概念と計算──コンセプチュアルアートとメディアアート

高橋 裕行

1967年にソル・ルウィットは『コンセプチュアル・アートについての断章』で“The idea becomes a machine that makes the art” と述べた。ここでmachineという単語が使われていることに注目したい。機械は人間のような主観を持たず、目的のために淡々と正確に繰り返し動作する。また、入力を変換して出力する。ここでは、アイデアが芸術(作品)に変換されるということになる。ルウィットは機械という単語を使うことによって、芸術家の主観性、署名性、一回性などを回避しようとしているように思える。

他方、沢山遼によれば、コンセプチュアルアートの特徴として「写真、郵便、ファックス、電話などの流通・情報メディアが頻繁に用いられた」点がある。従来の絵画や彫刻に対して、媒体を用い、媒介性の高い表現を行う必然はどこにあったのだろうか。

ルウィットは1966年にシリーズ性のある作品としては初の「Serial Project No.1 (ABCD) 」を発表したのち、1967年にAspen Magazineにブックレットを発表している。そこには、図面、写真、スケッチのほかに、作品を作り出すための規則(アルゴリズム)が掲載されている。

ルウィットは言っている。
“I think I just have that kind of plodding mind. I have to know A, B, C, and D. I cannot go from A to D without knowing whatever is between.”

“plodding”というのは「とぼとぼ歩く」という意味である。AからDに至るすべの道を辿ること。それが彼が自分に課したルールだった。同時期に発表された”3 Zeichnungen: Incomplete open cubes”でも不完全な立方体のパターンを機械的に数え上げ、図示している。

今日、数える機械であるところのコンピュータを用いるわれわれは、こうした制作手法に慣れている。例えば『Generative Design Processingで切り拓く、デザインの新たな地平』に掲載されている図によると、1.アイデアは2. 規則・アルゴリズムに抽象化され、3.ソースコードとして形成化され、しかるのちに、4.イメージやシミュレーションが生成される。パラメータ(変数)を変えることで、ひとつのアルゴリズムから複数のアウトプットが生まれうる。

こうした制作プロセスに自覚的なメディアアート作家は無数に挙げることができるが、たとえば、藤幡正樹は「お椀の船に箸の櫂/一寸法師」(1984年)の制作について、次のように述べている。

「プログラミングを勉強するつもりで、私はまず回転体を生成するプログラムを組むことからはじめました。モティーフとして、日本の回転体の代表として漆のお椀を選び、その断面図から三角関数を使って立体の3次元データをつくりました。するとその関数の扱い方をちょっと変えるだけで、ロクロでは絶対に見出しえないような形をつくることができることを発見したのです」「そこで考えられる限りのバリエーションをつくってみようということになって制作されたのがこれらの作品です。結果的に形がパラメトリックに表現されているということは、その関数がつくり出すあらゆるバリエーションのうちのある特殊な状態だけが、まともなお椀というものになることになります。ということは、この現実はたまたまこうなっているにすぎないのではないか?というふうに私には思えてきました。」

ここで言及されているのが哲学的に、可能性なのか、潜在性なのか、今はそれについて深く論じる余裕はないけれども、いずれにせよ、コンピュータ(機械)によって作品を制作するということは不可避的にこれらの思考をおびき寄せる。

CTGは1960年にXYプロッタを用いた作品を発表している。そこで彼らのマニフェストを紐解くと、興味深い点に言及している(下線著者)。「コンピュータ・アートは新しい芸術である。コンピュータ・アートの発展は、現代芸術にはかり知れない変革をもたらし、さまざまな局面から、既存の芸術観と世界観をきりくずしていくと考えられる。第一の局面は、機械の制作行為が人間の制作行為と本質的に異なるところにある。人間の感覚は、この世界を、この時・空間をある解釈の方法によって捉えているに違いない、そして捉えかたが過去の芸術を規定し、限定していた。しかしコンピュータ・アートの場合、我々が機械に与えたプログラムは、計算機の内部で、プロッターの動きを指令する言語、すなわち座標言語に変換される。座標言語とは、ある事象を、その性質と空間・時間に於ける位置とによっておきかえる言語である。具体的に言えば絵画をカンバスのうえにおかれた顔料の付着状況としてとらえ、画面中のある一点について、そこの点がどこに位置し、塗られている絵具はどのような状態であるかということで絵画を言い尽くそうとすることである。絵画の制作プロセスを座標言語に変換することによって、また座標言語に個有の思考方法は、在来の作品とはまったく別の発想と展開をもってコンピュータ・アートを成立させる。それらは、我々に強烈な刺激を支え、その観念の変換を迫ることだろう。第二の局面は、コンピュータ・アートは芸術の方法を全面的に変えていくことである。そしてその変革は芸術にとってもっとも本質的なものは何であるかをはっきりさせる。すなわち芸術家の行為の職人的側面もしくは、機械的側面をすべて、コンピュータに明け渡すことによって芸術とは何か、があらためて問われることとなろう。世界に対する新しい解釈を想像するメタフォアとしてオリジナルイメージと、それを定着させるプロセスのプランニングがコンピュータ・アートをささえる本質である。」(1967年10月9日『シンポジウム 電子計算機と芸術』パンフレットより抜粋」)

ここで重要なのはひとつに「座標言語」すなわちソースコードの存在が言及されていることと、もう一つには、機械を用いて制作するとき、(人間による)「発想」と(機械による)「制作」、あるいはコンセプトと物質が分離するということである。

メディアアートから離れて論を展開すると、ソースコードの発想を音楽に遡ることもできる。すなわち、楽譜の存在である。9世紀に開発されたネウマ譜は西洋音楽が西洋音楽足らしめている重要なエレメントである。それによって我々は遠く離れた時代の音楽をある程度の確かさで想像することができる。と同時に、楽譜の存在は、作曲家と演奏者が別の人間でも構わないということを示唆する。それはあたかもソル・ルウィットがドラフターに自分の絵画を描かせたり、ジョン・バルデサーリが「委託絵画」(1969-1970)において日曜画家に絵画を委託したのと構造的には同じである。また、楽譜は中間生成物として、曲の推敲を可能にする。実際、楽譜の発明とともに西洋音楽は複雑なポリフォニーが可能になった。たとえば、モーツァルトは下書きをしないことが多く、「また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。」という逸話もあるほどだが、作品によっては楽譜上での推敲を行っていた。

杉浦康平と武満徹による「ピアニストのためのコロナ」(1962年)は図形楽譜であると同時に、それ自体が観賞の対象となる作品である。ソースコードが作品と言われることは稀だが、ソースコードの「美しさ」(多くの場合は簡潔でコンパクトであるということだが)が云々される場合は少なくない。

楽譜とコードの共通点についてまとめると、
・頭のなかと、作品(最終生成物)の中間に位置する「情報」であり「もの」である。
・他の人々(演奏家やドラフター)、機械への指示となる。
・推敲することでアイデアを深めることができる。
・物質的な作品が失われても、残ることがありえる。
・それ自体の「作品性」や「美しさ」が議論されることがある。

ソル・ルウィットは “To work with a plan that is pre-set is one way of avoiding subjectivity.” と言っている。ここでも「機械(machine)」という比喩とのつながりが見いだされる。機械的に、単調なまでに、繰り返すこと。トニー・ゴドフリー『コンセプチュアル・アート』によると、シリアル性(連続的要素)は、コンセプチュアルアートの特徴の一つだという。

「傑作とは、芸術として最高のキャリアを成就した成果が凝縮した1枚の絵画または1点の彫刻だとするならば、シリアルはむしろ複数の代案をまとめて提示するものである。複数の作品のあいだに優劣はない。最後にできあがったモノよりも、シリーズとかプロセスの根底にある概念のほうが重要だと考えられた。傑作とは、芸術として最高のキャリアを成就した成果が凝縮した1枚の絵画または1点の彫刻だとするならば、シリアルはむしろ複数の代案をまとめて提示するものである。複数の作品のあいだに優劣はない。最後にできあがったモノよりも、シリーズとかプロセスの根底にある概念のほうが重要だと考えられた。」

たとえば、河原温のデイトペインティングは特にわかりやすい例だけれども、ダニエル・ビュランなど、一つのパターンを決め、繰り返すことで、狭義の作家性(署名性)を希薄にしようとする動きはコンセプチュアルアートにはしばしば見られる。ここで同時代に発表されたロラン・バルトの「作家の死」(1967年)に論を繋げることもできるだろう。起源や作者という概念の代わりに、テキストや聴衆を持ってくるセンスは、コンセプチュアルアーティストと共通のところが感じられる。

コンセプチュアルアートは周知の通り、短命のムーブメントだった。1960年代の後半に始まり、わずか数年の間に絶頂を迎え、飽きられていった。そのカーブは、ガートナーのハイプ・サイクルを思い起こさせる。すなわち、黎明期、「過度な期待」のピーク期を経て、幻滅期に陥ったのち、「枯れた技術」となり、啓蒙活動期、生産の安定期に入っていく。コンセプチュアルアートの手法は、現代アートに多大な影響を及ぼしており、いまや誰もが使うことのできる「枯れた」「共有物」となったのではなかろうか。

メディアアートの弱点を挙げてみる。
・作品の市場がない。
・作品が複製可能で希少価値がない。
・作品が壊れやすい。
・アーカイブだけでは作品体験が伝えられない。
・作品の修復、再制作が難しい。
・作品の展示機会が限られ、作家、観衆ともに教育や世代継承がうまくいかない。
・過去の焼き直し、縮小再生産的な作品がうまれやすい。
・デザインや現代アートにも映像やインタラクティブな手法が導入され、ジャンルの固有性が希薄化。
・技術が普及すると作品が陳腐化してみえる。
・発表当時の観客と同じような体験は難しい。
・ブラックボックス化した先端技術は表現に使いにくい。

これらのうちいくつかは、実のところ、コンセプチュアルアートが「意図的に」目指した地点でもある。非商業的で市場と距離を取ること。一回性や完全性、永続性の否定。その反対のエフェメラルなものへの志向。記録性へのこだわり。

生成的であることはコンセプチュアルアートの特徴のひとつに過ぎず、メディアアートにおいても、そのテーマの一部に過ぎない。コンセプチュアルアートの他の特徴についても、いずれメディアアートとの比較を試みてみたい。