石器時代最後の夜 / 眺望力

長谷川 新

「でもね、あなたに会えて本当によかった。全部、理解してくれなくてもいい。こうしてしゃべっている言葉が全く無意味な音の連鎖ではなくて、ちゃんとした言語だっていう実感が湧いてきた。」


 多和田葉子『地球にちりばめられて』(講談社、2018)


北海道から帰ってきたばかりの友人と京都を散歩する。話したいことはあらかた話尽くし、僕は僕で名古屋へ向かう時間が迫っている。「ちょっとだけ、寄っていい?」友人がゲームセンターへと向かう。とぼとぼとついていく。老舗のゲームセンターとして知られるそこは、少し前までは活況そのもので、名だたるプレーヤーたちがつどい、列をなしていたそうだ。だがエスカレーターをのぼって入ると、静かに数人が黙々とプレイしているだけだった。いくつかの筐体には張り紙が貼られ、距離を取るよう注意喚起が図られているとともに、プレイ自体もできなくなっていた。友人は小銭いれから何枚かの百円玉を取り出してGUILTY GEAR Xrd REV 2の台に座る。カードを取り出し、筐体がそれを読み取る。レベル23。しばらく友人が練習をしているのを眺めている。攻撃されるがままのCPUに対して、友人は器用に連続技を決めていく。「本当はすぐに対戦が始まるんだけど、今はこれだけ待っても始まらないのよ」

筐体は全国の別のゲームセンターのギルティギアと繋がっており、空虚な練習時間はそのまま、全国のゲームセンターの静けさを意味していた。1分以上待っただろうか。対戦相手が決まり、本戦へと画面が切り替わる。そういえば僕は友人が格ゲーをするところをちゃんと見たことがなかった。互いのキャラクターが表示され、その下に互いの今いるゲームセンターの名前も表示される。大阪府内のゲームセンターだった。「そうか、そこはまだ誰かいるんだな」向こう側のプレーヤーも、同じことを思ったかもしれない。惑星間通信。戦闘はほぼ互角。第三戦までもつれこんだ。せわしなくボタンが連打される。左手のスティックを持つ手の形が玄人っぽい。鮮明に思い出すのだが、友人は攻撃を受けたり回避されたりするたびに、

「ああ、うまい」
「そう…」
「うん」

とつぶやいていた。


「そうはいっても、崖の下がどうあれ、子供たちには落ちてほしくないですし、落ちそうになったとき、さっとつかまえてくれる人がいてほしいです。ホールデンのような疲れきった夢ではなく、一つの職業として。」


佐藤友哉『1000年後に生き残るための青春小説講座』( 講談社、2013 )

アーティストもっと頑張れよ、と思う前に、展覧会もっと頑張れよ、と思うことが多くなった。「無限に優しくなってるな」と前述の友人に笑われる。これはでも、優しいとかとはまた別の話やねん。純然たる技術的な話がしたいねん。ずっと手を動かし続けたいアーティストがいるとする。そのアーティストにとっては手を動かし続けることが好きで、でもそれは同時に苦しい作業でもあって、結果的にドローイングをいつまでも続けられてしまう。その行為の時間の厚みの瞬間瞬間において享楽が発生しており、完成することがいつまでたってもできない。その手からは定期的にめちゃくちゃいい線が引け、人類史上誰も見たことがないイメージが出現する。それらは展覧会が始まる頃には別の線やイメージにとって替わられたり流れ去っている。プロなんだから展覧会にピークを持ってこいよ、というのは100%正しい。ちゃんと完成させろよ、と思うし、納期を守れよ、とも思う。そういったことがきちんとできるアーティストたちが美術館を回り、次へとつながっていく。矜持がある。展覧会は一人でやってるんじゃない。たくさんの人の協力の元でできている。そうしたフィールドを僕は大好きだし、緊張感があって心地よかったりもする。でも同時に思う。そのアーティストが最高の線が引けた瞬間に、展覧会がこいよ、と。


この話のポイントは(誤解して欲しくないのは)どっちもやれるはずだ、ということだ。ホワイトキューブのコンペティティブでダイナミックな切磋琢磨も、その表現に展覧会の側が寄っていくもはや展覧会と呼べるかどうかもわからない謎の時空間の切り取りも、どちらもできるはずだ、と試行錯誤する。もちろん「外部からの強制的切断」として展覧会が機能することもよくわかっている。締め切りはだいじ。純然たる外部。それが場合によっては良い区切りになったりもする。だけどそれは展覧会にとって結構消極的な褒め言葉じゃない?あと僕の観察上、展覧会においては「大は小を兼ねない」。ある種の広さを超えると本来のポテンシャルを発揮できないアーティストは結構いる気がする。極論、展覧会が向いてないアーティストは結構いる気がする。もっといえば、アーティストは展覧会には向かない、とすら言える気さえする。これは開き直りではなくて、展覧会はアートをやる「十分条件」であって「必要条件」じゃないということを意味している。いつのまにか、展覧会がアートをやる「必要条件」になっている。

とはいえ、展覧会はやりたい。でかい空間求む!こういうのは得意か得意じゃないかとかじゃないんだよ。せやねんなぁ。こうしてまた還ってくる(最期の会話後ろ見とけ後ろ今は先しか見てない振り返る背後も時々)。そこに永遠があると信じられたり、それは「ただの絵具やんか」と冷められたりする。この往復をモダニズムと呼ぶとするならモダニズムはそもそも躁鬱的だ。「絵具やんか」は身を焦がす荒野の入り口である。荒野を歩きながら「傑作だ」と「こんなの全然ダメやろ」を半日ごとに繰り返す。間には眠気と食欲が挟まる。絵画に限った話ではない。例えばこうして深夜に原稿は無限に修正されていく。でもこう考えられる。「絵具やんか」は、だからこそ何かできる、技術と条件の空間だ。それは超越的な神的存在ではなく、誰でも触ることのできる絵具なんだから。それからこうも考えられる。入ってきたのであれば、また出れるかもしれない。入口は出口でもあるわけだから。そのギアチェンジの、還ってくるための技術を、むしろアートと呼んだらいいんじゃないか、と最近は思う。向こう側にいってしまう人を僕は否定しないけれど、向こう側に行ってしまうのには技術は不要だし、あったとしてもそれは共有不可能だから。

「心を鍛えるだけでは幸せに生きて行くのに充分ではないのだ。いったいどれだけ賢ければ波風立てずに生きて行けるのだろう。どれだけ美しければ世間にだいじにされるのだろう。どれだけまっすぐに育てばすこやかな性欲が宿るのだろう。どれだけ性格がよければ今のわたしが全く愛せない人たちを愛せるのだろう。気が遠くなる。楽しいことばかりではない道が目の前に果てしなく続いている。」


松浦理英子『最愛の子ども』( 文藝春秋、2017 )

「完璧な作品」や「完璧な瞬間」に遭遇したとき、「これしかない」という唯一の正解への手応えと同時に、にもかかわらず、「別の可能性」を信じられることがある。別解があるはずだ、という感覚を受け取っている。そしてそれを作りたくなる。子供の頃から僕は定期的にそういうものに巡り合ってこれた気がする。ほとんどは漫画かゲームであり、今でも都度、振り返る。僕の仕事は、僕が感動し、勇気づけられ、寝食も忘れて夢中になったものたちに対してきちんと向き合えるようなものになっているだろうか。例えば片耳の生物がいてそいつが自分の作品をどう聴取するのかを真剣に考えこんで、果ては空間があること自体に苛立ちを隠さないアーティストに対して僕はどんなキュレトリアルな技術が研鑽可能だろうか。友人として死ぬほど笑うだけではいられない。ひとつ決めている態度がある。展覧会を、作品を、鑑賞者を、あるいはイベントやワークショップを、「取扱注意」なものとして考えること。簡単に扱えるものにしないこと。それらのポテンシャルを最大値で見積もること。オンラインかどうかなどというのはその基準から考えればいいだけの話だ。今日が革命前夜かもしれないと備えること(常にできているかといえば疲れるので無理なんだけど)。


難航していた彫刻がようやく完成したとLINEに連絡が入る。石でできた雪豹の彫刻。工場の隙間から漏れた光が尻尾に当たって写真は白飛びしている。個展直前の数ヶ月間、そのアーティストはほぼずっと雪豹を彫り続けていた。そのことを知っている何人かが、個展を訪れて雪豹がないことにびっくりしていた。「いや、あれは単に作りたくて作ってただけなので...」と僕が代弁すると、みんな心底びっくりして、それから、いやでもそうだよね、展覧会ありきで作らなくたっていいんだものね、と納得する。どこで知ったのかキズナアイの音声付スタンプが連投されたあと、「明日からエディション2を作るぞーーー」と報告が入る。