Sampo Tokyo Relaxation

millitsuka

イラストで描く風景や状況は基本的にすべて行ってみたい場所や、置かれてみたい状況などの「理想の空間」である。私の脳の中にあるそれが一番新鮮で、“理想”に近いものと思っている。あくまでも理想なのでそれは本物ではない。脳から取り出せないから絵でも描かないかぎり他人に見せることもできない。もし現実にその空間を再現するとなると、壁の材質はなにで、照明はどこから当てて、ここは現実的には再現不可能なため別の案で代用して……小さなズレが生まれる要因を無数につくり、出来上がったものは絶対に自分の思い描いたものとはかけ離れた鮮度落ちまくりのものになるだろうという自信がある。そのようなことは実際やった試しがないので、知らないが……行きたいけれど行きたくない。行けるもんなら行ってみたい。もし生きている途中で私が絵に描いたような夢のような空間にたどり着くことがあり、現実と理想のどうにもならない溝の虚しさを目の当たりにしたとき、そこは途端に一生行けない場所として諦めざるを得ないものになってしまう。それがとてもおそろしい。ので、理想の空間や状況をいくつも描いていれば万が一そのような場所に遭遇しても別の候補がいくつもあるので安心して歩き回ることができる。

空想上の怪物はしょせん、人の頭で考えたものなので既存の動物や人間のパーツをつぎはぎするようにして作られている。だから私も理想の空間を作るためのパーツやヒントとなる状況を歩きながらえんえんと探している。見たことのないものは想像が出来ないし、知らないものは脳をいくらこねくりまわしても知らないままだ。本当の怪物はさぞ人間の想像の範疇を超えた外見なんだろうが、そこに少しでも私の知っている要素がないと愛嬌がない。鹿の足とか、バクの鼻とか、知ってるパーツが あれば分かりあえるかもしれない。好きな食べ物が分かるかもしれない。私の生活と地続きの部分が ないと、その空間に希望が持てない。

街にはこのように、魅力的なパー ツや状況が無数に存在している

外を歩けばいくらでもそのパーツが選びたい放題なのですごい。タダだし。交通費さえ出せば町の色ごとに見るものの雰囲気を選ぶこともできる。(たいてい行ったことのない土地を選び休憩がてら知らない喫茶店に入るのが好きなのでお茶代もそれなりにかかる、ケーキセットを頼んでしまうし)散歩が趣味とは言っているが、これは自分が東京生まれ東京育ち、駅と駅のあいだは大体激近であるからこその趣味だと思っている。歩くことに飽きたらすぐそばにポータルがあるので気楽に帰ることができる。東京以外の土地で散歩した際、恒例である「一駅分なら歩くか」を行い日の沈みきった音の無い無人駅でベソをかいたことがある。東京ではそのような危険性がないので安心である。散歩をする気がおきたとき、その日が休日であればgoogle mapを見て自分の行ったことのなさそうな駅を選びそこに向かう。だいたい行ったことのある喫茶店にはお気に入りの☆マークがついているので、その星の隙間を探す。

つねにタイムライン機能をONにし ているので、適当に歩いていてもどこを歩いたか知りたくなったときは調べることができる

移動は電車だが大体駅のまわりを歩くのはつまらない。年月が経つにつれて好きだった駅がみんな吉祥寺みたいになっていく。なんでですか?(吉祥寺を悪く言っているわけではありません、どこに行っても同じような駅ばかりでつまらんと言っています)到着したら、とりあえず駅からどんどん離れるように目的地も決めず歩きはじめる。下町的な土地であれば道が細い方へ、坂が多い街なら坂の上、ビジネス街なら大通りから離れて、繁華街が近ければ人の気配の少ない方へ。気を抜くとすぐ別の駅にたどり着いてしまうのでその点も注意しつつ、しかし地図はできるだけ見ないようにする。曲がり角を曲がった先を知ってしまってはそこまでの歩きがすべて過程になってしまうのでもったいない。

決まりがあるように動いているが無意識に判別していることが多すぎるのですべてを書き出せない。おそらく思うに、主な目的としては『パーツ集め』と『どんな状況を自分は理想だと思っているのかを知るため』に歩いている気がする。

たぶん名前のついているものを歩きながら集めるとなると、もっと簡単でやりやすいのだと思う。集めたときにジャンル分けが容易く、それらに対してつける名前が秒で出てくるようなオブジェクト群であれば、他人に共有もしやすいし自分1人だけでなく他にも誰かが見つけようとしているという事実を知ることができるだろう。それも絶対に楽しい。私の場合そういったものがないので、パーツや状況が視界に入ったときに「あ~こんな感じ!」「ちょっと近いけど違うかも」と指名手配犯の似顔絵を描くときの問答のようなものを1人で行いながら歩いている。言葉で説明できないので出来上がったものを見て、これはこうじゃないとか、これを言いたかったんだよとか後出ししてくる人たちのように。完成しているものに対してちゃちゃを入れるのはらくちんで無責任で、たのしい。外郭を見ることによって何が真ん中にあるのかを確かめている。歩いているだけなのになんだかえらそう。

ただ歩いているように見えてずっとキョロキョ ロと色んな方向に視線を移し考えながら移動しているので、再度その土地に来たときタイムラインを見ない限り来た道を思い出すことはない

『パーツ集め』と『状況探し』の他に歩いていて楽しいと思うことは、目の前にランダムで自分の予想していないオブジェクトや状況が現れることだと思う。本当は、google mapで星の隙間を探さずに、ストリートビューの人型のピンをポトっと落とすようにして場所を決めたい。100%ランダムで自分をワープさせてより純度の高い偶然性を得たい。ダーツで決めたい。なんなら目的の駅に着くまでの移動中、気を失っていたい。ゲーム的移動方法に憧れがある。最近VRゴーグルを買ったのだが、VRchat内の移動方法がまさにそれで理想を見つけてしまった気がしている。ワールドを選び読み込んだあと、突然自分がそこに飛ばされる。現実だと、移動中無意識に歩きやすい道や向かいやすいアクセス方法でその場に向かってしまうことがあるので、そのような無自覚な選択によりもっと好みの場所に行けたかもしれないという可能性を潰してしまっているのではと思うことがある。

事前に調べてそこに向かうよりも、自分が選んだ抜け道の先にこのようなオブジェクトを見つけたときのほうが 何百倍もおもしろさがあるし脳にこびりつく

行ったことのない場所であればなにもかもがすべて初めて見るもので、初めて歩く道なのでその心配は全くないが、同じエリアを何度も散歩したりしていると無意識に選んでしまう道の多さを強く感じる。自分の動物的な習性を感じる。会社の昼休みにお昼ご飯を食べたあと、残りの30分を使いよく散歩をする。最初のほうはそこそこ目新しさがあったが何度も繰り返しているうちに似たような道選びをしてしまいハッとなることが多々ある。30分間の徒歩で行ける範囲はかなり限られる。回数を重ねるうちに会社を中心として周辺がマッピングされつくしてしまい、おもしろみを見つける難易度がどんどん高くなっていく。それもそれで楽しいが、脳のコントローラーを力づくで握っているようでしんどくなってくる。本当は適当に歩きたい。そこにリソースを割くことにはそこまで楽しさを見出せない。そんなことより片手に持っているデジカメで、見つけたパーツと状況を撮ることに専念したい。

散歩の際、必ずデジタルカメラを片手に歩いている。自分が探したものを記録するという目的はとくになく、イラストを描く際に見返すことも特にない。(たまにあるかも)それよりも、16:9の画面内にどのようにしてこの状況をトリミングするか、散歩に付随するミニゲーム的感覚で写真を撮っている。視界の中から選び出す要素によって『どこだか分からない感』をより出すことができたらこのミニゲームにおいて高得点を叩き出すことができる。今写真を撮ってその場にいるはずなのに、写真の中では自分が行ったことのない場所のように、知り合いなのに赤の他人のように写っている。変なの~。なのであまり人がうつらない場所であればあるほどよい。人が1人いるだけでどんな服をきて、どんな年齢で、などの余計な情報が映り込んでしまうので、自分はひとけのない道ばかり選んでしまうのだと思う。逆にイラストの中では人間が1人いるだけでその空間の広さとか、オブジェクトの大きさや位置関係だとかの状況説明がしやすくなるので定規的な意味をもって人間を描くことが多い。

駅構内は自分の好きな状況を見つけることが多い気がする(どうしてそうなっているのか、すべてに意味があるのだろうが本当のことは聞いてみないかぎりわからないのでくわしいことはよく知らない)

東京はどこにいっても誰かしらがいることが当たり前なので、人がいるべき場所にそれらがないとうれしくなる。砂場の底を見ているような気持ちになる。見たことないけどたぶんこんな気持ちだと思う。小学生の頃、太陽が昇る前のまだ暗い時間に友達と集まり誰もいない巣鴨の地蔵通りを自転車で駆け抜け、そのあと朝日を見るという遊びをやっていたが、今でもそれを面白がる感覚がしつこく残っている。
普段人で賑わう通りが私たちのための道になり、すべての容量が軽くなるようなあの感じが。

東京で必ずひとけがなくなる時期といえば、大晦日の夕方頃であった。実家が遠くにある人はそちらに帰り、友達にも会えなくなる。決まってその日は散歩をする。私の実家はいつでも帰れるような場所にあるので年越しの瞬間だけ家族と共有すればよいかという気持ちで、ギリギリまで渋谷や新宿を歩く。日が暮れるにつれて駅から人が消えていく。普段見渡せないような場所が遠くまでよく見通せるようになる。歩き疲れたら新宿駅の中にある喫茶店に入り、人が消えていくさまをコーヒーを飲みながら眺める。店の中には私の他に、普段何しているか分からんようなおじさんが1人でボーッとしていたりする。喫茶店は19時閉店なので、時間が来たらまた外に出て先程よりもさらにひとけの無くなった新宿駅を歩く。大晦日に見るそのような風景を私は“今だけの期間限定ビュー”としてかなり独占的な気持ち、もてはやしていた。最近では自粛の気持ちがつくりだした都心特有の風景としてテレビに映し出されていて、都内に住んでいない人でさえもその風景を知ることになった。
本当はもっと行ったことのない場所に行きたいが、新宿駅や会社のまわりなどの同じ場所であっても、季節や時間によって気付くことが変わってくるのでそこにも面白さがあるのが散歩のいいところだと思う。

すれちがう人がよく見えるのが新鮮。人がいなくなっても関係なく動 き続ける部分が、見やすく浮き出てくるのでそれを見るのもたのしい

小学生の頃、親から譲り受けた小さいvaioの中にプリインストールされている「さぱり」という仮想空間でチャットができるサービスでよく遊んでいた。「さぱり」は「Sampo Park Relaxation」の略だということを大人になってから知った。その頃から私は散歩から癒しを得ようとしていたのか?
「さぱり」では簡単な3Dモデルの動物アバターに扮してチャットを行うことができる。公園などのだだっ広いワールドがいくつかあり、散歩をしたり、他のユーザーとのチャットを楽しむことができる。しかし当時の私はインターネットの向こう側の、おそらく大人であろう人に対してフランクに話しかける度胸など無かったのでただ無言でその仮想空間の中を歩き回っていた。

海辺のワールドに焚火のオブジェクトがあり、その周りをよく他の動物たちが囲んでいた。実世界とはリンクしていないがそこには昼と夜があり、火は消えているときもあればついているときもあった。ときたまその火が強くなったりするのを眺めていた。どのタイミングでかは分からないが、海に自分たちよりも大きいカメが出現する時間があった気がする。当時利用者のコミュニティに参加することも、ファンサイトを見るという考えもなかったのでいつ火がつきカメが現れるのか今でも分からないままだが、時間経過に伴う状況の変化に気付く楽しさはそのときに感じていたように思う。

焚き火の近くに寄るとパチパチと音が聞こえてくる

海辺以外のワールドでは下町のような街並みが最低限のグラフィックで再現されており、看板の文字のガビガビを近くに寄ることによって楽しんだり、段差により自分の目線の高さが変化する場所を探したりしていた。今もよく段差や階段の写真を撮る。普通に生活していると自分の座標のy軸が変化することはないが、段差にのぼると簡単にそれを変えることができるのでたのしい。「さぱり」と今ではやっていることはたいして変わっていないように感じる。

自分が今いる東京については、とくに好きでも嫌いでもないがパーツ集めやさまざまな状況を収集するのにはかなり適した場所だと思う。曲がり角を曲がった先に野良猫がいるかもしれないし、人間同士の揉め事が発生しているかもしれないし、もしかしたら怪物が出るかもしれない。それくらいのデカい期待を持って毎度歩いているのでしばらくは飽きることのない遊びとして楽しむつもりでいる。

「さぱり」はずいぶん前にサービスが終了してしまったが、現実世界での街はたぶん、たいそうなことがない限り無くならないであろうし、自分の体が動く限り散歩はずっと続けられる。朝でも夜でも1人でも、誰かと一緒でもなんでもたのしい。引き続き歩きまくれるような己の健康を維持し、更新されつづける街を探索しようと思う。