1. 導入 詐称の意図を持たない贋作
2016年オランダの金融機関インググループと米国のマイクロソフト株式会社が提携し、デルフト工科大学やマウリッツハイス美術館の協力のもと「レンブラントの絵画作品346点のデータを使ってレンブラントの新作を出す」*2試みであるネクスト・レンブラント(The Next Rembrandt )*3というプロジェクトの成果が発表された。オランダを代表する画家であるレンブラント・ファン・レイン (1606-1669) の制作した絵画の画像データをもとに、顔認識システムと機械学習をおこなうAIを用いて分析、レンブラントのスタイル(style)を模した画像を3Dプリンタで出力した。完成したのはツバの広い黒い帽子をかぶり口髭をたくわえた白人男性の肖像画である。「偉大な芸術家を呼び戻して絵を制作できるだろうか」という副題がプロジェクト名に使われており、日本語のメディアではカギカッコつきで「レンブラントの新作」という表現も用いられた*4。この「新作 」という表現は素朴に考えれば不適切だ。17世紀に生きたレンブラントが絵筆をとって作品を制作したわけではないからだ。無論このことはプロジェクトに携わった人々はもちろん記事の執筆者も承知しているだろう。レンブンラントの名前を詐称することが目的ではないこの肖像画は、レンブラントのスタイルの忠実な事例を新たに作り出そうと制作されたものだ。この肖像画はいわば詐称の意図がない贋作である。本稿では、ネルソン・グッドマン『芸術の言語̶記号理論へのアプローチ』*5 (以下『芸術の言語』) Languages of Art: An Approach to A Theory of Symbols, 2nd ed.(1976, 邦訳2017年 ) 第3章における贋作(fake)論を参照し、ある作品が贋作であるための必要条件を二つ取り出す。この二つの条件をネクスト・レンブラントの作品が満たすことを確認し、その上でより広い射程を収めた「贋作論」が必要であることを確認したい。
2.『芸術の言語』における贋作論の位置づけ
まずは『芸術の言語』における贋作論の位置づけを確認しよう。『芸術の言語』第3章で展開される贋作論は、音楽と絵画という二つのジャンルの違いを際立たせる役割をもっている。本書では、絵画や版画に贋作はありうるが、音楽作品の贋作はありえないと述べられている*6。この根拠を、芸術ジャンルに属する作品の定義を与える記号システムがありうるかどうかに訴えるという議論が展開していく。
もとより『芸術の言語』の中心的な試みは、絵画、彫刻、版画、文学、音楽、ダンス、建築といったさまざまな芸術ジャンルの異同を統一的に説明する理論の構築にあると言ってよい。この理論では、各芸術ジャンルの違いを、ある作品がどのようなものであるかを過不足なく特定する記譜法 (notation) という記号システムが成立の有無によって分類される。「記譜法」が、一般に、楽譜を書く規則のことを指すことからも想像できるように、当該ジャンルの作品を必要十分に定義できる記号システムを指す*7。音楽作品の楽譜を思い浮かべると、記号システムとして芸術を統一的に理解するという試みは理解しやすい。ある作品の楽譜には、そこに記された音符は一定の音程と長さを表す記号として機能しているからだ。同様に、文学作品が特定の記号システムに基づく芸術だという点も理解しやすいだろう。筆記されたものであれ口伝のものであれ、文学作品は自然言語を用いて構成されるからだ。ある自然言語を使用して文学作品が制作される以上、その文字列から作品を特定することが可能なのである。
『芸術の言語』において贋作論は記譜法の成立する芸術ジャンルとそうでない芸術を区別する議論の導入といってもよい。記譜法が成立するジャンルの作品であればその贋作は制作不可能だ。他方で、贋作を作成できる作品であれば、そのジャンルにおいて記譜法は成立しない。記譜法における記号を用いた作品は複数の事例をもちうるからだ。グッドマンが事例にあげるハイドンが1975年に作曲した《交響曲第104番ロンドン》の譜面の自筆譜も、紙に印刷されたコピーも、電子データも等しく作品の事例となる。西洋音楽の記譜法に則した記号を確認できるかぎり、いずれの事例も等しくその音楽作品がどのようなものか情報を伝えているからだ。対して、記譜法をもたない絵画、たとえばレンブラントの《ルクレツィア》と完全に質的に類似した作品を制作した場合、その絵画は《ルクレツィア》の事例ではなく、オリジナルに対する模造品や贋作と呼ばれる。記譜法をもたない絵画作品を他の作品から区別するのは、作品がもつ内在的な性質ではなく、誰がいつどこで制作したかという外在的性質、グッドマンの用語法に則るならば歴史的事実だからである。
このように『芸術の言語』における贋作論は、贋作そのものの分析を目指すというより、贋作の制作可能の是非を論じることで、記譜法に基づくジャンル論を展開する足がかりの一つとなるよう登場しているのである。
3.『芸術の言語』に基づく贋作の条件
『芸術の言語』の贋作論の要となる問いが「贋作とは何か」や「どのように真作と贋作を識別できるか」よりも「この芸術ジャンルにおいて贋作を作ることは可能か」にある以上、贋作の十全な理論を期待するのは不当なことだろう。それでもこの議論からは、以上の議論をふまえて、そこで念頭におかれる贋作の条件として次の二つを取り出すことができる。
(1)ある作品xが別の作品yの贋作であるならば、xは真作であるyなしには存在しえない。(真作の存在)
(2)作品xと作品yはその作品がもつ内在的性質ではなく、制作された場所、人物、時点といった作品の外在的性質によって区別される。(歴史的事実による区別)
(1)が述べているのは、何かが贋作であるためには贋作が模倣の対象としたオリジナルの真作がなければならない。また(2)は、贋作と本物が区別されるのは、作品がどれだけ似るかどうかといった作品それ自体がもつ特徴ではなく、制作行為がおこなわれた時空的位置によるものだという内容である。ただし、この二つのみでは、ある作品がオリジナル作品の贋作である条件として不十分だろう。一般に、贋作として通用するためには、ある程度オリジナル作品と質的に類似しなければならない。たとえば、油彩画制作の技術をもたない私がレンブラントの《ルクレツィア》を模倣する意図で図像を描いても、その図像が《ルクレツィア》の贋作であるとは言い難いはずだ。真作と十分に共通する性質をもつという存在論的な条件であれ、理想的な鑑賞者が真贋を識別できないと認識論的に規定するのであれ、贋作であるには他の条件が必要に思える。しかし(1)本物の存在と(2)歴史的事実による区別という条件は、ある作品が贋作であるための必要条件を提示しているといえよう。
これを踏まえると、『芸術の言語』で主に念頭におかれている贋作とはオリジナルに対するレプリカと考えるのが妥当に思える。ただし、より日常的な贋作という言葉の用法を考えると、その概念はより豊富な内容をもつ。
それは、贋作とは既存の作品を模倣したものだけでなく、芸術家のスタイルの模倣し、そのスタイルの事例を新たに作り出す試みも含まれる。グッドマン自身、フェルメール (1632-1675) のスタイルを模倣した贋作を制作し専門家の目をも欺いたファン・メーへレン (1889-1947)による絵画作品を贋作の事例として挙げている*8。ファン・メーへレンの贋作は、現存する作品のレプリカを目指して制作されたのではなく、フェルメールの画風を模倣して新たに制作した作品をフェルメール作と詐称したものである。清塚 (2014) では、ジェラルド・レヴィンソンの議論*9を引いて、「個体の複製という形での贋作を 「実物参照的な贋作(referential forgery)」と呼び、有名画家のスタイルだけを借用した新作をその有名画家の作品と称する類の事例は、「創意に富んだ贋作(inventive forgery)」*10という区別を導入し、グッドマンの贋作論の射程が必ずしも明確でないことが指摘されている。ファン・メーヘレンのフェルメール風絵画は、実物参照的な贋作ではなく創意に富んだ贋作に相当するからだ。
とはいえ、芸術家個人のスタイルを模倣して作成した作品としての贋作であれば、絵画に限らず、音楽でも文学でも成立しうる。記譜法の成立の有無に基づく芸術ジャンル論という『芸術の言語』全体の趣旨とのつながりという点に着目するなら、ジャンルを問わず成立する贋作概念は相対的に重要ではなくなるだろう。
実物参照的な贋作の場合、グッドマン風の贋作の二つの条件をどちらも満たすことは理解しやすい。この場合、まず模倣の対象となる真作が存在している。さらに、たとえ同じ作者によってレプリカ を制作するとしても、贋作の制作された時点と真作の制作された時点は異なる。歴史的事実によって贋作と新作は区別される。
それでは、創意に富んだ贋作の場合はどうだろうか。ファン・メーヘレンのフェルメール風絵画は、制作年も制作者も異なるので、現存するフェルメールのどの作品とも、歴史的事実によって区別可能である。しかし、たとえば1937年に制作した《エマオの晩餐》は、模倣の対象となる単一の作品Xがあるわけではない。ここで模倣が試みられているのは、フェルメールのスタイルともいうべきものである。この絵画が十分フェルメールのスタイルの模倣に成功しているかどうかはここでは重要ではない。スタイルは個別の作品と異なり、特定の時空的位置によって指定し難い。しかし、仮にフェルメールのスタイルというものがあるとしても、それは現実に存在し続けているフェルメールの作品がなければ存在しない。スタイルは個別の作品の存在に依存するのである。そうだとすれば、贋作が成り立つために真作の存在が必要という条件は、創意に富んだ贋作の場合も満たされるといってよいだろう。フェルメールの作品が存在しなければ、フェルメールの贋作としてのファン・メーヘレンの絵画は制作されえなかったからである。
『芸術の言語』の議論から取り出せる贋作の条件とは、模倣のもととなる真作の存在、および真作と贋作は歴史的事実によって区別されるという二つだといえよう。
4. 贋作とスタイルの事例
贋作の条件を踏まえて、冒頭で言及したネクスト・レンブラントの肖像画を再び検討しよう。この作品は『芸術の言語』における贋作論から取り出せる贋作の条件をいずれも満たす。過去にレンブラントが手掛けた多くの作品の画像データをなしにこの肖像画は成立しなかった。ある作品が何かの贋作であるには真作の存在が必要という条件をクリアしている。また、いうまでもなく、ネクスト・レンブラントによって制作された作品は、レンブラント本人の全ての作品と、制作された時期も制作者たちも異なる。作品そのものの性質ではなく、その外在的な歴史的事実によって真作と贋作が区別されるという条件もやはり満たされる。ネクスト・レンブラントが発表した作品を「レンブラントの贋作(fake)」と形容した報道*11もあるが、これらの条件は「スタイルを真似をしてもそのスタイルを確立した本人が作ったのでなければ偽物だ」という素朴な印象をうまく説明している。
また、特定の作品のレプリカ ではなく、レンブラントのスタイルを模倣して新しい作品を作り出したという点では、制作ファン・メーヘレンによるフェルメールの贋作と同様に、創意に富んだ贋作に該当する。もちろん、両者の違いは、ファン・メーヘレンが当初作者の名前を詐称した一方で、ネクスト・レンブラントでは画像データを分析するアルゴリズムと3Dプリンタという道具を用いて専門家チームが制作したことを最初から公表している。詐称は嘘をつくことであり、倫理的観点からみれば二つの作品の制作の評価は全く異なるのはいうまでもない。両者を併記するのは、贋作か否かという問題がかならずしも倫理的な嫌疑や非難の文脈で論じられるわけではないことを示したいからである。
特に、着目したいのは、両者が芸術家のスタイルを模倣する、という点である。この種類の贋作は、真作の作り手によっては制作できない。ある作品のレプリカであれば、作者本人が制作することも可能だ。しかし、レンブラントの代表作である《フランス・バニング・コック隊長の市警団》(1642)がレンブラント・スタイルを模倣した創意に富んだ贋作である、ということは意味をなさないように思える。《夜警》の名でも知られるこの作品はレンブラント自身のスタイルの事例というべきものだ。そうだとすれば、スタイルを模倣した贋作が成立するためには、贋作の作り手が当該のスタイルの事例となる作品を制作できないものでなければならない。レヴィンソンの贋作の分類に従うなら、実物参照的な贋作は作者本人によって制作可能だが、創意に富んだ贋作の場合、当該のスタイルの事例を制作できない作者によってのみ制作可能だともいえるだろう。
もちろん同一人物だから常に自分のスタイルの事例を作り出せるとは限らない。同一の芸術家が生涯を通じてスタイルを変化させることは珍しくないし、過去のスタイルの作品をもはや制作できないこともあるだろう。
それでは、特定の芸術家のスタイルの事例を作り出せるのはその芸術家のみだろうか。そのように断定する根拠は特にないように思える。ファン・メーヘレンの《エマオの晩餐》がフェルメールの贋作といわれるのは、「フェルメールが制作した」という制作年代や制作者に関する歴史的事実について誤った主張がなされたからだ。しかし芸術家の名前を詐称することと、そのスタイルの事例を制作することは区別可能である。とすれば、この絵画がフェルメール・スタイルの事例に相当するかという観点から出来栄えを判断する余地はあるだろう。同様に、ネクスト・レンブラントの肖像画は、レンブラントが制作した作品だと主張すればそれは贋作だが、レンブラント・スタイルの事例となる余地は残されている。この肖像画を「贋作」と紹介する記事は、レンブラント本人が制作したものではないことを強調する含みをもつといえそうだ。作者の名を詐称しないこの肖像画は、レンブラントのスタイルの事例となることを目指した作品と評するのがふさわしく思える。
ただし、スタイルの「事例」という言葉遣いは、明らかに『芸術の言語』でのそれとは異なる。記譜法が成立するジャンルでは、何かがある作品の事例となる基準は確定できる。しかし、音楽であれ文学であれ、スタイルの事例として適切かどうかを決める基準は曖昧なものだ。贋作の必要条件を提示したという点で、『芸術の言語』は贋作についての興味深い洞察を与えてくれる。しかし、贋作論の射程にスタイルの模倣による新たな作品を含むのならば、別種の贋作の理論が必要とされるといえるだろう。
・参考文献
Goodman, N. (1976). Languages of Art: An Approach to A Theory of Symbols., the 2nd edition, Hackett Publishing Company. (邦訳 ネルソン・グッドマン著『芸術の言語』戸澤義夫・松永伸司訳, 慶應義塾大学出版会, 2017年.)
Levinson, J. (1980). ‘Autographic and allographic art revisited’. Philosophical Studies, 38(4), 367-383.
清塚邦彦. (2014).「ネルソン・グッドマンの贋作論: 『芸術の言語』第3章の分析」『山形大学紀要(人文科学)』第18巻第1号, pp.1-39.