差異化と均一化、そして宙吊りにされた無色透明の輝き──宮坂直樹キュレーション「物質分化」展について

藤本 流位

物質分化」展 2022, N&Aアートサイト, Photo by Aya Kawachi

 2022年3月5日から3月17日までのあいだ、東京中目黒にあるN&A アートサイトにて宮坂直樹のキュレーションによる展覧会「物質分化」が開催されていた。本展覧会は、若手キュレーターの発掘・育成を目的とした「ネクスト・キュレーターズ・コンペティション 2021」の第三弾目(最終弾)として実施されたものであり、宮坂によって選出されたのは、アンヌ=シャルロット・イヴェールと保良雄の二名のアーティストであった。
 2016年に東京藝術大学大学院にて博士課程を修了した宮坂は、これまでに国内外での個展開催といったアーティスト活動と並行しながら、いくつかの展覧会キュレーションを行なってきている。そこで、本稿では最初に、宮坂のアーティストとしての経歴について軽く触れておこう。宮坂は2019〜2020年にル・コルビュジエ財団特別研究員として選出されており、彼自身の作品もまた建築家であるコルビュジエからの影響を強く受けている。いくつかの作品は、コルビュジエによって考案された人間の身体尺度を基盤とした建築物に対する独自の寸法体系「モデュロール(Modulor)」を手掛かりに制作される。大まかに捉えると、この「モデュロール」概念に基づくオブジェクトは、オブジェクト単体として完結するものではなく、展示された空間(あるいはそこに存在する観客)を知覚するための計器のような役割を果たすものとして提出される。そのため、展示された作品は、その場所や観客の有無などの環境的な要因のなかでその意味合いを可塑的に変化させる。あるいは、その展示場所でなければ効果を発揮しないようなサイトスペシフィックなものでもあるかもしれない。
 このように、アーティストとしての宮坂は、作品が持つことになる展示空間との接続性や、展示空間そのものが一つの構成要素となるような作品を指向する。そして、それは「物質分化」展においても、宮坂の作品と同様に、展示空間へのオブセッショナルな眼差しを見ることができた。この点において、本展覧会はキュレーターや美術史家的な視点から構成されるものではなく、アーティストが「キュレーション」という枠組みを使用した思考実験的な性質を持った展覧会になっている。そのため、本稿は、二名のアーティストを展示空間に共存させることによって発生するものを探るといった、宮坂の思考実験に対する一つの応答としても読むことができるものになるだろう。

物質分化」展 2022, N&Aアートサイト, Photo by Aya Kawachi

 それでは「物質分化」展について見ていく。
 
会場の入り口付近には、カッティングシートによって展覧会情報が壁面に貼られている。しかし、ステートメントのような展覧会のとっかかりになる文章は見られず、そこには展覧会タイトルと、作家名/作品名、そして作品素材の名称が成分表示のように羅列してあるだけであった。観客はここで与えられた最小限の情報を頼りに展覧会を見ることになる。会場には複数のインスタレーション作品が設置され、それらの作品は制作者ごとに区分けされるのではなく、互いを混在させるようにして配置されているが、各作家が使用するマテリアルには明白な差異があり、そこで制作者と制作物のつながりが混乱するようなことはない。本展覧会は、最小限の文字情報と、素朴なマテリアルが配置された非常にシンプルな構成からなるものだ。

アンヌ=シャルロット・イヴェールCephalopod Behaviour2022, N&Aアートサイト, Photo by Aya Kawachi

 では、そのような展覧会から何が見えてくるというのだろうか。ここからは各々のアーティストが提出する作品について言及していく。
 アンヌ=シャルロット・イヴェールの作品《Cephalopod Behaviour》は、会場中に点在しており、壁面や床、天井に設置されたチューブからなる作品である。そのチューブには透明の液体が入っているが、色彩はオレンジや黄、緑など設置された場所ごとにバラバラである。では、チューブの内容物とは何か。ここで会場に提出された文字情報を振り返ってみる。イヴェールの作品に使用されているのは、チューブを構成しているガラス(plexiglass)とステンレス(stainless steel)のほかに、酸(acid)であることがわかる。そして、この酸は直接、展示空間へと接触しているという。すなわち、ここで見られる色彩の異なりとは、会場となっている建築物を構成するコンクリートや石膏、鉄との化学的な反応の結果によって引き起こされたものなのだ。そのため、チューブからどこにも接していない部分は、酸も化学変化を起こさずに無色透明のまま保存されていた。
 イヴェールの作品はこの色彩の変化によって、展示空間それ自体が持っている構造的な差異を可視化し、「ホワイトキューブ」として親しまれるものの継ぎ目をあぶり出している。このような、作品そのものが、展示空間へと言及し始めるといった特徴は、建築物との関係性を見つめ直そうとした1960年代以降のラディカルな彫刻的実践と共通するように思われる。
 ここで美術史家のベンジャミン・ブークローによる言葉を参照したい。ブークローは、ロバート・スミッソンやマイケル・アッシャーといったヨーゼフ・ボイス以降の彫刻家たちに触れながら、かれらの作品が問題としてきたのは「彫刻作品が、建築的な構造に近似する、その機能をシミュレーションするなど、空間経験におけるヘゲモニー的な秩序としての建築物に真っ向から異議を唱えることによって、永続的に変化し、同時多発的に発生する集合的な空間知覚の条件を追跡、あるいは開始することができるのか」
1ということだと述べる。ここでブークローは、建築物との関係性において「彫刻」という作品形態が見直されていることを強調する。彫刻作品とは、それが設置された空間を知覚する際の条件に働きかけるものになり、そのようなタイプの彫刻には、空間を空間たらしめている建築物への異議申し立てがあるのだと。
 このようなブークローの主張に、イヴェールの作品も当てはまるのではないだろうか。展示空間を触媒とした化学反応が示す酸の色合いは、ホワイトキューブもその他の建築物と同様に、多種多様な素材の組み合わせからなるものであり、真っ白に塗られているということによって、それを知覚せずに済ませておくことなど本当にはできないと述べているかのようだ。
 また、イヴェールの作品について、ブークローが挙げる前世代との違いを見るために、「酸」という素材によって建築物との関係性が語られていることに注目してみたい。この作品の興味深いポイントは、設置される場所によってその色彩を変化させるというところである。そして、それこそが、設置される空間によってその「意味」を変えるというブークローが前提とするような前世代の彫刻作品の性質との違いを示しているように思われる。つまり、イヴェールの作品はこれまでの彫刻作品と比べて、よりフレキシブルな同一性を備える彫刻作品として仕上げられている。それは作品の意味どころではなく、いわば形態そのものを変化させる彫刻作品だと言えるだろう。

保良雄fruiting body2022, N&Aアートサイト, Photo by Aya Kawachi

 イヴェールの作品がチューブという人工的な形態を成している一方で、もう一人のアーティストである保良雄の作品《fruiting body》はプリミティブな素材からなるものだと言える。それは二つのインスタレーション作品であり、会場の入口付近には、細長い楕円状に黒い土が敷かれ、その上に大理石でできている容器のなかに岩塩が入ったものが置かれている。さらに、その容器の上には目を凝らさらなければ見えないほどの細い糸が吊り下げられており、天井から流れる海水が糸をつたわって一滴ずつ容器のなかに落とされている。宮坂によると、この海水は展覧会の会期中には永続的に流されているという。
 もう一つは、会場奥側に配置されており、長方形に切り出された杉の木の上に黒い岩塩が置かれている。材木の両端にはプレート状の白い岩塩が敷かれ、材木を支えている。また、こちらの作品も同様に、黒い岩塩の上にも糸が吊り下げられ、天井から流れる海水が滴り落ちる仕掛けになっている。そして、これらのインスタレーションに加えて、石巻にて録音されたという自然音のリズムが二進法によって制御される機械から発せられているということが会場に記されていた。
 このように、保良の作品は、土や岩塩、材木といったプリミティブなものを使用しながら、そこに複雑な仕掛けが用意されていることがわかる。また、展示会場に用意されたテキストには、それらの素材が採集された場所も記されていた。たとえば、岩塩はパキスタンとネパール、土や材木は千葉県とあるように、そこに素材同士をつなぎ合わせるような関連性はないように思われる。しかし、保良はこの空間のなかで、それらを衝突させることによって、物質そのものを変質させようとしているのではないだろうか。大理石の容器のなかに敷き詰められた塩は、滴り落ちる海水によって溶かされ、黒い岩塩に落とされた海水は茶色に変色し、材木をつたわって床面へと浸水していく。
 
このような、物質が触れ合うことによって、作品そのものが変形/変質してしまうといった特徴は、イヴェールの作品とも共通する部分である。しかしながら、両者の作品が進む方向には根本的な違いがある。それは、酸の変色によってそれを取り囲む建築構造の差異を強調するイヴェールの作品に対して、保良の作品が物質同士の衝突によって発生する変質と、そこで発生する運動(塩の溶解や茶色の海水の広がり)の増幅に重きが置かれているということである。関連性のないものが衝突し、混ざり合い、そして広がる。それはイヴェールの作品に見られる差異化とは逆行する、いわば均一化へと向かう運動である。両者の作品は物質の触れ合う様を見せているのだが、そこで生まれる知覚的な変化のベクトルが異なっているのだ。

保良雄fruiting body2022, N&Aアートサイト, Photo by Aya Kawachi

 宮坂によるキュレーションは、作品を成立させる造形的な手つきや文章による説明を最小限に抑えることによって、作品を構成している素材そのものを前景化させる。本稿では、その両者の作品が向かう知覚的な変化の向きに違いがあることを示した。この点において、イヴェールと保良の作品は真逆だと言えるかもしれないが、その両方を見つめることなかで得られる発見もある。最後にそのことについて触れることで本稿を締めようと思う。
 それは、両者の作品における物質そのものが見せる変化というよりも、その変化のなかで影を潜めている変化する以前の物質への眼差しである。ここで改めてイヴェールの作品を見てみよう。チューブの中間地点、床面にも天井にも接することなく宙吊りにされた部分は、酸も化学変化することなく無色透明のまま保存されていることがわかる。それと同じく、保良の作品もまた、作品の上部に吊り下げられた糸には、岩塩と触れ合い変化を起こす前の海水の滴りを見ることができる。この変化する以前の物質は、まさに宙吊りにされていることによって、その瞬間だけは作品のなかで発生する知覚的な差異化/均一化を受けることなく、ただそこにあるだけの物質として存在する。変化以前を生きる宙吊りの物質は、未分化であるがゆえの無色透明の輝きを放つのである。

物質分化」展 2022, N&Aアートサイト, Photo by Aya Kawachi
*1 Benjamin H.D. Buchloh, 2001, “Cargo and Cult: The Displays of Thomas Hirschhorn,” Artforum,
https://www.artforum.com/print/200109/cargo-and-cult-the-displays-of-thomas-hirschhorn-1809