柳宗悦と結合の修辞学

沢山 遼 

用と美

 柳宗悦は、1928年に工藝についての理論の体系化をはかる目的で『工藝の道』を出版しました。この本を読むと、そこにおびただしい数の「結合」という言葉が使われていることに気づきます。

 まずそれは、「民藝」という運動の根幹に関わるものでした。民藝とは、民衆的工藝の略語としてつくりだされた造語です。その意味で、柳たちが造語した「民藝」という言葉自体が、「民衆」と「工藝」という二つの用語を結合させるものでした。「民衆と結合することなくば、来るべき工藝はあり得ない1」と彼は言います。ゆえに私たちは、そこに民藝運動のひとつの原理を見いだすことができると思います。つまり、そこにあるのは、結合の力学です。民藝運動とは、そのような結合の力学に貫かれた思想でした。

 それは、批評家としての柳が、コピーライティングの才能に溢れた、概念の創造者であったことと深く結びついているように見えます。たとえば、民藝運動においてもっともよく知られたキーワードに、「用の美」というものがあります。柳は、非実用的な純粋美術に対して、実用的な日用品、雑器、工藝品のなかに美を見いだしていきました。用の美とは、そのような日用雑器に宿る美のことです。しかし、これに関して、民藝の専門家である高木崇雄氏は重要な指摘を行なっています。彼によれば、柳の全集や書簡には、「用の美」という言葉を見つけることができなかった、と言うのです2

 実は、そこにははっきりとした理由を認めることができます。柳が重視したのは、用の美ではなく、用と美が結ばれ、結合すること、すなわち遭遇することでした。用の美というと、そこから用と美の結びつきが自明化されてしまう。「用の美」という、柳のテクストに由来すると考えられている語は、正確には「用の美」ではなく「用と美」の結合であったことは明らかです。

 柳の理論には、従来、美的感覚とは結びつけられてこなかったものを、民藝の名のもとに結合する、という法則があります。ゆえにそれは当時の読者に一種のショックを与えたはずです。なぜなら、彼はそこで美的領域から排除されてきたものを美と結合させ、美的概念の刷新、革命を図ろうとしたからです。しかも、民藝運動の影響力の大きさを考えれば、それはある程度まで成功したと言える。だとすれば、民藝運動の成功には、この結合の作用すなわち、「と(and)」という助詞の作用が大きく介在しているのだとも言うことができるかもしれません。

 たとえば、柳は以下のように書いています。

用と美と結ばれるもの、これが工藝である3


用と最も厚く結合する雑器に、工藝美の最も健全な表示があるのを説こうとするのである。(…)用との相即なくして工藝美はあり得ない。もしここに美の発足があるなら、日々誰もが用いる器物、生活に要する共通の用具、多量に作られる廉価な物、誰でも買える品々、最も平凡な持ち物、これらのものこそ最も厚く美と結ばれる運命にあるであろう4

 つまり、用は、本来、美とかけ離れているがゆえに、むしろ美と強く結びつく。そこに、柳と同時代のシュルレアリスム運動との世界的な同時代性を見ることができます。アンドレ・ブルトンは、現実と夢の融合のなかにシュルレアリスムを見いだしました。彼がそのとき強い影響を受けていたのは、ヘーゲルの弁証法です。ブルトンもまた、弁証法的に、かけ離れているものが強く結びつく様に美を発見した。この一種のショック効果に関して、アンドレ・ブルトンは、美は痙攣的なものだろうと述べました。それは、弁証法がもたらす振幅運動と関係していたからです。

 柳は、「用」以外にも、多くのキーワードとともに工藝を語りました。いわく、工藝とは、凡庸、廉価、大量、凡夫の作、粗末なものである、などです。これらすべての概念を、柳は、絵画や彫刻など、個人の芸術家が創造する純粋美術との対立において位置付けていきました。以下に一例を列挙してみます。


個人—民衆

芸術家—職人・工人

有銘—無銘

意識—無心(無意識)、没我

貴重・少数—大量生産(多)・ありふれているもの・普通のもの・ざらにあるもの・粗末なもの

天才・才能—凡人・無学
使用されない(鑑賞)—使用される道具(用)
技巧—稚拙・素朴

豪奢—清貧・質素・簡素・単純さ・貧しさ

官—民(民衆が使うもの)

上手—下手物・雑器

創造—労働

非凡—凡庸

高価—廉価


 右側に置いたのは、すべて、純粋美術や貴族的な工藝品に対する、一種の対抗、カウンターとして組織された概念です。こうした諸概念は、従来、「美」の領域から疎外され、排除、抑圧されてきたものです。柳のテクスト的な戦略は、そうした抑圧されたものを「美」との結合によって復活させることに向けられていました。むしろ工藝とは、そうした抑圧された諸概念が「美」と結ばれることによって、「復活」する入れもの、容器としてあったのです。繰り返せば、それらは、もっとも「美」とかけ離れているがゆえに、強く、「美」と結合する。柳のテクストは、そのような「美」と抑圧されたものとの遭遇を「結合」がもたらす運動によって協働させようとする意志をもつものでした。それは、概念のレジスタンス=抵抗運動だった。柳は、これら諸概念に、抵抗のイデオロギーを託すことを企図していたのです。

 用と美の関係と同様に、ここに登場する民藝運動の鍵概念は、すべて、これまで美との結びつきを認められていなかったもの、抑圧されたものであったことに注意する必要があります。これらと美との「結合」として示されるのが民藝運動でした。こうした抑圧されたものの回復こそ、民藝運動が目指すものだった。そして、それは、抑圧されていたがゆえに、一種のショック効果、革命的効果をともなう。すなわち、痙攣的な美をともなうのです。これを可能にしたレトリックこそ、「結合」という概念でした。

 そして、それが重要なのは、柳にとっての民藝が、凡庸なもの、つまらないもの、廉価なもの、等々によるものであって、けっして、最初から美を目指してつくられてはいない、という点にありました。ゆえに、逆説的に、これらは美と結びつく。民藝運動における美は、逆説的にしか定位することができない。美は、それが積極的に定義され、目指される限り、けっして到達できないのです。柳のテクストは、おびただしい数の「美」という概念を強迫的に繰り返します。しかし、それは、美そのものは積極的に定義することも捉えることもできないということにおいてなのです。

何故なら工藝においては、用のみが美を産むからである(…)なぜなら工藝における美の秘儀は「用」をおいてどこにもないからである。用に即することと美に即することとは、工藝においては同時である。「美だけ」と云うが如き怪物が工藝の世界にあり得ようや5 

 用と美は、工藝においてだけ結びつくことができ、そして、その対立は両者の成立の同時性において解消する。ここで柳は、美それ自体を積極的な実体として提示することに反対し(それはできないと言い)、それと従来結びつけられていなかった諸々の概念との結合、そしてその同時的な対立の解消を通じて、はじめて、美を積極的に提示しようとするのです。それを彼は「用即美」と言い換えました。美は、対立するものの痙攣的な結合とその対立の同時的な解消によってはじめて見いだされるのです。

法と美

 柳のテクストが、結合という概念がもたらす力学を全面的に活用するものであったことは、ほかの箇所においても指摘することができます。たとえば彼は、優れた工藝が生み出されるためには、自然への帰依が不可欠である、と説きました。彼は、工藝の生産に介在する風土や素材、技術を自然という概念によって言い換えました。工藝は、自然の素材、その土地固有の材料、そしてその物質の組成が内在的に生み出す技術と並行し、自我を捨ててそこに身を深く預けることなしにつくりえない。自然と格闘するのではなく、ひたすら自然に平伏しそれと協力することが、優れた工藝を支えてきた、と。つまり、その意味で民藝は、人間と自然との結びつきを説くものであったと言えます。そしてそれは、自然との結合において、主体の存在がかき消され、消滅することの積極性を説くものでもありました。民藝とは、結合の作用において、異なるものが溶解し、いかなる主体もそこからは消え去る、そのような場において生じるものであったということです。

 彼は、具体的な民藝の作品の物質的な組成のなかにも、そのような結合の様態を見いだしていきました。工藝作家の出現以前、染色や陶芸の世界は、基本的には分業によって成立していました。ゆえに、それらは柳が言うように合作であったと言うことができます(「一人で糸と染と織とを充分になし得るであろうか。単独で、土と轆轤と絵附と釉掛と焼きとをなすべきであるか。優れた古作品が多くは合作であるのをどう見るべきであるか6」。)そこで重要なのは、民藝が集団の営為であるのと並行して、その品々は、複数の技術、物質が遭遇する場である、ということです。

 この問題に関して、柳は、織物、テキスタイルをとりわけ重要していたように見えます。それは、この複数の技術、物質の遭遇、結合の場としての民藝という概念に関わるものであったはずです。彼が晩年に記した『心偈』に、「糸ノ道、法ノ道」という句とそれを解説した短文があります。

「糸ノ道、法ノ道」
美しい織物を見る。平織でも綾織でも、何なりとよい。経縞、格子縞、何れでもよい。何処からその美しさが来るのであろうか。材料の吟味、色調の潤い、様々な因はあろうが、その美しさを安泰なものにするのは、経と緯とが交わる法則に委ね切った道だからである。ここでは人間の我儘をぶしつけに出すことが封じされているのである。何んなことをしようと法を外れれば、織は乱れて了う。人が織りはするのだが、法の中で人が織るというに過ぎない。だから、糸の道は法の道なのである7。 

 柳は、織物の美しさを、材料や色調以上に、もっとも基礎的な単位である経糸と緯糸とが交わる法則性に見いだしました。織物は、糸の交わりの法則性のなかに徹底して従うことによってつくられる。ゆえに、彼はそこにある数的秩序のなかに「法」を見るのです。法のなかに人が入っていくことを通して、民藝は、倫理的、宗教的な問題と接点をもつことになります。そこで彼が法をもちだすのは、織物がまさに物質同士の結合による組成を法則化したものであることに関わっていました。

 柳が、染めと織りのプロセスが乖離した沖縄の絣における絵図(いいじい)と呼ぶ新しい手法を批判したことは、このことから説明することができます。古い沖縄の絣に見られる手結(てゆい)という手法においては、その柄、パターンのバリエーションは織物の物質的構造を規定する数理的な配列によって決定され、制約されていました。しかし、明治になると、絵図と呼ばれる手法が用いられるようになります。絵図においては、布に事後的に柄を配置することが可能になりました。

 しかし、柳はそれを優れた技術革新とはみなさず、むしろ、手結の数理の美、織物の「法の美」を損なうものであると批判するのです。絣においては、織と染、経糸と緯糸とが構造的に結びついている。彼はそれを絣の美の根拠であるとしたからです。

 民藝は、こうして、複数の技術、複数の物質、人間と物質、精神と物質とが深く結合する様態のなかに位置付けられることになります。(「工藝が精神と物質との結合せる一文化現象として、将来異常な学的注意を集めてくることは疑いない8」)。その意味で、柳の民藝美学は、たんに複数のものが複合、並列し、多様な状態にあることを突き抜け、すべてが「一」となる状態、統合された状態を目指すものであったと言えます。このような統合の美学を主張するという点において、やはり彼は、徹底的なモダニストであったと思います。さらに、この「法」に従うことは、自力を離れ、仏教的な他力道に入っていくことを意味していました。美は、そうした諸要素の結合の証としてはじめて見いだされるのです。

 いずれにしても、柳のテクストは、あらゆる観点からの結合を強調し、その概念の接続的な運動性、レトリックを駆使するものであったと言えます。こうして、民藝という概念の前では、自然、精神、物質、技術、用途、人間のすべてが、この修辞によって連続、平衡、統合することが可能にされる。ゆえに、民藝の品においては、「素地と形態と用途とその模様との間には驚くべき結合があり平衡がある9」と書く柳の言説には注意が必要です。そこでこの結合と平衡をつくりあげているのは、工藝の品々ではなく、なによりも彼のテクストに潜む力にほかならないからです。

不二

 柳が織物に見た「法」は、『美の法門』『法と美』などのいわゆる彼の仏教四部作の鍵概念でした。法とは、理であり、ロゴスです。その意味で、たとえばキリストは、柳が言うように、ロゴス=法が受肉した存在であると言えます10。ゆえに、結合の問題は、『工藝の道』を経て、彼の宗教美学、仏教美学において回帰したと考えられるのです。

 柳は、民藝や仏教について記述する際に「不二(ふに)」という概念を繰り返し使用しました。「不二」は、文字通り、二ではないこと。二つに見えて実は一つであることを指します。この概念の着想のもとは、彼の最初期の仕事であったウィリアム・ブレイク研究にたどることができます。柳は、大正三年(1914)、日本で初めて書かれたウィリアム・ブレイクの本格的な研究書『 ヰリアム・ ブレーク』を刊行しました。

 なかでも柳は、ブレイクの詩篇「天国と地獄の結婚」に注目しました。「結婚(marrige)」とは、すなわち天国と地獄が「結合」することです。そこに「不二」がある11。それは、天国と地獄のみならず、あらゆる相反するもの、二極的なものが一極化することです。それは、対立するものの同士の、弁証法的な統一をはかることです。ブレイクには、徹底的な二元論への批判がありました。ブレイクは、「相反するものなしに進歩はない」「対立は真の友情である」と述べていました。

 柳の仕事において、初期のブレイク研究、中期の民藝運動、晩期の仏教美学は、それぞれ「不二」の思想であることによって一貫しています。とりわけ工藝においては、あらゆる抑圧されたものが、レジスタンスを起こし、美と強く結合し、その対立を解消する。民藝は、こうしたものの権利を回復する過程のなかにありました。柳にとっての工藝とは、工藝それ自体の擁護である以上に、美との関係において、抑圧されてきた諸要素の権利を回復させることでした。民藝とはいわば、天国と地獄が結びつくこと、あるいはそのような属性が解体される場所のことであった。彼は、そこに救済を認めたのです。

 ブレイクは、霊肉(れいにく)二元論を否定し、肉体と霊魂が別々のものであるという考えを退けました。それは、肉体・物質と精神、心は一体でありそこに区別はないという、色心不二の思想です。霊と肉、善と悪、天国と地獄、神と人間など、ブレイクの芸術は、聖書においては対立するとされた、これらの対立の解消を目指すものでした。柳は、民藝においてその思想を継承したのだと言えます。

 ブレイクの考えでは、霊と肉がもとより一体のものであるのであれば、肉体とは、魂の物質化した姿である。すなわち、事物と精神は、結合する。すでに触れたように、この思想は、柳の民藝論にもはっきりと認められるものです。それは、事物と精神の結合、結婚でした。

 柳は工藝を、心と物、つまり精神と物質が遭遇=一体化する場所として考えていたからです。そこで職人は、他力の世界に入り、自我や意識に閉ざされた世界を突破することができる。つまり、民藝とは、主観的な精神の働きと客観的な実在、物質の二元論的対立を乗り越えようとする運動でした。

 この点に関して、柳は仏教哲学者の鈴木大拙を通じて、ネオプラトニズムとの関係で異端視された神秘主義思想家マイスター・エックハルトについての教えを得ていました。大拙は、エックハルトの思想のなかにある「無」や「空」といった概念が、禅の思想と近いと考えていました。エックハルトによれば、最終的な、最高の徳は解脱である。そこで人は、あらゆる属性から離脱し、神の容器になることへと向かう。エックハルトの思想は、キリスト教を出自とするものであるにもかかわらず、この性格によって、仏教的な無私、無我へと接近するものであったと言うことができます。

 無論、このような考えは、柳の脱自的な民藝思想に通底するものです。柳は、このような自我の消滅を通して、心が職人の身体を離れ、事物と精神が融合すると考えていました。たとえば、柳は、念仏を繰り返し唱えること、ろくろを回し続けること、同じ絵付けを日に何百回と繰り返すことを同じものとして捉えた。その過程で主体は空っぽ、がらんどうになり、主客の区分、対立が消滅し、神性を獲得する。柳の言う他力道とは、こうした道筋を経て、ただプロセスだけが自律することです。それが行き着く先は、「念仏が念仏する」「描くことが描く」という自同律です12。プロセス、行為のみが浮き上がり、肉体、精神の容れ物としての主体は消え去る。それは、念仏において、ただ「南無阿弥陀仏」という六字の名号のみが残り、それを唱える行為の主体、信心の有無さえもが無化されることです。

 そのため、柳の思想において、結合の最終的な帰結は、不二へと導かれるものでした。不二は、このように、対立するものを結合させるだけではなく、最終的にはその対立関係を消滅させ、あらゆるものの属性を解体することにおいて、重視されたのです。柳は晩年に構想された仏教美学でこのような対立関係の解消という図式を繰り返しています。彼の宗教美学に共通するのは、徹底的な一元論です。彼は『美の訪問』で以下のように言っています。

至極の性には相対する質がない。一切のものはその仏性に於ては、美醜の二も絶えた無垢のものなのである。この本有の性に於ては、あらゆる対立するものは消えて了ふ13。 

 つまり、民藝とは、二極的なものを結合させた上で、あらゆる対立の和解を図る、絶対的なもの、至極の性に至ることを目指す運動であったということです。それは、「矛盾が矛盾のままで溶け合ってしまう(…)何処にも争う二がない14」「不二」の世界、葛藤なき、仏教的な浄土美の世界です。

 よって、民藝運動とは、貧しさや拙さを美との結合において擁護する観点から出発するものでありながら、究極的には、自他、美醜、巧拙がすべて結合し、その差異が消滅する世界において、徹底的な「一」を目指すものでした。ゆえに、彼のテクストには、おびただしい数の「結合」というレトリックが現れることになるのです。

 そこでは、人間と自然、精神と物質、貴賤、悪と善、貧しさと豊かさ、自己と他者、才不才、敵と味方、彼岸と此岸、上下など、地上において対立する、あらゆる敵対的なもの、異質なものが和解し、その属性を解消してしまう。あるいは互いの立場を交換することになるのです。

 その可能性を開くものが、柳にとっての工藝でした。それはこのように考えることで、ある程度見通しのきくものになるはずです。このような原理においてこそ、柳は工藝を神の国、仏の国になぞらえたのです。

 柳は、仏教四部作の執筆を通して、それまで自身が擁護してきた民藝において「浄土」の世界における「不二」すなわち「一」なる世界がすでに事物のなかに実現されていることに改めて衝撃を受けるとともに、晩年の宗教美学の思索が深められるほど、民藝への信頼、確信をいっそう強固なものにしていきました。しかし、彼が受けた衝撃は、ほかならない、彼自身が駆使する結合のレトリックによって自身にもたらされた衝撃だったということに注意しておく必要があります。彼の脳髄にもっとも大きな一撃を与えたのは、民藝の諸作品、仏教思想の数々である以上に、当の自らの思考、そしてそれが書き留められたテクストのおそろしいまでに厳格な幾何学性、統一性です。彼は、自らのテクストが実現してしまった出来事にこそ、現実性を見いだし、そこに震撼したはずです。

諸概念のギルド

 そこには、一貫した原理、つまりあらゆる矛盾が矛盾のままで溶け合ってしまう、ほとんど暴力的なまでのテクストの装置性、力能がありました。興味深いのは、柳は結合という概念に別の力を与えるように、その語に民衆それ自体の含意を託していたということです。それは、すべてが等しく結びつく共同体、結社のことも意味したでしょう。ここで、柳のテクストにおいて、結合という語は二重の役割を負わされることになります。『工藝の道』では、中盤に差し掛かったところで、「結合」という語それ自体が、実体的な意味を担うことになるからです。

 民藝は、単独の、個人作家によって創造されるものではなく、民衆の生活のなかで生まれ、民衆によってつくりだされた、名もなき者たちの協働性、集団性のたまものでした。柳は、民藝が、このギルド的な集団性のなかから生まれてきたものであることを強調しました。この集団性において、工藝には、「完き結合への単位」があると柳は言います。

孤立は工藝を美しくしない。よき古作品を見られよ、合作でないものは何一つないではないか。それは異なる人々が力を併せた一つの仕事であった。各々の者は分業によって、自らの負うべき仕事を果たした。分業は分離ではなく、完き結合への単位であった15 

 彼は、ヨーロッパの中世ギルドが、信仰によって強く結ばれ、連帯するものであったことから、ギルド的な集団性とは、すなわち教団性のことでもある、と考えました。「孤」「個」ではなく「多」のなかに民藝を見る柳の視線は、ギルド的な生産体制のなかに宗教性を見いだすものでもあったということです。柳にとって、結合は、そのような工藝的、宗教的な人と人の繋がりを示す新たな単位として導入されています。彼は、『工藝の道』の「来るべき工藝」という章の末尾に、「来るべき工藝はかかる結合にのみ可能である。結合、このことなくして工藝は全く不可能である16」と書き付けています。

 柳は、ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を民藝運動の一つの歴史的源流として認めていました。モリスは、中世のギルド的な生産社会による工藝の生産をモデルとして、アーツ・アンド・クラフツ運動を組織しました。柳は、モリスのプロデュースした工藝品の美的価値を評価しませんでしたが、基本的に、その思想は支持しました。そして彼は、個人と個人が結びつき、ある集団を形成して工藝をつくりあげる、そのような生産体系を、結合の名で呼び表し、じっさいに京都で上加茂民藝協団を組織することになるのです。

私たちは結合の世界へと転ぜねばならぬ。同胞の思想が固く保持される社会へと進まねばならぬ。かかる社会を私は「協団」の名において呼ぼう17


もし個人の道が、美へ導く大道でないとする時、私たちは再び協団の道へと出るであろう。そこは協力の世界である。結合の世界である。共有の世界である18

 結合は、それまでたんなる媒介者の位置にありました。が、その言葉は、『工藝の道』の議論の中盤に差し掛かり、突如として、主体的な意識を持ち始めたかのようにふるまい始めるのです。最終的に、結合は、あらゆるものを接続すると同時に、結社、ギルド的な集団性、協団性を意味するものとなります。すなわちそれはそれまでのような、接続助詞ではなく、名詞や動詞として使用されることになる。「結合」は、つまり、階層を下げ、民藝を定義する諸々の(レジスタンス的)要素(用、簡素、多量 etc.)と同じステータスに入る。それは、あたかも、伝令役、司令官の座におさまっていた将軍が、突如として前線に立つ光景を彷彿させるのです。柳にとって結合の語は、このような配置換えの操作によって運動しています。

 これは、唐突な飛躍のように見えます。それまで媒介者の位置に置かれてきた結合、英語でいうところのandが、突然主体的に振る舞い始めるのですから。しかし、いうまでもなく、それは戦略的なものです。

 すでに述べたように、柳はあらゆる二項対立を批判するために、それらを結合するという考えを示していました。それは、それらのあいだにある結合そのものの力学に注目することでした。だから、「結合なしに、工芸はあり得ない」と述べる柳の言説には、すでに二重の意味が組み込まれていたことになります。工芸は、異質なものを結びつける結合の力学なしにありえず、同時に、民衆たちの協力関係、結合の集団性によって実現されるものであるからです。

 つまり、柳は、集団性、協団性、人間相互の関係を強調する以前に、概念の集団性、協力関係を「結合」という言葉によって表現しようとしていたのです。民藝運動において、職人たち、民衆の集合性を強調する以前に、柳のテクストで述べられていたのは、「用」「無心」「下手物」「不完全」「凡夫」「単純さ」などの概念が、民衆や美において集結する、概念の集合性=結合でした。さらに言えば、それは、諸概念それ自体が民衆的に連帯する=いわば概念の人民戦線を組織することでした。

 ゆえに、そこで生じているのは、民衆のレベルではなく、テクストのレベルにおける連合、集団性です。それを、テクストの民藝運動と呼ぶことができるかもしれません。

 だから、ここにみられるのは、いわば概念のギルドなのです。ゆえに、民藝運動を、現実に生じた実際の運動であったとだけ考えることは間違っています。民藝運動とは、なによりも柳宗悦のテクストの内部に生じた修辞的な出来事として存在しているからです。それは、文字通り、概念を移動させ、結合させ、連帯させ、集団化し、それがもともともっていた位置付けを反転・転回させ、転覆させることを企図する運動にほかなりませんでした。

 このような結合のレトリック、あるいは結合の二重の役割を駆動させることによって、民藝運動は推進されたのです。彼はそれが実現するものを「結合の美」と呼びました。柳はそこに「工藝の道」を見いだしたのです。



(※)本稿は、ジャパン・ハウス・サンパウロ(ブラジル)における毛利悠子の個展『PARADE (A DRIP, A DROP, THE END OF THE TALE)』展関連企画として2021年11月4日に行われた筆者のオンライン講演会「諸概念のギルド」の内容をもとに、新たに執筆したものです。


1 柳宗悦『工藝の道』講談社学術文庫、2005年、159頁。
2 「10問10答「民藝」って何だろう? 解説 高木崇雄」『芸術新潮』2021年10月号、新潮社、56-57
3 『工藝の道』36頁。
4  『工藝の道』8頁。
5 『工藝の道』65頁。
6 『工藝の道』177頁。
7 柳宗悦『柳宗悦コレクション3 こころ』ちくま学芸文庫、2011年、398-399頁。
8 『工藝の道』18頁。
9 『工藝の道』168頁。
10 柳宗悦『南無阿弥陀仏: 付心偈』1986年、85頁。
11 柳とブレイクにおける「不二」の思想は、シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』などとの関わりとともに、以下の遠藤薫論ですでに論じたことがある。「遠藤薫《重力と虹霓・沖縄》を読む。パラシュートとコーラ瓶がつなぐ、工芸、沖縄戦、ポップアート、宇宙主義(TOKYO ART BEAT インサイト レビュー)」(https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/endo-kaori-gravity-and-rainbow-okinawa-insight-2022-09
12 『柳宗悦コレクション3 こころ』241頁。
13 『柳宗悦コレクション3 こころ』101頁。
14  『柳宗悦コレクション3 こころ』113-114頁。
15  『工藝の道』78頁。
16 『工藝の道』182頁。
17 『工藝の道』188頁。
18 『工藝の道』189頁。