遊戯空間

伊阪 柊

サイコロ

<The Intersection Of Universes > 2020年3月段階のイメージ

<The Intersection Of Universes>は、伊阪柊とパフォーマンスとマルチメディアを用いたアーティストであるBenjamin Efratiを中心にして実施されるリサーチおよびオープンラボ型アートプロジェクトである。
本プロジェクトでは、重慶市内を流れる長江を一つの地理的特徴とし、その河川に沿っていく形で周辺都市を巡る。その旅程は重慶から、宜昌市、武漢市、飛んで上海市北部の地球上最大の砂州、崇明島へと至る。その過程でシャーマニズム的文化の実践と、現代のヴァーチャルメディア技術との融合的な現象を探しつつ、そのドキュメントや素材となるものを集め、そして重慶に戻り、ドキュメントと関連作品を制作するというプロセスを主眼においている。重慶には長江と嘉陵江の合流地点が存在する。この合流地点はそのまま二つの領域の交差点との直接的なメタファーとなっている。一方で、長江河口に存在する長江の水が運んできた土砂の堆積によって生じた世界最大の砂州である崇明島の成長に、中流地点から何かしらの影響を与えるような、新しい地殻変動を想像させるような仮想現実上のアースワークを大枠としながら、プロジェクトの詳細を日々構築している。

もちろんこれは青写真にすぎない。しかしながら、こうした構想図は可能な限り拡げておく方が良い。というのも拡げれば拡げるほど、その分想定するべきリスクも様々なバリエーションを伴って、意識下に浮かび上がってくるからだ。その網に引っかかったリスクへの対処から、具体的な実施へとつなげていくプロセスの可能性を考えてみたい。
実際に本プロジェクトは2020年4月から6月にかけて、重慶市とその周辺の地域の複数のアーティストによるフィールドリサーチを通して実施される予定だったが、新型コロナウイルスの影響による地球規模での混乱から、開始を延期している状況となった。計画は、実施場所の紆余曲折を経ながらも、現在2021年5月をひとまずの目処とし、当初の実施場所である重慶での再開を目指し進められる。

これまでのフィールドワークは現地に臨んで、その行き来のプロセスが主な方法としてあったが、現地に行くことのないまま、抽象的なプロジェクトのコンセプトがあらゆる外部の情報からの触発を受けることによって変容していく様子を観察しつつそこに介入していくような制作行為が部屋の内部で行われている。もし部屋の内外で同様な状態が作り出されるとするなら、フィールドとの境界線はぼやけたものになる。ただこれまでもそのような境界線のない空間がフィールドと部屋の間にあることを想定していたが、外に出ることのリスクが社会的に共有されたことでこの空間=コリドーにもいくらかの変化が生じていると考えざるを得ない。実際に、重慶でプロジェクトを実施することは本来のスケジュールでは困難であるが、それは重慶の都市やその周辺のフィールドを探索することが困難なのではなく、当然ながらそこに至るまでの複数の手続きにおいて困難が生じる。航空機が飛ばなくなるのもその一端である。

 

この部屋とフィールドの間の空間=コリドーは、これまでも重要なモチーフだったが、コロナ以前はそのコリドーを経由して、あちらからこちらへとやってくるものを想定していなかったように思える。もしやってくるとしても、それは突発的で大規模で、粗雑ゆえに確率的にこちらまで到達しやすいというような出来事のイメージがあったのだが、今回新型コロナウイルスは徐々に感染地域を拡大し、これまでフィールドとしてあった遠方から、その遠方に通じる同じコリドーを通って正確に接近してきているという印象を受け、それはどこか綿密で経済的に合理的で、それでいて粘性がある。それはあたかもこちらの情動=触発によってコリドーを探り当て、接近してくるような強かさを持っている。

これまでは遠方の出来事に何かしら部屋の中から介入を試みることで、その出来事が「自分のせいで」生じたかどうかを確認するという二重の手続きを行っていた。リスク責任の帰属を、外部に置く場合と、試しに自分に置いてみるという二重性である。自分のせいだった場合というのは、仮想的な行為主体の経路を副次的に作り出すためである。しかし今その出来事の伝搬に自分を介在させることが社会的に検閲されるという、二重化されたフィクションの次元を立ち上げる余白が圧迫されるような事態が生じている。フィールドに赴いて、もしコロナウイルスが伝搬してしまった場合は、文字通り自分のせいかもしれない、という強制的な責任の帰属化が意識される。それゆえに仮想的な経路は雲散霧消するか、圧死する。
しかしながら、このプロジェクトはそのウイルス (サイバーなコロナウイルス) の接近をかいくぐっていくような手続きを創作の領域で行うことで、やはり自分は何かしら関与しているのではないか、と思わせるような潜在的な経路を社会的なフィールドで立ち上げることを肯定的に志向できる余地のようなものは、プロジェクト実施場所の変更計画のプロセスにおいてある程度意図的に可能になる。その意図とは、自分がその大きな出来事に関与しているかもしれないというややロマン主義的な態度と、それはありえないとする態度との間のスペクトル間での意図的な調整としてある。ただ、例えばHBOのドラマ『チェルノブイリ』において再度メディア化されたチェルノブイリ原発事故の状況の中で、仮想の科学者ウラナ・ホミュックが、溶融した炉心が貯水タンクの水に触れた瞬間生じる爆発が100km離れたキエフまで到達するといった些か脅しの効いた最悪の想定を語るシーンがあるが、その冗談のような最悪の想定はある局面においては必要だし、却って冷静さの表れでもあるように思える。

碁盤、グリッド、ネットワーク

 

新型コロナウイルスとのリスクコミュニケーションの一つとして、実施場所を台北もしくは台南地域に変更するという選択肢が考慮された。これはいわばCOVID19対策が比較的うまくいっている国、または地域をどのように実感するかという情報に対する積極的な認識の仕方にも関わらせた判断だったと言える。この場合、現実で起こっている出来事に対し敏感に反応していく必要があり、いわゆるインフォデミックな状況に実験的に潜行してみるという危険を伴う試みにもなりえるかもしれない。国や地域単位で物事を考えるというのもそもそもその一つである。というのも、実際にはプロジェクト実施場所の受け入れ許可などの交渉を行っていく必要があることから、こちらも実際にこのようなリスクを避けつつ、あるいはある一定のリスクは引き受けつつ、そしてプロジェクトを良い結果へと導く、というような説得力を相手と共有しなければならないからだ。その場合には、例えば「このようなリスクを超えて実行してみることで日常とは異なる創造的な次元が立ち上がることを期待する」というようなアプローチなどは、この場合は相手や共同実施者、そして協力者たちと共有することは難しい。これはプロジェクトにおける中心議題になるのではなく、一旦はあくまで派生的なものとして内面化することとなる。つまりそうしたメタファーが、現実的には個々のアーティストの制作技術の向上や開発のための内面的なモチベーションを促すような指針として設定される分には問題はないと思われる。
台北変更案においては、 このプロジェクトが本来フォーカスを当てていた道教の文脈における民間医療の実践をリサーチするという一つの目的において、道教文化が中国大陸においては文化大革命以降破壊され続けている一方、台湾ではその文化が残されているという文化的、政治的な条件と、新型コロナウイルスの感染拡大をうまく抑え込んでいるのではないか、という判断の相互共有が決め手となった。ただ、同様のプロジェクト内容を中国大陸から台湾に移す際の政治的な問題の有無と、NPO、NGOやプライベートのアーティストインレジデンスの国境を越えた自由なネットワークという理想への期待が混在する中で、やはり地質学的相対化を行うことで、その揺らぎを理想の側へとバイアスをかけるため、本来の計画同様に、台北の地質的な特色を取り入れて行こうと試みた。その結果、台北にかつて存在したと言われる湖について言及し、台北を流れる淡水河と、その仮想的な湖、台北湖との間を行き来するメディア (例えば船) を創作する、という方向性が浮かび上がってきた。

台北湖の持つ実在性は非常に魅力的で、まずその地質学的な信憑性がやや薄いということがまずあり、それはそもそも起きたかどうか不確かな大地震 (1694年に記録が残る康熙大地震) によって一時的に形成されたということ、そして将来、地球温暖化による海面上昇により、再び大都市台北の真ん中に湖が出現するかもしれないという言説に関わり、同時にその付近では火山活動による沈降の危険性も懸念されている。これらはすべて目に見えない時間と領域に潜在しており、そのようなものに実在性を支えられた湖なのだ (横振動ではなく縦振動するロプ・ノール ⚠︎20世紀中頃までタクラマカン砂漠で渇水と貯水を繰り返して出没した彷徨える湖) 。

 

そのフィールドはさらに拡がり、台南地域とその対岸の泉州などに見られる疫病退散を願われる王爺 (wan ye) 信仰や、その王爺がかつて乗って来たと言われる船を炎で焼くことによって疫病の昇天を祈る迎王平安祭典、王爺がその船と共に漂着したかつての砂州に建つ南鯤鯓代天府と、その名前に入った伝説の巨大魚を意味する「鯤鯓 (kun shen) 」など。それは砂州が形成され始めた時に、うっすらとした砂州が海面から出たり沈んだりする様子を比喩的に表現した台湾語であり、「鯤」は鯨と訳されたりもするが、もともとは伝説的な巨大魚を意味し、荘子の逍遥遊篇第一部の始まりにも北の海に住む巨大魚の名前として登場する。この現われたり消えたりする存在としての砂州=巨大魚は、プロジェクトの中で船というモチーフをキーコンセプトとして補強するか、もしくはある一定の要素の集合を船といった表象として励起させるものとして働くかもしれない。

 

こうしてただ作動させるがままに漂流することで何かが生成されたりすることを肯定する、逍遥遊的なフィールドは果たして有効に働くだろうか。このままでは座礁した検疫中のコレラ船ならぬサイバーなコロナ船は、そのままただ漂流してあらゆる場所へと分散して消えていくだろう。船があるから水面があるのか、水面があるから船があるのか、ここでは混同しないように注意したい。たくさんの駒が盤面を覆い尽くし始めてしまう前に、台湾周辺の局面はここで一旦保存しておく。

プロジェクトのための構想図

新たな駒

環境要因の介入的な影響は、その逍遥遊的な駒たちに衝撃をもたらす。2020年6月中旬に長江水系の洪水が報道された。長江の三峡ダムに関する報道では、2008年のダムの航空写真に対して、現在のダムが (洪水の水圧で) 歪んでいるという言説が紹介されていた。勿論この歪みは単なる人工衛星が撮影した際の技術的な歪みが生じていただけであるが、この微々たる撮影時の不完全さが洪水に関するものとして接続されたりする。これらの一連の新たな局面を、対岸の火事として見ていたが、それは結果的にはその表現からしておかしなものだったことがわかる。重慶市や長江流域の洪水の映像を見ている間に、九州の球磨川が氾濫し、人吉市に甚大な被害が生じる洪水が発生した。これらは気象庁によってその名称が用いられた「線状降水帯」という長期的に停滞傾向にある梅雨前線による大雨が原因となっている。それは実際に中国大陸から日本列島に渡って横断しており、これまでこことは異なる離れた場所 (と同時に近未来にそこへ向かうであろうことを意識された場所) としてあると思われた重慶市の上空の梅雨前線による雨雲と同じ構造を持った雨雲が、今ここ、部屋の上空にも立ち込めている。線状降水帯は日本列島にまで進んできて洪水をもたらした。対岸で洪水があれば当然ながらこちらも洪水リスクにさらされるのだ。〈遠さ〉が〈近さ〉を伴って経験されるアウラというよりは、環境そのものへの巻き込まれが今まさに起きているという身体的な危機の空間が立ち上がっている。しかし細かいことを言えば、その降水帯自体がはっきりとした境界線を持った実体としてあるのではない。実際には関東平野にはまだそこまで大雨をもたらすような前線は到達していないように思える。時々晴れ間が見えてはまた少雨が降るだけとなっている (隕石は降ったが) 。ただし今このテキストを書いている部屋がある場所の数百メートル先に多摩川があることや、偏西風によって、梅雨前線はこれから東に進んでくるのではないかという予期をすることはできる。ただし雨を降らす雨雲がやってきて雨を降らすというわけでもなく、気圧配置や地形、気流の流れ込みなどが外部条件として介在する。細かく見ていけばまだ不確実要素はたくさんあるが、概ね類似する空間構造がこちらに関与してきている、と予感することは、〈遊戯空間〉の立ち上げと見なすことができるかもしれない。それは盤面を覆い尽くして広がっていくフィールドの底から再び隆起してきた盤面であると同時に新たな駒でもある。
類似するジオロジカルな構造線は、現地と直結してくるようなものではなく、ディストーションによってワープしている特殊な開口部=コリドーとなっている。そしてプロジェクトは、新たなフィールド上での行為主体となりうる可能性をはらんだ〈遊戯空間〉は、長江周辺の領域へとフィードバックを行うべく、そのコリドーを明瞭化する。そのコリドーは同じ散逸的な質感を持ちながらも、立体的な霧 (Volumetric Fog) によって、明瞭に建設されるメディウムとしてある。

こうして構想図は、ある方向性を得つつ、同時に心配な要素を増殖し続ける。友人や知人のアクチュアルでありがたい助言によって事はうまく運んでいく。それと同時に、リスクの選択をしたり危険から回避したりするフィールドをもたらすのもまたこうした新たな知見ということになる。それはその手続きが、分散しぼやけていくのではなく、手続きの詳細が徐々に明確かつ具体的になっていくことによって形成された経路となっている。遊戯空間は、逍遥遊的な盤面の駒のような軽やかさは持っておらず、一時的な没入と雰囲気の知覚とサイトスペシフィックな経験が伴う重さが介在するフィールドになっており、プロジェクトは重慶都市圏を再び志向するヴァーチャルなコリドーを形成しつつある。 

参考文献
  • 『リスクの社会学』ニクラス・ルーマン、小松丈晃訳、2014
  • 『ありえないことが現実になるとき-賢明な破局論にむけて-』ジャン=ピエール・デュピュイ、桑田光平・本田貴久訳、2012
  • 『さまよえる湖』スウェン・へディン、関楠生訳、2005
  • 『中国福建省閩南地区の王爺信仰の特質』三尾裕子、1997
  • 『〈鬼〉から〈神〉へ: 台湾漢人の王爺信仰について』三尾裕子、1990
  • 『複製技術時代の芸術』ヴァルター・ベンヤミン、佐々木基一訳、1999