えられる。一つは、科学技術に対する批評的な観点をビビッドに表現するためのメタファーとして生物素材を用いる側面、もう一つは、非人間を一種の主体として扱い、非人間と協働したり、非人間にとっての芸術を考えるという観点で生物素材を用いている側面である。前者と後者は作品ごとに厳密に分けられるわけではなく、この二つの観点が重ね合わさった作品の例も多い。前者の例としてはオロン・カッツによる “Victimless Leather”や、生物素材を直接用いているわけでないがエドゥアルド・カックによる ”GFP Bunny” などが挙げられるだろう。後者の例としてはがイベンアリーによる ”cellF” や、イノマタアキによる ”girl, girl, girl” がある。BCLによる ”Ghost in the Cell” は、両者の重ね合わせ的な位置を占めているだと言えるだろう。


前者は、これまでの美術における素材と作品の関係とさほど変わらないが、後者は、素材自体に主体性を付与する。そのため素材は共同製作者、あるいは鑑賞者といった性質を同時に帯びることになる。

しかし、後者の方法論には常に理論的な困難がつきまとう。結局のところ、どんなに作者が素材となる生物との協働をうたったとしても、制作行為における能動性の中心を担うのはどうしても人間である制作者の方である。そのため、人間が素材に主体性を見出しているにすぎない、結局は生物はメタファーとして使われているだけなのだ、という批判、批評が起こる。しかし、そこでは人間の感覚の共通性や、他者に主体性があることについては疑念を持たれていない。徹底的に批判を行うのならば、批判者は自身の主体性のみを前提にすべきである。

人間の感覚の共通性が素朴に前提とされるのは、人間同士が言葉を使用できるからではないだろうか。言葉に他のコミュニケーション手段と断絶した高い地位を与えれば、必然的にそのような帰結が導かれるだろう。ソシュール的な記号論によれば、言語こそが記号の代表である。しかし、パース的な記号論を取り入れた生命記号論の見方をすれば、記号のやりとりを行うことができるのは人間の言語だけではない。人間同士が言語を用いてコミュニケーションを行えるということを人間の他者に主体性を附与することの条件とするならば、記号過程を用いて相互にやりとりできる相手であれは主体性を認めて良いことになる。

記号の意味は、記号の使用者同士で構成される「社会」によって自律的に決まる。最初に述べた私と文鳥ソラリスの間での記号システムの共有のように、記号の意味を決定する「社会」は、必ずしも人間同士で構成されている必要はないだろうと考えることができる。生命記号論を参照すれば、生物とその環境が課す制約条件の集合体を、記号の意味を決定する「社会」だとみなすことができるだろう。バイオアートにおいても、制作者はその素材あるいは協働者である生物とそのような関係を結んでいるだろう。しかし、完成された作品をギャラリーや美術館で目にする鑑賞者は、必ずしもその関係性の内部にいるとは限らないのである。記号システムの共有ができなければ、鑑賞者にとって作品が「生物との協働」によるものだという作者の表明は、リアリティを持たないものとなる。記号システムを共有するためには自他を混同するような近さでのコミュニケーションの繰り返しが必要とされると考えられるが、美術作品と鑑賞者の間には一定の距離が生じる。この意味で、バイオアート作品を美術作品として展示する上では記号システムの共有という点で意味で一定の限界があることになる。現代美術は歴史的に美術館の外部へと向かう指向性を持ってきたが、「外部」という言葉の意味が成立するのはあくまで内部との対比においてである。バイオアートの制作者たちは、美術館やギャラリーで展示を行うほか、生物学研究を専門として行うかたわらで作品制作を行っていたり、子供たちに理科教育のワークショップを行ったり、生物学の学会で作品展示を行ったり、分野にとらわれない発表形態を持っていることが多い。このような活動は、必ずしも現代美術の側からは観察不可能であるため、「外部」への指向性とはみなされず、「美術に無関係なもの」として見過ごされるされることが多いのではないだろうか。しかし、生物自身の主体性を作品に取り込もうする場合、むしろ生物学研究の現場において論文からはこぼれ落ちるような研究者と生物の日々のやりとりや、アマチュアサイエンス、ペットや家畜飼育の文化、環境文学やエコクリティシズムといった非人間を扱う文学や批評といた様々な領域にコミットし、目を向けることはシンボルシステムの共有という意味で本質的であるのではないだろうか。


生命記号論をエコクリティシズムの方法論として位置付ける芳賀浩一によれば、もっとも高い記号論的な自由を持つのが人間だとホフマイヤーが論じており、結局のところ人間が生命のヒエラルキーの内で高いヒエラルキーを持つことを支持するものになっている点については批判を行っている。しかし、「人間」というカテゴリーを固定化したものとして用いずに、個々の存在がその都度諸関係を結んでいき、その都度記号システムを構築していくような描像もまた、生命記号論の世界観から導くことができる。生命記号論的な世界の見方は、意味を構成するカテゴリの境界を可動なものにする。


バイオアートと呼ばれる生物そのものを用いた芸術表現の傾向は、人間の作者のみが主体として生物を単なる記号として用いるものだという解釈に陥ることになれば、無生物の素材を用いた芸術と何ら変わりのないものとなるだろう。バイオアートを人間の文化の観点からのみ解釈すれば、生物素材を用いていることの意味は、珍しい素材のバリエーションという程度のこととして片付けられてしまうだろう。

生命記号論の観点にたてばそのような解釈を避けることができるが、必然的に芸術の外部をはらむことになるだろう。しかし、そのような開かれた境界を持った活動は、外在的 / 内在的方法論の実践として、自然の世界と、人間の文化とのカテゴリカルな断絶を補うようなものとなるだろう。