柳宗悦の理念と限界 ── 周縁から民藝を捉えてみる

橋場 佑太郎



 柳宗悦は、民藝運動や仏師である木喰の研究など、多岐に渡る活動を行った人物である。その中で、個人作家である河井寛次郎や濱田庄司と行った民藝運動や彼らの作品が度々注目されるが、私は柳が民衆の暮らしを再評価する活動が重要だと考えている。例えば、民藝運動を展開する前に、柳は朝鮮で起こった3.1独立運動を支持した。この朝鮮民族を激励1する活動は、李朝時代の朝鮮磁器を蒐集することで行われた。朝鮮王朝時代の茶碗が当時、日本の人々に評価される中、無名の民衆の人々によって作陶された李朝時代の茶碗はあまり評価されていなかった。民衆の暮らしの中から生まれた美を人々が敬愛する姿勢は、宗教学者、柳が求めた理想的な信仰の形であったのである。白磁の陶磁器を再評価する活動とその土地の文化を再評価するとの間には、異なる評価として受け止められるかもしれないが、これまでの民藝の受容のされ方を考察し、我々はつながりを見出すことができるかもしれない。 

1. 「教科書の河井寛次郎」から民藝品について考える


 まず、「⺠藝品」と聞いたとき、人々はどの様なものを思い浮かべるのだろうか。⺠藝運動の発起人、柳宗悦よりもその息子、柳宗理のモダンデザインや白磁の陶磁器を連想する人もいるのではないのかと考える。そうしたシンプルなデザインとは異なり、学校教育の中では河井寛次郎による造形性の高い民藝品が取り上げられている。日本文教出版に掲載された高校の美術の教科書では、「使いたくなる焼き物をつくる」というページがある。この教科書を用いた授業で、「発想や構想の能力」を評価軸としておいた場合、「用途や機能、使用する者の気持ちなどから、形や色彩の効果、粘土の特性を生かして美しさなどを考え、表現の構想を練っている。」2ことが授業の中での評価軸となる。「使用する者の気持ち」とあるが、使用する者が設定され、その気持ちを考え、形や色の効果を体験する授業として掲載されている。マグカップ、大皿、器、花器などの用途が明確な焼き物が掲載されているが、他に「かぼちゃの形の容器」や「生活で使える器」といった必ずしも用途が明確でない器も含まれている。それらは、色や形の効果から「使いやすさ」について検討する事ができないだろう。その場合、「かぼちゃの器の容器」や「生活で使える器」は、柳が批判したデザインと大きな差はない。また、光村図書の教科書では河井寛次郎の工芸品が掲載されている。3これらは、柳によれば、「素朴」とは対極の「豪華」に美的な要素である。

 1921年、河井は中国陶磁器の技法を用いた斬新なデザインの陶芸を高島屋の個展で出展する。そのとき、柳は河井の作品について「古陶磁器のイミテーションに過ぎぬ」4と発言していたという。河井は兼ねてから影響を受けていた柳の指摘を受け、作陶を中断する。

 柳が求めていたのは造形性のある作家による工芸品ではなく、無名の工人が作陶する日常雑器であった。この「民衆のための美」を求める民藝の意識は木喰調査とも通底している。1924年、柳はたまたま見つけた仏師、木喰の仏像彫刻を調査し、展覧会と『木喰五行上人の研究』(1925)という一冊の本にまとめる。木喰は木喰仏を地域の人々のために彫り、与え、庶民に寄り添った扱いをしていた。この仏師の調査を行った年に柳は京都の問屋街で「下手物」として見向きもされない日常雑器を「民藝」と称し、評価する。この雑器と共通する白磁のシンプルな造形に影響を受けた河井は開催された1929年の高島屋での個展で、古典の模倣から日常の用に即した作品を出展する。柳は河井寛次郎や陶芸家、富本憲吉、濱田庄司といった個人作家について以下の様に指摘している。

「工藝家ら『工藝美術』に転ずる時、そこには必然に絵画的(もしくは彫刻的)要素が著しくなる。進んで云えばかかる美術的要素がその作品の主要な価値に転ずる。(中略)個人作家の作は準工芸ではなくして美術である。あるいはこうも云えよう、『工藝美術』なるが故に不純工藝にすぎないと。」5  


 この様に、柳が求めていた民藝品は河井寛次郎が当初、求めていた造形性のある陶磁器とは異なり、無名の工人が作陶する白磁などのシンプルな日常雑器である。他方で、教科書の中で取り上げられる河井の陶磁器は柳が求めた日常の用に即した陶磁器とは異なり、造形性のある要素をまとった表現となっている。

2. 個人作家の試み ── 農民芸術運動との対比から


 日常の中から出てきた作陶を重視した富本にとって、「民藝」は、関心を抱く動向であった。しかし、富本は無作為による他力美を用いた「民藝」の理念に違和感を抱き、創作家として独創的な表現を求めた。6日本経済新聞の連載記事、「私の履歴書」において以下の様に発言している。


 「『機械生産によって人間味を失ってしまった日用生活品の中に、再び、手づくりのよさを 取りもどそう』という民芸派の主張は、(中略)もとより私は反対ではなかった。だが、しばらくするうちに、彼らの主張に根本的に私と相いれぬものがあるのを発見したのである。 私は民芸派の主張する、民芸的でない工芸はすべて抹殺さるべきだというような狭量な解釈はどうにもがまんがならなかったのだった。」7


 柳が富本や河井、濱田といった「個人作家」に求めた仕事は、知識や技術を持っているために美を意識した作品を展開する事である。それに対し、「工人」は、自然で無心な美を築き上げる存在としてあり、柳が蒐集した民芸品を作り上げた無名の人々などがあげられる。この「個人作家」と「工人」の固定した関係を柳は民藝運動の中で度々主張しており、「工人と共に作り上げる民藝品」を目指し、ギルド制作にこだわり続けた。

 1927年には京都で上賀茂民芸教団が結成され、木工家の黒田辰己、染織家の青田七良、染織の助手である鈴木実が共に生活し、民芸品を販売する取り組みが行われた。個人作家たちが生活を共にしたこの営みは、様々な説があるが、青田は胸を病み倒れ、黒田も神経衰弱といった健康的な理由と青田の女性問題によって2年で瓦解する。8このギルド制作による取り組みについて、同時代に行われた山本鼎の農村芸術運動との対比を考えたとき、柳が庶民の人々が用いる日用製品を再評価する取り組みである事が分かる。山本鼎はロシアから日本に戻り、日本の「味気ない美術界」に失望する。9そこで、保守的な美術教育が進んでいた状況を懸念し、ロシアで触れた自由画教育運動を提唱。その後、運動を共にした金井正は『農民美術建業之趣意書』(1919)を作成し、配布する。そこには「地方の商品」を「上流階級に向けた趣味の良い美術品」に高める輸出産業である事が伝わる。10こうした取り組みに対し、柳は「民芸と農民美術」(『工芸』日本民芸協会,1935 年,所収)の中で以下のように書いている。

 「農村美術と名のるものの特色を二つに数へることが出来よう。一つは地方色を有たないことである。第二は実用品を主としないことである。吾々はかあかるものを正しく農民美術と呼んでよいかどうか」「美術を標榜するから、実用に基づくものを厭み嫌ふのである。 だが真の農民の作品は何より工芸品なのである。美術家きどつたものでは決してない。こ のことはとくと反省する必要がある。」 11


 柳は地方色を持たず、実用品でもない農民芸術を批判的に捉えていた。が、柳の民藝運動も戦後、機械生産の台頭により、庶民が手に入らない高価な「趣向品」として個人作家の陶器を中心に売買される事になる。  

3. 「民芸ブーム」の発生  

 民芸協会に所属していた三宅忠一は個人作家が台頭する民芸協会を離れ、日本工芸館を大阪で設立する。三宅の民芸は上層階級のための贅沢品ではなく、自身が経営する飲食店、スエヒロにおいて、個人作家の指導を排除し、生産者が経済的に潤う事を第一に考えた。そのために、三宅は約45000の民芸品を買い取り、実際にスエヒロで食器として使い、飲食を振る舞った。三宅は吉田や会津よりも先に個人作家と工人を明確に分け、販売経路を確立する事で、戦後、柳が求めた「工人の理想」を実践的に行ったのである。こうした民芸協会の中での動きと大衆の動きには隔たりがあり、柳の「民芸」は1950年代から地方のノスタルジックなイメージと相まって、再び盛り上がる事になる。1960年の朝日新聞では「民芸ブーム」という見出しが現れ、全国のデパートでは民芸品を愛好する若者が購入する現象も起こり、上流階級だけの趣向品ではなくなっていった。この「民芸ブーム」に熱狂した若者たちは、田舎にある民芸調の雑器を求める行動に出る。これは、柳が求めた「民族、土地固有のもの」に工芸を通じて触れていく行為とは異なり、民族、土地固有のものを知る事もなく、民芸調のものを大量消費する事態である。1970年6月1日付の朝日新聞の記事、「民芸品ブーム 山村へどっと骨とう業者古道具何でもOK 高値に農家もびっくり」では、ダム建設で沈む山形の村落に民芸収集家が押しかけた事が記されている。

 「うすよごれたカゴ、かけたりヒビのはいった茶わん、自在カギ、黒光りした大黒像—農家 の使い古しの家具や調度なら何でもOK。いま、東京や大阪、九州の骨とう屋が東北の山村を走り回り、目の色かえて「民芸品」を買いあさっている。(中略) ダム建設のため、やがて湖底に沈む山形県米沢市の水窪、前ヶ沢、中荒井の三地区には、雪どけを待って東京をはじめ広島、九州、大阪の骨とう業者が操込み、すざましい買い集め合戦を繰り広げていた。」12

 「使い古しの家具や調度なら何でもOK」という言葉から、「地方の古い道具」であれば 「民芸」と捉えられている。柳が日常生活で使われる土地の製品を評価することで庶民の生活に誇りを持たせる考えとは異なっている。 


 最後に柳の沖縄での活動を概観することでこの論考を締めたい。1939年、柳は沖縄に滞在している最中、琉球の服装や言葉が制限されていることを問題視する。日中戦争開始後の沖縄では、「琉球語」を廃止し、「標準語」を普及する政策が進められる。この県の政策に対しても柳は問題視する。当時の沖縄では、県庁によっては全県的な励行運動が行われており、標準語を用いない人には窓口の受付を拒否するなどの差別的な行動が行われていた。こうした最中、自分たちの文化に引け目を感じずに誇りを持って活かしていくことを柳は推奨したのである。この標準語問題における柳の活動において、「琉球語だけ使う」という誤解をされてしまうが、それは間違いである。柳は、標準語と対等な言語としての琉球語を推奨したのである。そのため、「公用の場合は標準語を使い、私用の場合は土語を楽しむ」文化が必要なのではないのかと指摘したのである。

 柳の民藝運動は、過去の文化を敬愛する主張が見え隠れする13が、一貫して伝えているのは、「民族、土地の固有の文化に誇りを持つ」という視点である。柳の民藝調査は、沖縄から始まり東北、アイヌ地方といった周縁の文化圏に渡る。ここで改めて、柳が民藝運動において重視したのは民芸調の民芸品を紹介する活動ではなく、その見立て14を通して、土地の文化に触れることである。沖縄の事例からも読み取れるのは、地方の文化的価値をその土地の人々が見つめ返すことを基調とした運動であることだ。各地の民藝運動と個人作家の関係について今後調査を進める中で、柳が提示した民藝の理念とその受容のされ方を明らかにしていきたい。  


1 柳の中で土地の人々を励ますときに使う言葉である。
2 「使いたくなる焼き物をつくる」『美術1』日本文教出版、2016年、pp. 44.より
3 「焼き物の形成」『美術1』光村図書に掲載された工芸品は河井寛次郎となっている。他にも、日本文教出版の教科書など、多くの教科書の参考作品に河井寛次郎の民藝品が掲載されている。
4 水尾比呂志『評伝 柳宗悦』筑摩書房、p. 179.
5 「正しき工藝」『工藝の道』講談社、2005年、pp. 165-168
6 出川直樹『人間復興の工芸 ―「民芸」を超えて』平凡社、1994年、p. 306
7 富本憲吉「私の履歴書」『私の履歴書 第16集』日本経済新聞社、1962年、p. 285-286
8 志賀直邦『民藝の歴史』筑摩書房、2016年、p. 92-93
9 当時の山本鼎については池田忍による『手仕事の帝国日本 民芸・手芸・農民美術の時代』(岩波書店,2019年)を参照。
10 「農民美術、PEASANT ARTは何れの國にもあるが、是れを現に、組織的に國家の産業として奬勵して居るのは露西亞である。其製作品は廣く歐米に輸出せられて遂年其額を加へ、 PEASANT ART IN RUSSIAの名は今まさに、美術的手工品及手工的玩具の市塲に首座を占めて居るのである。」(https://museum.umic.jp/yamamotokanae/movement/#syuisyo/(最終取得日:2023年2月14日))
11 出川直樹、前掲書、p. 22-23
12 「民芸品ブーム 山村へどっと骨とう業者 古道具何でも OK 高値に農家もびっくり」 (『朝日新聞』1970 年 6 月 1 日付)
13 社会学者、竹中均は『社会理論としての民藝 : 日本的オリエンタリズムを超えるために』(明石書店、1999年)の中で、社会学者、小熊英二が行った柳宗悦の沖縄標準語論争について触れ、オリエンタリズムとしての民藝について考察している。
14 民藝研究家の濱田琢司は「地域からの実践という批判軸 三宅忠一試論 」『柳宗悦と民藝運動』(思文閣、2005年)の中で、民藝理論を「見立て」と称し、「生産」と「消費」の理論を持っていなかったと説明する。