ダンスホール ──「空間の(再)空間化」

大岩 雄典

「インスタレーション・アートは嫌いです。嫌いすぎて、そういうわけでメディウム論を今書いていますよ。ただただ嫌い。ベリーダンスで腰振って誘ってくる立ちんぼにしか思えない。」(ロザリンド・クラウス)*1

I:いくつかの「演劇性」


ユリアーネ・レーベンティッシュの『インスタレーション・アートの美学』は、三章からなる*2。各章の見出しは、「演劇性(theatricality)」「間メディウム性(intermediality)」「サイト・スペシフィシティ(site specificity)」といい、いずれもインスタレーション・アートおよび20世紀後半以降の芸術作品の特徴を捉えるために使われてきた、代表的な概念だ。本書はこれらの概念について、従来の議論を批判的に踏まえつつ、レーベンティッシュの主張する「美的経験のプロセス」の美学を打ち立てていく。

まず「演劇性」といえば、美術批評家マイケル・フリードが1967年のエッセイ「芸術と客体性」*3でミニマル・アートを論難するさいに用いた形容だ。インスタレーション・アートが一般的にもつ、物理的な空間のなかを鑑賞者が歩き回って観るという特徴は、ドナルド・ジャッドやロバート・モリスの作品に対して、展示室のなかを歩き回ってさまざまな位置からその形体を捉えるようすに似ており、しばしば「演劇性」の概念は援用されてきた*4。

[Fig. 2] Robert Morris, Untitled (3 Ls), 1965 refabricated 1970, Gift of Howard and Jean Lipman,©Robert Morris/Artists Rights Society (ARS), New York, The Whitney Museum www.whitney.org

作品が、鑑賞者という主体を、すでにその客体として、さあ見られるべきものですよといささか押し付けがましく出迎える。これに堕した「非芸術の状態」をフリードは「客体性(objecthood)」と呼んで嫌悪した。この「object」は、「物笑い種(object of ridicule)」と言うときのような「object」と考えてもいいだろう。笑われる/笑わせるためにお誂え向きの、投げ出された対象。演劇性とは、「主体と客体」の関係が結ばれていることを予定する点で、芝居がかった(theatrical)ものだ。インスタレーションの空間もそうした、接待される主体を作り出す。この主体は、クレア・ビショップ『インスタレーション・アート:ある批評史』(2005)の結論で「モデル」と名付けられる。「モデル主体」は「そこでの出会いを作品が構築するようなしかたで仮定されている」*5。

だがレーベンティッシュによる「演劇性」の議論は、必ずしも従来の適用をなぞるにとどまらない。第一章「演劇性」では、フリードに先んじてスタンリー・カヴェルの「演劇性」批判を取り上げる。これもフリードと同じ1960年代になされたもので、当時「倫理的転回」をなしていた美学の文脈を共有している。

レーベンティッシュは、カヴェルが批判する「演劇」、ないしここでは舞台と観客席をもつ「劇場」と訳したほうがわかりやすいかもしれないが、それがつねにデカルト以降の近代形而上学的な主客関係──客体は主体”にとって”在るという固まった非対称的な支配関係──を示す比喩にすぎないことを論じる。そこで舞台上に晒される客体にただただ接待された主体を、カヴェルは「受容者」と呼び、つまり悲劇をただ舞台上の美的な愉しみとして受容する非倫理的な存在として批難した。世界を美的な対象とみなして隔たりをとるのではなく、他者との実存的な隔絶として捉えることこそ倫理的だ、とカヴェルは主張する。しかしレーベンティッシュはそもそもそれを演劇の隠喩で扱うのがとばっちりだと考える。なるほど、世界にたいして見物人じみたシニシズムをとるのは倫理的にいけない、それに怒るのは結構。しかし演劇という表象芸術における距離はそれとは別のもの、「対象との美的な関係をもつ」というそれだけで自律して認められる領域のものなのだ。

では、この対象との美的な関係──レーベンティッシュが擁護する、「演劇的であること」の美的な意義とは何か。それはあらためて、フリードを批判的に読解したのちに明らかになる。フリードはミニマル・アートを「そのまま主義」つまりリテラリズムと独自に呼んだ。ジャッドの直方体は、そのまま直方体という”もの”でしかない。この示差のなさ、芸術として中身のないことをフリードは「空虚(empty)」と形容した。ただ見られるために、見られることにとってのみあるだけのもの。それはユーザーに迎合する商品のごとくだ──という商品性・他律性批判もまた、レーベンティッシュによれば、隠喩・混同にすぎない誤謬である。

ミニマル・アートの作品にせよ劇中の出来事にせよ、いかなる芸術つまり美的なものは「ただのそのままの対象」ではない*6。それは「二重」なのだ。カヴェルは、倫理的な動機からこの美的な隔たりを実存的な隔たりに一致させようとして、その「二重」性を無みしてしまった。つまり、観客が登場人物と同じ時間のなかでともに悲しむ……というお涙頂戴のシナリオを描くために、それは俳優が演じているお芝居である、ということを軽視した。

だが、あくまで俳優が役を演じているのだ。それはカヴェルが思い込みたいような、非倫理的な窃視の関係ではない。隙間から覗かれている裸体や受難者は、別に裸体や受難を演じているわけではなく、つまり演劇ではない。だから演劇がそれを舞台上に乗せて見世物にしている、と考えるのもまた難癖にすぎない。舞台に上がっていること、そこで役者は役へと二重化していることに、ここで擁護すべき美的な領域は基づいている。ひとつの演劇的記号には、表象しているもの(the representing)と、表象されているもの(the represented)という二つのものがある。役者と役のあいだにある「表象」という懸隔は、観客が舞台上の悲劇に介入できない隔たりと同じカテゴリーのものだ。レーベンティッシュはそれを「存在論的断絶(ontological divide)」という。

さて、美的な価値のある「演劇性」として改めて取り上げられるのが、この「二重性」である。レーベンティッシュは、「ただのもの」であるからこそ論難されていたはずのミニマル・アートに「人間的次元」が隠されていて不気味だとフリード自身が批判していることを強調する。フリードにおける「演劇性」とはこうした多義性がある。カロのように人間の身振りがあからさまに見いだせるならよい。そうでなく、人らしさはそこでは、そのものから乖離している。まるで役が役者の身体から乖離しているように。レーベンティッシュは、やはりここでも記号とものの二重性こそが、フリードが直感的に忌み嫌った「演劇的」なのだと改めて主張する。

このように、レーベンティッシュは第一章をつうじて、「演劇性」の指すところを、フリードの多義性を振り返ることで、従来の「客体性」批判の文脈から、表象における「存在論的分断」のうえの「二重性」へとスライドさせている。レーベンティッシュが、両方の意味での「演劇的」という比喩を、第二章以降では的確に避けていることに注意しよう*7。もちろん、「演劇性」が隠喩的動機に基づいたからといって、その語が指してきた性質・構造まで無用というわけではない。実際第一章終盤でレーベンティッシュは、いわゆる「鑑賞者の包含」「舞台の現前」という性質は、インスタレーションのみならず芸術経験一般に通ずるものだとみなしている。ただしそれはもはや「(演劇的なものは悪い/良いという)価値づけ」には不適切なのだ。




II:いくつかの「空間」


インスタレーション・アートはしばしば「空間芸術」と呼ばれる。本稿の主眼は、レーベンティッシュの議論を批判的に再構成しながら、この「空間」が何を指しうるのか──つまり空間と呼びうべきものの空間──を整理し、新たなしかたで概念づけすることだ。

さて、ふつう「空間」が指すのは、鑑賞者の身体が実際に足を踏み入れるという意味で、二重の意味で「フィジカル(物理的・身体的)」な空間だ。この保守的定義をインスタレーション・アートの「空間」から排除する必要はないだろう。だがレーベンティッシュが第二章「間メディウム性」および第三章「サイト・スペシフィシティ」で展開する議論は、三次元的な拡がりこそが「空間」という名で第一・唯一に指されるものだという考えを否定、少なくとも保留する。本稿は、このあといくつか検討するさまざまな「空間」に序列づけをすることは目的としないし、おこなわない。そもそもそのような序列はかならず脱構築されるし、網羅できるものでもない。詳細はあとにわかる。

さて、インスタレーションの「空間」が三次元的な拡がりだけでないなら、何を指しうるか。本稿はすでにひとつ「空間」と呼びうべき懸隔には言及した。それは、演劇的なものが「二”重”」だと呼ばれるときの、この「重なり」のあいだに挟まった空間である。英語では「double」であり、日本語の「重」という字だけに准じるわけにいかないというなら、レーベンティッシュの表現でいえば「表象しているものと表象されているものとのあいだの(between)」という前置詞にその「空間」を求めてもよい。つまり、ものと記号のあいだにある空間だ。

さらにふたつ、第二章で見いだされうる「空間」を指摘しよう。第二章「間メディウム性」は前半と後半に分かれていると考えてよい。前半は、2.1「メディウムと形式」2.2「芸術と諸芸術」の2節から成る、芸術の抽象的な意味での形式(form)についての議論だ。そして後半は、2.3「空間芸術とタイムベースドな芸術」の、芸術作品がもつ具体的な意味での形(form)についての議論だ。この、作品各々が固有に見出す形=形式を、レーベンティッシュは第三章で「それ自身の形式主義(their own formalism)」とも呼んでいる*8。

さて、二つ目の「空間」がこの前半のほうに見いだされる。ロザリンド・クラウスのメディウム論は、超歴史的本質を物質的特徴にもとめたグリーンバーグのイデオロギー、レーベンティッシュが「メディウム実証主義」と呼ぶものへの批判に動機づけられている。1960年代以降の、間メディウム的芸術作品の増加にあたって、クラウスはメディウムを物質的特徴ではなく、ある技術的支持体を契機としてそこから自己差異化する諸慣習のほうに求めた*9。この概念づけは写真や映像を取り込んだ芸術作品、またとくに『北海航行』*10ではマルセル・ブロータースのインスタレーションなどを分析することに資した。

だがレーベンティッシュは、より洗練されたモデルとしてニクラス・ルーマンの「メディウム/形式」概念を持ち出す*11。メディウムは「要素のゆるいまとまり(loose coupling of elements)」であって、このゆるさが、諸要素の「複数の組み合わせのための余裕(room for multiple combinations)」をもたらす。この組み合わせが形式だ。絵画というメディウムから、個々の形式をもって絵画作品が現れる。ほかも同様。さてここで「空間」と呼びたいものはもうおわかりだろう。「ゆるさ(loose[ness])」「余裕(room)」と指されるものだ。それぞれの絵画作品は形式をもって顕現し、その形式をつうじてのみメディウムは観察されうる。その絵画作品は、他の絵画作品の形式をもっていないが、しかしともに絵画であるならば、そのふたつを絵画せしめる「絵画」なるメディウムには、当然ゆるさがある。つまり、グリーンバーグがその物質的形式をこそメディウムの本質とみなしたのは誤りだ。その形式はモダニズムと呼ばれる時期に過渡的となった偶然的な一つのケースにすぎない。たとえばジャクソン・ポロックの絵画は、メディウムの「本質」を表すのではなく、メディウムという潜在したもの(ポテンシャル)がある形式に移行(例化と呼んでもいいだろう)していくまさにそのさまをこそ反映する、とレーベンティッシュは改めて評価する*12。このように概念づけられた「メディウム」概念を、ルーマン自身は「可能性の集積」と呼び、レーベンティッシュは「メディウムは、人がそのメディウムによってできることを制限づける」と特徴づける。つまりメディウムとは、個々の作品の形式が発生するための「可能性の空間」なのだ。

存在論的な懸隔の「空間」、メディウムの可能性の「空間」。ここで注意喚起しておくが、本書のなかでレーベンティッシュがこれらに「空間(space)」という語を直にあてがっているわけではない。むしろ本稿は、そこで空間的な比喩がいかにも自然に用いられていることに着目し、レーベンティッシュが各章でおこなう分析を「空間」の隠喩のもとに再構成する点に主眼を置く。

さて、三つ目の「空間」はレーベンティッシュ自身によって導入されている。第二章後半、2.3節の冒頭ではG.E.レッシングの「空間芸術」概念が参照される*13。レッシングの「空間芸術/時間芸術」はそれぞれ要素の「並列(juxtapositive)/連続(consecutive)」から特徴づけられる。並列とは、複数の要素の関わりが同時的であることで、連続とは、その関わりに時間的前後(順序)があることだ。詩は後者の性質が強く、絵画は前者の性質が強い。この意味で「空間」と呼ぶ以上、三次元的な拡がりへの要素の展開はその実現の一パターンであって、定義にはならない。

さてこの意味ならば、「同時性」は「たったひとつの瞬間に」とではなく、「非順序的」と捉えるべきだ。そのような芸術作品のもつ要素のあいだには、受容の順序が一直線に定められていない。鑑賞者は絵画のうえで目を各所各所に泳がせて、だんだんとそれを結び合わせていく。その順は点つなぎと異なり、鑑賞者の意識や無意識に左右される。しかしランダムでもなく、絵画のデザインによってある程度規定されている。この過程が充分な形を描き出したとき、レッシングの言う「含蓄ある瞬間」が訪れる。この「瞬間」も時間的な意味ではなく、意味が結実するステップを指す。

レーベンティッシュは、こうした非順序的な要素が鑑賞のなかで相互関係をもっていくのを、「美的経験のプロセス」と概念づけた。時間芸術の要素も連続的に順番づけられてはいるが、それはその順番どおりに受容されるプロセスや、あるいは一旦はそう受容されながら、すでに過ぎ去った要素や予想できる要素も含めて改めて相互に関係づけていくプロセスがある。これを指してレーベンティッシュはプロセスを「ノンリニアな時間性」と呼ぶ。それは、要素が順序をもっている時間とは異なる。それは解釈のもつ段階的時間なのだ。

またプロセスの「時間性」は、物語やドラマの筋がもつ「時間」とも異なる。これはすでに登場した概念で説明すれば、表象するもの/されるものの違いである。赤ずきんの物語は、森に行って狼と出会い食われ最終的に救い出されるのだが、これを表象するときに、逆順で表象してもよい。あるいは、劇中の時間と逆向きにシーンが並べられたクリストファー・ノーラン監督『メメント』を思い出してもいいだろう。表象の二重性の「空間」と、表象するもののもつ要素間に興る「空間」という、二つの意味での「空間」の隠喩があらわれうることを確認しておこう。

さらに四つ目の「空間」が、第三章「サイト・スペシフィシティ」前半に登場する。「サイト(場)」である。レーベンティッシュはマルティン・ハイデッガーによる、空間についての現象学的な考察を紹介する*14。岩盤の上に建てられた神殿が、まわりの空間のさまざまなもの、岩のぎこちなさや嵐の猛烈さ、光、空気について前に立てて見せている、という洞察だ。レーベンティッシュはこれを、『存在と時間』の道具への考察などを参照して説明する。人間にとってあらゆる物は、それをどう使うかという実践の関わりのなかで位置を占めている。その意味で道具は「使用の」連関した空間のなかにセッティングされているのであり、それが三次元的な拡がりのどこにあるかなどは二次的な話でしかない。

この「空間」は、構造的にはメディウムの「ゆるさ」やプロセスが生じる「空間」に”重なる”ところもある*15が、本稿はこの概念どうしの「空間」も保存したまま話を続けよう。本書において、ハイデッガーの空間論は、使用の空間にもとづきながらその表現を実際の物理的空間に負っていることを、メディウムが形式へと結実したり、要素の抽象的な配置が鑑賞ごとにプロセスをもって実際の鑑賞の物理的時間のうえにアクティベートされたりするような、非対称的な伝播関係をもつ空間の議論に換喩的に重ね合わせられる。しかしそれはいかに同型・類型でも異なる概念にもとづいている。

第三章の後半は、ハイデッガーの議論を参照して検討した「サイト(場)」を、政治的な意味での「場」に換喩する。建物の床と壁に接地するようコンクリートを流し込んだリチャード・セラの《Splashing》が、使用・流通から外れたところにその「位置」を見出すことに、レーベンティッシュはより政治経済的な場と言えるような「空間」を論じる。ダニエル・ビュレンのストライプの作品も引き合いに出される。それはしばしば言われるように単なる「制度批判」のメッセージに収斂するわけではなく、ジャン=フランソワ・リオタールの言葉でいえば、むしろどのようにしてそれがそのように読まれえたりするのかを、「空間」に「しるしづけ」、「見えなかったものを見えるようにする」*16。

[Fig. 3] Richard Serra on his Splash Pieces | SFMOMA

[Fig. 4] Daniel Buren, KALÉIDOSCOPE, UN TRAVAIL IN SITU, idea 1976/1980, execution 1983, ©Daniel Buren Stedelijk Museum Amsterdam https://www.stedelijk.nl/en/collection/12799-daniel-buren-kaleidoscope-un-travail-in-situ

つまり第三章では、「サイト(場)」は、たんなる日常的な道具使用から、政治経済的力関係も含めた実践の関わりまで指す。その意味では「サイト」という空間的な比喩の使用にも”幅”がある。そして、その「空間」はしばしば三次元的な拡がりに反映されているために、そこにおける操作によっても主題となりうる。どちらが第一という序列はない。

表象がつくりだす存在論的な隔たりの「空間」、メディウムがもつそこから個々の形式が現れるような可能性の「空間」、表象するものがもつ非順番的な諸要素のもつそこから美的経験のプロセスが発生するような配置の「空間」、人間の生活がもつ使用実践の関わりの「空間」。より切り詰めていえば、記号、批評、構成、社会。本書において「空間」的な比喩で語られ、たがいに換喩で結びつけられて芸術のもつ、とくにインスタレーション・アートの存在によって観察・分析されやすくなった特徴は、ひとまずこれらである。




III:遊びのある空間

さてしかし、インスタレーション・アートを「空間芸術」というときの「空間」が標準的には物理的なつまり三次元の拡がりという意味での空間を指すことは否定できない。だが、ただ三次元的に広がったものがすべてインスタレーション・アートであるわけはない。三次元的な拡がりで「表現」されているものがインスタレーション・アートだ、と定義したくとも、この「表現」の定義が循環してはいけない。たとえば絵画的表現が含まれれば「表現」だろうか、ある程度以上強い美的快楽を催せば「表現」に値するだろうか、それとも作者によるジャンル宣言に依るだろうか。そうした仮説に反例を出すのは簡単なので割愛する。

本稿は、レーベンティッシュの議論を再構成して、この問いにより明快に答えることを目標とする。まず、レーベンティッシュが「美的対象」と言うものは何か。以下の記述を見よう。

美的経験は、美的対象との関係のうちにのみ存在する。また逆に言えば、この対象は、美的経験のプロセスの観点からのみ美的なものとなるのだ。美的対象は美的経験の外では対象化されえないし、〔…〕*17

ここで注意すべきは、美的対象が美的経験の”中でのみ”対象化されるということだ。つまり美的対象は、目の前に置かれるジャッドの直方体の物理的な実体そのものではない。それと「美的な経験の対象」とは、存在論的に異なる。これは次節でアーサー・C・ダントーとの関連において論じよう。

美的経験はもちろん、そのとき経験する主体ごとにもつのであり、あらゆる経験主体が同じ経験を共有することなどない。一望性のなさを特徴とするインスタレーション・アートを思い浮かべればそれは顕著だが、絵画や彫刻、音楽や文学についても同様のことは言えるだろう。レーベンティッシュの主張の重点は、もはやそこで美的対象と呼ぶべきものは異なっている、と考える点だ。なぜか。ロバート・モリスの彫刻《Untitled》や、クリストファー・ノーラン監督の映画『メメント』、『ハムレット』の上演を観る人々にとって、その対象は、同じ《Untitled》『メメント』『ハムレット』ではないのか。

さて、「美的対象」と「芸術作品」の存在論が異なることに注意したい。ある芸術作品が同一のそれであることと、その美的な経験において対象にあたるべきものが経験ごとに同一でないこととは両立しうる。後者、「美的対象として」別であるのはいかなることにもとづくのかを検討しよう。

まず、「美的でない対象として」異なることと、「美的対象として」異なることは、異なる。たとえばある絵画が壁にもたれていたとして(絵画は定義上芸術作品である)、通行の邪魔であるから横にどかす。そのときその、当然ひとつの物体でもある絵画は、邪魔なものとして経験されている。だがこれは美的経験ではない。あるいは他の日に、友達にその絵を譲るためにその絵を梱包している。忙しいのでその絵画の表面には目もくれず、裏向きにして簡単に包む(絵画は丁寧に包むのが望ましいが、ここはなるべく即席の梱包を想像しよう)。これもやはり美的経験ではないが、邪魔な物体としてどかした経験とは明らかに異なる。ではこの二つの経験の対象となったものは異なるのだろうか。おそらくその対象は存在論的に同じとみなしていいだろう。つまり、「美的でない対象として」、それは同じ絵画である*18。

だがこと鑑賞されるにあたっては、同じ絵画作品における美的経験であっても、美的対象としては経験ごとに異なる*19。これがレーベンティッシュのとる立場である。美的経験はプロセスである。だから美的経験が異なるとは、プロセスが異なるということだ。プロセスが異なるというのは、たとえばプログラムが条件文によって異なる処理をするように、あるいはゲームブックで異なる選択肢が異なる物語表象を導くように、その経験で受容される要素の組み合わせの集合や順序、構造が異なるということだ。そこでは、極端に言えば、何かが気づかれなかったり、別の何かが気づかれたり、それによって要素の相乗的な理解が大きく変わったりするだろう。軽薄な美的経験がその要素の再認にとどまるのにたいし、深遠な美的経験は、要素どうしの微妙な位置や対比を、さまざまな角度や状況でその作品を見渡したり、タイトルや文脈について熟考することで、形でそのままには示されないある理念を着想する。また別の深遠な経験は、その着想のプロセス自体が、じつはその絵画のうえに図示されていたことに気づき、それをアイロニカルな作品、少なくとも経験だったと認定する。

経験ごとのプロセスの違いは、その経験の主体や、その主体の置かれた状況をいわば「変数」にもっている。極端な例でいえば、ポストコロニアリズムを文脈にもつ作品は、鑑賞主体の出自、たとえば人種や性別、在住国、それを観ているのが地元か旅先か、等によって経験が異なる。あるいはポストコロニアルな文脈に通暁しているかどうかでも異なる。そうした自家中毒をアドルノは「芸術の有害性」とも呼び、レーベンティッシュは、インスタレーションは鑑賞者を分断する(divide)と述べた。これについては最終節で立ち返ろう。

あらためて美的対象について、レーベンティッシュの記述で確認しよう。

美的対象との関係は、それごとに個別に構築される。鑑賞者が自身を、美的対象とのふたしかな関係において知覚する限りで、鑑賞者は自分の役割を、その関係における自分の役割を、自分が、自分ひとりが、この状況においてなることについて反省する。さてこの場面は、ミニマリズムのインスタレーションにおける、空間-身体的な次元も措くとして、美的経験の場面以外のなにものでもなく、それは美的な自己反省の形式をつねに含んでもいるということだ。そのひとつのものとして構築された、その対象にたいする主体のアプローチの美的なふたしかさは、同時に、その主体がその関係を自身で作り出しているということ、その「(連続的な)読解」という自身の行為についての、主体自身による反省をも導くのだ。*20

美的経験のプロセスは、その経験の主体による主体自身についてあるいは経験自体についての「自己反省」である。経験はその経験自体についての経験として展いていく。プロセスはノンリニアな時間性をもつのだから、その反省もノンリニアなしかたで諸段階に分けられる。それは必ずしも離散的な段階でなくてもよい。あるいは、その一連の反省は不均一で、ノンリニアな時間性という(もしかしたらフローチャートのように図示できる)「空間」をなす要素として関わりをもっているとも言えるだろう。

不均一である以上、異なる美的経験は、まるごと異なるとは限らない。部分的に異なる場合もあるし、ほとんど異ならない場合もある。おそらくより小さい絵画ほど、その違いのありえる範囲は小さくなる傾向があるし、一望可能性が下がるほど範囲は大きくなる傾向がある。

さて繰り返すが、美的経験の違いとは、反省のプロセスの違いだ。その作品の経験のなかで、どの順序で何を思い直すか、それはノンリニアに時間的なしかたで異なる。インスタレーション・アートがまずもって三次元的な拡がりの意味での「空間」を支持体にもつとき、そのうえでデザインされる要素の配置つまりレッシングが「空間芸術」に紐付けた要素の並列の固有の形が、美的経験つまり反省のプロセスが個々の経験主体において変化するような可能性の「空間」を因果づけている、ということになる*21。いくつかの空間の空間的伝播。もちろんこの特徴づけは、一旦の標準的なものだ。

三次元的な拡がりを主な元手に賦活される、存在論的・芸術批評的・現象学的ないし社会的な「空間」の経験、またその個々の主体において相異なることが、芸術において、とくにインスタレーション・アートにおいて顕著に、可能である。これは、個々の「空間」どうしの関係において形式を得るようなメディウムの可能性の「空間」と二重に捉え直してもよい。

さて、「ゆるさ」と呼ばれたような空間の性質は、ハイデッガーの空間においては「空虚」と呼ばれる。「空間は遊び(play)に入る」*22。空虚さが、その落ち着く場所を探す傾向のうちに「遊ぶ(play)」のだ。建具や部品などについて「遊びがある」と日本語でいうが、これは英語でもやはり「play」という。ここまでの話で「空間」と複数の隠喩をまたいで──隠喩同士の換喩をほのめかして──言ってきた概念を、ここであらためて、どの隠喩においても「遊びのある空間」を指すと強調しておこう。




IV:空間と隠喩


「隠喩でない空間などあるのだろうか」と、福尾匠は問う。福尾の論考『パサブル、ポシブル』*23は、東浩紀「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」を批判的に読む。経路の集積と、それにアクセスするためのコンピュータ上のインターフェースとの組み合わせが、「サイバースペース」という空間の隠喩で呼ばれることは、そこにありうべき不気味な「誤配」を「悪魔祓い」することで成立している。そうして要素を離散的にトポロジカルに配置して──あるいは配置されるものとして成立した空間が、「ネットワーク」と呼ばれる。東の議論は、およそこのように要約される。福尾はここで、「空間」の理念がネットワークに還元されることに疑問を投げかける。空間は、離散的な要素どうしの懸隔・空白であるだけでなく、そもそも拡がりをもっていないだろうか。それを無みして空間化と隠喩化をイコールで結びつけられるのだろうか。福尾はデリダについて東が論ずる「誤配」および「郵便的脱構築」の議論を紹介する。「誤配」という複数化した不可能性、経路ごとのずれいわば”悪魔”が祓わるべきことと切り離せない「サイバースペース」という「空間化=隠喩化」への東の批判を整理したのち、本段落冒頭に引いた問いを福尾はあらためて投げかけるのだ。

隠喩でない空間などないのだろうか。隠喩化を経ない空間はネットワークの不確実性としてネガティブに規定されるほかないのだろうか。*24

以降福尾は、空間を「ポジティブ」に考えなおすために、東が「確率」とみなしたものを「可能性・能力」の様相として別様に考えることを提案する。ネットワーク・経路を前提に考えるのではなく、必ずしも行わなくていい(パサブル:passable)ことが可能であること(ポシブル:possible)という、「ミニマムな複数性」として空間をとらえる。インスタレーション・アートは、「何かの中にいること」以前にまず、「何かの中にいる」ということ自体が不確実であること、自分のいるのが何の内側なのか決めかねることを考えるための契機になる。


さてこうして、前節までにレーベンティッシュについて見いだしたいくつかの「空間」について、またさらにその諸「空間」概念のあいだに保存した「空間」として論ったものについて、そのニュアンスを見直すことができるだろう。

たとえばメディウムが可能性の「空間」とみなされ、「ゆるさ」「余裕」と呼ばれていることを、福尾にならって能力論的な「空間」と考えることができる。芸術批評はときにその空間の悪魔祓いを作用にもつ。またハイデッガーの現象学的な、道具的連関の議論にもとづく「空間」は、東および福尾自身によってすでにネットワークの隠喩が密輸されていることを論じられている。

レッシングを参照した、要素の並立にもとづく「空間」については、本稿ではそれが時間化することの一旦の説明のために「赤ずきん」の例で離散的要素をもちいて説明したが、物語の要素が必ずしも離散的でないのと同様、要素が並立し時間化に至るプロセスもまた、必ずしも離散的でないことをあらためて強調しておく。

いっぽう、表象が前提する存在論的「空間」は、「断絶(divide)」という語が当てられた演劇的記号の”二”重性にのっとっているように、まずもって基本的に離散的な概念ととらえられる。これはアーサー・C・ダントーの著書『ありふれたものの変容』(1983)の議論と結びつけることができる*25。記号とものの存在論的な断絶を、ダントーは「言葉と世界の間の空間」または「語と物のあいだ、表象と現実のあいだには本質的対比」と呼んだ*26。表象はそれ自体が記号とものという両極に「空間化」しているからこそ、現実とのあいだにも懸隔をもつ。芸術作品は、このような懸隔をとらせる類のものだ。

クラスとしてのアート作品は、「他のあらゆる意味では」現実であるにしても、語とまったく同じ意味で現実のものと対照的である。それは語と同じ哲学的距離を現実とのあいだにもっていて、それゆえアート作品としてのそれに関係する者に同じような種類の距離をとらせる──そしてこの距離は、哲学者らがつねに研究してきた空間を空ける──ので、芸術は哲学的関与性をもつことが予想される。*27

この「距離」はレーベンティッシュが「美的距離」と呼ぶものだ*28。美的距離が消去されると、芸術と美的経験の概念の固有性が失われるとレーベンティッシュがいうとき、この「距離」は福尾がジル・ドゥルーズを引いていう、離接的綜合の排他的用法つまり「あれか、これか」にあたる。福尾はこれに「あれであれ、これであれ」という包括的用法を対立させる*29。

つまりダントーにおいて、ある芸術作品(《泉》)は、それが対応する非芸術的な(しばしば物質的な)対応物(便器)と、存在論的に異なる。だから、ミニマリズムとしての真っ赤な正方形の絵画という芸術作品と、ただ赤く塗られたキャンバスとは、たとえ後者は巨匠カラヴァッジョによる下塗りだったとしても、あるいはジャッドが採用したのと同じ工法で制作された板材だったとしても、存在論的に異なるステータスをもつ。芸術作品には、正当に置かれるべき存在論的「空間」がある。表象とは「何かについて(about)」のものであり、主題をもちうる。だが表象でないたんなる物は、論理的に主題をもちえることはない。

ダントーがただのものと、表象のステータスのもとに置かれるべきものとのあいだに見出したこの存在論的違いをこそ、美的なものの特徴として、レーベンティッシュはあらためて、それぞれの経験ごとに異なる美的対象という概念づけのために引き継いでいる。

さらにダントーは、さまざまな表象から芸術作品を区別するものはなにか、と問う。たとえば、ネルソン・グッドマンの例を使えば、心電図のグラフと、歌川広重の富士山の曲線はいかに違うのか。しかもそれらの形が識別不可能なほどに似ているとする。後者はもちろん表象だが、前者もまた表象である。さらに、あえて計測にもとづいて機械的な手法で富士山の傾斜を描いた絵画作品もここで比べられる。

ここでダントーが、単なる表象と芸術的表象との違いを画するとみなすのが「表現」である。たしかにあらゆる表象は、非芸術的なものも含めて、何らかのしかたである内容を提示するが、芸術的な表象は、それを「用いて」いる。

〔…〕もし内容が内容自体との関係において提示される仕方が、芸術作品を分析するときにはつねに考慮に入れられなければならないものだとすると、われわれは芸術の定義の入り口に立っていると言えるだろう。*30

芸術作品は、表象の仕方を(それだけをではないにせよ)再帰的に表象する性格をもち、そのようにその仕方を用いている。表象されるものを特定することが自動的に表象の仕方まで特定するには至らない点で、そこには「表現」の余地がある。

ダントーは、心電図/広重の線画の例に加えて、批評家アール・ローランがセザンヌの絵画を構図分析して制作した線図と、それをロイ・リキテンスタインが拡大して引用した絵画《セザンヌ夫人の肖像》との区別も例にあげる。たしかに前者もセザンヌの絵画「について(about)」であり、その絵画「の(of)」であるという点で表象ではあるが、しかし後者だけが、線画のもつ、統計学や工学、幾何学などのコノテーションをレトリカルに用いているという様式をもつ。つまりリキテンスタインにおいて線図は「メタファー」表現となっている。

[Fig. 6] Earl Loran’s Photograph of diagram of Cézanne’s Portrait of Madame Cézanne, circa 1943, https://www.aaa.si.edu/collections/items/detail/photograph-diagram-czannes-portrait-madame-czanne-7179

[Fig. 7] Roy Lichtenstein, Portrait of Madame Cézanne, 1962, ©Roy Lichtenstein/Roy Lichtenstein Foundation https://www.imageduplicator.com/main.php?decade=60&year=62&work_id=109

レーベンティッシュの「美的経験」概念は、それが「表象かどうか」に存しているとはいえど、「芸術作品かそうでないか」の区別をもたない、少なくとも提示していないか、アプリオリとしていると指摘できる*31。ともあれ、それが当の概念の運用自体にとって致命的というわけではない。ダントーのいう、提示の仕方それ自体の考慮必要性は、やはりレーベンティッシュが「反省」と呼んだプロセスで捉えることができる。芸術作品は、それがもたらす美的経験のプロセスに、その提示の仕方がもつコノテーション、あるいはもちえたコノテーションの可能性について反省を促す。これはルーマンによって提示された、形式をなす可能性たるメディウムの「空間」と、まったく一致はしないにせよ、類比できるだろう。

しかしダントーの議論には、こうしたコノテーションについての反省がもつプロセスの強調はない。あえて言えば、ダントーの芸術観は「インスタレーション的」でないのだ*32。さてここで考えたいのは、「芸術作品かどうか」という問いは離散的ないし排他的にのみ捉えられるか、ということだ。つまり、福尾の引いたドゥルーズをパラフレーズすれば「芸術作品であれ、何であれ」というパサブルな対象ないし空間から始めることはできないか、という問いだ。より一般化すると、記号とものとの間の空間は、記号が切り離される前には連続的でありうるか、という問いだ。

ダントーは表現について、引用や特にメタファーといったレトリック(修辞)を引き合いに出して論じる。

アート作品を理解することは、つねに存在するメタファーを把握することであると思う。*33

つまり、メタファーはその主題を提示するとともに、自分が主題を提示する仕方を提示する。*34

ダントーは、メタファーに似たダイナミズムを省略三段論法(エンテュメーマ)に見出す。省略三段論法とは、欠落した前提や結論を聞き手が埋めることを促す論法であり、聞き手の積極的な参与を引き出すという点で「レトリカル(修辞的)」である。この説明にダントーが「プロセス」という語を用いていること、またそのプロセスについて散りばめられた空間的な隠喩に注目しよう。

それはエンテュメーマを組み立てる人と読む人のあいだの複雑な相互関係を含む。前者が意図的に開いておいた隙間を、後者は自分で埋めなければならない。後者は省略されているものを補い、自分自身の結論を引き出さなければならない(「自分自身の結論」は誰でも引き出すであろうものである)。〔…〕彼はそれを見つけだし、自分でそこに置かなければならない。〔…〕エンテュメーマに対して聴き手は、すべての読者が理想的には行なうべきであるようなことを、個人として行なう。つまりタブラ・ラサのように単に情報を書き込まれるのではなく、一つのプロセスに参与する。*35

このようにプロセスを準備された聴き手・鑑賞者は、ビショップが特徴づけた「モデル主体」にも準えられる。

ダントーはさらに修辞疑問文を引き合いに出しながら、省略三段論法における聞き手のダイナミズムを、メタファーにも見出す。それは「問いかけ」のように修辞的なのだ。「それは、中項は見つけられなければならず、隙間は埋められねばならず、心は活動へと動かされねばならないということである。これ〔そもそも持っている知識=コノテーション〕に加え、観者はメタファーを、なぜ画家がその人にその服を着せたかという問いに対する答えとして、理解しなければならない」*36。

隙間があってそれを埋めるというより、埋めなければいけない隙間があることが見いだされる。それを反省と呼ぶ。懸隔が開き、かくして表象は物そのものではなく、「何かについて」のものとなる。これが美的経験だ。こと芸術作品においては、その反省の継続するプロセスに、その表象の仕方自体についての反省が含まれる。それゆえ芸術作品は、人工物でなければならないのだろう。


こうして、本節冒頭の福尾の問いに戻ってきた、いや、ともすればそれより退行してしまったかのように一見思える。これでは結局隠喩(メタファー)とは、空間化ではないか。

もちろん、伝統的な修辞学の分析から始めるダントーと、デリダのラカン批判とくに「父性隠喩」批判を踏まえた意味での東の「隠喩」とをやすやすと同一視するわけにはいかない。だが、両端──表象ならば「するもの/されるもの」、ネットワークならば「送り元/届け先」の諸ノード──をもつように、かならず埋めらるべき空隙をいつのまにか「内側」に密輸するという点で、それらは遠くない──いや、「遠くない」距離を作るこのような隠喩こそ、批評という、省略三段論法を駆使する言語芸術が準備する「空間」でもある。

だが本稿はそのようにして、福尾の問いを「(再)空間化」する方向に──それがイデオロギッシュな操作であれ、論理的な操作であれ──進む。つまり、空間が「隠喩化するのであれ、しないのであれ」というそれ自体もまた可能性・能力である様相こそが、インスタレーション・アートにおいて反省が顕著にその芸術的な特徴つまり主題のメタファーを経由するプロセスの生起する場ではないか、という発案だ。




V:ワインとベッド


次節に移るまえに、具体的なエピソードを挿入しよう。

谷口暁彦は、大岩雄典のインスタレーション展示「スローアクター」に際したトークイベントで、ある「発見」をしている*37。

当のインスタレーションには、複数のオブジェクトが含まれているが、そのなかに、絵画と、会場に備え付けのキッチンがある。キッチンの中にはハンドアウトが置かれ、またその側面にもインストラクションが記されている。作品のモチーフのひとつに「水」が含まれている点でも、キッチンは無視して然るべき要素ではないだろう。そのキッチンの正面に、160cm四方の絵画作品が飾られている。キッチンカウンターとの距離はおよそ3m程度しかなく、この大きさの絵画を視界に収めるには短すぎる。絵画作品を鑑賞するさいの文化的に標準的な距離を確保するには、キッチンの中に回らなければならない。

[Fig. 8] 大岩雄典《OUTSIDE IS VIVID》2020 写真:野口羊
https://euskeoiwa.com/works/2019/slowactor.html

[Fig. 9] 大岩雄典「スローアクター」インスタレーション・ビュー 2020 写真:野口羊 https://euskeoiwa.com/works/2019/slowactor.html

絵画作品には、あるキッチンが具象的に表象されている。コンロに火が描かれている、実際にはない窓が描かれているなどの違いはあれど、それは明らかにキッチンで、実際にその場にあるキッチンとあえて関連づけずに観ることは不自然だ。絵画に表象されたキッチンの引き出しは開いていて、それは構図の上でも強調されていた。この引き出しの位置は、実際にその場にあるキッチンでは、冷蔵庫にあたる。谷口はこの冷蔵庫の扉を開いた。

AT:〔…〕中には、オープニングパーティの残り物みたいなものが入っていて、これは作品じゃないな、って。〔…〕

一見笑い草に見える話だが、すぐさま、同イベントに同席していた松永伸司から質問が飛んだ。

SM:冷蔵庫の中身がなんで「作品じゃない」とわかったんですか?

これは、ダントーにおける、芸術作品と非芸術的な物質的対応物との区別の問題とパラレルである。谷口はその判断の理由として、他の展示物がアノニマスな外観をもっているのにたいし、その内容物たとえばワインにラベルが貼られていたことなどを挙げる。

だがここで、(ダントーがいくつかの「赤い正方形の絵画」を提案したのとはすこし違う方法で)この問題を賦活させていきたい。ワインが実際に芸術作品だったかどうかは、一旦この際問題ではない。このワインについて、「別のバージョン」を考えよう。関心は、ワインが芸術作品であるかどうかと、また別のバージョンの「冷蔵庫の中のワイン」が芸術作品であるかどうか、つまりそれぞれにどのようなメタファーを汲み取りうるかのプロセスに、かならず違いがあるということだ。

たとえば、中にあったワインのラベルが、極端なミニマリズムの影響を受けたのか、非常に単純なデザインのものだったらどうか。それは真っ白な正方形で、商業的な美点はわからないが、ともかくこのインスタレーションの他の展示物に類似した美的質をもっている。もしくは、そのワインは業務用で、そもそも瓶にラベルがない。いずれの場合でもそれは芸術作品ではなく、オープニングパーティの痕跡である。しかしこの仮想のケースでは、谷口はそれらを観て「作品ではない」と即断できないだろう。偶然それらがもっている質は、他の展示物とのあいだにまずポジティブな「空間」を開く。それは、冷蔵庫にある座標からの距離という意味ではもちろんない。それは「作品かもしれないし、そうでないかもしれない」──あるいは「作品でもありえる」という状況で谷口の目前に現れ、反省を呼び込むだろう。ワインという液体と、インスタレーションのモチーフになっていた「水」や「毒」との類縁性。冷蔵庫(プライバシーの代表例だ)を覗くという窃視症的な欲望を待ち構えたかのような嗜好品──いや、ディオニュソスはワインの神だったはずだ。もしくは、オープニング・パーティの残骸を展示したリクリット・ティラヴァーニャへのなにかアイロニカルな目配せ。

はたしてワインがそこにあることは、実際にそれが芸術作品であったかどうかが知れる前、可能性にとどまるあいだから、すでにその提示の仕方についての反省を含むプロセスを引き起こし始める。だがこのプロセスの励起自体が芸術作品の条件ではないか。この、実際は本当にたまたま置き忘れただけのワインは、芸術作品なのだろうか、いやそれ以前にそれは表象つまり「何かについての」ものなのだろうか……というように、少なくともそれは”その場”で、表象かどうかという問いを喚起し、場合によっては終ぞその問いに答えることなく、「表象かどうかについて」の表象であるという着地を得るかもしれない。

[Fig. 10] Gregor Schneider, u r 1 u 14, SCHLAFZIMMER, 1985, ©Gregor Schneider / VG Bild-Kunst Bonn https://www.gregor-schneider.de/press_photos/

福尾は、グレゴール・シュナイダーの《u r 1 und 14, SCHLAFZIMMER》(1985)について、「本当の寝室としか思えないような」ベッドだけがある部屋、と形容する*38。福尾は、そのベッドが別の作品のレプリカで、別の機会で展示されたものの使い回しであることにも言及しながら、シュナイダーの諸作品が「なにかの中にいる」ことの脱臼を試みる操作をしていると考える。

美術館の中にいる、と思ったら寝室の中にいる、と思ったら作品の中にいるがそれは家の中の家が解体され移設されたものだ。パブリックな制度から弾き出されたと思ったら他人のプライバシーを見たと思ったらそこからはじき出されその先に作品という事実との出会いがある。それはこの作品のプロセスがそうであるように、相対的かつ人為的な外部/内部の対立を超えた運動に身を任せている。*39

ケン・ワイルダーは、レーベンティッシュの「サイト(場)」概念の乱用・不必要性を指摘して、むしろハイデッガーの「ゲシュテル」にあたる「枠づけ(framing)」という単純な空間的様相から捉え直すことを提案している。

ここで重要なのは、そのフレーミングにおいて、いかにインスタレーション・アートが、わたしたちの言うところの内側の現実と外側の現実(inner and outer reality)とのあいだにある関係を構造づけるような、形づくられた特質を達成しているか、ということだ。*40

ここにも「内側と外側」という空間の比喩がある。しかし前節の最後で論じたのと同様に、ワイルダーの言及する性質の「関係」こそが、内側と外側をそもそも作り出した当のものだ。

ワイルダーの、「わたしたちが慣れ親しんだ物事の配置を問題化することによって、想像や観念化の行為を強いるような空間を作り出す」「作品の意味論的な内容へと入り込む広いアクセス条件がさまざまに変化する」という見立ては概ね正しい。この条件の変化に応じたアクセスの変化がプロセスであり、形式あるものだ。本稿は、このプロセスを個々の作品ごとに形式として創造してしるしづけられる「空間」つまりメディウムが、「空間化」そのものであることを論じる。つまり、自己差異化する(self-differing)メディウムというより、自己空間化する(self-spacing)メディウム。




VI:空間の(再)空間化


「空間の(再)空間化(re-spacing of space)」という、自己差異化する再帰性を含む概念こそ、インスタレーション・アートの表現一般が形式をもつところのメディウムである。これが本稿の主張だ*41。

その時点でいまだパサブルな空間において、隠喩化はつねに可能(possible)だし、しなくてもいい(passable)。しかし、空間はかならずしも隠喩ではないが、「空間”化”」というときは、それは隠喩(化)の構造をもつ。隠喩化すればそれはそのたび新たな(ある意味論や存在論に蝕まれた、つまり悪魔祓いされた)空間になる。だがそうしてできあがる空間が、かならずしも隠喩ではないために、ふたたびそれはまた「ポシブル」なゆるさを抱える。

空間は、そこで改めて要素が寄せ集められ、含蓄ある空間化が起こるごとに、主題の究極的発現の夢をみて、また可能性に満ちた茫洋な(せいぜい成功した芸術作品においてならば「いささか退屈でなくなった」とは加えてもよい)空間となる。空間はたえまなく(再)空間化し、この空間が空間化していく抽象的なプロセスもまたそうした(再)空間化するところの空間となりうる(しなくてもいい)。

なにを空間とするか、というそれ自体「空間・隠喩」的な問いがまたすでに空間である……という、乱発する自己撞着・自己陥入からインスタレーションの(レーベンティッシュの主張では、あらゆる芸術の)美的経験は始まる。多くの作品では、それは三次元的な拡がりにおける要素の配置に、いかなるまた別の「空間」と呼びうべき主題を接地させるかに左右される。

クレア・ビショップの『ある批評史』は、数多くのインスタレーションを4つのテーマ史に分けて分析する。1章では、イリヤ・カバコフやグレゴール・シュナイダー、またマルセル・ブロータースなど、部屋や美術館などの空間を模した作品が多く取り上げられる。それが部屋の表象であるからこそ開きうる存在論的な「空間」に、福尾はシュナイダーの寝室で迷い込み、あるいは美術館の内側で美術館をパロディしたブロータースの《Musée d’Art Moderne, Département des Aigles》もまた、その誇張された存在論的ステータスに鑑賞者を迷い込ませようとしている。内外が強く成立したうえで「ごっこ遊び」を成立する場合もあれば、内側であることも外側であることも可能なままにすることもできる──なぜなら、パサブルであることもまたポシブルでしかないのだから。

2章ではミニマル・アートやポスト・ミニマル・アートを端緒に、ブルース・ナウマンやヴィト・アコンチ、ダン・グレアムの映像中継を含む作品を紹介する。ここで「(再)空間化」するのは、もともと皮膚や眼球を境界に内外を隔てて成立した精神分析的な「自我」にあたるだろう。わたしは、わたしとわたし以外とのあいだにまた空間があることを、わたしにおいて直面する。ビショップは、草間彌生やルーカス・サマラスに代表される鏡のインスタレーションなどを扱った3章と2章の違いを強調するが、本稿では省略する*42。

4章は、ヨーゼフ・ボイスやフェリックス・ゴンザレス=トレス、さらにティラヴァーニャやサンティアゴ・シエラなど、「社会彫刻」や「関係性の美学」といった語で語られることの多い作家が紹介される。レーベンティッシュがセラやビュレンを引き合いに出して論じた「社会的な場(social site)」と本稿では具さに比較はしないが、ビショップの挙げる作品群もまた自分がいかなる共同体(という空間)のなかにいるかを反省するプロセスとなっている。

これらの分類は、もちろん相互に排他的ではない。たとえば移民を不法に雇って段ボール箱の中に隠して展示したシエラの《Workers who cannot be paid, enumerated to remain inside cardboard boxes》(2000)は、4章で紹介されているが、同時にミニマリズム的なデザインが指摘されている。フリードがミニマリズム彫刻に「隠された擬人主義」を見出したことが想起される。

[Fig. 11, 12] Santiago Sierra, Workers who cannot be paid, enumerated to remain inside cardboard boxes, 2000, ©Santiago Sierra/Kunst Werke, Berlin https://www.santiago-sierra.com/20009_1024.php

空間が力能的可能性いわば「遊び」に満ちているからこそ、主体はそこで自由に、ときに意図的にまたしばしば惰性で動き回り、その動きがまたその空間についての現象学的・意味論的な隠喩化をもたらすダイナミクスを導く。しかしそうして空間は閉じるのではなく、新たに力能的な空間を開く。必ずしも三次元的な拡がりが低階に、たとえば実存的・政治的な「空間」が高階にあるようなヒエラルキーはない。たとえばマイケル・アッシャーによるポモナ・カレッジでのインスタレーションのように、空間を(再)空間化していくうちに、あらためてまた三次元的拡がりへと空間化が至ることもあるだろう。

本稿は次の節で終わる。最終節ではゴンザレス=トレスが開いた他者との空間から着想して、物語行為・発話行為の「空間」を検討する。




VII:発話そしてダンス


レーベンティッシュは政治的な意味でのサイト・スペシフィシティをもつインスタレーション・アートについて、ダントーによる、「当事者的=関心にもとづく(interested)」という表現を引く。そうした作品は、ジェンダーや性的指向、民族的起源、階級などによって「鑑賞者を分断する(divide spectators)」*43。

いっぽうニコラ・ブリオーは『関係性の美学』でフェリックス・ゴンザレス=トレスについて、そのモチーフのひとつにある同性愛が、共同体・カテゴリーの主張を確認するものではない、と論じる。ブリオーによればゴンザレス=トレス作品において同性愛の感覚に根ざした美学は、「だれでも自分のことだと思いうる(identified with by everyone)」*44生活のモデルを示す。

この一見対照的な主張を本稿は調停しない。ともかく、ブリオーが『関係性の美学』で扱う諸作家が、その作品(やはり主としてインスタレーション・アート)において空間化する空間を、「間主体性にもとづく空間」「人間が関係する空間」といえよう。とくにゴンザレス=トレスの作品についてブリオーは、「共存=同棲(cohabitation)の構築や交渉の場」と表現する。キャンディと持てるだけくすねる来場者を見かけることと、ゴンザレス=トレスがパートナー・ロスを失ったこととは、ブリオーが「二つから成る(twofold)」「二人でいること(pairing)」という語で特徴づける美的な様式の表現において、同じような空間を開く。

ゴンザレス=トレスが固執したこの問題はこう要約できる。「私はあなたの現実に、どうやって住めばいい?」*45

さて、わたしはあなたでなく、あなたはわたしではない*46。他者、とくに或る他者が自分ではない(それはあなたでもない)という空間が、ゴンザレス=トレス作品において、たとえば要素とその減却のミニマリスティックなデザインのもとに改めて開かれる。積まれたポスター、体重ぶんのキャンディ、二本の絡まった電線に輝く電球(忘れがちだが、電球が何かを照らす光の広さや強さは、人間の生活に合わせて設定されている点で、現象学的にそれは擬人的なのだ。日用品や家具の多くについてこのことがいえる)。


カヴェルが舞台と客席のあいだに見出し、レーベンティッシュが演劇的記号の二重性として一般化した、複数の存在論に属する存在が相互に表象の関係をもつときに開かれる空間は、物語論における、語りの水準の違いへと準えることができる。『千夜一夜物語』において、シェヘラザードの語る「バグダッドの女たち」の登場人物アミナは、シェヘラザード自身とは異なる存在論的階梯にあり、またアミナの語る話の中の若い男はさらに異なる存在論的階梯に属する。

これを「存在論的」な境界だとみなしたのはマリー=ロール・ライアンだ*47。ひとつの語りの行為は、かならず二”重”のレベルを作りうる。シェヘラザードが語り、アミナが語られるというレベル(フィクション)と、シェヘラザードがそのアミナについての話を王シャフリヤールに語るレベル(コミュニケーション)だ。この話がフィクションであるとき、その境界は「存在論的(ontological)」だ。あるいは存在論的に分けなければならないように話が語られるとき、その話で表象される世界はフィクションとして、現実にたいして距離をとる、すなわち悪魔祓いを経た「空間化」が起こる。

しかしこの語りかけの行為はコミュニケーションのレベルを含む。王にシェヘラザードが物語を語って聞かせるのは、読者であるあなたにわたしがこの文章をとどけているのと同じような空間のレベルで起きている。少々の時空間的距離はあれど、そこで反省されうる空間は、存在論的な分断ではなく、せいぜい現象学的なものだろう。

物語にはしばしば一人称と三人称がもちいられる。『怪盗ルパン』シリーズではルパンは「ルパン」と三人称で語られ、『シャーロック・ホームズ』シリーズではワトスンは「私」と一人称で名乗る。いずれも物語の慣習で一般的なものだ。だが二人称で語られる物語というものがある。ミシェル・ビュトールの『心がわり』やイタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』、ジャメイカ・キンケイド『小さな場所』などがしばしば挙げられる。これらの物語は主に「あなた」という代名詞で語られる。その「あなた」を読者は、ある程度に自分と重なったものとして、またある程度は自分とは別のものとして──つまり、ある程度はコミュニケーションのように、ある程度はフィクションのように聞くことができる。

取扱説明書やレシピ本にある「あなた」を、ユーザーは当然自分のことだと思うだろう。それはコミュニケーションだ。だがビュトールの小説における「あなた」は、読者その人とはまったく無関係な恋愛を経験する。そこでは話はまったくフィクションだ。読者は、誰かが別の誰かの恋愛について、その人に届けるかのように思いを馳せて語っているのを、盗み聞きしたような感覚をもつだろうし、死者に話しかける弔辞を聞くときにも、それは感じられる。しかし、『冬の夜ひとりの旅人が』では当のその本を読んでいる「あなた」が、『小さな場所』では、旅先のアンティグアで白人女性としてのアイデンティティが(ポストコロニアリズムの文脈で)強調された「あなた」が登場する。

「あなた」という呼びかけにおいて、ライアンが分けていた二つのレベルは曖昧に、その語りごとの割合で混ざり合いうる。その混合の度合いは、語りのあいだ一貫して一定であるとも限らない。モニカ・フルデルニクはそれを「同質コミュニケーション的/異質コミュニケーション的」と概念づけ、そのあいだが連続的なつながりにあることを強調する*48。コミュニケーションとフィクションのあいまで語りは揺れ、語り手と受け手の「参与」は、周辺的なものから中心的なものまで──これもまた空間的な隠喩である──ありうる。わたしは「あなた」と呼びかけられて、それを自分のことを思ってもいいし、思わなくてもいい。あなたも。


自分であれ、誰であれ。存在論的に排他的だとみなされていた懸隔ではなく、「話半分にきく」ことが可能な、存在論的に包括的な空間が(再)空間化する。

呼ばれて、応えてもいいし、応えなくてもいい(パサブル)──存在論的な空間。あるいは、それに応えるべきかという社会学的で倫理的な葛藤の空間が、それにふと応えたくなる現象学的な空間が、呼びかけにおいて空間化する。

「私はあなたの現実に、どうやって住めばいい?」

たしかに芸術作品は、ダントーが言うように、現実とは異なる存在論に属するかもしれないが、しかしその空間を果てなく(再)空間化しうる形式は、作品ごとに可能に形づくられうる。呼びかけが同質的だといかにも自然に*49認められるときには、コミュニケーションの空間が開くだろう。しかし、その「あなた」が異質的であると受け取られるとき、話し手が話しかけているコミュニケーションの空間との、存在論的な隔たりは、むしろ強く感じられる。

芸術作品が──文学にかぎらず、絵画や映像、またそうしたものを要素に含むインスタレーションも──鑑賞者に「呼びかけ」たり「話しかけ」たりしているような表象を含むとき、鑑賞者はじかに作品との関わりかたの空間を反省し、再空間化している。映像で語られるレクチャーパフォーマンスは、誰にどのように語られているのか。それがスピーカーから声を出して、鑑賞者に合わせた言語や字幕で語っていることは、そして鑑賞者が椅子に座って、ループの始まりを待って、そこで座って聞くということは、ただエッセイを書籍で読むことと、どのように違う空間を再空間化する点で、インスタレーションとしての格率を得ているのか。

あるいは、電話で聴かれる「展示」*50。鑑賞者おのおのの掛けたタイミングで電話口で聴かれる音声は、その呼びかけを、そのコミュニケーションとフィクションとの度合いについて反省させるように、その人ごとに異なる居場所つまり現象学的な空間から空間化するように機能する。


話しかけること、発話(illocution)は、自分と相手がいかなる空間に、いかように(ともに、わかれて)属すべきかという空間を開くだろう。通りがかりに話しかけること、電話をわざわざかけること、日々市民として抽象的に名指されること、家族と呼びかけあうこと、私自身がつねに私自身に話しかけられていること、同じ声を聞くこと、幻聴に居合わせること。

[Fig. 13] Félix González-Torres, Untitled(Arena), 1993, ©Félix González-Torres/Félix González-Torres Fondation https://www.felixgonzalez-torresfoundation.org/works/untitled-arena

ゴンザレス=トレスの《Untitled(Arena)》(1993)*51は、二人の来場者が、ひとつのイヤフォンを共有することで、そこから流れるワルツに踊ることのできるホールだ。天井が電球で装飾されただけのがらんとした空間は、そこにひと二人ほどが成すダンスを待ち、ダンスが始まるたびに、くるくると回る二人からは、メリーゴーランドから見る景色のように、その部屋がめくるめく回って見える。ジャッドの直方体の周りを歩き回るとその見え方が変わるように。手を引くとダンスパートナーは応える。他の来場者がくれば、二人はまた見られる存在、まるでどこかの誰かがいまそこで踊っているような──つまり、演劇的記号の二重性において──フィクションをまとう。踊ってもいいし、踊らなくてもいい。踊る人になってもいいし、パスしてもいいという存在論的空間がひらける。踊りは美術館のなかで起きている。踊りは二人のあいだで起きている。踊りは社交の場で起きている。音はふたりの耳の「なか」、あるいは「あいだ」の空間で鳴り響いている。


そのたびに再空間化しつづける空間に、音はひきつづき響いている。いま開かれる空間に、この空間から音がとどく。その音はもともと、この空間が開かれるときにもう鳴り響いていた。音は空間をふるわせ、空間のあいだの空間もふるわせて伝播する。そのたびに空間を踊り出るためのキューを、いつ聞くふりをすることもできる。ステップごとにあなたがそのどちらかをえらんだり、ためらったりする、そのようすはダンスに似ている。インスタレーションはダンスホールであることもできる。




*1 原文:ʺI hate installation art, and my hatred energises me in relation to the book I’m now writing on the medium. I just hate it. I think it’s pandering, like belly dancers shaking their stuff and trying to seduce the viewer.” Rosalind E. Krauss, int:David Plante, 2013, ‘The Real Thing: An Interview with Rosalind E. Krauss’ in artcritical https://artcritical.com/2013/08/30/rosalind-krauss-interview/
このインタビューでクラウスがインスタレーションに触れるのはパラグラフひとつ程度だが、そこでクラウスは絵画とインスタレーションとの関係を「インスタレーション・アートは絵画(painting)を軽蔑しているくせに、その空間のなかに絵画的なもの(the pictorial)を含む」と述べてから、やや唐突にジャック・ラカンの「盗まれた手紙」への言及を挟む。ラカンの寓話では、循環する手紙が登場人物を「去勢」する、つまりそのシニフィアンによって「印づけ」られ、象徴化される。ここで、クラウスがインスタレーションの「空間」と呼んだものが、単なる物理的な空間ではなく、手紙という特権的なシニフィアンによって象徴的に統べらるべき「空間」を指すとわかるだろう。ここで「絵画/絵画的なもの」と、名詞と形容詞を使い分けられる点に、クラウスのメディウム論がこの「形容詞」的なもの──「写真的(photographic)」「映画的(filmic)」「パラ文学的(paraliterary)」──の自己差異化に規定されてきたことを想起しよう。インスタレーションの中には、抑圧したはずの「絵画」が不気味に侵入した「絵画的なもの」として蠢く。ラカンのモデルでいえば神経症だ。しかし、『北海航行』でメディウムは「差異化する(differing)」と捉えたクラウスが、この箇所でジャック・デリダの「真実の配達人」の議論を想起していないとは想像しづらいだろう。クラウスは、インスタレーションを絵画という「父の」名のもとで象徴化しようとする倒錯が、この箇所でのデリダの「否認」を導いているように思える。
参照:Rosalind E. Krauss, 1986, ʺ
The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths”, MIT Press, Rosalind Krauss, 1999, “A Voyage on The North Sea: Art in the Age of the Post-medium Condition”, Thames & Hudson, 大岩雄典, 2020,「メディウムとしての批評(的な)」『美術手帖』2020年2月号

*2 Juliane Rebentisch, 2003, Ästhetik der Installation, Berlin: Suhrkamp Verlag。英訳はJuliane Rebentisch, 2012, Aesthetics of Installation Art, trans. Daniel Hendrickson and Gerrit Jackson, Steinberg Press。

*3 Michael Fried, 1967, Art and Objecthood in Artforum Summer 1967, Vol.5, No.10 現在はオンライン上で読むことができる。https://www.artforum.com/print/196706/art-and-objecthood-36708 また邦訳は、マイケル・フリード「芸術と客体性」川田都樹子・藤枝晃雄訳、『批評空間1995臨時増刊号 モダニズムのハード・コア』太田出版、1995 所収。

*4 たとえば国内でも、『美術手帖』1997年11月号(特集:インスタレーション)でも、2年前に訳出された「芸術と客体性」を参照しながら、清水哲朗や谷川渥、上田高弘がこぞって言及している。
参照:清水「インスタレーションの系譜:泉はよみがえったか」谷川「インスタレーションの「場所」論」上田「歴史的インスタレーション」

*5 Clair Bishop, 2005, Installation Art: A Critical History, Tate Publishing, pp.130-131

*6 こうした誤解をレーベンティッシュは「実証主義的」な誤解と呼び、ミニマル・アートの実践者自身も勘違いしていた、と指摘する。

*7 第二章以降で「演劇的(theatical)」という語はもっぱら、イリヤ・カバコフなどのインスタレーションの形容で用いられる。

*8 Rebentisch, 2012, 264

*9 参照:Rosalind E. Krauss, 1999, Reinventing Medium in Critical Inquiry, Winter 1999, Vol.5 No.2.
邦訳はロザリンド・クラウス「メディウムの再発明」星野太訳、『表象08』月曜社、2005、所収

*10 Rosalind Krauss, 1999, A Voyage on The North Sea: Art in the Age of the Post-medium Condition, Thames & Hudson

*11 Niklas Luhmann, Art as a Social System, trans. Eva M.Knodt, Stanford CA:Stanford University, 2000をもとにしている。ドイツ語の原著は1995年。

*12 これを、絵の具がまさに垂らされるアクション・ペインティングゆえと考えるのは尚早だ。むしろこの「移行」とは、形式の創造によってメディウムの空間が改めて開かれ、反省されている──クラウスなら「自己差異化」というだろう──点で、前衛(これも空間的な隠喩である)なのだ。

*13 Gotthold Ephraim Lessing, Laocoön: Essay on Limits of Poetry and Painting and Poetry, trans. E. C. Beasley, London: Longman, Brown, Green, and Longmans 1853をもとにしている。

*14 Martin Heidegger, “Art and Space”, trans.Charles H. Seibert, in Rethinking Architecture: A Reader in Cultural Theory, ed.Neil Leach, London: Routledge, 1997 や、Being and Time, trans. Joan Stambaugh, Albany: State University of New York press, 1996 や、”Building Dwelling Thinking” in Poetry, Language, Thought や、The Origin of the Work of Art in Poetry, Language,Thought などをもとにしている。それぞれ邦訳題は、未訳、『存在と時間』(岩波書店・光文社・中央公論新社・筑摩書房など)、『芸術作品の根源』(平凡社)、未訳。

*15 クラウスがメディウムの自己差異化に「慣習」を置いたことや、また鑑賞という一連のなかの歩く・近づく・目を遣る・芸術作品に触れない…といった行為もまた連関していることを踏まえておこう。

*16 Jean-François Lyotard, “Le performance et la phrase de Daniel Buren”, in PerformanceText(s) and Documents, ed. Chantal Pontbriand, Montreal: Parachute, 1981からレーベンティッシュは引用している。

*17 Rebentisch, 2012, 11

*18 たとえ万一違っていたとしても、二つの美的経験それぞれの美的対象が互いに異なるのとは、違う意味で異なる。

*19 ところで、美的対象と芸術作品との存在論的ステータスの違いとその関係については、レーベンティッシュは明確に記述していない。

*20 Rebentisch, 2012, 66-67

*21 ビショップは『ある批評史』の結論において「モデル」と「リテラルな鑑賞主体」という二つのモデルの緊張を記述する。これが「どれほど近づくか」「二つのあいだ」「重なり合い」という空間的比喩が、ここでいう可能性の「空間」のいくつかのバリエーションを描写しているといえるだろう。

*22 Heidegger, Art and Space, 123. Rebentisch, 2012, 240

*23 福尾匠「ポシブル、パサブル ある空間とその言葉」 『群像』2020年7月号 、2020 所収

*24 福尾、2020、180

*25 アーサー・C・ダントー『ありふれたものの変容 芸術の哲学』、松尾大訳、慶應義塾大学出版会、2017。原著はArthur C. Danto, The Transfiguration of the Commonplace: A Philosophy of Art, Harvard University Press, 1983。

*26 ダントー、2017、122

*27 同、126

*28 Rebentisch, 2012, 194

*29 福尾、182

*30 ダントー、2017、231

*31 この点については、gnck氏主催の「インスタレーションを読む会」(2020.11.7、オンライン)で、伊藤啓太氏から指摘を受けた。ここに感謝する。

*32 しかし、「変容的表象」という表現には、その片鱗が見られる。ダントー、2017、272。

*33 ダントー、2017、272

*34 ダントー、2017、298

*35 ダントー、2017、269

*36 ダントー、2017、270-271

*37 谷口暁彦+松永伸司+大岩雄典, 2019, 「階(レベル)上げ:ゲームとインスタレーションの時空間」https://euskeoiwa.com/writings/online/20190603levelup.html。
また大岩雄典「スローアクター」のアーカイブは
https://euskeoiwa.com/works/2019/slowactor.html

*38 福尾、2020、173

*39 福尾、2020、175

*40 Ken Wilder, Installation Art and Aesthetic Autonomy:Juliane Rebentisch and Beholder’s Share in The Journal of Aesthetic and Art Criticism Vol.78 No.3, 2020,v

*41 ところで、「空間化(spacing)」は、デリダが『声と現象』『グラマトロジーについて』や「ユリシーズ グラモフォン」で「espacement(空間=間隙化、間-化)」と呼ぶものから着想を得ている。「痕跡は、生き生きした現在の内奥とその外〔dehours〕との関係であり、外在性一般、非-固有のもの等々に開かれていることなので、意味の時間化は、最初から『空間=間隔化〔espacement〕』なのである。空間=間隔化を『間隔』あるいは差異として認めると同時に外に開かれていることとして認めるやいなや、もはや絶対的な内面性は存在せず、非-空間の内部が、つまり『時間』という名を持つものが自分を現わし、自分を構成し、自分を『現前させる』運動の中に、『外』が入り込んでしまっているのである」(ジャック・デリダ『声と現象』、林好雄訳、筑摩書房、2005、187)

*42 省略の理由を述べる。ビショップ自身がいうように、主体を未分化・断片化するといえどもその未分化する主体をアクティベートしてしまう時点で、インスタレーションは矛盾を抱えている。もしラディカルに「未分化」が完遂されるならば、それは究極的にもともとパサブルだった空間、ジル・ドゥルーズ/ミシェル・トゥルニエの「島」に立ち戻ることになろう。その点で、第3章で扱われる、ビショップ自身に「擬態」と形容されるような空間は、本稿のコンセプトでいえば、「ゼロ度」の空間化と言えるだろう。その点では非常に関心深いが、論のわかりやすさのために省略した。

*43 Arthur C. Danto, “Postmodern Art and Concrete Selves” in From the Inside Out: Eight Contemporary Artists ,New York: The Jewish Museum, 1993, 20。Rebentisch, 2012, 270。

*44 Nicolas Bourriaud, “Joint presence and availability: The theoretical legacy of Felix Gonzalez-Torres”, in Relational Aesthetics, Les presses du réel, trans: Simon Pleasance & Fronza Woods, 2002, 40-64

*45 Bourriaud, 2002, 52

*46 そして、わたしのあなたでなさと、あなたのわたしでなさすら、わたしたちは共有することができない。ただ共有されうるものがあるとすれば、この残酷な「何が共有できるのかもわからなさ」ではなかろうか。たとえば、比較的長い潜伏期間をもち、無症状によっても媒介されるCOVID-19は、「わたしですら、わたしが感染しているかわからない」という、存在というものの徹底的な「機密性(confidentiality)」を顕にした。だが機密であるからこそ、もはや信頼(confidence)を託すほかよすがはない。参照:大岩雄典「じゃなくて、私がゴドーです……あるいは、Oui. Étrange, donc je le suis:別役実と志村けんの存在論的笑い」『ユリイカ 2020年10月臨時増刊号 特集*別役実』青土社 (この自身の論考との接続については、きりとりめでる さんから示唆を受けた。ここに感謝する)

*47 Marie-Laure Ryan “Metaleptic Machines” in Semiotica, De Gruyter, 2004

*48 Monika Fludernik ʺSecond Person Fiction: Narrative You As Addressee And/Or Protagonist”, in Arbeiten aus Anglistik und Amerikanistik 18, 1993

*49 「いかにも自然に(comme naturellement)」という表現は、ブリュノ・クレマンのプロソポペイア論『垂直の声』から拝借した。「「複数的なものの思考はいかにも自然に〔comme naturellement〕物語叙述の欲動に身を任せる。いかにも自然に……。この表現あるいはこれに類した表現は、本試論を通してたびたび現れることになるだろう。というのも、この定式化のうちに私の主たる関心事の一つが隠れているからである。それは様々な例を通してじっくりと示され、また変奏されることになるのだが、いまから次のことは告げておきたい。すなわち、一見すると似ているだけにすぎないように見えるそれらの例に共通しているのは、比喩形象〔figure〕一般をめぐる問いかけ、とりわけ、声を活用する比喩形象をめぐる問いかけである。通念に反して、比喩形象はおそらく自然の対蹠点に位置するものではない」(ブリュノ・クレマン『垂直の声:プロソポペイア試論』郷原佳以訳 水声社、2016、23)。クレマンは、しばしば「顔・仮面」に結びつけられるプロソポペイア(活喩法)を「声」に結びつけ、頓呼的なモチーフが「修辞」でありながら、しばしば人のようなものがそこに顕現するかのようであるというねじれを、「いかにも自然」と表現する。

*50 大岩雄典が2020年に企画した電話展示「Emergency Call」について、ふたつの評を引いて説明の代わりとする。
高嶋慈「レビュー:
Emergency Callhttps://artscape.jp/report/review/10161627_1735.html /佐原しおり「「緊急事態」のアウトライン」 https://bijutsutecho.com/magazine/review/22702

*51 Bishop, 2005, 115で紹介されている。