ヴィンフリート・メニングハウス『ダーウィン以後の美学―芸術の起源と機能の複合性』

大崎 晴地

ヴィンフリートメニングハウスダーウィン以後の美学──芸術の起源と機能の複合性 』(法政大学出版局 、2020

本書は、ヴィンフリート・メニングハウスの著書『美の約束』の第五章「ダーウィンとカントにおける美的「判断」」を著者自身が全面的に改訂して、一冊の本として独立させたものであり、当初は「何のための芸術か?」というタイトルで進められていた。美学を進化論との繋がりから紐解く本書は、人間の技芸がどのようにして進化してきたのかを、動物の技芸の適応から掘り下げる進化論的美学を論じている。


メニングハウスは、ダーウィンの『種の起源』において取り上げられた「性淘汰説」を辿り直し、動物の身体装飾や歌唱、ダンスなどの性的求愛行動に注目する。とはいえ本書は単純に求愛のために芸術が進化したとか、あるいは「セックスのための歌唱」仮説を提示するものではない。ダーウィンは「身体装飾」と「歌唱」の技芸に、ライバルへの挑発と異性への求愛の二重の機能性を読み、後者を目的とした機能仮説を退けている。一般的に言われる自然淘汰の進化の流れに対し、性淘汰とは感情表現がともなうため、芸術、美の領域に深く関与している。進化論を人間社会に応用する際に能力主義における差別化に陥る危険があるが、芸術を媒介することで客観的な標準を固定することはできなくなるから、同じ赤でも好きな人もいれば嫌いな人もいるように、その趣味判断への気まぐれに美の多様化の回路を捉えることができるだろう。


動物が敵との競争に勝ったとしても自動的に性的成功(交尾)を果たすことにはならず、美的判断が競争以上に重要となり、美の選好こそが現実を動かす動機となる。このように競争や闘争の原理とは別の仕方で、技芸と異性による選好との間から現実が作られていく。美は性的成功のための手段ではないが、それ自体が性淘汰の現実の振れ幅となるのだから、美そのものは性的求愛によって進化したと考えたくもなる。しかし、実際は直接的な因果関係にはない。技芸はそれ自体が合目的的な芸術として自足することで、機能的な何かの目的を持たない特殊領域にあり、美は現実を動かすのではなく知覚の選択肢(選好)を促し、曖昧な豊かさをもたらしているのである。副題となっている「芸術の起源と機能の複合性」は、二つの角度から見た相互に隠蔽し合う異質な現実を指しているのだろう。


とりわけ興味深いのは、ファッションをめぐる身体装飾の進化である。近い種の間での進化は、身体ファッションを通して隔離し合い、外見の差異を遠ざけ合う傾向にある。小さな差異は何世代にも渡り大きな形質の変化となって転態する。同じ種であるにもかかわらず異なる色彩を持つ動物や、自然界に派手な色彩の動物が多いのも、こうした性的求愛の競争との機能的な複合による結果だろう。なまみの身体が性淘汰を通して自己装飾化してきたことになる。この意味で、性的ファッションとして動物は進化=多様化してきたということだ。


性的なものはサルの生殖器付近の無毛部分に始まり、人間においては裸出した肌の全身が性的なものとなる。このことは芸術の様式にも影響してくる問題だ。「彫刻の古典的美学の再解釈は、アラベスクやグロテスクへ向かう反古典主義的転回を伴うことになる。人間の肌の優美に屈曲した連続体とその色調の絶妙なグラデーションや、それ自身として実にクレイジーなファッションであり、動物界と芸術における最も精緻で最も色彩豊かな装飾と等価であるか、それを凌駕するものである」。そこから布の衣服はこの性的な全身を隠すことで、新たな身体装飾の次元を開いた。フロイトが指摘したように、人間の裸は装飾文化とともに見えない領域(想像界)へ革新をもたらし、無意識やエロティシズムを生んだ。性的なものは人間文化の中で、精神分析的なレイヤーを伴って複層化したと考えられるだろう。 


また歌唱の技芸は、コール(呼びかけ)と異なり、動物の場合、より複雑で自律的なリズムをつくる鳥類、両生類、爬虫類、水棲の哺乳類に限られるが、求愛の季節ではない時期に歌唱する鳥類は何をしているのか。歌唱それ自体が自己目的となり、遊戯的な行為の始まりとなる。ある種の遊戯には反現実、擬似的現実のシミュレーションの働きがあるとされ、人間の場合、一つの素朴なリアリズムを疑問視し、ありえたかもしれない現実を想像するという点で、現代芸術(または「脱自動化、異化、イノベーション、そして侵犯の間の密接な関係」)に近い。歌唱自体が人間の場合はラブソングとなるのだから、すでに性的なものを想像する現実のシミュレーションの働きがある。だが、ダーウィンは求愛のために歌が進化したという単純な見方ではやはり語りたがらない。直接そこに因果関係を認めようとしないのは、そのような見方をとることで他の可能性を剪定してしまうことになるからだ。ダーウィンは形態的な視点から種を超えた形質を観察する能力に長けているから、機能にも潜在的な複合様態(マルチモーダル)を観察することができた。ゲーテならば「原型」を直感する場面で、ダーウィンは「複合様態」を直感しているのだと言えるかもしれない。歌を洗練させること、芸術制作の自律化が、同時に異性の選好に関わる現実性を促し、異なる現実が二重に分岐していく。一つの予定調和な愛のシナリオとして見るのではなく、異なる現実が隣り合い、偶然そこで副産物としての機能に進化したと見ることで、メニングハウスは「二重化」の働きを捉えている。現実は物語ではない。進化とは、この意味では芸術に似て、派生的に生まれた副産物である可能性が高いようにも思われる。偶然が媒介して産出されるからだ。


これは自然淘汰における競争の原理とは逆に、一方で個体発生的な芸術制作を問題にしながら、他方で社会的な協力や結束といった集団内のネットワークからの視点が関与し、オートポイエーシス的に現実が生成する局面にある。技芸と性的求愛の選好は、ここで芸術家とオーディエンスの関係へと拡大される。しかし、重要なのはシステムとして理論化することではなく、具体的な性淘汰のレベルに踏みとどまり、美や芸術を制作すること、自己制作を反復することが複合様態を直感できる当の場所だと思われる。


古い適応である身体装飾、遊戯、道具使用、これらは人間の新たな適応形態であるシンボル認知や言語能力を通して、芸術や美へと「転用(cooptation)」するという言い方がなされる。「新しい行動は、むしろ既存の形質の「転用」――それがタスク固有の適応であれ、適応の非適応的な副作用であれ――を介して新規の(付加的な)機能のために進化することができる」。ダーウィンは「適応」に対して、新たな行動の目的の可能性を「外適応」や「前適応」という二項対立的な、または適応に収束する言い方を避け、人間に至って高度化した「認知」が生まれることにより、古い感情表現の段階から新たな認知的枠組みを経たプロセスに「転用に用いることが可能なプール」を与えたのである。機能単位ではなく、芸術の制作と受容の間で転用された機能の複合性に力点を置くこと。ダーウィンは、理論的に明確にすることが目的ではなく、その曖昧な進化(気まぐれ)の過程を曖昧なまま浮き彫りにするのである。そもそも芸術は機能的モデルではないのであり、不確かさや曖昧さを伴う以上、こうした分岐の中継地点(プール)に「芸術」が派生したと見ることが可能ではないか。古い適応が物質的革命であるのに対して、新たな適応は社会認知的革命であり、カントの趣味判断や美学にも当てはまる事柄である。近代ドイツの美学から性的なものは排除されてきたが、性淘汰と美の連動関係を掘り下げる本書は、技芸がどのように進化してきたかをたどることで再び美学と性を縫い合わせているのだ。


メニングハウスは言語芸術を事例に、その詩的言語、音楽言語など、韻律やリズムなどの側面や感情的な機能は、むしろシンボル認知に部分的に抵抗すると記述し、これを「美の感覚」(美的認知)と呼んだ。カントの趣味判断や美的判断における「目的なき合目的性」は、メニングハウスの記述を通してより精緻に解きほぐされるのではないか。本書を読んでから『美の約束』を読むことで、文化と自然における美の謎をより深められるだろう。