児童版画と大人のイデオロギー

堀本 宗徳

はじめに

 「民芸」をここでは民衆の芸術と解釈し、児童版画について語ることにしたい。1952年、版画家・大田耕士を中心とする日本教育版画協会は、版画教育を開始するにあたって読売新聞主催〈全国小・中学校版画コンクール〉(以下、版画コンクール)を発表、交流の場として活用した。本論考は、この読売新聞社が1953年から1963年の12回に渡り開催したコンクールの入選作品と選評記事を俯瞰した際に見えてくる、児童作品の傾向と、審査員の作為性を考察することを目的としている。 

全国小・中学校版画コンクール


 児童版画の発表の場となった〈版画コンクール〉の入選状況を【表1】としてまとめると、その概要が掴めるだろう。応募総数は第3回以降、平均して1万点を超える応募がみられ、第9回が最多となる15027点を記録している。入選作品はその後、展覧会として東京や大阪で巡回展示されることが紙面で報じられ、審査員には、読売新聞関係者、後援の文部省関係者の他、版画家が入れ替わり参加している。1

 作品の傾向についても概略しておきたい。【表2】は、12年間での入選作品の上位受賞作品(小・中学校個人各1位、2位、小・中学校共同制作各1位)のタイトルをまとめたものである。小学生の部門は、第10回から低学年(1-3年)と高学年(4-6年)に入選部門が枝分かれしており、作品傾向として、受賞作品のタイトルからも分かるように、動物をテーマにした作品が多い。身近な猫、家畜の牛や豚、羊を描いた作品が賞を獲っている。一方、中学生は、身近な人物の表情や自画像を描いた作品が受賞する傾向にあり、共同作品では、炭鉱や工場、横浜湾、羽田飛行場まで、風景作品が多く受賞していることが分かる。ここで、小・中学生に共通して「労働者」が描かれ、受賞していることは注目に値する。作品を列挙するときりがないが、タイトルと異なり労働者が描かれた作品に、《パン屋》《秋》《バスの中》《自画像》などを挙げることができる。


 〈版画コンクール〉の児童版画を評価するにあたって、審査員は何を思い選出するのだろうか。審査員の一人、版画家の恩地孝四郎は、第1回・第2回のコンクール入選作品をまとめた版画集『版画のくに 全国小・中学校版画コンクール入選作品集』(1954)の中に「子どもの生活のなかの版画」という文章を寄せている。


「子どもの画は、大人の画にないおもしろいものが発見される。これは必ずしもかいている子ども自身が意識しておもしろさを求めているためではない―といいきってはいけないかもしれないが、すくなくとも大部分は無意識的である。なぜというまでもない。子どもたちは、そうした美術教育を経てはいないからだ。すこし大げさないいかたをすれば、子どもたちは本能的な動作で、生まれつきの官能を駆使してかきつけるのである。」(161頁)


「子どもの生活、子どもの本能の上に教育を建てる。(中略)[子供の作品が]丹念ていねいに書いたものでも、天然的なものは、新しい生活の反映をしめすもので、それが、大人のイデオロギーに合おうが合うまいが、いっこうに差支えないしだいだ。」(163頁)

 恩地がコンクールの審査を行ったのは最初の数回のみであるが、文章からは、彼が求める児童版画として、本能や天然的、純粋無垢な子ども像があったことを知ることができる。さて、このような態度で〈版画コンクール〉の作品選出は本当に行われていたのだろうか。 

大人のイデオロギー


 大田耕士は『山びこ学校』(1951)に代表される無着成恭の綴り方教育(作文教育)の影響を受け教育版画運動を開始している。彼は「版画のもっている強い表現力と子どもへの適応性で、生活綴方の目指しているものを、造形的な立場から強く展開する」こと目的に「生活版画」を構想し、生活版画は生活綴方の弟/力強い協同者であると述べている。2この綴り方教育について鶴見俊輔は、1952年に発表した「らくがきと綴り方」の中で、戦前の「天皇制的な生活習慣」3に再び騙されない為の現実を理解する活動と位置付けている。


「綴り方を書くということは、この目的のために、役にたつことだと思う。これは、綴り方を書くことなしに見ることができなかった多くのことを、綴り方をかくひとりひとりが新しく見ることができるようにする。日本のインテリが、ベンサムとかミルとかミルトンとか多くの思想について知りながらも、それらの思想と重大なかかわりをもつ自分の生活の出来事に眼をむけることをしなかったため、思想的誠実性をつらぬくことができなかったことを考えると、こういう思想傾向と逆の地点にたつものが、綴り方運動だと思う。」4


 学生の綴り方に描かれる思想としての「まとまらなさが、まとまらなさとして、すなおに公にされていること」は、戦前の児童の作品に見られなかった性質だと鶴見は言う。作文に映るこの素直な混沌状態に、彼は近代日本の知識人の反省と新たな思想の希望を見出していた。鶴見の言う「まとまらなさが素直に公にされること」を支持するならば、それを補強する造形的展開5が生活版画にはあったのだろうか。つまり、本論に引き寄せるならば〈版画コンクール〉の中で、自分の持つ「思想や感情を正しく表現する力」によって版画制作がなされていたかが論点となってくる。

 確かに『版画のくに』を俯瞰すれば、子ども達の多様なまなざしを見ることが出来る。小鳥の戴冠式を銅板で描く《小鳥の話》、今と昔の旅行を横長の画面でパラレルに描く《今のたび・昔のたび》、《うんどうか》や《パレード》など、自分(又は複数人)の描きたいものを描いている姿が作品集から伝わってくる。他方、労働者を描く彫りには一定の傾向があるようだ。《木をかつぐ人》《ドリル》《大根せおい》《孫を背負って》と、鋭い彫り跡で描かれた労働者たちがいる。この画題(労働者)と技法(三角刀を主とした、細く鋭い線での木版画制作)の結びつきは、「まとまらなさ」に反して「ととのえられた」造形的志向を感じさせる。この「ととのえられた」作品傾向は、〈版画コンクール〉にも表れている。最も顕著にみられるのは中学校個人の1位受賞作品だろう。全12回の内8回以上で労働者を描いたものが賞を得ている。パン屋で働く女性達、木を切る男性、漁夫、キュウリを収穫する農家の姿が鋭い彫り跡によって描写されている。6


ここに少なからず、児童作品への審査員の趣向、「大人のイデオロギー」を指摘することができる。既に、町村悠香(2022)が中国木刻と教育版画運動の連続性について指摘しており、大田は戦後、自身が受けた中国木刻の影響を日本教育版画協会にも持ち込んだ。7さらに、例えば協会会員の上野誠は、1956年の著書で一般に向けて三角刀の跡と中国木刻を接続し「生活版画のつくりかた」として、明確な制作指針を打ち出している。8彼等が念頭に置いていた戦前の中国木刻には、当時の中国大衆に文字を介さず革命を説く事を目的とした政治的イデオロギーがあった。9そのイデオロギーを含む版表現が、戦後、日本の社会運動を描く際の版表現として使われ、当時の児童版画の題材と版表現にまで尾を引いていたのである。


 問題視すべきは、教育版画運動の中にあった中国木刻の影響が〈版画コンクール〉によって強化されていた、または一定の理解を得ていた危険性についてである。〈版画コンクール〉において、造形的展開が「ととのえられた」ことにより、子どもの思想や感情の発露としての表現を制約/抑圧していたとしたらどうだろう。その時、作品の選定基準にあるのは、児童の純粋なまなざしや表現への評価ではなく、審査員が求めるまなざしを模範的に示す作品をすくいあげることにあったのではないか。そのことを児童が知る由も無いのなら、それは表現上で、鶴見が批判した戦前の言論統制と同質の問題をもっていたと言える。  

生活版画からの脱却


 1964年の第12回を最後に読売新聞主催の版画コンクールは幕を閉じ、協会が独自開催した〈日本教育版画コンクール〉(1965-94年まで開催)に引き継がれることとなる。最後に、生活版画を推進する版画教育運動の変わり目について、1961年から62年にかけての新聞記事を通して考察してみたい。


「[版画制作を通して]子どもたちにその生活を見つめさせ、のびのびとした思考力、豊かな創造性を育てていこうというのが、版画教育のもともとのねらいである。しかし現場の版画教師たちの間では作文教師たちのいわゆる”生活主義”指導と図工教師たちの”造形主義”との対立が長野県岡谷市の第一回大会いらいずっとつづいている。その対立のなかで版画教育はたがいに影響しあい、発展してきたともいえる。(中略)[今回の全国版画協会研究大会での分科会での議論は]生活版画中心の版画教育の一歩前進ともいえる。

(「10年目の版画教育」『読売新聞』1961/8/5・夕刊)


「全体的にみると版画コンクールも九回目でようやく一つの目標に達したというのが審査員の一致した意見だった。(中略)技巧だけでなく、題材のとり方も小学共同二位の「ガリバー旅行記」同三位の「ピーターパンのゆめの島」など初めてメルヘンの世界に脚をふみいれ、しかも絵本的でない創造的な見事な作品があらわれたあたりに、進歩と向上のあとがある。つまりは現実の生活経験、豊かな夢の創造の二つのジャンルで秀作が出現したというのは版画教育の肉づけが豊かになったといえるだろう。

(「第9回全国小・中学校版画コンクール入選作品選評」『読売新聞』1961/11/24・朝刊)



第1回の《小鳥の話》以降、紙面掲載されることの無かった想像上の画題について、第9回の選評で明言がなされている。二つの記事からは、同年8月に行われた全国版画協会研究大会での議論が遠因していたことが伺える。それは「生活版画中心の版画教育」からの転換として、変化の兆しを感じさせる。また記事からは、生活版画偏重の版画教育に、教員間で生活主義と造形主義の思想的立場からの対立があったことが記録されている。ここで際立つのは、生活版画を伝達するプロセスが「芸術家-児童」だけでなく「芸術家-教員-児童」という、媒介者としての教員の存在である。結局のところ、生活版画を進める芸術家たち(生活主義)も、媒介者たる図画教員(造形主義)も教育を土台にしていた事が、イデオロギー的な生活版画を融解させる契機になったのではないだろうか。以下の第10回選評では、児童の作品だけでなく、版画教師の指導技術の向上を称えている。


「これまで児童版画の形式は多種多様だったが、ことしはステンシル、立体版画などはかげをひそめ、子どもの感情表現にぴったりくる木版、紙版、ドライ・ポイントに集中化する傾向が強かった。(中略)[木版画について]ただ物理的、機械的に彫るだけではなく、描くものの内容をどのように表現するかという制作態度、心がまえの成長を裏書きするものだろう。またそのかげに版画教師たちが“子どもの中身”を引き出す指導技術の著しい向上もみのがせない。

(「第10回全国小・中学校版画コンクール入選作品選評」『読売新聞』1962/11/24・朝刊)


小笠原正(2022)は、戦前、山本鼎が達成できなかった自由画教育などによる芸術精神の涵養の思想を、戦後の政治的イデオロギーを帯びた大田らの生活版画が書き換え実現した点を指摘しつつ、大田が山本の活動を意識的に継承した背景を、元教員としての児童への愛情という視点から導き出している。10〈版画コンクール〉での審査員の作為的な選定や版画家たちの思想とは切り離して、前提にあった教員としての愛情、児童の造形性に向き合った版画教師たちの活動が、大人のイデオロギーを帯びた生活版画からの脱却するきっかけとなったのではないだろうか。

 〈版画コンクール〉を通して見えてくる、審査員が求める児童版画について考察をおこなった。1950年代から本格的に導入された教育版画の造形面には、大人のイデオロギーが介在している。それは、無意識的、純粋無垢、本能的と言われた児童版画の中に、着実に浸透していっていた。本論を通して、民衆の芸術における指導者の作為的な関与に対する問題提起となれば、幸いである。


1 版画家の審査員について、大田と松田義之(共に日本教育版画協会会員)は全回を通じて審査員となり他、第1回・第2回を恩地孝四郎と北岡文雄が、第4回から第12回までを武井武雄、橋本興家が行っている。北岡が審査員を離れた理由は不明だが、2回から4回にかけて審査員が変わった理由として、恩地の逝去(1955年6月)が関係していたことが推測できる。
2 具体的に大田は、1951年3月、無着成恭の学級誌『きかんしゃ』に発表された版画連作《炭やき物語》を見たことで「生活版画」に対して鋭い自覚を掴んだと『版画の教室:生活版画の手引き』(1952)で述べている。
3 彼は、天皇制を法律や政治の面だけでなく、人間関係や生活形態、思想に関わる習慣の束として理解することを推奨し、天皇制によって生まれた「はっきりと自分で考え、承知するという手続きをへずに、重要問題についての決定権をうけいれてしまう習慣」や「社会にもたらす効果によらず、身分によってあつかいをかえる習慣」を日常の中で見張り、反抗すべきだという。でなければ「ぼくらは、戦争末期の状態のくりかえしを思いうかべてみては、それに転じうるものとして、ぼくらの今日の現実を理解しなければ、まただまされる」のである。
4 鶴見俊輔「大衆芸術論」『限界芸術論』ちくま学芸文庫、1999、101頁
5 「造形的」の意味合いについて戸惑いを覚えるが、ここでは1951年の『小学校学習指導要領 図画工作編(試案)改訂版』に習い、「他人の発表する思想・感情を正しく受けとる力と,自分の持っている思想・感情を正しく表現する力」と意味付ける。 
6 例外として、第9回中学校個人1位《キュウリをとる》はドライ・ポイントで制作されている。また、例えば第5回中学校個人の部1位《漁夫の顔》について、卓越した造形意識を評価し「近年における児童版画の最高水準を示す傑作」と評価を送っており、選評が作品傾向を正当化する発言にも映る。
7 町村悠香「「生活を、もっと生活を」戦後版画運動・教育版画運動から再考する戦後リアリズム美術の系譜」『彫刻刀が刻む戦後日本 2つの民衆版画運動』町田市立国際版画美術館、2022、参照。大田は元々、魯迅の木刻運動に影響を受け活動の幅を広げており、日本教育版画協会機関紙『はんが』で中国木刻を紹介するなど積極的な活動がみられた。  
8 日本教育版画協会の会員であった上野は著書『生活版画』(1956)での「生活版画のつくりかた」の章にて、三角刀の彫りあとについて中国人作家の作例から説明を試みている。「招瑞娟さんは、在日中国人である。中国版画家の血が流れているのだろうか、三角刀をよく使う。この作品は三角刀をたくみにつかいこなした招さんの代表作だ。(中略)招さんも、実感の追求に心を集中したからだと思う。バックに、白い余白をのこすというような、版画らしい配慮も、人物を浮きださせるためだったろう。作者の思想の深さが感じられる作品だ。」(36頁)日本教育版画協会の総意であるかは定かではないが、ここでは、三角刀の彫り跡と中国版画、つまり木刻版画を意図的に結び付けた上で、効果的な使い方の説明を行っている。
9 滝本弘之「魯迅と木刻運動 -新しい美術の誕生」『闇を刻む光 アジアの木版画運動1930s-2010』福岡アジア美術館、2018 参照  
10 「民衆が担う版画表現のゆくえ。小笠原正・評 「彫刻刀が刻む戦後日本―2つの民衆版画運動」展」https://bijutsutecho.com/magazine/review/25909(2023/2/24閲覧)