金城次郎館簡介

松井 健

 金城次郎館という小さな私設の美術館を作りました。沖縄県初の人間国宝(国指定重要無形文化財保持者)である金城次郎さんが一九七二年以前に壺屋でつくった陶器を展示、公開するための施設です。
 よく知られているように、金城次郎さんは那覇市内の壺屋では、薪による陶器の焼成が煤煙のために不可能になって、一九七二年に住居、工房、窯を読谷村に移しました。人間国宝の認定は一九八五年読谷でのことでした。読谷に移ってからの次郎さんは、もっぱら線刻の魚文の大皿や花瓶などをつくり、広く「魚文」の次郎さんと親しまれたことはよく知られています。多くの人びとは、金城次郎さんの人間国宝認定はその魚文線刻によるものと考えていますが、そうではありません。人間国宝認定の直前に東京のべにや工芸店で開催された、熊本県人吉の魚座民藝店の上村正美(故人)によって蒐集された沖縄工芸の展示会での金城次郎作品の展示が、文化庁の関係者によって認められたのでした。広く、沖縄の伝統の壺屋焼きの琉球陶器の技術技法の保持が認定されたので、その対象作品は壺屋時代につくられた形器、技法の多様な作品群でした。
 金城次郎のこれらの壺屋時代の作品は、今日まとめて収蔵している機関がなく、常設展示しているところもありません。このために、金城次郎館をつくったのです。壺屋時代の金城次郎作品は、歴史的にみても、沖縄の伝統的な施釉陶器の、もっとも美しい精華を代表しているといってよいと考えています。金城次郎館は、蒐集の年代のはっきりとしている壺屋時代の作品の二つのコレクションを収蔵しています。一つは、久髙美佐子コレクションで、一九六八年から七一年にかけて集中的に蒐集された三百余点。これは久髙自身で窯出しのたびに購入したものです。その図録は『金城次郎  壺屋時代作品集』として国書刊行会から出版されています。もう一つは、さきに述べた上村正美が、一九六〇年代後半から七一年にかけて蒐集した六百点あまりのコレクションです。上村コレクションは、『壺屋十年  金城次郎  雑器の美』として用美社から出版されましたが、この本はすでに絶版品切となっています。

 金城次郎館は二〇二三年一月二十八、二十九日の内覧会のあと、二月五日から、毎週日曜日に公開されています。住所は、沖縄県南城市知念山里71-1、沖縄県那覇市の久高民藝店(住所:沖縄県那覇市牧志2-3-1 K2ビル1F、電話:098-861-6690)を通して情報を得ることができる。金城次郎館のホームページのほか、フェイスブックでも適宜情報を公開しています。

金城次郎館では、壺屋時代の金城次郎の精選された作品を見ることができます。展示替えは三ヵ月か四ヵ月ごとにおこない、ホールのミュージアムショップではそれに合せて小個展をおこなうことになっています。
 金城次郎はよく知られていますように口減らしのために十四歳から壺屋の新垣工房で働くことになり、沖縄に滞在して焼き物をつくっていた濱田庄司の手助けをする役目を果たすことになり、以後長く、冬には沖縄を訪れて仕事をする濱田と関係をもつことになりました。ただ二人の関係は高名な本土の陶芸家の濱田が次郎にあれこれ指示するというような関係ではなく、むしろ、濱田は壺屋の豊かな伝統に学び、その貴重なことを次郎に教えるというような関係であったようです。濱田は同時代の壺屋の陶工のなかで、金城次郎をもっとも高く評価していましたが、けっして金城次郎の人間国宝の認定にかかわるとか、つくるものを指示するというような関係はもたなかったようです。
 金城次郎は十四歳のときから、独力で壺屋の陶技を学び、あらゆる器形をつくり、多様な加飾の技法を身につけていったのでした。河井寛次郎はそんな青年金城次郎を、次郎はなんでもつくることができると賞賛しています。(テキストでは次郎を二郎と誤記している)。その金城次郎が独立して工房を構えたのは戦後すぐのことであり、混乱期を経過して金城次郎作品が今日見出されるとしても、それは一九六五年頃以降のものであるとみてよいであろうと思われます。上村正美コレクション以前の金城次郎の壺屋時代の作品がそう多く発見されることはないものと考えられます。
 金城次郎館の金城次郎の壺屋時代の作品のコレクションは、かけがえのないものであると考えています。上村正美も久髙美佐子も、民藝店で次郎作品を扱いつつ、そのなかの優品を手元に残してコレクションを形成しているので、その時代についても、質についても、これ以上は望めないものであると自負しています。金城次郎の壺屋時代の作品で美しいことを、その目で実感していただくしかないのですが、以下そのことについていくつかの注釈をつけておくことにします。
 金城次郎の壺屋時代の作品は、どれもごく普通のものであって、特別な技巧を誇示するものでもないし、何か特殊な新奇さを示すためのものでもありません。金城次郎というつくり手の個性や独創性を強調するわけでもなく、ごく普通の皿や湯呑といった日常の用具であり、壺屋に伝えられてきた加飾法でつくられています。器形や加飾法は多様であるが、そこには統一されたおちつきというか、静かさがあります。何らかの主張や意図があるわけではなく、皿はただ皿であり、湯呑はただ湯呑であるからです。見ても、使っても、ごく普通であるというしかないのです。金城次郎は少年時代から壺屋で働いて、そこで用いられる器の種類についても、加飾法についても、すべてを実作することで体験的に身につけているので、ごくごく自然に、何か特別な作為なくつくることができるのです。
 ここで「作品」という言葉を用いていますが、通常の意味で作品としてつくられているのではなく、使うための用具として製作され、金城次郎はそれを売って生活をしていたのです。柳宗悦が、ごく普通に、特別な意図や作為、とくにつくり手の自分自身の吾我への執着がなければ、ものは自然に美しくなるとしていますが、まさに金城次郎の壺屋時代の品物はこのことを教えてくれるといってよいと思われます。
 それほど、普通で自然であるのに(あるいは、それゆえに)ほかのものに替えられないほどに美しいのです。このことは、予見なく金城次郎の壺屋時代のものに出会うことで体験できる感動であろうと思います。金城次郎館がその場所になってくれることを願って、蛇足と感じつつ、以下のように注記しておくことにします。 
 まず民藝ということに、とらわれないでほしいのです。多くの人が、民藝というと、その定義なるものを想起します。それは、昔の古民藝というべきものについて書いた柳宗悦のテキストからきていると思います。民藝というものは、地方の素材でつくられ、伝統に則して多数つくられ、安価で云々という民藝の定義とみなされているものです。しかし、「雑器の美」など柳のテキストに帰って正確に読めば明らかなように、それは美しい古民藝のもっている特徴であって、そのような条件を備えていればすべて美しくなるという必要十分の「定義」ではないのです。
 そして、もうひとつ重要なことを付け加えておくならば、金城次郎の壺屋時代の品物を含めて、美しいのは、個々具体的な品物であることを忘れてはならないということです。民藝美とか美しさとかいう理念の具体化したものとして、個別の品物があるのではないということです。壺屋時代の金城次郎のあの皿、この、その湯呑が個々に美しいのです。美とか美しさという抽象概念にとらわれないで下さい。そして、それらが美しいということは、具体的個別的なものを直接に自分の目でみることによってしかのみ込むことはできないのです。
 よくその美しさがわからないとか、美しさをわかるためにどうすればよいか、とかいう人がいますが、美しいものは知的な理解や思考によって「わかる」ものではないのです。ものと目とが、無媒介に直接に出会う体験と表現するよりほかないのです。それが、美しいという深い感動につながるのです。ただ「無媒介に直接に出会う」ことは何でもなくなされることもあれば、そうではないこともあります。瞬間にその出会いが成就することもあれば、長い時間が必要なこともあります。つくり手が、無作為に自然につくることができるかも同じことでしょう。つくり手がすべて金城次郎の壺屋時代のようにつくることができるわけではないのと同じかもしれません。柳宗悦の所説をなぞるだけでもまだまだ紙数が必要です。今日はこのあたりで止めておきたいと思います。
 金城次郎館に展示してある品物は、金城次郎さんが自分の作陶の技量を誇示するとか、何らかの表現の意図をもってつくったものではありません。日常に用いられるものとして、壺屋の伝統にしたがって、ごく普通につくって販売していたものです。次郎さんが自分の意図や作為で、何かをつくろうとしたわけではない、ただ皿なら皿なのです。しかし、それを目前にしたとき、これまでの食器類を、あるいは美術工芸を見るのと何か違った感動をもたれると思います。日常の雑器と総称される壺屋時代の金城次郎のつくった品物を、ゆっくりと見ていただきたいのです。金城次郎館がそのための空間になることを私たちは心から望んでいます。