She’s someone.

肥髙 茉実

「わたしたちは女にかぶせられている呼び名を返上します。無名にかえりたいのです。なぜなら、わたしたちはさまざまな名で呼ばれていますから。母・妻・主婦・婦人・娘・処女……と」


「『無名通信』 創刊宣言」、『森崎和江コレクション―精神史の旅 地熱』第1章( 藤原書店、2008

世界各地でたびたび “She’s someone’s sister / mother / daughter / wife.”というスローガンが掲げられるように、誰かの姉妹、母、娘、妻として周縁化/従属化されずに「ひとりの人間」として生きたいと願う女性は多い。男女平等が遅れる日本では、戦後にようやく「個人の尊厳と両性の本質的平等」が制定され、これが旧来の家父長的家制度を解体し、家庭という親密圏における男女平等を問い直す契機となった。男性にとって「よりよい女」であることを強いられていた当時の日本で、この憲法制定はどれだけの女性に希望をもたらしただろうか。

約74年が経ち、家族のかたちも多様化し、女性の人生に選択肢が増えたのは確かだが、いっぽうで家庭や学校、会社などの人間形成において重要な環境でいまだ保守的な価値観が再生産されていることに、私たちは気付き続けなければいけない。世界経済フォーラムが毎年公表している男女格差を測るジェンダー・ギャップ指数において、2019年の日本の順位は153ヶ国中121位。システマチックな日本の不寛容が、人間の生活における「男と女」の二分化を温存させ、LGBTQを含む多様な性に影を落とし、セクシュアリティへの分析を妨げている。その因は、日本の国家や権力が(とくにマイノリティにおける)生活の諸問題を、経験的次元に留まるロジックに安易にスライドし続けてきたことにあるだろう。


美術の世界においても男女格差は大きく、19年には、ウェブ版「美術手帖」がそのアンバランスを明白にする統計データを公開(*1)。様々な分野での、よりオープンな「見える化」とジェンダーフリーの機運を高めた。東京藝術大学では、11名の女性作家による展覧会「彼女たちは歌う─Listen to Her Song」が開催された。参加作家は、乾真裕子、遠藤麻衣、菅実花、金仁淑(キム・インスク)、鴻池朋子、小林エリカ、スプツニ子!、副島しのぶ、百瀬文、山城知佳子、ユゥキユキ。キュレーターは同大准教授の荒木夏実だ。本展では、各作家が女性であるがゆえに体感してきた結婚や家族制度をはじめとする既存のシステムや価値観の不自由さを作品を通じて問い直し、見る者にオルタナティブな世界への想像を促した。


小林は、2020年1月より筑摩書房PR誌『ちくま』で表紙連載中の、歴史上の女性に焦点を当てたポートレイトとエッセイのシリーズ「彼女たちの戦争」を、初回から最新回まで原画とともに公開。放射能の名付け親であり、世界で初めて二度のノーベル賞受賞を果たした科学者マリ・キュリーや、核分裂を解明した張本人でありながら男性に手柄を横取りされ、挙句にはマスコミから「原爆の母」という汚名だけ着せられたリーゼ・マイトナー、結婚制度や道徳と対決しつづけた婦人解放運動家・伊藤野枝の虐殺などを取り上げている。「彼女たち」が追いかけたテクノロジーや社会民主主義、クィアな抵抗の可能性、ときには彼女たちの命そのものが、暴力によって潰されてきた史実を改めて知ることから本展は始まった。

 

菅は、近代から繰り返し描かれてきた「浴女」を再解釈し、浴室の曇ったガラス越しに球体関節人形を撮影したポートレイトシリーズを展示。その表現は人間と人形の境界を曖昧にし、また作家自身を含む多くの女性が経験のあるノゾキ・盗撮被害と美術史の接続によって、女性性と、自らと反目する主体性との関係をも抉り出す。他方で遠藤は、昔話のなかでたびたび蛇のような存在が描かれてきたことに着目し、当時はそれが非人間あるいは外部の人間の表象だったのではないかと仮説を立てる。本展では、古代五風土記のひとつ『肥前国風土記』に記された蛇と人間の女性との交わりを、90年代のマンガ調に翻訳するという展開を見せた。

 

アートという実践を通じた歴史の再解釈──過去と現在、人間と非人間、見る・見られるの境目を揺らぎながら、過去の社会構造や文化を独自の手段で語り直すこと──は、ジェンダー意識がいかに構築され、循環しているかを考察する機会となる。新聞や学校の教科書で学んできた歴史はもはや寝言のように不確かで、私はそれを無批判に受け入れることよりも、過去と現在を再解釈するための独自の手段を考え直すことのほうが生産的だと思っている。在日コリアン3世として生まれ、ソウルでアーティストとしてのキャリアをスタートさせたキムは、身近な家族や朝鮮学校、ドイツに渡った韓国系移民を取材した写真インスタレーション《Stacking Hours 2001-2018》(2020)を展示。グローバルに展開されたいくつかのシリーズを組み合わせた本展オリジナルのインスタレーションには、親族の骨壷を持つ作家のセルフポートレイトのほか、朝鮮学校で出会った少女Heesaがやがて成人し、韓国へ留学し、初めて自身のルーツをたどり、結婚するまでの成長物語も含まれる。娘が妻となり、母となり、いずれは骨となり、また別の場所で新しい命が生まれる……という世界各地で繰り返される普遍的な個人史とその連なり、家族の拡張を明快に表現した作品だ。

 

身体や人種、国、信仰、経済階級、時代、歴史認識など、自己と他者の間には様々な違いがあり、それぞれ異なるものとの間に豊かなグラデーションを湛える。しかし政治的言説は、その豊かさを大幅に省略し、人間にイデオロギーの限界を課してきた。自己と他者の境界線が薄れていく様子を収めたこの作品の被写体はみな凛々しく、その顔つきから朝鮮学校の民族教育によって根付いた自らの内なるコリアへの誇り、それを子や孫の世代に継承する親の意志と受け継ぐ子の意志がうかがえる。顔とは、人々の生きてきた時間がそのまま刻まれるものであり、その成り立ちは他者の想像を遥かに越えていく。文化の違いや民族性を表現しながらも「人生」という普遍性を強調するキムのスタイルは、集団としてカテゴライズ(=要約)されることへのNOであり、一人ひとりのアイデンティティを尊重する社会への展望といえるだろう。

 

人を見下ろすほど巨大な編みぐるみのインスタレーション《あなたのために、》はユゥキユキの作品だ。「三女のサン子ちゃん」と名付けられた編みぐるみは、ユゥキユキが過保護な母の呪縛から逃れるために母とともに編んだもので、彼女を支配するインナーマザーを表象している。「どうして普通にできないの?」「ヘンな子」。私自身、家庭と学校が世界のすべてだった子供の頃に、家族や先生、クラスメイトからこのように言われた経験は、20年経ったいまでも時折フラッシュバックする。多くの人が外部からのショックを内面化し、やがて自分で自分を抑圧する想像の声=インナーマザーに育て上げてしまうのだ。

 

コスプレなどのオタクカルチャーを好むユゥキユキは、〈自己と他者〉〈虚構と現実〉など、境界線を引いたうえでしか成り立たない愛情への強迫観念から作品を着想。その境界線を「欲望の受け皿」として向き合うなかで、原因のひとつであるインナーマザーの存在を探り当てたという。「サン子ちゃん」の胎内には、作家がBLのコスプレをした友人相手に「BLのキャラクターとして」恋愛感情を抱く映像が、そして背面には、インナーマザーを殺すことを試みるもそれはできないという作家の悟りと葛藤を描いた映像が流れる。母娘の関係では満たせなかった理想的な愛情を、BLのコスプレを通じた別の愛情で補おうとする同作は、母と娘が「母と娘」というひとつの関係性でしか交わることができない宿命を人々に再認識させる。制度としての「家族」、そして誰かを愛することとは何か。母と娘の間には「壊してはいけない」境界線=欲望の受け皿が横たわり、その閉じた親密さゆえに、互いに強い期待や罪の意識を抱え合う。「壊してはいけない」という共通意識は、いついかにして生まれたのか。仮にいまあなたがインナーマザーの存在を自覚するとして、ついさっきまであなたが実感してきた「自由」はいったいどの程度の自由だろうか。

 

展示室と展示室をつなぐ階段で、鴻池の「インタートラベラー」を見上げた。狼の毛皮から少女の足が覗くこのオブジェは、鴻池が「死者と遊ぶ人」として人間・獣・自然の境界を行き来する「回路」であり、見る者に、生や死、魂の再生の神話的イメージを与える。スプツニ子!は《生理マシーン、タカシの場合》(2020)を通じて、宇宙や月への旅行すら叶う21世紀に、なぜいまだに毎月出血するという野蛮なサイクルが女性の体に起きているのか、テクノロジーの分野のジェンダーアンバランスと、結果としての現在に一石を投じる。

 

アジアの民間伝承や民俗文化のリサーチに基づくアニメーションやオブジェを制作する副島は、人形が人間のように涙を流す映像を発表。ありえない生理現象を描いた同作は、人間と人形の越境を端的に示し、また肉体の機能性や役割が定められている社会の様相を呈する。乾は、おしとやかな振る舞いを求められ、自由に走り回れない幼少期を過ごした。《月へは帰らない》(2020)は、竹取物語でかぐや姫がほとんど座っていることへの共感や、愛を拒絶するシーンの多さへの疑問から着想を得たという。 女性とされることの不自由に悩む作家と、抑圧的な家庭に育った母、そして竹取物語のかぐや姫。母との対話とかぐや姫の考察を接続しながら、3名の女性それぞれの時代を、フェミニズムの視点から探る試みだ。

 

百瀬の作品《Social Dance》(2019)では、恋人同士であるろう者の女性と聴者の男性のすれ違いが描かれる。耳が聴こえない彼女は、過去にあった嫌なエピソードと当時の感情を手話で相手にぶつける。パートナーの男性は激昂する彼女をなだめ、愛情を示そうと彼女の手を握るが、それは結果的に彼女の言葉を封じることにもなってしまう。その齟齬から浮かび上がるのは、身体を通じたコミュニケーションが持つ二重性だ。また本展で、百瀬と遠藤は、理想的な性器と新しいセックスについて粘土をこねながらおしゃべりを繰り広げる共作《Love Condition》(2020)も展示。同作でふたりは、性差、男性主導、射精至上主義、その他云々、75分間にわたる結論の出ないおしゃべりを意識的に編集なしで見せる。映像メディアは男性主導のセックス観の再生産を促し続け、今日も多くの人が男性視点のポルノやAVによっていかに性欲が掻き立てられるか知り、自らの性をインストールしている。生命の誕生から今日までに、人間は性器にどれほどの意味を込めてきただろうか。アメリカの女性画家ベティ・トンプキンズは、セックスにおける挿入をクローズアップで写実し、神聖とされてきた「母」というアイコンの意味を明確に壊したが、ふたりは、おしゃべりが持つ無時間性を利用した長尺の映像で、すべての人間を性差から解放する「理想的な性器」の発見が永遠の難題であることやそのジレンマを、言わずに悟らせる手段を取っている。

 

沖縄出身の山城は、米軍基地移設のために辺野古の海を埋め立てる仕事をする男性と家族、先祖の土地を守る老人と孫娘の生活が交差する悲喜劇《チンビン・ウェスタン『家族の表象』》(2019)を監督した。オペラや民謡といった「歌」や過剰な演技などの身体的要素を用いて、沖縄の政治の歴史を内面化する作品である。私はこの作品に、主体的に歴史をたどることは自身の社会化であると同時に、アイデンティティというズレに気付き直すことでもあると確認する。「11人の女性アーティストによる差異を越える試み」として開催された本展は、よりたくさんの人とズレや抑圧を共有し、「彼女たち」と同化するための展覧会ではない。社会意識との自らの間のズレを見つめ直すことで、千差万別のアイデンティティを逆照射し、大きなスケールで未来への想像を巡らせる展覧会である。私は、あなたは、いかに社会意識や他者とのズレを飼い慣らさず、自分のズレを好転させていけるだろうか。

 

アーティストとは、政治における与党・野党のように、基本的にはどの立場とも敵対することなくニュートラルに意思表明し、議論を交わすことができる生き方だと私は考える。百瀬は、アイデンティティやセクシュアリティの問題を見つめることは「波が寄せては返し、つねに輪郭が揺れ動く渚で、海からやってくる貝殻も、陸に転がる空き缶もどちらも拾い集める」ような感覚だと語った。「答えを出さない」態度は無視されやすく、渚のような足場の悪い場所にあえて立つことでもあるが、それでも彼女たちは、アーティストが持つある種の弱みを利用しながら様々な境目を揺らぎ続ける。


「展覧会」は、公になるまでにも数えきれないほどの干渉が入り、様々な軸での揺れや、他者やシステムとのせめぎ合いのなかでつくり出されていく。ときに作品が持つ意味や構造が省略され、ときには嵩増しされるという点で、展覧会は、彼女たちの複雑な揺らぎを複雑なまま見せる最適なアウトプットとは言い難い。しかしその揺らぎの態度を「展覧会」として立ち上げた本展からは、不安定な「渚」にどうにかしてホームを建てようとするようなキュレーターの切実さや真摯さが感じられた。


「彼女たちは歌う」は終わりのない持続的なプロジェクトであり、会期終了後も引き続きジェンダーや美術教育の課題を考えるために、展覧会タイトルと同名のウェブマガジンを発行するなどの活動を展開していく。(公式ホームページが閉鎖されない限りは)いつまでも、私の、あなたのタイミングで、彼女たちの身体と思考、体験を通じて発せられる言葉に耳を傾けることができる場だ。


私は、キュレーションにおいて切実さが貫かれたときに表出する多少の無骨さ──統合されすぎない各作品の手触りや耳当たり──に、本展の煌めきを感じる。彼女たちの揺らぎは、作品を通じて身体的かつ開放的な「声」へとかたちを変え、その後も私の心に残響し、昨日よりも今日、オルタナティブな未来を手前に引き寄せてくれている。

2020年8月23日(日) 無料オンライン配信 | 内海潤也、乾真裕子、金仁淑、百瀬文「枠組みを超えて」
2020年8月29日(土) 無料オンライン配信 | 岡本美津子、中村政人、遠藤麻衣、副島しのぶ、ユゥキユキ「藝大とジェンダー」
2020年8月30日(日) 無料オンライン配信 | 上野千鶴子、菅実花、小林エリカ、スプツニ子!「フェミニストっていう?いわない?」