ミシェル・テヴォー誤解としての芸術 アール・ブリュトと現代アート』書評

松井

ミシェル・テヴォー誤解としての芸術 アール・ブリュトと現代アートミネルヴァ書房 、2019 

 ミシェル・テヴォーの『誤解としての芸術 アール・ブリュトと現代アート』(杉村昌昭訳 ミネルヴァ書房 2019年)について、あまり正確ではないのは承知のうえで、私としてはその中心的な問題提起に焦点を当てて、紹介してみようと思う。おそらく、きわめて多くの論点を内包する、貴重な著作であり、広く紹介することはそれ自体で貴重な意味をもつものと信じるからである。ただし、丁寧な正確な紹介とは程遠いので、興味を感じられたならば、すぐに原著を読まれるのがよいと付言しておく。

 非言語的、すなわち言語によっては表現することのできないこと/ものを表現する芸術について言及することは、本来「不可能なこと」といえるだろう。音楽、造形、行為、なんであれ言語によって表現し、伝えることができないこと/ものを言語的あるいは論理的に知解することはできない。逆にいえば、言語的/論理的に説明/知解できるならば、非言語的/非論理的なもの(音、もの、身体など)を媒介して表現を試みることは、冗長であり、まわり道だといわれても仕方ないともいえる。

 言語芸術についても、しかし、そのテーマは言語、あるいは論理によって知解できること/ものであるとはいえない。曰く言い難いために、書き手とその感情、体験、記憶などについて、長いエクリチュールを紡ぎだすことが必要なのだ。とすると、日常言語で説明しえないことを表現しうるためには、通常の言語的/論理的な手続きは十分ではないことになる。

 これは、非言語芸術においてとくにそうである。つくり手は、もとから言語的/論理的説明を意図していないからである。小説家が長編を書き続けるのも、小説家はそのテーマについて、十分に情緒的/論理的に解き明かされたとは思っていないからである。著者テヴォーがいう、「誤解」はまさに、芸術の作者自身で、自分の表現しているそのテーマについて、正しい知的理解はなしえてない、すなわち「誤解」のなかで創作をおこなっているということをさしている。

 芸術のつくり手、作者がそうであるなら、観る人がそれを正しく知解できる道筋は、これまた「不可能なこと」であろう。作者の説明はつねに一方的で、その正しさは不明であるなら、観る人は自分の直感に頼るしかないのか。アート世界での権威の評価を信じるしかないのか。しかし、ここまでいえば、日常言語で説明しえないために芸術的に表現されたこと/ものであるゆえに、芸術界の権威も、批評家も識者も、「正しい」言語的/論理的説明を芸術作品に与えることは「不可能なこと」がわかるであろう。

 さて、それからである。テヴォーは、だからといって、芸術についての不信をかこつわけではないのだ。むしろ「誤解」の積み重ねこそが芸術の存在価値であるというのである。世界の記憶の収蔵庫から、その芸術作品の存在が忘れ去られてしまわないかぎり、そこへの多種多様な、ときに矛盾する言及こそが、芸術作品の生命であるというのである。思いきって、私ふうにまとめると、テヴォーの主張は以上のようなことになる。

 ここまで読まれた方は、誤解や知解や(非)言語性について、考えをまとめておられることと思う。それについては、直接テヴォーの本を参照下さい。訳文も明晰かつわかりやすい。私がひとこと付け加えたいのは、芸術の作者や、作者の言及を用いた評論家たちによる、芸術についての言及に関して、このテヴォーの本はなかなかに新しい(すくなくとも代替となりうる)枠組みを提供してくれるのではないか、ということなのである。とくに芸術の作者の言及は、それがすべて正しく、それがすべてであるかのように受容されているが、テヴォーの枠組みに拠れば、それは「誤解」のひとつであることになる。そして、これは誤りであって、有害であるということではない。あるいはもっと大きく、意味のつまった、次の誤解へのステップなのだと考えてよいのではないか、とそう挑発しているように感じられるのである。