公と個、接続と非接続

AKI INOMATA

小崎哲哉 現代アートを殺さないために──ソフトな恐怖政治と表現の自由 』(河出書房新社 、2020

繋がるか、繋がらないか。繋がるとすれば、いかなる方法が最善の選択なのか?

常に問いつづけた2020年であったように思う。

感染症に関するテレビの報道やネットニュースを見つづけることは、私にとっては、大きな苦痛を伴うものだった。悲痛な叫びを聞きつづけるのは、精神的な負荷が大きい。


SNSからは、感染症に対して個々人が「これが当たり前」とする線引きに大きな開きがあることを感じた。業種や経済状況など立場によって異なる主張になるのは当然ではあるのものの、そこには対話不可能性を強く感じることもあり、引き裂かれるような気持ちになることも多かった。分断の時代と言われるが、コロナ禍でそれが加速しているように思えた。

その葛藤の中で、自室からネットへの接続と切断を繰り返す日々が続いた。

そのような2020年の年末に、2018ー2020年のアートと政治の動向を振り返る手がかりとして、うってつけの一冊が刊行されたため、これを2020年の選書としたい。


本書で取り上げられるのは、主に米国と日本での、アートにまつわる様々な闘争だ。

グッゲンハイム美術館がトランプ夫妻にゴッホの代わりにマウリツィオ・カテランの黄金の便器の作品《アメリカ》(2016)の貸与を提案した事件に始まり、米国における表現の自由をめぐる戦い、あいちトリエンナーレと「表現の不自由」展、日韓・日中関係の悪化と日本のアジアセンターの解消、黒死病・スペイン風邪・エイズそしてコロナウィルスを含む感染症のアート作品への影響。

各トピックの事実関係をまとめた上で、小崎の主張が綴られている。本書を読めば、いかに切迫した状況下に私たちがおかれているかが、改めてわかるだろう。

そこに通底するキーワードは、「公(おおやけ)」と「個」、そして「接続と非接続」であろう。ここで誤解のないよう付け加えれば、小崎の言う「接続と非接続」は、インターネットへのそれのみを指すのではない。むしろ公と繋がる行為である公共、公表、もしくは連帯、連携、共闘などへの関わり方も含む、広い意味の言葉だ。

公共すなわち社会は常に接続を求める。インターネットとSNSが普及してからは、さらにその傾向が強まった。
だが、それは社会の成員に決定的な分断も生んだ。これ以上分断を拡げたり深めたりしないためには、適当な間隔で接続を解除することが必要かつ有効だ。解除して、孤独で自由な「個」に戻るのである。(同書、p. 357)

小崎は「個」であるアーティストが「公」との「接続と非接続」をうまく使い分けることが、あらゆる表現行為が抑圧されつつある現状を乗り切るうえで肝要だとしている。


また、終章で小崎が「ウイルスとしてのアーティスト」 を提唱している点も興味深い。これは「ヒトゲノムの8〜10パーセントが(過去に感染した)ウイルス由来であ」、「ウイルスが長い時間をかけて宿主の性質を変えていく」ことを踏まえた比喩である。アーティストはウイルスのようにあれ。つまりは、自らの毒性を調整しながら宿主(=世間)と共生し、宿主が既に感染している悪玉病原体(=ポピュリズム的な権力)と戦い、ゆくゆくは宿主に取り込まれ、共に進化していくことを目指せ、というアジテーションである。これはポピュリズムの時代におけるアーティストの一つの指針となるだろう。

次の一節は、現代アートにおける重要な一面を的確に表現している。本書全体の議論の前提とも言えるだろう。

アートは境界を広げるためにある。世界を豊かにするためにある。(中略)「豊かに」というのは政治的に正しいことに限らない。欲望、妄想、狂気など、一般的には害悪や毒と見なされるものも含まれる。
害悪や毒を肯定しろと言うのではない。アートは世界にはあらゆるものが存在しうるという事実を提示し、我々にその事実を認識させることによって、我々の世界観を拡張する。(同書、pp.376-377)

この引用部で著者が主張することは、現代アートに普段接していない人に理解を得られていない点であると痛感している。こういった説明をきちんとおこなえるアート関係者がどれほどいるのか、私も含め問われているのだ。

評者としては小崎個人の見解について、すべてに首肯するわけではない。しかし、激変する社会情勢の中で、アート作品を個別の作品として読み解くのみでなく、社会と芸術とを合わせた出来事として検証するジャーナリズム的な視点の意義は大きい。

なお、この書籍の前提となっている小崎の前作『現代アートとは何か』(河出書房新社 、2018年)は、現代美術がわからないという相談を受けるたびに私が勧めてきた一冊であることも書き添えておきたい。