植原亮『思考力改善ドリル』

銭 清弘

植原亮『思考力改善ドリル』勁草書房 、2020

『思考力改善ドリル』は、批判的思考(クリティカル・シンキング)の例題集と科学リテラシー・科学哲学への入門書を兼ねた一冊である。人間に備わる「頭の弱点」を自覚し、慎重な思考のための手引きとツールを得ることで、読者は思考力の「改善」へと促される。その射程は論理的な思考を生業とする専門家・研究者に限られず、さまざまな関心に応用が効く一般的な内容となっている。


本書は27章立てとなっており、おおきく思考力一般に関わる前半部と、科学的な方法論に関わる後半部に分かれる。前半部では、「うのみにせずよく考える」ことを本分とする批判的思考の養成が目標とされる。第三章で導入される重要な枠組みとして「二重プロセス理論」を見てみよう。人間の思考には、素早く自動的に働く「直観システム」と、より慎重だが時間のかかる「熟慮システム」がある。前者は、ある種のパターンを認識し反射的に答えを出力する点で、日常生活における多くの場面を助けているが、その自動性はさまざまな誤解や問題ある推論の原因にもなる。目の前にある情報だけで判断したり、背後にある比率・確率を無視したり、ニュースが取り上げがちな出来事の発生頻度を高く見積もったりするなどは、いずれも「熟慮」の欠如に由来する。豊富な練習問題とともに、まずは「熟慮」してみることが前半部の課題となる。


言うまでもなく、うのみにせずよく考えることは「なにも考えず、なにも信じない」ことと同義ではない。『専門知は、もういらないのか』(みすず書房、2019年)においてトム・ニコルズが述べるように、今日の問題は、「確立された知識に対する人々の無関心ではなく、そうした知識に対する積極的な憎悪の出現である(p.30)」。少なくともひとつの大問題は、知性不足ではなく、反知性である。科学リテラシーを扱った後半部は、なにに基づいて信じるべきかという今日的、しかし普遍的な問題への手引きにもなっている。対照実験、ランダムサンプリング、演繹と帰納、再現性と査読、反証可能性といった科学の基本的な構成から、非科学・疑似科学の傾向(予言や陰謀論がいかにして反証から逃れるか)を学ぶことで、我々が積極的に頼るべき科学がなにをもって科学であるのかを知ることができる。


中盤に置かれた第Ⅲ部は因果関係を扱っており、こちらも広い射程を持っている。ある原因Aがある結果Bを引き起こすという因果関係は、「別の原因(C→B)」「原因と結果が逆(B→A)」「共通原因による相関(C→A, C→B)」と取り違えられやすい。このような可能性を自覚することは、哲学的議論を構成・検討する上でも有用である。評者は写真論を扱った修士論文において次のような主張を検討した。写真は、絵画のようなハンドメイドの画像には不可能な仕方で、被写体への親密な結びつきを感じさせる。Kendall Waltonによれば、(1)その原因は写真の透明性であり、結びつきの感覚は被写体を「文字通り見ている」ことに由来する。(2)写真の透明性は、画像生成における機会的プロセスに由来する。ここには二段階の説明課題として、「結びつきの感覚の原因は、ほんとうに透明性なのか」「透明性の原因は、ほんとうに写真の機械的プロセスなのか」が含まれるが、これらはいずれも広く因果に関わる個別の問いである。もしかすると、単に写実的であることが結びつきの感覚の原因かもしれない。あるいは、透明性を経由せずとも、機械的なプロセスを経て作られることが、「文字通り見ている」感覚と結びつきの感覚の共通原因として働いているかもしれない。はたまた、写真は機械的であるという先入観から、撮影やポスト・プロダクションにおける多くの人為的介入が見逃されているかもしれない。ほんとうの因果関係と取り違えられやすい関係を踏まえることは、Waltonの主張に対する反論の方向性を整理してくれる。


本書の態度は一貫して非露悪的であり、あくまで頭の“弱点”を自覚し、練習問題を通してこれを見直そうという自然主義的な啓蒙によって貫かれている。白状すると、私はつい最近までこの手の「○○シンキング」を謳うコンテンツに胡散臭さを感じていた。とりわけ、「ドリル」のような形式で手っ取り早く鍛えられるのであれば、誰も苦労しないだろう、というひがみもあった。私の先入観こそ本書が繰り返し注意を促すバイアスのいち形態である。一番はじめの例題にまんまとひっかかったことは、私にとって幸運であった。