松浦理英子『最愛の子ども』

長谷川 新

松浦理英子『最愛の子ども』文春文庫、2020

夏、30度はゆうに超えるだろうという昼下がりに、マスクをつけて区の図書館へ行く。住所や来館時間なんかをちびた鉛筆で書き込んで箱に入れ、自動体温測定カメラに額をかざす。目当ての本棚。日本・小説・「ま」行。



松浦理英子の本は一通りあったが、読みたい『最愛の子ども』だけがない。これだけ揃っていて最新作だけないはずはないだろうと思い検索コーナーにいくとはたして『最愛の子ども』はちゃんとあった。やっぱりあるやん、とカーソルを動かす。ここの蔵書はアカデミックな専門書だって結構な確率で置いていてとても好きだ。じゃあどうして『最愛の子ども』がなかったかといえば、この本だけ別の区画に並べられていたにすぎない。モニターに表示された館内図は、児童書コーナーを指し示していた。



読みだして数ページですぐに気づく。これが児童書コーナーにあるのはちょっとした擬態の成果だ。青いカバーに金色で文字が彫られたいかにも清純といったデザインとその凛としたたたずまいは、タイトルもあいまってむしろ既存の女性像、学生像、家族観、青春ってほらこういう感じでしょというやつをそのまま体現している。けどその中身は、爽やかな薄皮をめくったときに顕になる淀みや腐臭みたいなもの(『火の鳥・望郷篇』の食人星みたいに油断させて襲ってきたりする)を全力で振り切ろうとしている。この著書は、そういうステレオタイプの(保守的な大人たちだけではなくて、自分はリベラルだから寛容だよという自己認識の人々さえもが振る舞ってしまう)うんざりするような態度や偏見からも隔離された物語を生み出そうとしている。Amazonで文庫が出てることを知りポチっておく。きっとこれは何度も読む本だ。



ある3人の女子高生を中心とするこの物語は、超越的な視点でも一人称でもなく、「わたしたち」によって語られる。「わたしたち」とは、3人の女子高生たちのクラスの女子全員、である。そのクラスの女子たちは同級生たる3人の女子高生を父親、母親、子どもからなる疑似家族だとみなして寵愛している。学校生活のなかで巻き起こる出来事や出来事の断片をもとに、各々が妄想し、それを開陳しあい、「わたしたち」にとってより良い物語へと練り上げていく。普通に読み進めていけばたんなる女子高生たちの疑似家族的コミュニケーションや、まだ形の定まっていない性愛の報告という形式をとっているために、読み手も彼女たちの心理描写に没入していくが、「わたしたち」は折に触れて立ち止まり、この語りがあくまでも「わたしたち」の「妄想」にすぎないことが謙虚に、あるいはあっけらかんと、告げられる。「わたしたち」は自分たちがしていることの偏りにも、不安定さにも自覚的だ。そしてなにより、この共同体が高校生活という僅かな期間限定であることにも、痛々しいくらい気づいている。



「ここで「わたしたち」という主語が使われていることに関しても、自分は「わたしたち」の中に入れてほしくない、安易に「わたしたち」なんて言うな、と不満を抱く者もいないとは限らないのだが、そんな不安につきまとわれながらも、わたしたちは小さな世界に閉じ込められて粘つく培養液で絡め合わされたまだ何ものでもないいきものの集合体を語るために「わたしたち」という主語を選んでいる。」(p.66)



したがって物語の大部分は同級生たちによって半ば一方的に行われている願望の投影であり、語られる女子高生たちの感情の揺れ、悩み、欲望といった心理描写もすべて「わたしたち」の妄想にすぎない。だがこの文体は、日本近代文学が勝手に背負ってきた男性一人称視点による「私小説」とは別種の性愛を描くことに成功している。



著者は、安易なカテゴリーや成長譚の一切をカッコにいれながら、彼女たち自身が彼女たち自身でしっくりくる関係性、感触、態度を模索することを擁護する。上述した既存の女性像、学生像、家族観、青春ってほらこういう感じでしょというやつが染み込んでくるのを防ぐために「わたしたち」という文体は採用されている。また、その語りが妄想や願望であるがゆえに、3人の女子高生たちの描写は、語り手である「わたしたち」その他の同級生たちの心理描写とも部分的に共有しうる。『最愛の子ども』では、それが青春群像劇であろうとも、自分が物語の主人公ではなく、誰かにそれを託すことは否定されない。自分たちの学校生活を二次創作的に改変し、推しを見守っていくその姿勢は決して受動的な態度ではないからだ(いったいだれがこの小説を物語ってるというのか)。「わたしたちの役割は見て解釈し脚色して物語り伝えることなのだから、現実を動かす役割を与えられてはいない」(p.132)とわかってしまっている「わたしたち」をも、著者は肯定するのである。



物語の最後に卒業と併置して颯爽と差し込まれる東日本大震災や、その後の「一人称」に託して締めくくられる語りは、逆説的にも焦点を「わたしたち」へと集中させる。彼女の語りは、それがどれだけまっすぐな、優等生的な吐露であっても、決して借りてきたような言葉ではないし、紛れもなく「わたしたち」の声なのだ。



ワクチンが開発され、もとの生活がそれなりに戻り、学校は中途半端にオンライン化が進んだころ、マスクもいらず、検温もなく、分厚い参考書を何冊も学生カバンに詰めて図書館にやってきた学生がいて、座席がそこそこ埋まっていて仕方なく児童書コーナー近くの低い椅子に腰掛ける、としよう。その学生がテスト勉強に飽きて本棚を物色しその装丁の美しさから『最愛の子ども』をふと手に取って、そしてすぐに夢中になってしまうところを、妄想する。