Felix FeneonFélix Fénéon: The Anarchist and the Avant-Garde

沢山 遼

(Felix Feneon, Félix Fénéon: The Anarchist and the Avant-Garde, Museum of Modern Art, 2020

本書は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された「フェリックス・フェネオン:アナーキストとアバンギャルド—シニャックからマティスまで、そしてそれを越えて(Félix Fénéon: The Anarchist and the Avant-Garde—From Signac to Matisse and Beyond)」(ニューヨーク近代美術館、2020年4月16日–2021年1月2日、オランジェリー美術館との共催)展のカタログである。


この展覧会の特異性はなにより、フェリックス・フェネオンなる批評家の存在を企画の中心に掲げた点に集約されるだろう。フェネオンは、無数の微小な色の斑点からなる「点描」という新たな方法を開発したジョルジュ・スーラやポール・シニャックなどの新印象主義の画家たちに随伴した批評家として知られている。「
新印象主義」という名称自体、フェネオンの命名に依る。彼はまた、ディーラー、コレクター 、編集者でもあり、そして思想的にはアナキスト(無政府主義者)としても活動した。パリでもっとも早く未来派の芸術を紹介する展覧会を組織したのも彼である。その意味では、戦争のダイナミズムに憑かれていた未来派が、点描技法を絵画に導入したことも興味深い。


本展は、規模は大きくないものの、スーラ、シニャック、マティス、ヴュイヤールやヴァロットンらナビ派、未来派、アフリカ彫刻まで、19世紀パリを拠点に活動したこの稀有な批評家が関係した作品群から構成される。また、MoMAのカタログに顕著なことだが、本書も、作品図版を中心とした「カタログ」というよりは、複数の研究者の論考を中心に構成された重厚な「書物」の趣をもち、したがってその資料的価値も高い。その前提にあるのは、展覧会の水準が、批評的・研究的水準と随伴するものであるという認識だろう。


実際筆者は、本展および本書を通じてフェネオンのアナキストとしての側面について、多くの知見を得た。この批評家が、新印象主義を真に近代的かつ重要な芸術様式としてとらえたのは、そこに、近代芸術のパラダイムのみならず、当時の政治体制そのものを覆すラディカリズムを見たからにほからならない。このことから明らかになるのは、フェネオンのアナキストとしての活動と、新印象主義を言説のレベルで推し進めた彼の美学的な信念は互いに連動しており、そもそも切り離すことができないものであったという重大な事実である。
同じく展覧会のタイトルに含まれるスーラやマティスに比べれば、フェネオンの知名度はけっして高くない。が、新印象主義のサークルにおいて、フェネオンは間違いなく、もっとも過激な人物だった。たとえば彼のポートレートのなかでよく知られたものは、アナキスト活動(爆弾テロに関する嫌疑)により逮捕された際に撮影されたマグ・ショットである(図1)。彼のアナキストとしての信条は、シニャック、スーラ、ピサロら新印象主義の「点描技法」による画家たちのあいだでも共有されていた。

(図1)Mugshot of Félix Fénéon, 1894.

顎髭をたくわえた痩身の長身で、独特のダンディズムに貫かれたフェネオンの風貌は、画家たちにとっても魅力的な対象であったようである。ヴァロットンとヴュイヤールはともに、ほぼ同じ構図と色彩を使い、机に向かい仕事をするフェネオンの姿を描いている(図2、3)。なかでももっともよく知られたポートレートは、終生にわたりフェネオンと強い友情で結ばれたシニャックが描いたフェネオンの肖像である(図4)。奇術師を思わせるフェネオンの右手の周囲から、渦巻く色彩の閃光が放射される。この絵で明らかなように、シニャックはフェネオンをカリスマ的人物というよりも、カリスマそのものとして描いた。
この肖像が彷彿させる文章がある。フェネオンと爆発事件との関与が疑われた際に、詩人のマラルメがフェネオンを弁護する目的で記した以下の一文だ。

爆薬ということをおっしゃるが、フェネオンにとって最高の爆薬は彼の文章です。フェネオンには文学以上に有効な武器を使えるとは思いません。フェネオン氏は完全な紳士でした*1

(図2)Félix Vallotton, Félix Fénéon At the Revue Blanche, 1896. Private collection

(図3)Édouard Vuillard, At the Revue Blanche (Portrait of Félix Fénéon), 1901.
Solomon R. Guggenheim Museum, New York The Hilla Rebay Collection

(図4)Paul Signac, Opus 217. Against the Enamel of a Background Rhythmic with Beats and Angles, Tones, and Tints, Portrait of M. Félix Fénéon, 1890.
Artists Rights Society (ARS), New York / ADAGP, Paris; Paige Knight

実際、フェネオンが爆破事件にどれほど具体的に関与していたのかはわかっていない。マラルメが言うように、むしろフェネオンの最大の爆薬とは、彼の文章にほかならなかった。シニャックの絵画では、その右手から、爆発的な色彩の閃光が放射される(シニャックは日本の着物の柄からこの紋様を着想した)。マラルメの文章とシニャックの絵画は、あきらかにフェネオンについての同じ認識に裏打ちされている。新印象主義が体現する色彩の「爆発」は、フェネオンという人物が体現するダンディズム、そして、その手を極点として放射される。
つまり、一般に穏健で静謐な芸術として知られる新印象主義は、フェネオンという人物の過激さを介することで、その隠された過激さ(爆発物としての絵画)を明らかにするということだ。ゆえに、アナキストとしてのフェネオンを通して新印象主義を捉えることは、「点描技法」というそれまで類例のない新印象主義の方法がなぜ近代という時代において、とりわけパリという都市を拠点に誕生するに至ったのか、そしてそこに潜む「アナキズム」的政治性とはいかなるものなのかを考えることに直結する。


シニャックが彼のアナキズム的心情を忍ばせた《ハーモニーの時間》(1893-95)(図5)には当初《アナーキーの時間》というタイトルが付けられていた。だがこの当時、アナキストによる爆破事件が相次いで起こる。アナキズムとの関係が問題視されることを避けるため、シニャックは作品のタイトルを変更した。この作品を完成させた年の1895年にシニャックは書いている。「色彩が美しくなるために」「互いの利益を引き出すため、色はその隣人に、調和と抑制からなる影響を与えるべきである。この魅力的な二人組から完全な調和が生まれる(……)それは大いに科学的かつ哲学的な、コントラストの法則である
*2」。シニャックが書くように、彼は、隣り合う色彩相互の影響関係を、科学的であると同時に、哲学的(=思想的)なものでもあると考えていた。そして言うまでもなく色彩相互の影響関係が「完全な調和」をもたらすというこの理論は、フェネオンによっても共有されていた思想である。フェネオンもまた、点描技法を、社会の平等主義的かつハーモニックな協同性の実現において捉えていたからだ。本書および本展において指摘される通り、フェネオン周辺の芸術におけるアナキズムと彼らが目指した社会的な公平性、調和は、新印象主義における光学理論の導入や点描技法がもたらすハーモニックな色彩の調和と並行していた。その点において、彼らのアナキズム的思想信条は、彼らの美学理論とたしかに響き合っていた。
だが、新印象主義における色彩の調和という「政治」については、さらに踏み込んだ考察が可能だろう。よって、以下では本展の内容を補う、いくつかの論点を提示したいと思う。


(図5)Paul Signac, In the Time of Harmony: The Golden Age Has Not Passed, It Is Still to Come (Reprise),1896. The Kasser Mochary Foundation

スーラ、シニャックらの点描絵画に大きな影響を与えたのは、近代的な色彩、光学理論である。彼らの友人でもあったアマチュアの科学者チャールズ・ヘンリーは1885年に『科学的美学へのイントロダクション』を著し、それはフェネオンを含めた新印象主義 のサークルにおいて、複数の特定の色彩が互いの影響関係によって、いかに関係=連動するかについての大きな示唆を与えた。具体的には、新印象主義の画家たちは、パレット上での色彩の混色を行うことなく、画布の上に小さな色彩の斑点を併置するプロセスを通じて絵画をつくりあげた。彼らが理論的基盤にした光学理論においては、観者の視覚の活動のなかで、複数の色彩が混色され新たな像を結ぶ(=視覚混合)ことになるからである。
ゆえに、新印象主義の絵画は、必然的に、観者の生理学的な知覚の参加を要請することになる。そこにあるのは、市民社会の台頭とともに新たに浮上した「観者=市民」という新たな主体の経験を、絵画の構造的な函数として加算することであったのかもしれない。つまり、新印象主義の絵画は、観者と呼ばれる市民の能動的な参与(アンガージュ)、そしてその身体的駆動がもたらす知覚の「労働」を、その絵画面の組成において要請するものなのである。
スーラは、工場や労働者、大気汚染された市街を彷徨う無名の顔のない市民たちを頻繁に描いた。「点描」の機械的な反復から成立するスーラらのシステマティックな描法が、パリの無産階級の労働者の労働やエンジニア、技術者の従事する近代の技術体系に由来するという点は、メイヤー・シャピロらにより指摘されてきたが
*3、その絵画に要請される知覚の運動(労働)もまた、その絵画の主題と無関係ではないように思われる。そのとき、彼らの絵画は、現代美術における「参加の芸術」にはるかに先駆けるかたちで、無名かつ無数の身体の「参加」や「包含」という運動性を内在させたものになるからである。視覚混合という経路において、絵画は芸術家の手によってではなく、具体的な身体を備えた無数の市民の網膜を文字通りの媒体(メディウム)ないし支持体とすることによって完成される。フェネオンは、新印象主義の絵画において、色彩は「それ自体の網膜のなかで再結合する」と指摘する*4


点描のこの条件において、フェネオンやシニャックが重視したのは、個々の色彩の混色が生じるためには、観者の画布からの距離と隔たりが必要となるという点だった。その絵画では、観者が、画布からしかるべき距離をとって絵画を見たときにはじめて、複数の色彩が混じり合うという経験を得ることができる。それは色彩相互の「適合のための距離」(フェネオン)である
*5。画家が画面に置く個々の色彩の斑点は、観者が画面から遠ざかる、その分離において結合する。そこで生じるのは「距離」という具体的・身体的な疎隔経験がもたらす色彩相互の共鳴である。


ところでこの、画布と観者のあいだに隔たりを要請する光学理論は、色彩相互の関係にも延長することができるかもしれない。たとえば、チャールズ・ヘンリーも描いた色相環では通常、補色関係にある色を反対の位置に置く。反対の位置にある色はすなわち、もっともコントラストの強い色彩である。スーラらは、この補色対比を駆使し、生理学的に強力で鮮やかな画面からなる色彩経験をつくりだそうとした。つまり、色相環においては、もっとも離れた色彩こそ、もっとも強力な二つの色の共鳴をつくりあげることになるのである。
つまり、アナキズムとの関係において点描=分割主義が重要なのは、そのハーモニックな関係の実現だけではない。先に述べたように、この協同−結合関係は、複数の種類の〈距離と隔たり〉の確保において生じる。一つは、視覚混合が生じるために、観者と画布のあいだに横たわる距離であり、二つ目は、異なる色彩のあいだ、あるいは補色関係のあいだに横たわる色価の「距離」である。


そればかりではない。そもそも点描においては、技術的条件として、個々に独立した単位=点として描かれる色斑同士のあいだに厳格な間隙=距離が要請される。原理的に、個々の点は、隣り合う点から分離されていなければならない。さらに、ひとつの筆触は、かならず一つだけの色をもつ。その意味で新印象主義の絵画は、それぞれが強くモナド化され、切り閉じられた筆触と色彩を扱い、かつ、筆触の単位と色彩の単位との完全なる一致を目指す芸術であったと言えるだろう。


つまり、新印象主義の点描は、色価の分離、画布と観者の分離、そしてそれ自体で自律する個々バラバラな点の分離という、複数の次元における「分離」ないし「分割」を条件としている。
点描の絵画において配置されるそれら無数の点を、いかなる支配や専制も受け付けない個々バラバラに運動する主体の台頭という新たなモナドの相貌に重ね合わせることも不可能ではないだろう。それらの点はすべて、いかなる階層秩序にも位置付けられず、平等である。そして、それ以上に、こうして分離する個々の要素が、その差異をいかに乗り越え結合するかという点に、彼らの関心は注がれていたはずである。ゆえに、互いにかけ離れたものが、にもかかわらず強力に作用し合うという力学のなかにこそ、新印象主義の開発した点描技法の特質があった。この点に、フェネオンを中心に形成された新印象主義のサークルで共有されていたアナキズム的政治思想との関連を読み取ることができるだろう。フェネオンはそこに、色彩の水平的かつアソシエーショナルな連合を見たのである。


このことから明らかになるのは、新印象主義の画面は、ユートピア的な調和の関係だけにおいて生じているわけではないということだ。シニャックの絵画が、比較的わかりやすいイデオロギーを表明するものであったのに対し(それゆえに、彼はフェネオンと強く共鳴したと言えるが)スーラのイデオロギーはより謎めいており、複雑である。たとえばリンダ・ノックリンが言うように、スーラの《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》(図6)に描かれるのは、空気人形のようにフリーズし、それぞれが閉ざされた形態によって切り閉じられ、外的環境との交流を拒否するように隔絶され孤立する個々の人体の配置である
*6。ノックリンは、そこに疎外論的な含意を読み取り、それをスーラの「反ユートピアのアレゴリー」とも形容している。
つまり、点描技法が、究極的にはひとつのハーモニーというユートピアを目指すものであったとして、それが実現されるのは、それと並行する個々の単位の自律や隔絶という「距離」の厳密さによってである。その意味で、点描は、各主体、各要素の自律と相互的な影響関係が、背反することなく重なりあう次元に、政治と美学の一体性をみることになったとも言えるだろう。

(図6)Georges Seurat, A Sunday Afternoon on the Island of La Grande Jatte, 1884–1886.
Art Institute of Chicago

しかし、皮肉なことに、新印象主義の絵画は、その絵画に大きな影響を受けたマティスらによって退けられることになった。マティスは、科学的理論を応用した新印象主義の厳密な方法論を、厳格な「田舎の伯母」になぞらえ、マティスらが率いた「野獣派」は、その檻のなかから飛び出し、荒々しい自然の荒野へと向かう必要があったのだと述べている。マティスにとってその絵画は、むしろ抑制、秩序、法則の厳格さによって、自由を抑圧するものに映った。が、マティスの芸術を振り返れば、その後の彼の画業が、個々に異質な諸要素がいかに共鳴し、より大きな秩序を創造するかという問題を、芸術上の賭金にするものであったことは明らかである。
これは、カルロ・カッラやウンベルト・ボッチョーニら、未来派の前衛たちが追求した、アナーキーな無秩序や反乱とは別のベクトルにある。彼らは、フェネオンが関与したとされる爆発テロをなぞるかのように、戦争と爆撃によって世界が粉々に切り刻まれる光景を描いた。しかも、フェネオンの推進した点描技法をそこに導入することによって、である。彼らの関心は、明らかにマティス的な諸要素の総合や結合ではなく、世界の粉砕と分割に向けられていた。その意味で、マティスや未来派の作品は、社会の公正と市民主義的な平等を重視した反戦主義者の紳士であると同時に、過激派のアナキストであった、フェネオンの分裂的で多面的な活動をプリズムのように乱反射する。


さらに戦後芸術に眼を向ければ、隔絶(分割)と共鳴という異なる次元を絵画面に実装する新印象主義の色彩理論は、ブラック・マウンテン・カレッジを拠点に戦後アメリカの芸術教育を牽引したジョセフ・アルバースの絵画理論にも見られるものである。たとえば、厳しく区分けされた色彩が隣り合うアルバースの一連の「正方形讃歌」のシリーズは、隣り合う色の色価の差異と色彩の相互作用が、より強い共鳴関係をつくりだす。アルバースは、各色彩の自律と相互的な協力関係に、来るべきアメリカ市民主義社会のプログラムを書き込もうとした
*7。そのときアルバースは、新印象主義、そしてフェネオンのプログラムを、おそらく彼自身は意識することなく反復していたことになる。
こうしたことを考えれば、近代芸術に対するフェリックス・フェネオンの潜在的な影響は甚大である。社会に対して革新的な役割を負う近代芸術という概念、あるいは芸術におけるアヴァン・
ルドという枠組みは、フェネオンという人物を、複数の芸術動向を結ぶ、歴史上の特異点、結節点として配置することで明らかになる。
しかし、彼自身は、アナキストとして匿名での執筆を重視するとともに、手紙などの個人的な資料も廃棄することによって透明化することを意識的に試みていた傾向がある。批評選集を出版する話を持ちかけられた際、彼は「私が切望するのは沈黙だけなのだ」と答え、生前、一冊のまとまった書物すら出すことがなかった
*8
が、その存在が透明化することによって、歴史上の結節点としての存在はますます強まる。
近代芸術を拘束するさまざまな問題は、希薄化することによっていたるところに浸透する批評家の影と沈黙の支配を、いまだ抜け出してはいない。



*1 丹治恆次郎「印象主義とアナーキズム:画家ピサロと批評家フェネオンの場合 」『立命館経済学』第50巻第5号、561頁。*2 Starr Figura, Isabelle Cahn and Philippe Peltier, Félix Fénéon: The Anarchist and the Avant-Garde, Museum of Modern Art, 2020, p.95.*3 Meyer Schapiro, “Seurat and ‘La Grande Jatte,’” Columbia Review XVII, 1935, pp.14-15.*4 Ibid., p.36.*5 Ibid., p.38.*6 Linda Nochlin, “Seurat’s “La Grande Jatte: An Anti-Utopian Allegory,” Art Institute of Chicago Museum Studies, vol. 14, No. 2, 1989.*7 詳しくは以下で論じた。沢山遼「差異と関係──ジョセフ・アルバースとブラック・マウンテン・カレッジの思想」『絵画の力学』書肆侃侃房、2020年。*8 Ibid., p.26.