再=発明の起源──自己差異化するメディウムとコールマンと私たち

金井 学

凡例
本稿は一般的な表記規則に従って記述するが、WEB上での表現の制約への対応の為、ルビと圏点については以下の記述方法を用いる。
(1)ルビは〔 〕を用いて表記する。
(2)圏点はアンダーラインを用いて表記する。


それで、ソクラテス、あなたはどんなふうに、それが何であるか自分でもまったく知らないような「当のもの」を探求するのでしょうか?というのもあなたは、自分が知らないもののなかで、どんなところに目標を置いて、探求するつもりでしょうか?あるいはまた、たとえその当のものに、望みどおり、ズバリ行き当たったとして、どのようにしてあなたは、これこそ自分がこれまで知らなかった「あの当のもの」であると、知ることができるでしょうか? *1

[1]

今日、改めて「ポスト=メディウム・コンディション」について何かを考えるとすれば、そこにはどのような意味があり得るだろうか。おそらくこの問いに対する答えは、これを考える人の立場や問題意識によって千差万別だろう。例えば美術史的な興味関心を持つ立場の人であれば、ロザリンド・クラウスが1990年代の終わりに提唱し始めたこの概念が、現代の芸術の展開にどのように継承されているのかを考えることに意味を見出すかもしれないし、あるいはメディア理論を探求する立場の人であれば、今日のデジタル・メディアやその表現の分析に対するこの概念の有効性(あるいはその限界)を検討することに価値を見出すかもしれない。だからこれから「ポスト=メディウム・コンディション」について考えを巡らすこの小論を書き始めるにあたって、まずは筆者がこれをどのような立場から、どこへ向かって書こうとしているのかを明確にしておきたいと思う。


筆者は、新たな芸術作品の創出を目指して芸術実践を為さんとする立場にある者──要するに、芸術家(ないし、芸術家になろうとしている者)である。芸術家は新たな芸術作品の創出を企図しているのだから、従って、その興味関心を構成する中心的課題は「いかにして新しい芸術作品を作り出すことができるか」という問いへと集約されると言って良い。そして「新しい芸術作品を作る」ことについてのこの問いは、また次のように、すなわち「世界にはすでに数多の芸術作品が存在しているが、そのどれとも異なる(=differentな)事物を、いかにして作り出すことができるのか」という問いとしても換言することができるだろう。もちろん、既に存在している芸術作品と異なっていさえすれば何だって良いというわけにもいかない。私によって作り出される芸術作品としての「新しいそれ」は、既存の芸術作品のどれとも異なりつつも、同時にそれがそれとしての必然性を持つ形を与えられていなければならないだろう。従って、芸術家が新たな作品を作り出すということは、そのような既に存在しているどれとも異なる、しかしそれとしての必然性をもった新たな形を「発見する」ような行為、もしくは「発明する」ような行為である、とも言えるだろう。このように考えるのならば、芸術家が問うているのはつまるところ次のような問いである──そのような発見や発明は、いかにして可能なのか?


筆者が本稿において「ポスト=メディウム・コンディション」といった事柄を考える時、あくまでもその出発点となる問いはこれである。芸術家がこの問いを考える上で、クラウスのそれが一つのパースペクティブとしていかなる見通しを与え得るのか、ここから考え始めてみることにしたい。



*1 プラトン『メノン──徳アレテーについて』渡辺邦夫訳、光⽂社、2012年、p.66(光⽂社古典新訳⽂庫)


[2]

まず最初に、改めてクラウスの「ポスト=メディウム」の概念とその理論的射程について整理することにしよう。クラウスは1999年にロンドン大学バークベック・カレッジでのWalter Neurath Memorial Lectureとして行った講演をもとに『A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition(北海の航海:ポスト=メディウム・コンディションの時代における芸術)』*2を執筆し、この中において「ポスト=メディウム」ないし「ポスト=メディウム・コンディション」と言った概念を中心的に論じはじめる。この序文からも明らかなように、この中で述べられているクラウスの「ポスト=メディウム」に関する主張は、主として先行するクレメント・グリーンバーグの論理、その中でもとりわけ「メディウム」概念を巡る議論へと差し向けられている。


周知の通りグリーンバーグの主張とは、大衆の消費に供されるための物語に奉仕する「模造の芸術」たる「キッチュ」への批判を一つの起点とした上で、そのようなキッチュへの堕落から、真なる芸術が離脱しようとする企てとして、クールベやマネ、そしてそれの批判的継承としての印象主義の絵画を評価し、更にこの系譜に連なるものとしてアメリカの抽象表現主義の作家たちを位置付けるものである。そしてグリーンバーグは、そのような抽象表現主義の作家たちが連なる批判的継承と展開の流れにおいては、絵画や彫刻といった芸術の伝統的諸ジャンルの形式を規定するメディウムの本質としての固有性(medium-specificity)──たとえば絵画であればその「平面性」──が自覚され、非本質的な物語やイリュージョンといった見せかけのものが捨て去られることで、メディウムの固有性という本質的一点へと向けて純化が弁証法的に展開されると主張する。従ってグリーンバーグの観点からすれば、究極的には、芸術作品の内的必然性とその物理的条件とが、その伝統的芸術形式を規定する単一的なメディウムの固有性の上に純粋に一致することによって、超越的な自律的自己同一性を獲得する(「それは、まさにそれとしてそれのためにあるために、それである」とでも形容し得るような存在性を獲得する)という一種の形而上学的位相が目指されることになる。


さて、クラウスが「ポスト=メディウム」という概念によって企図するのは、このようなグリーンバーグ的観点の批判的乗り越えである。「ポスト=メディウム」と言う語が示す通り、ここでターゲットとなるのは、芸術作品の超越的な自律的自己同一性という形而上学的位相の基盤となっている概念、すなわちグリーンバーグのいう単一の固有性を持つ「メディウム」の概念である。もっとも沢山遼が指摘しているように*3、クラウスがグリーンバーグの「メディウム」の概念をターゲットにしていると言っても、それは決して、単に「反=メディウム」の立場をとっているわけではないことには改めて注意をはらうべきであろう。むしろクラウスとグリーンバーグは、芸術を考える上で、その思考の中心を芸術のメディウムへと凝集させようとする、その動機付けを──乱暴にいってしまえば、芸術が見せ物としてキッチュへと堕することへの抵抗の重要性を──共有している。だからクラウスが「ポスト=メディウム」という語を示す時、それは単にグリーンバーグの「メディウム」を批判することのみに主眼がおかれるのではなく、むしろメディウムの固有性を更新することによって、その中から異なる可能性を掘り起こすことが目論まれているのだ。それゆえ『A Voyage on the North Sea』においてクラウスが試みるのも、このグリーンバーグの「メディウム」概念を棄却することではなく、メディウムの異なる可能性を引き出すために、そこに楔を打ち込むことである。そしてここで楔として打ち込まれるもの、それがマルセル・ブロータースである。


ブロータースは1968年から1972年にかけて《近代美術館、鷲部門》と題された、今日では「プロジェクト型」というような形で呼ばれる作品を展開する。具体的に言えば、それは展示ケースや様々な資料、写真、言葉などをインスタレーション的に配置することによって架空の美術館の12のセクションを構成するという、美術館という制度への批評的視点を含む作品である。クラウスはこの《近代美術館、鷲部門》に対し、そこで配置される多種多様な要素が、作品の形式の内部において様々な対の関係性を作り出し、それによって作品全体が単一の固有な意味や機能へと閉じていくのではなく、むしろ「判じ絵」のように多義的に分化し、開かれていくことに着目する。つまり《近代美術館、鷲部門》においては、それを構成する諸要素の間に生じるダイナミックな意味生成のネットワークが各要素間の関係を平均化することによる「異なる意味生成への開かれ」がその内に含み込まれ、これによって、作品が単一の全体性として収斂しようとする動きを自らの内から突き破る──そのような力を備えていると捉えるのである。このように捉える時、《近代美術館、鷲部門》は、グリーンバーグが問題視していたようなキッチュに堕す、すなわち、その観者の目を単一的な物語へと統合するような語りへの奉仕に堕すのではなく、むしろそのような統合を内破する抵抗力を備えている、と言えるだろう。しかしだからといって、単一的なメディウムの固有性への純化という形而上学的位相が召喚されているのでもない。《近代美術館、鷲部門》のメディウムは、その内側において異なる意味を自己生成することで、形而上学を経ずともキッチュ化を逃れる──ここにクラウスはグリーンバーグ的「メディウム」概念を乗り越える「ポスト=メディウム」の可能性を見出すのである。だからこそクラウスは《近代美術館、鷲部門》の「鷲」を、ブロータースによる1974年『Studio International』10月号のカバー図版における「FINE ARTS」のEの判じ絵として描かれた「鷲(Eagle)」に接続し、このブロータースの「鷲」が「芸術の終わりではなく、メディウム・スペシフィックとしての単一的な個としての芸術の終わりを告げる」*4ものなのだと述べるのである。


また同時に『A Voyage on the North Sea』においてクラウスは、ブロータースの作品が持つこのような意味のズレの自己産出の仕組みについて更なる分析を加えていく。そこで俎上に乗せられるのがブロータースが1973年から1974年にかけて制作した《A Voyage on the North Sea》である。ブロータースによる紙芝居のような構造を持ったこの映像作品は、「PAGE1」「PAGE2」‥‥‥というページ数を示すインタータイトルと、船の静止イメージの交互の入れ替わりによって構成されている。ページをめくるように進行する映像は、しかし、「PAGE4」のインタータイトルとその後のヨットの写真を過ぎたところで大きな展開を見せる。それまでの展開を前提とするならば「PAGE5」のインタータイトルが予測される場面で、突如として異なる船のイメージ──それまでがヨットの写真であったのに対して、突如として船団の絵画──が現れるのである。このような予想外の展開はこの後も続き、船団の絵画の後は再び元に戻るかのように「PAGE5」のインタータイトルが現れるものの、次に現れるのは船団の絵画の極端なクローズアップショットである。以降、このような超クローズアップショットは複数回現れるが、それらは支持体であるキャンバスの織目やブラッシュストロークがフレーム全面を覆うほどの極端なクローズアップであり、それらがインタータイトルを挟みつつ機械的に接続されていく。シークエンスから私たちが読み取ろうと期待する統一的なイメージは《近代美術館、鷲部門》と同様に、期待を裏切るかのように接続される次のカットによって新たな意味生成の次元へと開かれることで横滑りを繰り返し、作品の終わりとともに、作品の全体性は多義的な領域に宙吊りとなるのである。


ではこういった《A Voyage on the North Sea》という作品のどこに、クラウスは意味のズレを自らの内に産出する仕組みを見出していくのだろうか。周知の通りこの時にその重要な道具立ての一つとなっているのが、スタンリー・カヴェルが『The World Viewed: Reflections on the Ontology of Film(眼に映る世界:映画の存在論についての考察)』*5の中で示したフィルム(映画)のメディウムについての主張である。改めて確認すれば、カヴェルのこの主張とは「映画というメディアの物質的基盤(絵画というメディアの物質的基盤が、ある領域の平面上の絵の具であると言うのと同じように)、つまりさしあたってそれらの外観を作っているものという意味で言えば、それは、自動的オートマティックな世界の投射プロジェクションの連続である」*6というものだ。すなわちカヴェルはフィルム(映画)のメディウムの性質を基礎付けるものを、その物質的基盤ではなく、フィルムのコマが人間の意思とは別に自動的連続投射されるという「技術的な仕組み」にこそ見出すのである。クラウスはこのカヴェルの主張をメディウム一般に敷衍するように、メディウムの固有性をグリーンバーグが考えるような物質的支持体の条件から、複数の事物が連関して作動する「技術的支持体(technical support)」のそれへと再定義し、ブロータースの作品が備える意味のズレの自己産出の仕組みを、この「技術的支持体としてのメディウム」の中に見出そうとする。つまり《A Voyage on the North Sea》がもたらす多義的な意味空間への開かれとでも言うべき経験は、技術的支持体の条件として「自動的にフィルムのコマが連続投射される」という出来事の中から生成されていると考えるのだ。クラウスがここでジャック・デリダの名に言及していることからも示唆されるように*7、このような複数の異なる事物の複合体としてのメディウム=技術的支持体は、必然的に自らの内に差異を生み出す差延的潜勢力を宿すことになる。メディウム=技術的支持体はその技術的仕組みの内側から差異を自己生成し、それゆえにその固有性も差異化する(differential specificity)。だから「メディウムの固有性は、モダニストの言うそれでさえも、差異的な、自己差異化(self-differing)するものとして理解されなければならない」*8のである。


そしてクラウスは『A Voyage on the North Sea』で記述したこのようなメディウム=技術的支持体の自己差異化の運動から、メディウムの再発明として新たな芸術作品が創造されることの可能性へとその論理を展開する。「メディウムの再発明」*9の中でその可能性の範例として語られるのがジェームズ・コールマンの芸術実践である。クラウスはコールマンの《生者と死亡推定者》や《イニシャルズ》といった作品に言及しつつ、そこでは、作品に用いられるスライド・テープという技術的支持体が含み持つ自己差異化の運動がコールマンによって捉えられ、そして、いわばそのようなメディウムの自己差異化の⻲裂を起点として、そこから新たな技術的支持体が再編成されること、つまりコールマンによって「メディウムを再発明する」行為が為されているのだと主張する。具体的に言えば、クラウスはロラン・バルトの〈物語の首尾一貫性〉を〈散種的な順列組み合わせ〉へと拡散させるスチル写真の反物語性を参照した上で、コールマンの芸術実践においては、スライド・テープの技術的支持体の中にフォトノベルにおける視覚的言語の〈慣習的な約束事〉である〈二重のフェイスアウト〉*10の文法を持ち込むことによって、時間的な鑑賞の経験を与えつつも、その鑑賞者を物語の横糸へと結びつけるような映画的な操作を散種的に解体するものとして、スライド・テープという技術的支持体を再編成することが為されているのだと──すなわちクラウスによれば、コールマンは〈二重のフェイスアウト〉を文法的な構成要素として持ち込むことによって、スライド・テープをメディウムとして再発明しているのだと主張するのである*11。



*2 Rosalind E. Krauss, A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition, Thames & Hudson, 2000
*3 沢⼭遼「ポスト=メディウム・コンディションとは何か?」筒井宏樹(編)『コンテンポラリー・アート・セオリー』 イオスアートブックス、2013年、p.92
*4 Rosalind E. Krauss,
A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition, Thames & Hudson, 2000 p.12 (拙訳)
*5 StanleyCavell,The World Viewed: Reflections on the Ontology of Film (Enlarged Edition),HarvardUniversityPress,1971
*6 Ibid.,p.72原⽂は“The material basis of the media of movies (as paint on a flat, delimited support is the material basis of the 6 media of painting) is, in the terms which have so far made their appearance, a succession of automatic world projections
*7 Rosalind E. Krauss, A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition, Thames & Hudson, 2000 p.32
*8 Ibid., 53 (拙訳)
*9 ロザリンド・E・クラウス「メディウムの再発明」星野太訳『表象』08号、⽉曜社、2014年、pp.46-67(=Rosalind E. 9 Krauss, “Reinventing the Medium,” Critical Inquiry, Vol.25, No.2(Winter, 1999), pp.289-305)
*10 星野が訳注で述べているように〈⼆重のフェイスアウト(doubleface-out)〉は商品陳列における⾯陳がダブルであ ること、つまりイメージの中の複数の⼈物がフレームの外の「こちら」に顔を向けていること=イメージの中での⼈物 間の⾏為の因果関係が「こちら向き」に表現される独特の描写⼿法のことである。
*11 ロザリンド・E・クラウス「メディウムの再発明」星野太訳『表象』08号、⽉曜社、2014年、pp.56-59


[3]

さて考えるべきは、グリーンバーグの「メディウム」を乗り越えるものとして提示される、このようなクラウスの「ポスト=メディウム」というメディウム観は、冒頭に示した本稿の問いに対してどのような補助線を与えるのだろうか、ということである。繰り返せば、本稿における芸術家である筆者の問いとは、新しい芸術作品の創造とは「発見する」ないし「発明する」の行為であるのだから、そのような発見や発明の条件はいかなるものなのか、ということであった。


ところで「新しいものの発見」や「発明」と私たちが言う時、つまり全くの新しいものごとを知ったり見つけたりすると言う時、ここには奇妙なパラドクスがある。そのパラドクスは、本稿のエピグラフとして引いた『メノン』におけるソクラテスへのメノンの台詞に集約されると言って良い。すなわち、もし私たちが「ある対象を知らない(=全くの未知の対象)」のであれば、その対象について「どうやって知るのか」と言う知り方も知らないし、また「これが(今まで知らなかった)その対象なのだ」と知ることもできないのだから、「新しい対象を知ることは決してできない」はずである──なぜなら私たちはその対象について(その対象が存在することさえ)知らないのだから。またこれは次のようにも換言することも可能だろう。すなわち、もし私たちが「ある対象を新しく知った」と思うのであれば、それは「新しい(未知であった)対象」ではない、なぜならそれが「新しい対象」であると判断できるのだとすれば、その対象が既知であったことになるのだから──だから「ある対象を新しく知ったということは起こりえない」。かくして、「新しいものごと」と私たちの「発見」や「発明」とはパラドクスとして自家撞着に陥るのである。これこそがメノンのパラドクス(探求のパラドクス)である。


よく知られているように、このメノンのパラドクスに対して、それを解くためにソクラテスが持ち出すのが魂の不死という神話と想起アナムネーシスである。

人間の魂は不死であり、時に人生の終わりを迎えるが──これを「死ぬ」ことと人々は呼んでいる──、また時に、ふたたび生まれてくるのであり、けっして滅びることはない。(‥‥‥)
このように魂は不死であり、すでに何度も生まれてきており、この世のことでも冥府のことでもあらゆることがらをすでに見てきたので、魂が学び知っていないことは何もないのだ。したがって、徳アレテーについても他のさまざまなことについても、何しろ魂が以前にもう知っていたことなので、魂がこれらを想起できることには何の不思議もない。*12

なるほど、ソクラテスによれば、私たちの魂は不死だから、遍く全てのことがらを、常に既に、私たちは潜在的に知っていて、そして忘れている。だから新しいことを知るというのは、実のところ、忘れていることを想起的に思い出していることなのだ、というわけである。


だがしかし、このソクラテスの論理は端的に言って形而上学である。私たちがソクラテスの語る「魂の不死の神話」を信じないのであれば、パラドクスは決して解かれることはない。だからパラドクスはパラドクスのまま、私たちは依然、知っていることしか知らないし、知らないことは、それを知らないことさえ知らない。しかし筆者は芸術家が新しい作品を作ることを、つまり既に存在している様々な芸術作品のどれとも異なる、しかしそれとしての必然性をもった新たな形を発見/発明することの可能性を考えようとしている。ではどのようにしたら、知っていることの中において、知らないものの生成を考えることができるのだろうか。


このように考えるとき、技術的支持体が含み持つ自己差異化の運動からメディウムの再発明を記述するクラウスの「ポスト=メディウム」のパースペクティブは、それゆえ、発明の条件を考えようとする筆者に手がかりの一つを与えるものであると言えるのかもしれない。クラウスが描写するコールマンの芸術実践は、既知のものごと(メディウム)の中から、未知のものごと(メディウム)が再発明されることでパラドクスを逃れている。コールマンは知っているものだけ知っているのであるが、しかし知っているものの中から知らないものを創出することができる。ここでは既に存在していたスライド・テープが、未知の新しいメディウムとして生み出されているのである。


既知の技術的支持体たるメディウムの差異化の運動を編成することで、未知のメディウムを再発明することができるのだとすれば‥‥‥‥‥‥。嘘か実か知らないが、かつて棟方志功は「わだばゴッホになる」と言ったのだという。仮にクラウスのこのような論理を丸呑みにするとするならば、芸術作品の新たな制作=発見/発明を目指す筆者は次のように言うこともできるだろう──「わだばコールマンになる」と。しかし、筆者が仮にコールマンのような芸術家になったとして、本当にこれでメノンのパラドクスは解かれたのだろうか?


ここで筆者がクラウスのパースペクティブに疑義を差し挟むのは、コールマンと技術的支持体の中で作動する自己差異化との切り結びに、実は縮小された形でソクラテスの想起説が保存されているのではないかと思われるからだ。技術的支持体としてのスライド・テープは、そのうちに自己差異化の運動を抱え込んでいる──さしあたって、これはそうなのだとしておこう。だがしかし、問題はコールマン、すなわち人間の側である。再発明される前の、つまり既存のスライド・テープを知っているコールマンは、いつ、どこで、どのようにして、新しきメディウムの再発明への起点となる技術的支持体の中の差異を発見したのだろうか?ここに、メノンと同型のパラドクスが、コールマンと技術的支持体が自己産出する差異との間に縮小された形で生じるのではないか。ならばコールマンはこのパラドクスをどう解いているのか?


クラウスは技術的支持体の中から自己生成される差異が開示される契機として、バルトやヴァルター・ベンヤミンに言及しつつ、幻燈機のあり様を例として出している。例えばそれは、プルーストの『失われた時を求めて』第1篇『スワン家のほうへ』冒頭に描写される若き主人公の「私」の姿、すなわち幻燈機に魅了され、幻燈機の「光り輝くイメージの夢想と結びつけられた物語を無限に発明する能力」*13であり、つまり子供が持つ豊かな想像力による構築的な能力によって、メディウムが自己産出する差異が発見される、といったようなものである。


クラウスがベンヤミンに触れながら言及するように、確かに幻燈機の経験とは、イデオロギー的投影としての幻像ファンタスマゴリーと反イデオロギー的な構築的幻想とを同時に示す、複雑な力を備えたもの*14として私たちに作用すると言えるのかもしれない。しかしこのような「子供が持つような想像力」によって、例えば幻燈機という技術的支持体のうちに潜在していた差異が発見される、とされるのであれば、それはあまりに短絡的な子供の能力の神聖視ではないだろうか。これではソクラテスの魂の不死と想起の神話の代替物として、ここでは「無限なる子供の想像力」という神話が、パラドクスを解くものとして代入されているだけのことになってしまう。クラウスがそもそも批判していたものの一つは、グリーンバーグのメディウムやそのスペシフィシティの概念によって芸術作品が獲得するとされる超越的な自律的自己同一性という形而上学的位相だったはずである。ここでクラウスが「子供の無限の想像力」という形而上学を持ち込んでいるだとすれば、こうして再発明されたメディウムもまた形而上学的位相への位置付け直されてしまうのではないか。



*12 プラトン『メノン──徳アレテーについて』渡辺邦夫訳、光⽂社、2012年、p.69-70(光⽂社古典新訳⽂庫)
*13 ロザリンド・E・クラウス「メディウムの再発明」星野太訳『表象』08号、月曜社、2014年、p.61
*14 Ibid.,pp.61-62


[4]

では、技術的支持体が自己産出する差異と芸術家との間に生じる発見/発明のパラドクスをもう少し掘り下げるためにはどうしたら良いだろうか。考察をもう一歩前へと進めるために、ここで新たな補助線の導入を考えてみたい。それはベルナール・スティグレールの技術哲学における「発明」の視座である。なぜなら先に述べたように、クラウスが語る技術的支持体の自己差異化によるメディウムの再発明がデリダの「差延」概念をモチーフの一つとしているとすれば、そのデリダの弟子として「差延」を拡張的に継承することで人間と技術との間に生じる「発明」の諸相を記述しようとするのがスティグレールだからである。


スティグレールはまさにここまで見てきた『メノン』の議論における発明のパラドクスを、主著『技術と時間』の第1巻における主たる問いの一つとして扱っている*15。スティグレールの理路においてこのパラドクスは、イデアへの接近という純然たる知としてのエピステーメーの問いと、ソフィストの弁論術や修辞と言った下位の知としての技術=テクネーとの対立、という伝統的な哲学的対立のパースペクティブの内に位置付けられる。すなわちスティグレールはメノンのパラドクスを、上位から下位へ、知から技術へ(イデア=アイディアから発明へ)という、より大きな哲学の文脈における伝統的対立の図式それ自体に含まれるパラドクスとして捉えるのである(だからスティグレールは必然的にプラトンに対立することとなる)。ではスティグレールはこのパラドクスをどのように解くのか。


スティグレールはこのパラドクスに対して、その起源としての「技術を持つ存在=人間」の起源を批判的に検討することでアプローチしている。そこで中心的に批判・検討されるのは、先史学者アンドレ・ルロワ=グーランによる人類発生の理論──より正確に言えば、ルロワ=グーランが『身ぶりと言葉』*16の中で展開する、ジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』*17を批判することで提示する人類発生の理論、である(つまり、ルソーを批判するルロワ=グーラン、をスティグレールは批判する)。


スティグレールによるルロワ=グーランのルソーに対する批判の論理を整理してみよう。よく知られているようにルソーは『人間不平等起源論』の中で、仮定の話としてではあるものの、今日の私たちの存在様態である「技術を持った人間」が発生する以前の自然状態、すなわち自然の中で闘争状態もなく平和に充足している「自然人」の姿を描写する。そしてそのような自然状態が、道具の発明や財産の私的所有や管理といった「技術」を人間が手に入れることによって失われる(すなわち不平等の起源)と述べる。これは先に述べた哲学の純然なるエピステーメーと不純なテクネーとの対立のパラフレーズでもあり、またソクラテスの想起説(つまり、魂は不死であり、私たちは既に全てを知っていたのであるが、それは既に忘却として失われている)のパラフレーズでもある。だからこそこの自然人と技術との間に、メノンと同種のパラドクスが見出されることになるのだ。というのも、ルソーが述べているような自然状態に平和に生きる自然人は、しかし、既に「「二足歩行し、われわれと同様に手を使う」起源的人間」として想定される*18。いかにそれが原始的な、いかなる技術にも汚染されていない存在であろうとも、その存在が動物ではなく原始的な「人」である「自然人」として想定されるかぎり、ルソーはそうせざるを得ない。しかしここで気をつけなくてはいけないのは、二足歩行をするということが、すなわち「手を使うこと」を意味している、ということだ。つまり「二足歩行をする自然人」は、ルソーの思惑を外れて、逆にその存在が既に技術と不可分の関係にあることを明証してしまうのである。このようにして、ルソーの人間の技術の起源は、鶏と卵のように無限後退してしまう。

起源があり、続いて転落、忘却、喪失がある。しかし、起源を転落から区別すること、つまり、起源にあるものを転落から区別するのは極めて困難だ。それはとくにルソーに当てはまる。
(‥‥‥)
手を使うことは、操作することである。そして、手が操作するのは、道具であり用具である。手が手であるのは、技法、技巧、技術テクネーに接近アクセスさせることによってでしかないのだ。*19

ルロワ=グーランはこのようなルソーの自然人が含むパラドクスを批判した上で、技術に汚染されていない人間を考える代わりに、人間と技術とを相互に不可分な存在として捉えようとする。技術が存在することが、人間が存在することの証ともなる。それゆえルロワ=グーランは、石器の発明を、ジンジャントロプスから新人類という人間の誕生の条件として考えるのである。しかしそうであるならば、次の問題は、ジンジャントロプスがいかにして石器を発明し、それによって人間となるのか、という点である。あるいは、次のように言い換えることもできるだろ。どのように石器は現れ、それによってジンジャントロプスから人間が発明されるのか?


この点についてルロワ=グーランは、石器の発明は大脳皮質が「そこに自らを映し出す物質との出会い」*20によってなされたと説明する。つまりジンジャントロプスの内部にあったものが、無機的物質である石へ向けて投射され、それによって体の内部(大脳皮質)の一部が外部へと出される=外化されることで石器が発明される、と考えるのである。あるいは大脳皮質が外化されることで生まれる石器が、ジンジャントロプスから人間を発明する。


だがしかし、このようなルロワ=グーランの論理も、実のところメノンのパラドクスを完全に払拭できていないのではないかとスティグレールは考える。なぜなら、仮に石器が大脳皮質の外化だとするのならば、その「石器を使う」ということ、すなわち「石器を使うということがこの世界に生じること」や「石器を使う存在(=人間)が存在し得ること」が、既にジンジャントロプスの大脳皮質の中に存在していたことになってしまうからである。そして、もしそうであるとするならば、ジンジャントロプスの内部には「道具を使う」ことが既に含まれていたことを意味してしまうはずであり、従ってジンジャントロプスはもう既に「人間」であったことになってしまう。石器という技術によってそれを使う「人間」という存在が出現するのだとしても、しかしそれを説明するために、未だ石器を持っていない動物の内部=ジンジャントロプスの大脳皮質の中にあらかじめ「石器を使う自分自身」が既に書き込まれていると言ってしまうのは、明らかに無理筋である。ルロワ=グーラン自身は「ジンジャントロプスの技術がいまだ準動物的だと措定することで解決しようとした。しかし、その技術はもはや既に動物的ではない」*21のである。だからこのようなルロワ=グーランの論理では、ジンジャントロプスを人間の中に編入することになるだけで、結局「それならばジンジャントロプス(という最初の人間)はどこから生じたのか」と問いをずらすことになってしまう。このように、人間と技術とを不可分なものとして捉えようとするルロワ=グーランの論理の内側にも、依然として人間と技術の、どちらがどちらを発明するのかと言うパラドクスが残存しているとスティグレールは指摘するのである。


そして、このようにルロワ=グーランの限界を確認したスティグレールが、ここで根本的にこのパラドクスを解くカギとして導入するのが「差延」の概念である。スティグレールはデリダのグラマトロジーのパースペクティブを視野に入れた上で、人間を含む「生命の歴史」の上に「文字グラマの歴史」*22を重ね合わせる*23。そして、そうすることによってこの 人間の発明のパラドクスに「差延」を、すなわちエクリチュールとパロールの相互の間の「代補の構造」を生み出す「差延」の運動を──すなわち〈エクリチュールが、そこに追加されると言われるパロールを、遅ればせに生み出す〉*24運動、「差異化と同時に遅延化*25」を意味する差延の運動を──導入する。差延の運動によって、エクリチュールとパロールという「対」そのものが産出されるのと同じく、差延の運動によって人間と技術という「対」こそが生成すると考えるのだ。だからスティグレールによれば「人間の発明」とは、「人間の発明=人間が何かを発明すること」と「人間の発明=人間という存在が発明されること」を両方意味するものであり、それは差延の運動による人間と技術という対が相互によって生み出されることなのである。人間が技術(外部)を発明するとき、その技術を持つ人間(内部)もまた発明される。

人間は道具を発明すること──技術-論理的に「外在化されること」──によって、技術においてみずからを発明する。ここでは人間が内部である。内部から外部への運動を表さない外在化は存在しない。とはいえ、内部はこの運動によって発明される。つまり、それに先行することはありえない。その結果、内部と外部は、それらを同時に発明する運動、あたかも人間と呼ばれるものの技術-論理の産婆術があるかのように、互いの内に互いを発明し合う運動において構制されるのである。*26

このようにスティグレールにおいては、生命がある技術を発明し人間となるのか、あるいは技術によってある生命が人間として発明されるのかというパラドクスの構造それ自体が乗り超えられ、既に存在している生命と無機的物質との「差延」という運動──エクリチュールが、そこに追加されると言われるパロールを、遅ればせに生み出す運動──を通した相互の発明として記述されるのである。



*15 ベルナール・スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過失』石田英敬監修、⻄兼志訳、法政大学出版局、2009年
*16 アンドレ・ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』荒木亨訳、筑摩書房、2012年(ちくま学芸文庫)
*17 ジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』中山元訳、光文社、2008年(光文社古典新訳文庫)
*18 ベルナール・スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過失』石田英敬監修、⻄兼志訳、法政大学出版局、2009年、p.160
*19 Ibid., p.160
*20 Ibid., p.208
*21 Ibid., p.209
*22 Ibid., p.200
*23 ここで「人間の歴史」ではなく「生命の歴史」と言う言葉が使われていることには注意が必要だろう。なぜなら「差延という概念単位は動物/人間、それと同時に自然/文化という対立に異議を唱える」(Ibid., p.202)ものだからである。
*24 中村大介「
体化論の行方:シモンドンを出発点として」関⻄学院大学哲学研究室編『関⻄学院哲学研究年報』38巻、関⻄学院大学哲学研究室、2005年、p.25
*25 ベルナール・スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過失』石田英敬監修、⻄兼志訳、法政大学出版局、2009年、p.203
*26 Ibid., p.208


[5]

さて筆者は、クラウスが描写するコールマンと再発明されるメディウム=技術的支持体としてのスライド・テープとの間に発明のパラドクスを見出し、事物が自己産出する差異を発見する「子供の想像力」の神話を形而上学として問題視していたのであった。しかしスティグレールの観点を経た今、次のように考えることもできるのではないだろうか。

技術的支持体の自己差異化の運動(差延の運動)が始まる時、それと切り結ぶ技術的支持体としてのコールマン自身にも、また同様に自己差異化の運動(差延の運動)が起動される。そして、スライド・テープが新たなメディウムとして再発明される時、コールマンという技術的支持体もまた「再=発明」*27されるのである。メディウムの再=発明として新たな作品が生み出される時、同時にその作品によって芸術家もまた再=発明される。


先に筆者はクラウスの示したメディウムの再発明というパースペクティブにおいて「わだばコールマンになる」と書いた。だが作品としてメディウムが再=発明される時、コールマンも再=発明されているのだとすれば、もはやそのコールマンはかつてのコールマンではない。ブロータースのフィルムが「自らのイメージを切り刻みながら進んでいく」*28のであれば、差延の運動の中でコールマンもまた自らを切り刻みながら繰り返し生まれ直していくのだ。


ならば筆者は改めて次のように言いなおすことができるかもしれない。私は芸術作品としてメディウムを再=発明することによって、私自身を再=発明する。あるいはこう言っても良い。私自身を再=発明する技術的支持体、それこそを私は芸術と呼ぶのだ、と。



*27 「発明」を、発明される対象と発明する主体との相互の発明と考える時、クラウスの「再発明」と区別して「再=発明」と表記する。
*28 沢山遼「ポスト=メディウム・コンディションとは何か?」筒井宏樹(編)『コンテンポラリー・アート・セオリー』イオスアートブックス、2013年、p.96