探訪者、案内人、(写真家)東松照明——『朱もどろの華』「日誌・波照間島」を読む

北澤 周也

天に鳴響む大主/明けもどろの花の/咲い渡り/あれよ/見れよ/清らやよ/地天鳴響む大主/明けもどろの花の

 琉球文学研究者の外間守善(1924-2012)によれば以上の一節は「天地に鳴り轟く大主よ、明けもどろの花が咲き渡っていくようである。あれ、見ろ。なんと美しく雄大なことよ」と訳される。「天に鳴響む大主」「地天鳴響む大主」は「太陽」そのものを指し、「明けもどろの花」とは「太陽が水平線から昇る瞬間に放射する多彩な光の渦」の様子を指す比喩的表現である。この語は、16世紀から17世紀にかけて首里王府によって編纂された歌謡集『おもろさうし』の一節で用いられた表現で、写真家・東松照明(1930−2012)が沖縄体験記をまとめ、『太陽の鉛筆』(1975年)の翌年に出版した写文集『朱もどろの華―沖縄日記』(1976年)の由来である。
 本書は、東松が沖縄に居を移した1972年以降の、沖縄に関連する写真やテキストのなかから、『太陽の鉛筆』(1975年)所収の宮古島に関する文章を除く八つのテキスト「日誌・波照間島」、「沖縄通信」、「朱もどろの華」、「謀略の海」、「国際ホテル」、「ザン」、「濃密な共生感」、「こだわりの旅」が加筆修正後に写真と共にまとめられたものである
。写真家が記す「日記」とはなにか。本書の冒頭に位置する13日間におよぶ波照間島滞在記「日誌・波照間島」を、寡黙な写真家が生み出した探訪者の饒舌な記録として読み返す。
 『朱もどろの華』は、『太陽の鉛筆』の冒頭を飾る波照間島の傾いた水平線に浮かぶ雲を捉えた有名な写真が撮影された1971年12月の「日誌・波照間島」から始まっており、ここに写真集との構成上の対応関係が見いだされる。10葉のモノクローム写真を挟んだのちに始まる「日誌・波照間島」は、小見出しとして日付毎に区切られており、「十二月十四日」から「十二月二十六日」までの13日間、毎日記されている。本書「あとがき」によれば昭和四十六年十二月「三度目の渡沖。波照間島へ行く。滞在一ヶ月」とあり、その日付が1971年の年の瀬であることを示している。1971年12月といえば、コザ市(現沖縄市)で発生した交通事故をきっかけに県民の反米感情が爆発して発展した「コザ暴動」(1970年)の翌年であり、返還協定批准阻止を訴える全沖縄労働軍、教職員組合など労働者約15万人が集結した「11・10ゼネスト」決起集会や沖縄返還協定特別委員会が返還協定を強行採決したその翌月に当たる。
 
なぜ波照間島なのか。「日本」の最南端に位置する波照間島への関心は、沖縄の離島を巡り、その果てに東南アジアへの文化的連なりを見いだした『太陽の鉛筆』所収のテキストに垣間見ることができる

 波照間島では、村人が集団で島抜けした話が伝えられている。1648年というから、あの過酷きわまりない人頭税が、宮古・八重山諸島の農民に課せられてまもない時期のことだ。税の重圧に耐えかねた屋久村の老幼男女4、50名は、暗夜に乗じて島を脱出し、船でパイパティローマ(南波照間)へ向かったという。(中略)島抜けした者の行く先は、きまって“南”なのだ。(中略)脱出者はどこへ行き着いたか。南海の楽園を求めて船出して、目的を果たし得ずして海の藻屑と消えたのか、幻の島に行き着いたのか判然としない。

 地図や地名に存在しないパイパティローマや、与那国島でも同様に語り継がれるパイドゥナン(南与那国)など南方信仰の理想郷として総称される「古八重山人が脳裏にえがいた南海の楽園」としての「アンナン」に関心を抱き、更なる南下を決意した東松は、東南アジアへの旅立ちに際し、「沖縄にいるあいだに、沖縄を起点として旅立とう。(中略)沖縄からなら、気軽に、南方要素をバネとして“地つづき”で行けそうに思える。出発!」と、意気揚々に宣言し、1973年11月からおよそ1ヶ月という短い期間で東南アジア各国を巡り帰京する。『太陽の鉛筆』の副題「沖縄・海と空と島と人びと・そして東南アジアへ」にも示される通り、沖縄と東南アジアが「海と空と島と人びと」を介して接続されており、「日本」最南端の波照間島は、その中継に寄与する重要な島であったわけである。
 「十二月十四日」、那覇空港からプロペラ機で石垣島へと向かう機内から見えるサンゴ礁の風景を日本と比較して見惚れていた東松は、かつて石垣島を訪れた際に見た「琉球煙草会社」の広告看板が立っていただけの「原っぱ」のような石垣空港が、「原っぱ」はそのままに、看板だけがサントリーや日立といった本土の広告にとって変わっているのを目にし、本土復帰を目前にした石垣島のその風景を「半年後の沖縄全島のパノラマだ」という。
 翌日「十二月十五日」、東松は17日まで波照間島行きの船がないことを知り、八重山琉米文化センターで波照間島関係の書籍、本田安次『南島採訪記』(1962年)、伊波南哲『長編叙事詩―オヤケ・アカハチ』(1964年)、浦崎純『死のエメラルドの海―八重山群島守備隊始末記』(1970年)など比較的直近の文献に目を通したのち、本土観光資本の八重山進出に抵抗を示す教職員組合の前津武氏に聞き込みをおこなう。東松は「日誌・波照間島」において、毎日必ず島の人々と接触し聞き取りを行っている。これはほとんど調査と言ってよい。翌日の日誌には、「旅の照準を波照間に定めて以来、東京の沖縄資料センターと国会図書館、那覇の立法院と琉球大学図書館そして石垣と今日まで連日図書館通いしているけど、関係図書はいずれも八重山郡島全体を視野に入れたもので、波照間に関しては断片的にしかわからなかった。」と記されているように、彼の聞き取りや文献の閲読の作法は、フィールドワークそのものである。仲里効は、「日誌・波照間島」における東松の動向を「まるで人類学者のフィールドワーク前の緻密な予備調査を髣髴とさせるものがある」と指摘しており、港千尋によるインタヴューで東松が「写真家と文化人類学者は非常に似ている」と述べていたことや、「クロード・レヴィ=ストロースやクリフォード・ギアーツを読んでいたことを知って驚いた」という多木浩二の語りを例に、「『日誌・波照間島』は、すぐれたフィールドワークとして、と同時に、写真家の眼と耳においてしかなし得ないドキュメントとして読むことができる。言語の記録そのものが眼の運動となっているのだ」とも指摘している
。ここで仲里は、「眼と耳においてしかなし得ないドキュメント」と言うが、後の「十二月二十一日」の日誌で、「波照間の人とぼくとでは距離感がだいぶ違っている。家を捜していて道で出会った人にたずねると、『うーんと遠いですよ』という。で、行ってみると一〇分とかからない。(中略)村落が違えば歩いて五分の距離でも遠いところとなる。島全体が小さいのだ。」(28頁)と島での移動に関する距離感覚について触れているようなところをみると、この日誌全体が、島中を駆けずり回る写真家の「足」による動きと強く連動しているように感じてならない。各聞き取りの内容だけでみれば、それは「眼と耳」によるのは当然であるが、それらが日誌のなかで同日に起こった出来事として結びつきを帯びるのは、まさに「足」による運動の導線に拠るからである。
 そしてこのフィールドワークの記述によって東松は、写真における「一瞬」に堆積する時空間の積分的な構造を、言語化によって示し得ている。そしてその方法は、島の現在と過去、そして来るべき未来を、重層的に、あるいは立体的に経験する唯一の方法であったはずであり、それはちょうど東松の『〈11:02〉NAGASAKI』(1966年)において目指された異なる時空間軸を縫合する方法論とも通じている

 長崎には、〈11時02分〉で停止した時と、1945年8月9日11時02分を基点とする現在進行形の時間がある。この2つの時を、ぼくたちは、決して忘れてはならぬ。(中略)忘却という風化現象に歯止めをかける作業を怠ってはならぬ。人間が、人間である証として、時間の流れに意思の杭を打ち、薄れていく記憶を、経過した時間の分だけ取り戻さなければならぬ。

 長崎や広島においては、原爆の投下により「〈11時02分〉で停止した時」と「1945年8月9日11時02分を基点とする現在進行形の時間」があり、また東松は、それ以前のオランダ貿易によるキリスト教の伝播までも視野に入れているのだが、彼のフィールドワークにおける態度や記述の内容はまさに、異なる複数の時間軸が居合わせる空間(空間とは常にそのような場所であるが)を表象するための写真集構成上の方法論=「群写真」におけるモンタージュに寄与し、このフィールドワークの成果は、写真同士の、ひいて言えば前年に刊行された『太陽の鉛筆』におけるイメージの縫合を言語によって再規定する効果をはらんでいる。
 「十二月十六日」、明治30年生まれの仲本信幸氏を訪れ、明治期の波照間島における代議制によらない直接的な議会としての村落集会「ムラタタマル」を知り、「民主主義そのものが疑われている今日、ぼくたちは、人間の営みを根底からとらえ直す必要にせまられている。ムラタタマルに学ぶところは大といえる」(19頁)と述べ、その一方で神行事の盛んな波照間島において「神行事は、村落共同体を支える精神的主柱」であるともいう。村の政治と切り離せない「精神的主柱」としての神行事への着目は、周知の通り『太陽の鉛筆』においても多数のイメージとして現れている。
 「十二月十七日」、この日東松はようやく波照間島入りを果たす。中学教師の慶田盛氏を尋ね、「電気製品と電力機械の保有台数は島の近代化を図る指標になるのでデータ集めを依頼する」(22頁)とある。ここにも東松の「島の近代化を図る」フィールドワーカーとしての側面が見いだされる。しかしながら、東松が使うこの「近代化」という言葉には、違和感を覚えざるを得ない。というのも、沖縄に来る以前から柳田國男や岡本太郎の沖縄に関する著作を読んでいた東松にとって、沖縄は「日本」の原風景が残る唯一の場所であり、「沖縄の祭祀を見て思うのは、日本上代の神行事である。『古事記』や『日本書紀』に書かれている神代のイメージが彷彿と浮かび、一挙に古代日本へ連れ戻されるような趣がある。」との発言や、本書「あとがき」において沖縄に関心を抱くようになった第一の契機として、柳田の『海上の道』(1961年)に触れ、「それは、日本民族起源論で、隠れたる海上の道にイメージを解き放った実に大胆な仮説であった。(中略)『海上の道』を読んでぼくは興奮した。」とあるように、彼の沖縄への関心の背後には常に古の日本への眼差しが介在していたのである。同時に、沖縄のシマやムラにおいては「日本が近代化を急ぐ過程で切り捨ててきた良質な文化
」が残されているという一方で、のちに東松は「南方要素をあげれば切りがない。見るもの聞くこと一つ一つが東南アジアに結びつくのだ。(中略)位置関係、気候風土からして、民俗行事、生活用具、習慣、容姿、立居振舞からして日本のそれとは違うのだ。」と沖縄と東南アジアとに文化的連なりをも見いだしてゆくわけだが、その構造は、古の日本的な沖縄と東南アジア的な非「日本的な沖縄」という図式に置き換え可能であり、つまり、波照間島で東松が「近代化」と言った場合、「アメリカニゼーション」や「復帰」に伴う島の近代化への懸念以上に、「海と空と島と人びと」という「海上の道」における中継地点としての透明な島に向けられた眼差しを内包するように思われるのだ。現在時制の波照間島(主に離島での体験全般に至る)を見る目と同時に古の日本を見つめるフィルターが介在してだけではなく、「いまでは、発砲スチロールが海面を滑るときの軽さで地球を回ることができる」とか「地つづきで」などと言うように、興奮と思考停止を伴う南方へのシームレスな思想を前提としていたことは明らかである
 「十二月十八日」、波照間島で最も位の高い御嶽の司(神職)である保田盛タエさんを尋ね、島内の御嶽の歴史について聞き取りを行う。「日本では人が死ぬと仏になるが、沖縄では神になる。御嶽のあるところには必ず司がいる。司は、御嶽創設に関係した家筋をたどって継承される」(23頁)といい、翌「十二月十九日」の日誌では、御嶽信仰のより具体的な性質について触れられている。三つある本御嶽は村落から離れているため、各村落には便宜的は御嶽があり、この日は農作物の成長を祈る「ブタービ」と呼ばれる神行事の日であったという。東松は、司と信徒が御嶽内の至聖所(イベ)に置かれた二つの香炉(ビジユル)しかない空間に向かって祈る姿を見て「ご神体も偶像もない、信仰の対象としてのモノがない神域を眼前にして、ぼくはふとアフガニスタンを思った。イスラム教の寺院には、やはり何もなかった。メッカの方向を示すミラーブという壁の凹みがあるだけで、そこで信徒は、宇宙に偏在するアラーの神に向かって祈った。目前に、おがむモノがないとき、信徒はいっそう神に近づくのかもしれない。その分だけ精神が純化されるのかもしれない。」(24頁)と、自然信仰を表象する御嶽とイスラム教の寺院との類似点を指摘する。「東南アジアへの旅を思いたったのは、沖縄に移住して2年目の夏だった。」とのちに語っているが、沖縄に住民票を移すそれより以前の1971年時点においてすでに、アフガニスタン(南アジア)を契機とした沖縄以南への
旅程は構想されていたのではないだろうか。東松は雑誌『太陽』の取材で1963年に初めてアフガニスタンを訪れており、寺院において「メッカの方向を示すミラーブという壁の凹みがあるだけ」の何もない空間を見たのはきっとそのときだろう。しかし本当に御嶽には、「おがむモノがない」のか。祈りの対象は、自然であり、祈る方角に存在する本御嶽が想定されているとき、それはれっきとした対象にはならないだろうか。そのときあるいは、異界としての理想郷であるニライカナイを想定しても良いだろう。そしてこの御嶽における「モノがない」という状態は、写真家としての彼を苦悩させた沖縄の精神文化に符号する。
 東
松は、『太陽の鉛筆』所収のテキストで「ついに『占領』されることのない、アメリカニゼーションを拒み続ける強靭かつ広大な精神の領域の方に、いっそう魅せられ」たことで基地やその周辺を撮らなくなったものの、「固有の文化が、モノとしてかたちをさなぬとき、写真家はお手上げだ。目に見えないモノは写らない」と苦悩し、写真家として切羽詰まっていたことを吐露している。しかし、「固有の文化」とは、政治と表裏一体の精神的主柱としての「可視的な」神行事などを指すことが『太陽の鉛筆』で明確に示されているわけだが、それでは一体東松はなぜ苦悩したのだろうか。それについて自問自答してしまえば、苦悩を強いた「固有の文化」とは『朱もどろの華』という日記の存在そのものが示すものであるのだろう。つまり、不可視の領域への関心を可視的に表象するという意味では、『太陽の鉛筆』に頻出する祭祀のイメージの写真論的意味は、日本的な「ご神体」や「偶像」崇拝に依った物理的な「対象」至上主義であったと言え、それ故に東松は、物理的で可視的な対象を前提とする写真家の運命から逃れられず、「モノ」への執着と沖縄の「精神文化」との出会いによる「カルチャーショック」=苦悩の末に、「自分の中の双頭の蛇を殺して、矛盾を止揚したつもりで、これからは好きなものしか撮らないと言い切る。」と宣言するわけである。先取りして言ってしまえば、『朱もどろの華』の存在は、撮れなかったはずの不可視の部分、つまり「目に見えないモノ」としての古、人頭税、近代化、日本、アメリカ、東南アジア等を重層的に含み込む「精神文化」を、写真を素通りするというある種の開き直りによって、写真家による写真なきイメージの獲得過程、あるいは、目に見えないことを語り得る共有可能なイメージとしての表現行為であったとひとまずは捉えることができるのだ
 「十二月二十日」の日誌はまず、マラリアで3人の子供を亡くした西島本氏の悲痛な回想記述から始まる。昭和20年3月「島民は残らず西表島に避難せよ」と軍司令部から波照間全域に命令が下り、強制的に追いやられた避難先の西表島は当時、マラリアの病巣であった。半年後、波照間に帰ると、敵軍の糧にされぬよう家畜は殺されており、そのため耕作ができず、マラリアの感染で島民の3分の1を失うほどの過酷な状況にあったという。聞き取りを終えた東松は続いて、「願人」という民間の祈祷師としての役割を担う新盛氏を訪ね、地鎮祭における安全祈願や病人が出た家で行われる「屋敷願い」の具体的な手法手順について聞く。この日の最後に、一年前に島にやってきた駐在所勤務の松川氏を訪ねる。刑事事件が皆無のこの島で起こるのは「子供のコソドロが売店から菓子を盗むぐらい」だという。この日の日誌は、やや異質にみえる。終戦間際のマラリア感染による悲惨な状況、島の精神的主柱を担う「願人」、それから島の平穏を示す駐在の話と続くわけだが、このような内容的なばらつきを可能にしているのは、たしかに日誌の特性であるとも言える。それぞれ個別的に話が展開しており、一読ではそこに相関性を見いだし難い。が、これらはまぎれもなく東松の島内での「眼と耳」を運ぶ徒歩の導線とリンクしており、すべて同じ日に島内で経験可能な歴史の一部なのだ。ここに、なぜ「日誌」でなければならなかったのかというひとつの理由を垣間見ることができる。東松はかつて、『カメラ毎日』にて「日録」と題したシリーズを発表している
。その後それらの写真と写真内容に付随的な日記文体のテキストは写真集『I am a King』(1972年)に同題で収められるわけだが、そこでも日付ごとに区分けされた日誌的な体裁が採用されていた。「日録」のあとがきには「シャッターを切る一瞬に、ぼくの生きてきた時間の総量が対象に投げかけられる。それゆえに、1枚の写真は、ぼくの体験のほんの一部分であると同時に全体験の集約ともなる。写真家は、あたりまえのことではあるが、カメラとフィルムを持っていなければ目撃した出来事を記録することはできない。文字のように記録を辿って書くわけにはいかない」とある。これが記された1968年時点で、のちにエッセイが主たる構成要素となる書籍を出版するとは思ってもみなかっただろう。しかし、見事に『朱もどろの華』においては「文字のように記録を辿って」「目撃した出来事を記録」し得ている。その契機となったのが、例の「苦悩」に至る前段の時期に当たることは言うまでもない。
 「十二月二十一日」、「シマでは情報が伝わるのがはやい。(中略)シマ全体が不思議な響鳴盤に思えてくる。(中略)口と足による情報のネットワークが濃密に形づくられていることがわかってくる。」(28頁)と、小さな島における「口と足による情報のネットワーク」のスピードに驚嘆した様子をみせるが、本日誌での導線からも想像がつくように、この一節は、東松自らの島との「濃密」な親和性を示す共生感の誇示として読める。参与観察者としての探訪者は、常にミイラ取りであると同時にミイラでなければならないのだ。この日、製糖工場の総務部長の波照間氏を訪ね、島の産業について聞き取りを行う。10年前(1961年頃)に初めて工場ができてから砂糖キビの生産量も年々上がり、島全体の年間収入40万ドルのうち80%を砂糖キビが占めるという。
 「十二月二十二日」、竹富町議会議員の浦仲氏を訪問。浦仲氏は、「人頭税時代、平民を酷使した役人に対する反抗心が、いまもって身にしみている」といい、島のユイマル(ゆいまーる)という「助け合い」を意味する共同作業文化がもつ負の側面として、「クバ傘の上にカラスさえ止まらねばよい」「トンボの止まる槍の先」というように、槍の先がサビつかぬ程度に要領よくやればよいといった仕事への怠惰な姿勢を負の側面として挙げる。この日、十七日に慶田盛氏に依頼してあった電化機器の保有台数データが届くが、特に東松は島の近代化の進捗についての所感を述べておらず、また、データのなかに「カメラ一二」とあるが、
本書所収の「日誌・波照間島」では、写真に関する記述どころか「写真」の語すら一度も出てこない。『太陽の鉛筆』だけでも波照間島の写真が10枚所収されているが、「日誌・波照間島」には撮影に関する記述は皆無である。これが撮影日誌でないことはこれまで見てきたように明らかであるが、この日誌の本質的な性質は、初出タイトルの副題「沖縄のため、いま ぼくにできることは何か」に集約されている。後述する。
 「十二月二十三日」、島内で唯一手に入れ墨をいれた最年長女性の安利氏によると、人頭税の時代では「役人の目からのがれるため、娘たちは、早々に針突を施して既婚者であることを示した」(32頁)という。針突(ハヂチ)とは成女儀礼として手の甲や指に刺青を施すもので、1899年に明治政府により禁じられた。
 「十二月二十四日」、南海岸の高那崎へ行く。大正十三年の初夏にここを訪れた方言研究を専門とする国語学者の宮良當壮の『南島叢考』(1934年)における高那崎の描写を引用し、その光景は今も変わらないものの、ふと目を横に滑らせると「このあたりの海岸台地は、人頭税時代ウイガーダといって、島に駐留する役人に献納する米や粟の共同耕作地だった。そのウイガーダはいま、沖縄に駐留する米軍の援助資金を得て、土が掘り起こされ整地がすすめられている。来年三月には、この海岸台地に、幅員四〇メートル長さ八○○メートルの滑走路が出現するのだ」といい、そこからさらに目を横にずらすと「コンクリートのぶざまな記念碑」があり、そこには「日本最南端の碑」と刻まれているという。これを見た東松は、「月や火星にペンダントを打ち込んで領土宣言する大国の愚行と似て不愉快だ」(33頁)と憤る。「ウイガーダと米兵と記念碑の奇妙な取り合わせ」を目の当たりにした東松は、支配者が入れ替わるだけで被支配者の苦痛はこれまでと変わらないという意味の「世違い」という沖縄の言葉を思い出したというが、先述の彼の沖縄に対する眼差しの仕方、つまり、古の日本的な沖縄の内部に東南アジア的な非「日本的な沖縄」を見いだす構図は、その「奇妙な取り合わせ」故にこそ与えられた展望ではなかったか。おそらく東松は、『南島叢考』の「南から打寄せる太平洋の大濤が始めて島に
触るる所は即ちここである」という一文に興奮を覚えながら南方を眺めていたはずであり、「沖縄に来たのではなく日本へ帰った」という東松はそのとき、波照間島の最南の地において日本の古層から連なる南方への期待を込めた眼差しのペンダントを打ち込むのである。
 ここで、初出「日誌=波照間島 沖縄のため、いま ぼくにできることは何か」のなかから『朱もどろの華』に所収される際に削られた一節を引く

 〈ルポルタージュは有効である〉(中略)無効論者は、自己否定という不毛の荒野にあって、ついに写真を放棄せざるを得なくなる。ぼくはこの道を選ばない。
 誰のために写真を撮るか、という極めてシリアスな設問がある。ぼくの場合、誰のために沖縄へ行くか、と言いかえてもよい。いま、問題になっているのは、国益のためとか社会のためといったまやかしの使命感だ。率直な表現として自分のためと答える人は多い。自慰的だけどいちおううなずける。が、そこから先には一歩も出られない。ぼくは、国益のためでも自分のためでもないルポルタージュについて考える。
 被写体のための写真。沖縄のために沖縄に行く。この、被写体のためのルポルタージュが成れば、ぼくの仮説〈ルポルタージュは有効である〉は、検証されたことになる。波照間のため、ぼくにできることは何か。沖縄のため、ぼくにできることは何か。この十日間、そのことばかり考えてきた。

 後に東松は、この一節について「間違っていた」と自ら否定するわけだがxii、報道写真を意味するルポルタージュが、モノの影を奪い取る「イメージの盗賊」であり、「時代の証人となるために」「真実の探究のために」といった理由づけがその度に自己肯定として繰り返されてきた故のルポルタージュの否定(無効論)には賛同したうえで、東松は写真の放棄に至る不毛な自己否定に陥らず「ルポルタージュ無効論を無効にするため」に「沖縄のため」「波照間のため」というような「被写体のための写真」という概念を打ち出すことによってルポルタージュの止揚を試みている。しかし内実は、これまでに幾度も批判的に検証されてきたように、波照間島をはじめとする離島への眼差しが、近代化によってより一層浮き立って見えたはずの古の日本の発見と「海上の道」を逆行して辿る南方信仰「アンナン」への関心に拠った媒介地点として島々を見做すものであったことに鑑みれば、「波照間のため」という発言がより一層に一方的な「イメージの盗賊」たる写真家の立場を逆説的に立証する危険性を内包してしまう。『朱もどろの華』所収の「日誌・波照間島」において実際に行われていたはずの写真行為が言語化されていないのは、身の危険を内包する写真家の身分を、フィールドワーカーたる「探訪者」に差し替えるための自己救済措置としてのレトリックであったのではないか。つまり、「波照間のため」に書かれた「日誌=波照間島」での以上の一節は、写真家のために消されたのであり、探訪者・東松照明による記述部分は、写真家・東松照明と「波照間のため」に残されたのである。
 「十二月二十五日」、漁師の金武さんの船に同乗し沖に出る。波照間島を去る前日のこの日、傾いた水平線に浮かぶ雲の写真が撮影された。「水平線が上下して、島のシルエットが波間に見え隠れする。島の東端、ヌービ崎の沖で、久吉丸はエンジンを止めた。」「沈黙の時が過ぎた。空には、綿菓子のような雲がポッカリ浮かんでいる。出来たての雲といった感じ。」(35頁)という簡素だけど申し分ないほどの質量を伴う詩的描写によって、読者の意識は空耳のシャッター音を契機に『太陽の鉛筆』の冒頭にまで飛ばされることだろう。
 「八重山群島のほとんどの島が、人口の流出に頭をかかえている」という。日本の産業経済構造が変わらない限り過疎化を食い止める見込みはなく、過疎化は、島の労働力を低下させ、これに伴い、巻踊や亜雨乞い行事が廃止になり、神行事は簡素化されてゆく。御嶽を守る司の継承問題にも大きく影響するだろう。飛行場ができれば、自衛隊の駐屯する懸念や観光公害の問題が山積みにされてゆくのが目に見えており、翌日に波照間島を去る東松はこの日、波照間島に渡ってからのあらゆる聞き取りを頭で回想させ、戦後変わりゆく島から響鳴盤の如く響く数多の小さな歴史と伝統(産業、神行事、過疎化、飛行場)について思いを巡らせ、最後にこう記している。「畜生!眠れない」と。
 「日誌・波照間島」は、東松が波照間島を去る「十二月二十六日」を最後に完結する。石垣島へ戻る船に乗船した東松は「一○日前、この船に乗ったとき、顔見知りは一人もいなかった。が、いまでは、ほとんどの人をぼくは知っている。」と記し、八重山の島々を縫うように走る船のデッキにて、人頭税時代に波照間島の水先案内人であった祖平宇根(ソビラウネ)という人物が築いたとされる「コウトモリ(コート盛)」という灯台の役割を果たした火番跡を思い起こす。波照間島から石垣島まで年貢船の発着合図が狼煙によって伝令式に伝えられていったという逸話と航路の光景を重ね「狼煙の経路を目で追いながら、一つ一つの島を確かめ、祖平宇根になった気分でいた」と言う。東松は、祖平宇根ではないにせよ、彼は紛れもなく水先案内人である。着岸と離岸の指揮を司る水先案内人は、『太陽の鉛筆』におけるイメージからイメージへの着岸と彼岸を制御して写真群の連なりを関係づける写真家の編集作業とも同期する。後に一ヶ月間の短期東南アジア紀行を終えた東松は、その実感として「赤道あたりから日本列島まで、ゆるやかなカーブを描いて、少しずつ混合しながら、文化の位相が変化している。(中略)グローバルに見て文化はグラデーションを描く」と述べていたが、その一方で、沖縄における「ごちゃまぜ文化」について「専門分化されていない、いわゆるカオスの状態。沖縄文化のトータリティーとでもいうのか、未分化の状態に大変関心がある」といい、島嶼の連なりや位置関係をまさにごちゃまぜの「カオスの状態」で提示した『太陽の鉛筆』における試みは、紛れもなく「案内人」としての写真家の編集に依っている。
 では、「日誌・波照間島」は、『太陽の鉛筆』の取り扱い説明書に過ぎなかったのだろうか。やはりそうではない。その存在は、写真とは性質的に相反する不可視の領域を如何に表象するかという問題、正確にいえば、不可視の領域があったという「可視的」な経験の肯定と、その領域に如何に立ち向かったのかという苦悩の末に開き直った写真家による写真なきイメージの醸成過程として、またそれと同時に「被写体のための写真」というルポルタージュ有効論を成就させるため、「イメージの盗賊」を拒否する探訪者・東松照明に成る「ための」日誌であったのだ。


『おもろさうし』第十三巻、851
外間守善校注『おもろさうし(下)』岩波書店、2000年、62頁。
「おもろ」は「歌」「思い」を意味し、「さうし」は「草紙」の意。
初出との対応関係は以下のとおり。「日誌・波照間島」→「日誌=波照間島/沖縄のため、いまぼくにできることは何か」『カメラ毎日』1972年4月号、「沖縄通信」→「沖縄通信動きだした守礼の国の写真家たち」、「沖縄通信(中)軍政下にたどった写真家への道」、「沖縄通信(下)ヤマトンチュの差別のもとで」『アサヒカメラ』1972年9、10、11月号、「朱もどろの華」→「朱もどろの華―沖縄漂流」『終末から』1973年創刊号、「謀略の海」→「謀略の海―沖縄の海で消された友。」『終末から』1973年10月号、「国際ホテル」→「沖縄の夜」『毎日新聞』1976年1月5日付夕刊、「ザン」『文芸展望』1976年4月号、「濃密な共生感」→「カメラは無力だった 沖縄での祭り」『朝日新聞』1973年1月23日付、「こだわりの旅」『終末から』1974年2月、6月号。
東松照明『太陽の鉛筆』毎日新聞社、1975年。
仲里効『眼は巡歴する』未来社、2015年、210−211頁。
東松照明『〈11:02〉NAGASAKI』写真同人社、1966年
東松照明「東松照明後記」『時の島々』岩波書店、1998年、143頁。
東松照明、前掲書、1975年。
これらの件については、小原真史氏も批判的に指摘していた通りである。小原真史、倉石信乃、北島敬三鼎談「再読・中平卓馬」『photographers gallery press no.6』photographers gallery 、2007年、85頁。
東松照明「日録」『カメラ毎日』毎日新聞社、1968年3月号。所収の写真は、1967年12月20日〜1978年1月19日までに撮影されたもの。
「日誌=波照間島/沖縄のため、いまぼくにできることは何か」『カメラ毎日』1972年4月号。
xii i新里義和「東松照明×森山大道」『越境広場 2号』2016年、111頁。2011年の「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」(沖縄県立博物館・美術館)を企画した新里義和氏はこの一節の使用について東松を訪ねたところ、「あの文章は間違っていた」「使わないでくれ」と一蹴されたことを回想している。