見えなくなった風景

ミヤギ フトシ

ホテルアンテルーム那覇、部屋からの風景

 去る5月、数日間沖縄に滞在していた。その前に帰ったのは2020年の1月だったので2年位以上経っていたことになる。過去10年ほどリサーチや撮影のため頻繁に帰っていたので、その期間は妙に長く感じた。沖縄を舞台に撮影した最新の作品は、2019年の夏に国立新美術館で開催されたグループ展『話しているのは誰? 現代美術に潜む文学』で発表した「In a Well-lit Room: Dialogues between Two Characters」だった。沖縄出身で東京に暮らす「僕」と、今も沖縄に暮らす幼馴染のクリスの会話を中心としたインスタレーションで、「僕」の語りは私の体験をもとにしていた。作品のテーマのひとつが、失われた風景を語りの中で立ち上げることだった。「僕」とクリスが高校時代にカレードリアを食べた沖縄三越7階のファミリーレストラン、国際通りの象徴的存在だった那覇タワー、現在の新都心であり、軍用地が返還されたあとしばらく手付かずの荒野になっていた天久の開放地、そこに隣接するホテル、パレス・オン・ザ・ヒル(現在はナハ・テラスという名称になっている)など今は無い、あるいは名前が変わった風景を手がかりに会話が展開してゆく。かつて見えていた風景、あるいは見えていたであろう、しかし見ることのなかった風景が存在したことを、物語に残しておきたかった。

その展覧会が始まってしばらくして、正殿を含む首里城の建造物が焼失した。いろんなものが変化し、あるいは消えてゆく中、まさかお城が消えてしまうなどとは思いもしなかった。それまで、無くなってゆく風景に感じていたものとは全く異質の、暴力的とも言える喪失感を覚えたが、なぜそのような感覚に襲われたのか、ずっと言語化できずにいた。


 その後2年以上が経ち、帰るタイミングを逃し続けている中、2021年に泊港のターミナルビル・とまりんの上層階で営業していたホテル、かりゆしアーバンリゾート・ナハが閉業した。何度か泊まったことがあり、「In a Well-lit Room」でも写真や映像に記録した、バーや客室から見える泊港の風景。その風景を再び眺めることはできない。夜、そこには私が生まれ育った島に向かうフェリーが停泊していて、昼前には出港を知らせる汽笛が鳴った。郷愁をかられるほどではないけれど、とても居心地の良い場所だった。そしてもうひとつ、北谷の美浜にある観覧車が解体されることになった。2015年に『花の名前』という映像作品に映る観覧車は、アメリカンビレッジと呼ばれる地区に建っていたが、周辺はかつて軍用地だった場所が返還された土地だった。そのアメリカンビレッジと国道58号線を挟んだ反対側は、今もフェンスに囲まれたままだ。そのような場所で、米軍属の男性が化粧をし、ドレスを身にまとい、ドラァグクイーンとしてレイナルド・アーンの歌曲をリップシンクする姿を撮影した。

 
泊港のホテルもアメリカンビレッジの観覧車も、私にとっては象徴的な存在で、いつかまた作品で取り上げてみたい、撮影したいと思っていたけれど、それももう叶わない。このままだと、風景の変化についていけないかもしれない。やはり定期的に帰るべきなのだろうと考え、また、復帰50周年の日を現地で過ごしてみたいという思いもあり、使いどころがなく溜まっていたマイルで沖縄に帰ることにした。

Tomari Port at Night #2 In a Well-lit Roomより(2019)

The Soldier(2015)

 5月12日、羽田から那覇へ。梅雨入りしていたこともあり、今にも雨が降りそうな空模様だった。撮影で帰ってくるたびに豪雨や台風に見舞われて、晴れの設定で書いていた作品のスクリプトを何度か書き換えていたことを思い出す。空港2階のフードコートで魚の天ぷらとオリオンビールを飲むという、いつもの儀式を終えて泊港に向かう。かりゆしアーバンリゾート・ナハは無くなったけれど、近くに数年前オープンしたホテルアンテルーム那覇の部屋を知人が予約してくれていた。かりゆしアーバンリゾート・ナハほど高層ではないが、部屋のベランダに出ると上方をアーチ状の泊大橋が横切り、眼前の海を離島行きのフェリーが行き来するのが見えた。道中のコンビニで買ったオリオンビールは50周年の限定復刻デザインで、湿度ですぐに表面が水滴だらけになる。

少し休んで、泊から国際通り方面に向かって歩く。時折雨がぱらつくが、傘が必要なほどでもない。じめじめとした蒸し暑さで、人通りもないのでマスクを外す。沖縄に住んでいた頃は、梅雨の時期が一年の中で一番嫌いだった。通学に使っていたバスの窓は結露だらけで、時々頭上の空調の吹き出し口から濁った水滴が垂れてきた。まとわりつくような湿度に、あの濁った水の錆と油のような何かが混じった匂いを思い出す。

老朽化が進み解体が予定されているという与儀の那覇市民会館に代わって久茂地に新しくできた、那覇文化芸術劇場なはーとに照屋勇賢さんの展示を見に行く。ちょうど取材で居合わせたらしい照屋さんが声をかけてくれ、少し話す。その後、牧志の公設市場に程近い場所にあるmiyagiyaさんを訪ねる。定期的に現代美術の展覧会も企画しているセレクトショップで、去年の2月に私も個展を開催したが、設営はリモートで行い実際に展覧会を見ることはできなかった。考えてみれば不要不急なことでは全然なく、行けばよかった、と展覧会が始まってしばらく後悔していたことを覚えている。それが、私にとって沖縄では初めてとなる個展だった。お店を後にして、miyagiyaの宮城さんも交えて牧志のせんべろ店で飲んだ帰り道、もう少し飲もうと安里駅近くのバーに向かう。帰沖の際はよくそこで石川竜一さんなどと飲んでいて、まさか居たりしてなどと言いながら扉を開けると、真正面に石川さんが座っていて笑う。

オリオンビール復帰50周年缶

那覇文化芸術劇場なはーと

 2日目は辺野古に連れて行ってもらった。考えたら5年以上足を運んでおらず、現地に行って工事の進み具合、建設中の構造物の巨大さに圧倒されてしまう。浜辺のフェンス脇では、男性が集まった人々を前に何かを話していた。フェンスの向こう側には制服に身を包んだ、おそらく民間の警備会社の男性が2人行き来している。無機質なフェンスの威圧感は、向こうの風景も相まってさらに増していた。

 
その後那覇に戻り、Luft ShopとギャラリーRENEMIAで開催されていた『沖縄・原空間との対話—金城信吉と建築』展を見にゆく。前述の那覇市民会館や沖縄国際海洋博覧会のパビリオン、沖縄館(私自身は見た記憶がないが、記録写真を見る限りかなりモニュメンタルな建築物だ)など、戦後沖縄を象徴するような建築物をいつくも手がけていた。そして、那覇タワーも金城建築のひとつだったという事実を知る。那覇タワーは他都市のタワーほどの高さも華やかさもないものの、小学生時代の数年間と高校時代を那覇で過ごした私にとって街の象徴だった。上部に円形の回転展望レストランを載せた19階建のビルに9階建の駐車場棟が併設されており、駐車場部分は私が高校生だった頃にはマキシーというファッションビルになっていて、沖縄アクターズスクールも入居していた。駐車場のスロープを利用した不思議な構造だったことをなんとなく覚えているが、おしゃれな高校生たちが集う雰囲気に当時の自分は馴染めず、ほとんど足を踏み入れたことがない。展望レストランにも入ったことがなくて、そこからの眺めを私は知らないままだ。周辺の風景もすっかり変化した。隣接する三越のファミリーレストランのカレードリアが好きだったけれど、その三越はもう存在しない。国際通りを挟んで斜向かいにあったOPA(元はフェスティバルビルと呼ばれた安藤忠雄建築の商業ビル)のタワーレコードは高校生時代の自分にとって数少ない息抜きの場だった。そのOPAは現在ドン・キホーテになっている。

辺野古へ向かう道

那覇タワー、2014年撮影

 3日目の夕方は栄町にある沖縄おでんのお店、東大へ。以前は夜9時半ごろに開店という変わった営業スタイルだったが、最近は夕方5時から開けて早めに閉店するらしい。表面がかりかりに焼かれた骨つきのテビチが変わらず美味しい。近くには1941年創業の沖縄ホテルがあって、飲み屋街にも駅にもアクセスしやすく以前はよく利用していた。大浴場を併設しているのもよかったし、部屋のドアベルがなぜかファミリーマートの入店音で楽しかった。そのホテルも、コロナの影響で長期休業に入ってしまった。東大の後は近所にあるオルタナティヴスペースでアーティストの人たちと飲む。同席していた人の携帯に石田尚志さんから連絡があり、私も少し話す。石田さんが沖縄で作品を作っていた頃、私も那覇にいたはずだった。しかし、たとえば『真喜志勉 TOM MAX Turbulence 1941-2015』展のカタログに石田さんが寄せた「90年の光」の文章が描くような、1990年の国際通り、ギャラリーで観ることができた美術、街に流れていた音楽、そこにあった文化を私は知らない。ゲームの世界に没頭しており美術にはなんの興味もなく、その流れに触れることなく沖縄を離れてしまった。すぐ近くにありながらも知り得なかったからこそ、想像力を掻き立てられる。いつか、ちゃんと調べてその時代の物語を書いてみたい、と酔いの回った頭でぼんやり考える。フェスティバルビルも、那覇タワーも三越もまだ存在し、国際通りにギャラリーがあったという時代の物語を。

夜の国際通り

 最終日で復帰からちょうど50年目となる15日は朝から豪雨。部屋から見える泊港の風景が霞んでいる。昼過ぎから沖縄県立博物館・美術館で髙嶺剛監督の上映会へ。館に着く頃には雨は止んでいた。前半は『ウンタマギルー』(1989年)、トークや休憩を挟んで後半は『パラダイスビュー』(1986年)の上映というスケジュールだった。『パラダイスビュー』を観るのは初めてだった。舞台は復帰直前の沖縄。主人公レイシューを演じる小林薫をはじめとした俳優たちの気だるい演技と、肌にまとわりつくような亜熱帯の湿気を感じさせる映像に目を奪われた。定職につかず蟻の背中に番号を貼り付けるなど妙な作業で時間を潰すレイシュー、彼に想いを寄せるチルー、日本人と結婚するようにと母に言われながらレイシューの子を身籠るナビー、海辺の掘建小屋でひとり暮らすフィリピナースと呼ばれる盲目の男性、ロックバンドのメンバーとして米軍の慰問ツアーに参加するナビーの兄たち。一本線のわかりやすい物語はないものの、復帰前、ベトナム戦争時代に小さな共同体の中でそれぞれに葛藤する個々人の断片的な語りが、交差しては離れ、収束することなく散り散りになってゆく。最後、虹豚と呼ばれる凶暴化した豚に腹を食われたレイシューは、照りつける太陽のもと、当てどなく砂利道を歩いてゆく。何かに取り憑かれたようなレイシューが、今も沖縄のどこかをふらついている姿を想像する。映画を見終わって外に出ると少し肌寒く、近代的な新都心の風景と映画の中の風景の差異に戸惑い、あるいはレイシューが彷徨い歩くような場所はもう残っていないのかもしれない、などと思ってしまう。しかしそれも私が部外者だからこそ感じることで、外にいることで見えなくなってしまった変化の微細な過程があるのかもしれない。

 
私はなぜ、沖縄の風景が変化してゆくことに動揺し続けているのだろうか。ただ昔を懐かしがっているだけ、あるいは余所者として無責任な沖縄像を作り上げているだけなのか。しかし、たとえば東京で思い入れのある建築物が建て壊しになった場合、悲しくは思うだろうが、沖縄でそれが起こった時に感じる悲しさ、焦ったさ、もどかしさとそれは全く異なる類いの感情だ。沖縄で見る風景はアメリカと日本との関係性の中にあり、フェンスのこちら側とあちら側に起こる変化の性質の違いこそ、戸惑いの原因なのかもしれない。お城が沖縄戦で焼失し、基地ができて、お城が再建され、基地が存在し続ける中それは再び燃え落ちた。基地の存在と先の火事に直接的な関連性などないが、そこに関係を見出してしまう。フェンスが変わらず張り巡らされた島で、こちら側にある象徴的な建物が、どんどんなくなってゆく。それは、発展という言葉では語ることのできない変化だ。私は東京にいながらそれらの風景に思いを巡らせ、時々帰ることができればその地を訪ね、自分の記憶を掘り起こし、あり得たかもしれない語りを想像し、物語を描くことしかできない。

 
美術館を出て、モノレールで空港に向かう。チェックインを済ませた後、飲食フロアを歩き回ってどこに入るか迷う時間が好きだったが多くの店が閉店、あるいは早くに営業を終えてしまっていた。フロアの端にある回転寿司家がラストオーダー直前だったので入り、沖縄風の寿司をいくつかとビールを注文する。コロナ禍で2年以上帰ることができず、東京側の視線、東京側の語りの向こうに沖縄を見ているような感覚になることがあった。遠い沖縄で思い入れのある風景がなくなるたびに、繋がりが切断されてゆくようだった。復帰50周年にあたって話を聞かせてほしいと申し入れがあったものの、今の自分に沖縄を語ることができない、と断った取材もあった。数年前までは自分と沖縄は不可分だと勝手に思い込んでいたけれど、そんなことはもちろんなくて、自分から模索し繋がりを保たなければならない。私にとって、変わりゆく風景に物語を残すことがその手段となっている。久しぶりに沖縄の風景を見て、そう思い知らされた。まだまだ、記憶し、記録し、語りたいと思わせてくれる風景が数多くあるはずだから。また夏に帰ってこよう、とせわしなくビールを飲みながら考えていたのに、もう8月も終わりに差し掛かっている。