エアロゾルと夜光雲

大山 エンリコイサム

大山エンリコイサムエアロゾルの意味論 ── ポストパンデミックの思想と芸術 粉川哲夫との対話』(青土社 、2020

つのプロジェクト


新型コロナウイルスの感染拡大により忘れがたい年となった2020年。人びとに知られるようになった言葉に「エアロゾル」がある。私は近年、この言葉をまったく別の文脈で用いていた。私が専門とするストリートアートの領域では、主要な画材のひとつにエアロゾル塗料(aerosol paint)がある。エアロゾル塗料はスプレー塗料とも呼ばれるが、後者が「手に持った容器から塗料を噴霧する」という道具を使う人間の行為性を含むのに対し、前者は噴霧されたあとに塗料の粒が空気中に飛散した「状態」を指している。浮遊するウイルスや水蒸気の集合である雲がそうであるように、エアロゾルという概念は人間と無関係に存在する物質の状態である。それは人間や社会と関係のない自然現象として、いや正確には、社会と自然という二項対立を超えて、あるいはその狭間で揺らぐように、世界のあらゆる位相で横断的に観察される。


2020年に上梓した3冊の単著のうち、最後にして唯一2020年に執筆を始めた粉川哲夫氏との往復書簡『エアロゾルの意味論──ポストパンデミックの思想と芸術 粉川哲夫との対話』(以下『エアロゾルの意味論』)は、エアロゾルの概念を手掛かりに、不可視のウイルスが引き起こしたパンデミックを分析した本である。分析といっても実証性のある結論に辿りつくことは目指されていない。周知の通り、新型コロナウイルスをめぐる現在進行形の状況はいまだ確定的な知見から論じることはできない。本書は、あくまで思想家と美術家による思考実験として、まさにウイルスの繁殖のように言葉を縦横無尽に弾ませ、この未曾有の出来事になんとか認識論的なフレームを与えようとした試行錯誤の記録である。


『エアロゾルの意味論』を執筆していた夏、藤沢市アートスペースで私の個展「スプレイ・ライク・ゼア・イズ・ノー・トゥモロー」が行なわれていた。また同じ頃、同年12月に開始した神奈川県民ホールギャラリーの個展「夜光雲」の準備が、コンセプト立案と作品制作の両面で大詰めを迎えつつあった。私が『エアロゾルの意味論』で展開した思考と、これらふたつの個展で展開した思考や作品は、エアロゾルの概念を軸にして密接にリンクしている。図式的に言えば、私はエアロゾルの概念を、『エアロゾルの意味論』ではウイルスおよびパンデミックという事象に、「スプレイ・ライク・ゼア・イズ・ノー・トゥモロー」展では「揺らぎ」や「透過性」というキーワードに、そして「夜光雲」展では「雲」というモティーフに結びつけて表現した。この文章は『エアロゾルの意味論』の著者解題として依頼されたが、以上の背景から、その「解題」はひとつの書物の枠を超えて広がることになる。そして『エアロゾルの意味論』がすでに出版物として活字化されていることを踏まえ、文字数の限られたこの場では、あえて依頼内容から踏み外し、ふたつの個展をめぐる思考の軌跡を言葉に置き換えることに集中したいと思う。




「スプレイ・ライク・ゼア・イズ・ノー・トゥモロー」展


屋内でエアロゾル塗料を使用するときは通常、換気や飛沫の拡散防止のために、送風機、ダクト、養生シートなどで仮設の塗装ブースを組み上げる。そうしたブースの設えを、「スプレイ・ライク・ゼア・イズ・ノー・トゥモロー」展の会場では各種シートなどを使った空間インスタレーションとして展開し、そのなかで壁画制作や作品展示をすることで展覧会全体を作品化した。その際に、天井の通気口に出入りする空気によってはためくシートの音や、壁画の制作時に飛び散ったエアロゾル塗料の粒がシートに付着して生まれた淡い模様のようなビジュアルから、普段は環境に潜んで察知されない粒子の位相を垣間見ることができた。それは、空間をゆるやかに遮断する透明な膜によって捕捉された「見える」と「見えない」の揺らぎの空間である。


この展覧会がもたらした発見のひとつに「オーバースプレー」がある。噴霧されたエアロゾル塗料が対象の表面に付着する割合を塗着効率というが、一般的なエアロゾル塗料の塗着効率は20―30パーセントだと言われる。100グラムの塗料を噴霧しても表面に定着するのは20―30グラムほどであり、残りの70―80グラムは跳ね返って空間に飛散する。この飛散する現象がオーバースプレーである。シートに付着して生まれた淡い模様はオーバースプレーが生み出したのであり、それは壁画の制作に付随して生じた副残物である。『エアロゾルの意味論』ではロラン・バルトに依拠しつつ、目的のある制作を「行為」(アクト)、そこに派生する偶然の身振りを「動作」(ジェスト)とし、壁画制作を前者に、オーバースプレーを後者に位置づけた。


空間全体がインスタレーション化された「スプレイ・ライク・ゼア・イズ・ノー・トゥモロー」展の会場では、アクトとジェストの産物が、すなわち意図的に制作された壁画と、たまたま現れたオーバースプレーの模様が、濃淡を織りなしつつシートの表面で混在していた。重要なのは、それらがある種の地続きの関係にあったことである。壁画の作品では、直線と曲線が組み合わさった私独自のモティーフ「クイックターン・ストラクチャー」(QTS)がかかれていたが、そのうちマスキングテープを使用した直線部分はエッジがくっきりしていた。他方で曲線部分はテープを使わなかったため、線のエッジはエアロゾルに特有のぼやけた飛沫を含んでいた。そしてQTSの背後には、シートに付着したオーバースプレーの模様があった。QTSのくっきりした直線、ぼやけた曲線、そしてオーバースプレーの模様という3つの要素は、図(QTS)と地(シート)のあいだに、エアロゾルの飛沫による疎と密のグラデーションを作り、粒子の凝集と離散による連続性を出現させた。言い換えれば、ランダムに付着したエアロゾルのまばらでオーガニックな広がりから、輪郭をもったQTSのソリッドなかたちが段階的に浮かび上がる──作品の細部にそうした光景が見られたのである。それはエアロゾルという画法に特有の肌理だと言える。

大山エンリコイサム 「スプレイ・ライク・ゼア・イズ・ノー・トゥモロー」

「夜光雲」展


エアロゾルは状態についての概念であり、人間と無関係な自然や物質にも見出される。水蒸気の集合である空に浮かぶ雲は、自然のうちにあるエアロゾルの代表例だろう。私は「夜光雲」展のステートメントで次のようにかいた。

星の明るさには等級がある。1等星は6等星の100倍も明るい。明るい星は名前がある。シリウスやヴェガは星座にもなる。暗い星も無数にあり、その背後には宇宙の闇がある。有名で明るい星も、無名の暗い星も、表象された星座の星も、表象されない孤独な星も、宇宙はすべてを包み込む。星の様ざまは人間の歴史や社会の様ざまに似ている。気づかれない路上の落書き。美術館にある立派な芸術。その様ざまに似ている。でも星は点にすぎない。明るさは様ざまでも、かたちは様ざまでない。具象性がない。他方で地上のかたちは名前や意味にまみれている。言語や領土に分割されている。私はあいだを見る。宇宙と地上のあいだの空。雲。雲には名前も意味もない。フォルムだけがある。半固形のかたちは緩やかにつながってちぎれる。ただ雲にも様ざまがある。宇宙と空のあいだの少し高い雲。エアロゾルが氷化した少し硬い雲。夜に青く白く光る雲。星でも雲でもない雲。夜光雲。

このステートメントの前提として私は、落書きの匿名性をひもとき、かいた人物の人種や階級などのバックグラウンドを描写することで、そこに社会的、政治的メッセージを読み込んでいく社会学やカルチュラル・スタディーズの視点に代わり、落書きや痕跡を人間から切り離してそれ自体の造形性において捉え、ほかの表現物や造形物との共振を見出していくオブジェクト主義の視点を採用している。そしてこのステートメントでは、ふたつの視点は星と雲の関係にパラフレーズされる。つまり前者は、名前を与えられ、有名性の序列に組み込まれ、人間の社会や文化における意味や象徴として表象される星というモティーフに、そして後者は、人間が構成する名前や意味のネットワークから逃れて、ひたすら流動的なかたちとして変容を続ける雲というモティーフに置き換えられている。言い換えれば、私はここで、エアロゾル塗料でかかれた落書きの匿名性と、水のエアロゾルである雲の無名性を、非人間的な「かたち」の次元で結びつけている。


しかし、噴霧された塗料にせよ雲にせよ、エアロゾルは輪郭があいまいで不定形なかたち──かたち未満のかたち──であり、「見える」と「見えない」のボーダーにある。それが名前や意味のネットワークをすり抜けるのも、個体として十分な実体を欠いているからだろう。それに対し、ふつうの雲より高い中間圏に発生する夜光雲は、冷気によって水蒸気が凍った氷の粒からできている。粒は大きさが40から100ナノメートルとはっきりした輪郭をもち、青い光を散乱するため、夜光雲は夜空で青白く光ることで知られる。それは雲と星の中間のような存在であり、ひとつひとつの夜光雲に個体としての名前はないが、現象として特別な認知と呼称を与えられている。


夜光雲は、雲と星のはざま、つまり非人間的な「かたち」と、人間的な「名前」や「意味」のはざまで揺らぐモティーフだと私は考える。凍結した水分がほんのり硬い、小さな固形の粒として光を乱反射するその姿は、オーガニックで不定形なエアロゾルの渦から、特定のまとまりや方向をもった輪郭が浮かび上がるときのグラデーションを体現している。それは「見えない」から「見える」への段階的な移行を映し出し、無名性から顕名性にいたるシームレスな過程を示している。「ランダムに付着したエアロゾルのまばらでオーガニックな広がりから、輪郭をもったQTSのソリッドなかたちが段階的に浮かび上がる」──「スプレイ・ライク・ゼア・イズ・ノー・トゥモロー」展についてこう先述したが、この言葉は、ふつうの雲から夜光雲が生じてくる際のグラデーションにも当てはまる。端的に言えば、私にとって夜光雲とは、エアロゾル塗料の噴霧からクイックターン・ストラクチャーのかたちが少しずつ象られていく生成のメカニズムを説明するモティーフなのである。



ゾル・ゲル転換


『エアロゾルの意味論』では、そのメカニズムを「ゾル・ゲル転換」というタームで表現した。単純化すれば、ゾルは液体や気体といった流動的な媒体における分散系、ゲルは固形化されて輪郭が定まった媒体における分散系である。ゾル・ゲル転換という言葉は、ふたつの状態に連続性を見出し、物質がそのあいだを途切れなく移ろう様子を表している。例えば、「夜光雲」展に出品した映像作品《スノーノイズ》では、QTSの静止画像をプログラミングで高速回転させることで、そのヴィジュアルを解体し、輪郭のあるかたちを再度エアロゾル的な粒子の渦に差し戻している。このようにクイックターン・ストラクチャーは、私の作品に一貫したモティーフであると同時に、雲と夜光雲のようにつねにゾル・ゲル転換を繰り返し、同じ状態がひとつもない無限のかたちのヴァリエーションとして構想されている。また、クイックターン・ストラクチャーの作品は「FFIGURATI」(フィグラティ)という言葉に連番を付したタイトルをつけられている。これらの連番は、作品を超えて持続する線の運動と、ひとつひとつの作品の個別性を、数列と数字のメタファーで表している。雲と夜光雲、数列と数字、ゾルとゲルの転換──それらは私にとって、エアロゾル塗料とクイックターン・ストラクチャーの関係、さらに言えば、手を動かして制作すること(連続)と、作品を完成して制作を休止すること(個体化)の終わりなき反復について考えるための糸口なのである。