サイモンブラックバーン熊野純彦 図鑑 世界の哲学者

村山 正碩

サイモンブラックバーン熊野純彦 図鑑 世界の哲学者東京書籍、2020

2019年、サイモン・ブラックバーン監修の原著が出版され、昨年、熊野純彦監修の日本語版が出版されたのがこの本である。哲学の世界を知るうえで有益な一冊なのだが、二つの特徴をもち、それぞれ私が注目している近年の哲学の動向を象徴しており、選出することにした。


「哲学の世界」と言ったが、われわれが想像する哲学の世界は白人男性の世界となりがちである。ところが、本書はさまざまな地域の、また男性だけでなく多くの女性哲学者も重要人物として取り上げている点で、われわれの固定観念を覆し、注目に値する。


私が、また多くの読者もそうだと思うが、もっとも感銘を受けたのは序盤の構成である。本書は基本的に年代順に哲学者を紹介していくのだが、ページをめくると、最初に登場するのはソクラテスではない。タレスでもない。老子である。老子に次いで登場するのは孔子であり、それにゴータマ・シッダールタ(仏陀)が続く。仏陀の次でようやくギリシャの哲学者が取り上げられるが、その人物はなんとディオティマである。私は彼女をプラトンの『饗宴』でソクラテスに美と愛について語った人物としてしか知らず、実在するかどうかも知らなかった。実際、ディオティマの生涯に関する今日アクセス可能な唯一の情報源は『饗宴』であるそうだが、プラトンがその対話篇に登場させた人物のほとんどすべてが当時の有名人であるため、実在した見込みが高いようだ。いずれにせよ、本書はソクラテス以前に中国やインドの哲学者、女性哲学者を配することで、効果的に哲学の多様性を示している。


近年では、さまざまな時代や地域、民族、ジェンダーの哲学者に目を向ける、哲学の多様化の動きが進んでいる。昨年、日本で刊行された『世界哲学史』シリーズが思い出されるかもしれないが、これは世界的な動きである。私の専門でいえば、2019年に刊行されたベンス・ナナイの『美学』(洋書)は美学の入門書だが、その最後の章は「世界美学」と銘打たれているし、それ以前の章にもサンスクリットやイスラームなど、非西洋の美学に関する記述が散りばめられている。ジェンダーに関しては、昨年刊行されたレベッカ・バクストン&リサ・ホワイティング編『哲学の女王』(洋書)が世界の女性哲学者二十人を紹介しており、また著者もすべて女性という他に類を見ない本となっている(残念ながら私は未読)。一般に哲学は普遍性を志向するとされるが、それならば、白人男性の著作にばかり目を向けるのは不健全であるおそれがあり、それゆえ、この多様化の動きは社会的公正に資するばかりか、哲学に内在的な価値にもつながるはずだ。そして、『図鑑 世界の哲学者』はこの動きの良いサンプルとなる。


本書のもう一つの特徴は、非常に多くの図版が収録されている点である。とりわけ、主要項目となっている哲学者については肖像の大判図版が掲載されている。私は哲学史に疎い人間だが、著名な哲学者の名前、著作、思想について多少なりとも知っていることがあるとしても、その姿についてはまったく知らないということが多い。肖像はわれわれに哲学者の姿を伝え、それがどのようなものであれ、親しみの感覚を与えてくれる(なお、本書は哲学者の思想以上にその生涯に関する記述の割合が多く、彼/彼女らが一人の人間として立ち上がるようにする狙いがかなり大きいと思われる)。また、哲学者ヴァネッサ・ブラッシーが本書にも掲載されている、伝ジョン・マイケル・ライト作のトマス・ホッブズの肖像画について書いた以下の印象的な一節を見てみよう*1

私は以前この肖像画に会ったことがある。その顔は知的でありながら、驚くほど温厚で、少しも独善的ではなく、いくぶん控えめでさえある。この絵画を訪れるたび、私はこれまで読んできたトマス・ホッブズと、私を見ているこの人物との対比に心を打たれる。ホッブズは、その悪名高い反ユートピア的格言において、法なき生は 「不潔で、野蛮で、短い」 と述べている。しかし、私の目に映る人物は、私が学んできた思想家とはまったく反目しているようにみえる。私は絵画のなかの彼に戻ることに惹きつけられるが、彼の文章に戻ることには惹きつけられない。私を惹きつけてやまないのは、芸術家が何らかの「ホッブズの本質」を抽出しているようにみえるからだ。描かれたホッブズを見るたび、私は——ホッブズその人の——認識の小さな衝撃を経験する。

示唆に富んだこの一節は哲学者の肖像を鑑賞する楽しみの一つを示している。われわれは著作に現れる哲学者像と肖像に現れる哲学者像の比較を通して価値ある経験を得ることができるのだ。


とはいえ、肖像の鑑賞には厄介な問題もある。人物はただ見ればわかるものではないが、視覚芸術としての肖像もただ見ればわかるものではない。人工物一般がそうであるように、肖像は特定の共同体に埋め込まれた作者が特定の素材や技法を用いることで制作される。当然ながら、ここでは社会規範が作品のあり方に大きな役割を果たすことになる。この点を考えると、西洋絵画の伝統に親しんでいるかぎりで、ブラッシーの鑑賞は適切かもしれないが、本書のように古今東西の肖像を見ていく場合、その肖像の背景にあるものについてよく理解していないために、誤った判断が入りこむおそれがある。これは注意すべき点だ。


また、肖像特有の問題もある。芸術作品のあり方に作者の視点が反映されるということはよく知られている。肖像の場合、モデルをどう描くかについて作者には選択の余地がある。しかし、モデルはただ描かれるだけの存在ではない。モデルは自己提示を行うものだ。ここには緊張がある。肖像のうちに見える人物の表情や衣装、ポージング、あるいはアングルはモデルの自己提示の産物だろうか、それとも作者の意図の産物だろうか。あきらかにケースバイケースだが、多くの場合、それらは混じりあってよくわからない。このとき、われわれはどのように肖像を鑑賞すべきだろうか。これは肖像の哲学の問題である。哲学者が肖像を主題的に扱うことは近年までほとんどなかったが、少しずつ変化が生じている。象徴的なのは2019年に刊行されたハンス・マース編『肖像と哲学』(洋書)である。そのエピローグにおいて、マースは「哲学者の肖像を詳しく見ることで、肖像の哲学に光を当てることができるのではないだろうか」と問いかけている。これに賛同するならば、『図鑑 世界の哲学者』はこの始まったばかりの分野、肖像の哲学に一歩踏み出すための良い一冊となろう。



*1 https://philosophyandvisualarts.com/lucy-dahlsen-on-the-philosophy-of-portraiture/