米軍占領下の新聞小説から読む女性の空間

佐久本 佳奈

 今年で施政権返還から50年を迎えたが、米軍占領下の沖縄の文学についてはまだ明らかにされていないことが多い。マイク・モラスキーは『占領の記憶 記憶の占領』で「沖縄の作家」と「女性作家」の小説を「日本人男性作家」の小説に対置させ、前者は「戦前から続く国内/家庭内(ドメスティック)の無数の抑圧形態」1を描出する点で後者のマスターナラティブに対するカウンターヒストリーの可能性を持つとした。しかし「沖縄の作家」がカウンターヒストリーの資源とされる際、作品数の少なさという制限はあったにしろ、沖縄の女性の書き手による表現は等閑視されてきたように思う。本稿では1950年代中盤の新聞小説を取り上げ、占領下沖縄における女性の生存の空間はいかなる想像力のもとに配置されていたかを提示したい。
 内容に入る前に戦後沖縄文学における新聞小説の位置づけを簡単に説明したい
2。沖縄出身作家として初めて芥川賞を受賞した大城立裕3「カクテル・パーティー」(1967)は『新沖縄文学』第4号に掲載された。戦前から占領期の沖縄の文学は発表媒体が地元新聞や雑誌といった限られた媒体であったため、1966年創刊の雑誌『新沖縄文学』が輩出した文学作品以前の系譜を辿るのは容易ではなく、1950年代の文学状況は主に『琉大文学』に関する研究によって占領統治に対する学生運動の抵抗の文脈から明らかにされてきた4。しかしこの時期は同時に、『沖縄タイムス』(1948年発刊)と『琉球新報』(1951年発刊、『うるま新報』改題)の両紙が1951年から新聞連載小説を開始し、戦前から活躍していた作家と新人作家が入り混じって活発に作品を発表していた時期でもあった。女性の書き手も含むこれらの新聞小説は、総体として通俗的な読み物の域を出ないと位置づけられてきたために研究が遅れてきたが、米軍占領下特有の法制度との相関関係から研究意義を再発見することは可能であるように思う。占領下沖縄では米軍政府の発布する法令と琉球政府の制定する法令、また旧日本法令とが混在して適用され、そのうえ米軍の発する法令に優位性が置かれた「法の雑居状態」の植民地的状況にあったのであり、人々が法との関係でいかなる占領空間を生きていたかはまだ充分に論じられていない。
 以下、1950年半ばに連載された大城立裕「白い季節」と新垣美登子
5「黄色い百合」を読んでいく6。比較の見取り図を先に示すと、前者は米軍占領と地域社会の複雑な絡み合いを描きつつも、基地歓楽街における女性の身体を管理し、米軍の法制度を補完する側の視点で構築される。後者はそうした性と生殖に分断された女性たちの居場所を物語を介して作り直すと同時に、民法改正運動と呼応しながら、慣習や新民法をも超えた主体的な生き方を女性読者に伝えていたといえる。

大城立裕「白い季節」『琉球新報』1955年10月13日朝刊4頁 第1回

 大城立裕「白い季節」(『琉球新報』朝刊1955年10月13日~1956年3月26日、安次嶺金正画)は同時代の沖縄の基地歓楽街コザを舞台に、公衆衛生対策の主眼であった性病予防に燃える若い医師を主人公とした恋愛劇である。長崎の医大を終え故郷のコザの保健所に赴任してきた医師山ノ内俊介は、同僚の公衆衛生看護婦7の遠山郷子と、同級生で戦後はバーのマダムとなっている古見博子のあいだで揺れる。博子は、米兵向けスーベニアショップを経営する戦後成金の市会議員熱田栄作の妾であり、物語はこの熱田に対する山ノ内の葛藤を原動力に、コザの風俗を書き込みながら展開していく。
 興味深いのは、小説が描く「弥島」と実在したコザの歓楽街八重島のズレである。八重島は小説の連載に先立つ1954年11月に、売春一掃が成功すれば他地域のオフ・リミッツ(米軍関係者に対する立入禁止令)も解除するという条件付き解除を成功させたモデルケースとして、すでに注目を集めていた
8。しかし小説が詳細な地理的記述を伴って「弥島」=八重島を紙上に暴いていくときに行っているのは、フィクションを通じた八重島の再「浄化」であり、売春女性を管理する米軍の法制度の積極的な補完である。例えば、弁護士の西森貞三と山ノ内医師による以下の会話である——「西森氏は、立法議員になったら、自主立法として、性病予防法案を提出するのだ、といった。「布令二十一号〔性病取締のこと。引用者註〕なんて、手ぬるいものね。もっと拘束力をもたせなければね」「ごもっともです。本土では、もうとっくに施行されているんですが」」9
 
犯罪の温床として汚染された基地歓楽街と女性身体を類似的に描写する医師山ノ内の視線は、ラブロマンスの物語に沿って占領下沖縄の地理空間をも再編していく。バーのマダムと公衆衛生看護婦の二人の女性の間で揺れていた山ノ内が後者を選び、彼女の故郷の沖縄本島北部へ向かうという結末は、真実の愛と自然豊かな沖縄の原風景が、ともに米軍基地とコザの歓楽街を遠ざけた形で発見されるという空間の記述の物語でもあるのだ。

新垣美登子「黄色い百合」『沖縄タイムス』1954年8月1日朝刊4頁 第1回

 新垣美登子 「黄色い百合」(『沖縄タイムス』朝刊1954年8月1日~1955年8月17日、金城安太郎画)は、日本本土とは異なって民法改正を自ら請願しなければならなかった占領下沖縄の女性たちの闘いとの呼応を想像させるテクストである。沖縄は婦人参政権だけは日本本土より早く行使されたが、新憲法はもちろん、新民法も沖縄には適用されなかった。女性たちは結婚すると家や夫の支配下におかれ、妻は相続権をもたず、金銭の貸し借りの保証人にもなれず、いわゆる法的には無能力状態の旧民法下にあった10(1955年10月新民法成立、1957年1月施行)。沖縄婦人連合会が率いた民法改正運動は1954年から55年にかけて活発化し、それはちょうど「黄色い百合」の新聞連載期間に重なる。連載開始から間もない1954年9月、婦人連合会主催の「法律座談会」が開かれるが、立法院議員や法務局長、検察庁副検事などに混じって新垣も作家として出席している11。しかし「座談会」での役人の反応は以下のように鈍いものであった——「同じ軍政下ではあっても日本と沖縄とでは違う」「占領法規によると原則としてその土地の法規を出来るだけ改廃してはいけないから軍政下に於ける沖縄でも考えさせられる」「家庭裁判所の設置等も出てくるし、種々の点につき相当の経費を要する」12。当時の法務局・立法院では、もともと家制度の否定が沖縄の慣習からみて困難だという認識の上に、本土における「逆コース」の動きにも支えられる形で、米国的につくられた日本の新民法自体が改正する可能性もあるとの見解が支配的であった13。小説は日本と比較し「沖縄にはまだ新民法は適用されないが」としつつ「一番最上の贈物は女に参政権が与えられ、新民法が出来て男女に平等の権利が持てるようになったことだった」14と未来を先取りしていた。とはいえ新民法の実施は家制度の解体をもたらすものではなかった。家督相続は祭祀承継と名をかえて、新民法897条の規定する「慣習にしたがって」男系相続を温存・確保したからである15。小説と並行して紙上に連載された法律解説記事は、「祖先を崇拝し「家」の名を恥ずかしめない」ことを新民法は禁じていないとし、このとき立派な「家風」は「各家庭の道徳とか慣習」に委ねたものにすぎないと解釈されることで延命していく16

「黄色い百合」の連載時の人気ぶりは、「それまで新聞なんか読んだこともなかった市場の女の人たちも、『黄色い百合』読みたさに、朝争って新聞を買ったというぐらいのさわぎだった」17という回顧に見られるように、多くの女性読者を獲得するものであった。小説は那覇の素封家の娘「百合子」がその家に勤めていた女中「カミー」を実の母親だと認識するまでのすれ違いを描く、親子愛を基調としたメロドラマである。しかしそもそもメロドラマが、ある秩序の破壊後に新たな道徳的秩序をわかりやすい物語によって打ち立てるモードとしてあることをふまえるならば18、テクストが民法改正をめぐる法的に混乱した占領下沖縄で封建制打破という新しい道徳を明確に提示したことと多くの女性読者を得たことは連続的に解釈できよう。小説の前半は大正期に子守奉公として売られた野村家で妾として跡継ぎを産まされ(周囲の期待に反して生まれたのは女の子であり百合子と名付けられる)、ブラジルへと移民花嫁として渡るカミーの物語である。後半では百合子が親の決めた野村家の養子と結婚した後の物語が展開される。百合子はまたしても女児を出産するが、その後東京へ逃げ出すと、裕福な家の女中となって主人の吉川と不倫関係を結ぶ。そして敗戦直後の沖縄へ戻り、夫と吉川の病死に直面し、残された娘とともに生きていくことを決意する所で幕が閉じられる。野村家をめぐる本妻、妾、遊女の対立関係よりも、女性を生殖の道具として分断する家制度の構造に批判の目を向けている点が特徴的である。
 
小説は新聞連載の際、結末が第1章で示されるという構成になっていた19。この「1951年」現在時の百合子に焦点を当てた第1章のタイトルは「洗骨」であり、風葬から火葬への変化というタイムリーな問題を扱っている。洗骨とは風葬のあと数年おいて遺骨を取り出して水や酒で清める習俗であり、その仕事は女性の役目とされていた。「何というグロテスクな光景だっただろう」と百合子は父の洗骨の記憶について作中で率直に語る。第1章は、那覇の人口密集緩和のための都市計画の一環として墓整理を描いているが、戦後の火葬の普及には、戦前から洗骨廃止を訴えていた沖縄本島北部大宜味村の女性たちによる「火葬場設置運動」が思い起こされてもよいだろう20。この章で百合子は「事務的な」心理のもと育ての母マツルの洗骨を行い、先祖の遺骨を火葬して一つの骨壺に収めるという行政指示に従う。しかし百合子はいっけん洗骨という古い慣習に従ったように見えながら、母のマツルを含め十数人分の親族の遺骨を、まとめて夫の棺桶の中で秘密裏に燃やす、という暴挙に出る。

暫く泣き続けたが、ふと百合子は、昨日洗骨した母の遺骨や先祖の遺骨なども棺の中に一緒にいれることを思いついた。これは昔の野村家の豪華な葬式よりも素晴らしい人数のあの世への旅立ちだと思った。戦前の恐怖宗教としての祖先崇拝の琉球人にとっては、こんなことは、神を冒とくする恐ろしい行為かも知れない。しかし百合子はそんなことに神経を病むような人ではなかった。戦争に出た兵隊は何千となく一緒に焼かれるということだ。先祖のお骨は、あの世での道しるべとなるだろう。21

 本来なら夫を弔うことと先祖の遺骨を一つの骨壺にまとめることは個別に順序よく行われるべきであるはずだが、母と先祖の遺骨は夫の棺桶の中にこっそりと入れられ、まだ生々しい戦争のイメージが引用されながら「一緒に焼かれる」。「神を冒とく」する行為だとはっきり認識したうえで行われる秘密裏の火葬は、慣習という見えない法をもはや恐れない、テクストにおいて最も密かで破壊的な瞬間である。カミーと百合子の物語内時系列の結末に位置する「洗骨」の章から小説が連載されたことを踏まえても、母やカミーを筆頭に女性たちを苦しめた「家」を焼き尽くそうとする小説の主張は明確である。
 時代は下って1980年に沖縄のトートーメー(位牌)継承方法が女性を抜きにした嫡子相続の慣習であることが『琉球新報』紙上で問題化されると、女性たちから怒りの声が上がり、やがて「トートーメーは女でも継げる」というキャンペーンへと広がっていった。先祖の位牌は同時に財産をも意味した。しかし女性が位牌を継承してはならないという女性タブーは、むしろ1950年代の軍用地料や援護法に基づく「遺族年金」の受け取りが始まり、とりわけ民法改正で女性に財産権が認められた後に強くなったという
22。テクストはまさに旧民法から脱していくときの、ある特定の時代状況下で燃え上がった炎のように、書かれ、読まれ、そして忘れられていったのではないか。しかし法から「道徳」「慣習」の次元に解釈され、すり替えられようとしていた「家」は、共同体からひととき離れた個人が読む小説の中では燃やすことが可能であった。このとき法への希求は、実定法とは異なり、そして慣習にも定められることのない公正な掟への求めとして描かれていたのである。


1 マイク・モラスキー著/鈴木直子訳 『新版 占領の記憶 記憶の占領』岩波書店、2018年、263頁。
2 戦後沖縄文学の時期区分は、投稿媒体を指標として次の3期に大きく分けられてきた。敗戦後から1951年頃までの第1期は、捕虜としての収容所生活に始まり、軍の広報から民間の新聞・雑誌『うるま春秋』『月刊タイムス』の発行に移った時期の自然発生的な文学の「出発期」である。1952年~61年頃の第2期は米軍の反共弾圧政策が強まった政治の季節にあたり、植民地的な統治政策に対して琉球大学文芸クラブの機関誌『琉大文学』上に抵抗の表現が表れたほか、詩や短歌の面でも同人雑誌発行の動きが活発化した文学の「高揚期」である。1962年以降の第3期は「祖国復帰運動」の展開にともない「沖縄」のもつ意味を追求する動きが出てくる時期であり、文学意識や方法の多様化に加えて個人詩集や雑誌、同人誌が輩出され、さらに『新沖縄文学』の創刊が文学活動に刺激を与えた文学の「収穫期」である。これらの時期区分に関しては、岡本恵徳「沖縄の戦後文学」『現代沖縄の文学と思想』(沖縄タイムス、1981年)と仲程昌徳「解説 沖縄現代小説史 敗戦後から復帰まで」『沖縄文学全集 第7巻 小説Ⅱ』(国書刊行会、1990年)を参照した。
3 大城立裕(1925~2020)は文学の他に伝統芸能組踊でも幅広く活躍し、戦後沖縄の文化面を代表する作家である。1943年に上海東亜同文書院大学予科に入学、敗戦による大学閉鎖のため中退。戦後は経済官僚として琉球政府に勤め、1971年は沖縄史料編集所長、83年に県立博物館長を勤める。2002年に『大城立裕全集』刊行。
4 鹿野政直『戦後沖縄の思想像』(朝日新聞社、1987年)、新城郁夫「戦後沖縄文学覚え書き——『琉大文学』という試み」『文学史を読みかえる 5』(インパクト出版会、2002年)、我部聖「占領者のまなざしをくぐりぬける言葉——『琉大文学』と検閲」『占領者のまなざし 沖縄/日本/米国の戦後』(せりか書房、2013年12月)、松田潤「琉球大学マルクス主義研究会の思想と行動」『あんやんばまん』(小舟社、2021年)を参照。
5 垣美登子(1901~1996)那覇の産婦人科医の二女として生まれ、県立第一高等女学校を卒業。親の反対を押し切り1919年日本女子大学国文科へ入学するも肺の病気で中退。進学のための再上京で同郷の詩人池宮城積宝と恋愛結婚し3か月で別居、出産。実家に身を寄せながら子どもを育てるため自活の道を探し、美容師免許取得後は1930年に沖縄で初の美容院「うるま美粧院」を開業する 。1935年に「花園地獄」を『琉球新報』に連載し、1952年から1956年にかけて毎年新聞小説を連載。1980年代には随筆集『人生紀行』、自伝小説『哀愁の旅』、『那覇女の軌跡』『新垣美登子作品集』が相次いで刊行された。先行研究に仲村渠麻美「新垣美登子「未亡人」論——1950年代沖縄の新聞における「戦争未亡人」表象をめぐる抗争——」(『琉球アジア社会文化研究』第14号、2011年)がある。
6 『白い季節』単行本は沖縄風土記社(1968年)と日本放送出版協会(1976年)から出版された。『黄色い百合』単行本の上下巻は1967年に自費出版された。
7 「日本復帰」に伴い「保健婦」と名称が変わる。沖縄では朝鮮戦争で深刻化した性病問題に対応するため保健所の設置と保健婦の養成を急いだ。離島を含め全市町村の駐在制は全国でも珍しく、無医地区の多い沖縄では医者に代わり健康管理を担う大事な存在であった。(宮城晴美「公衆衛生看護婦」『沖縄を知る事典』2000年、69頁。
8 加藤政洋「基地都市コザにおける歓楽街《八重島》の盛衰」『立命館文學』666号、2020年、140頁。
9 「白い季節」『琉球新報』1956年2月6日。
10 外間米子「男女平等のあけぼの」那覇市総務部女性室編『なは・女のあしあと 那覇女性史戦後編』(琉球新報社、2001年)208頁。
11 「女性・法律を語る 婦連主催の座談会(1)本土の新法を研究…女の身になって道徳的立法を」『沖縄タイムス』1954年9月22日。
12 仲井真八重子「婦連 法律を語る座談会」『沖縄タイムス』1954年10月7日。
13 若尾典子「女性問題——新民法要求運動をふりかえる」『法と民主主義』211号(1986年10月)39頁。しかし同年10月の立法院議員の本土視察後は、一転して日本の新民法と同じものを制定するという見解をとるようになる。婦人連合会は運動を展開し、55年の2月に「民法改正の請願書」を立法院に提出し、同年10月、本土の新民法と同じ法律が満場一致で成立する。
14 「黄色い百合」『沖縄タイムス』1955年8月7日。
15 若尾前掲論文、40頁。
16 「民法改正になったら(2)あととり娘でもオヨメにいける」『沖縄タイムス』1955年7月8日。
17 吉武輝子「ある沖縄女流作家の開眼」『別冊 中央公論』2号、1980年10月。
18 ピーター・ブルックス著/四方田犬彦・木村彗子訳『メロドラマ的想像力』(産業図書株式会社、2002年)270頁。
19 単行本では時系列順に並び替えられた。
20 堀場清子『イナグヤナナバチ——沖縄女性史を探る』ドメス出版、1990年を参照。
21 「黄色い百合」『沖縄タイムス』1954年8月9日。
22 宮城晴美「トートーメー継承の歴史」前掲書『なは・女のあしあと 那覇女性史戦後編』576頁。