私の心に生き続けるあの絵

上野 裕二郎

私は昨年(2021年)、東京藝術大学の修士課程を修了し、今はアーティスト(画家)として歩み始めた段階だ。


私にとって、沖縄にいた4年間はあの日差しと同様、光と影のコントラストの強い時代だった。沖縄を離れてから3年以上が経った今、当時の記憶は少しばかり美化されているかもしれない。
見渡す限りのターコイズブルーに輝く海にバイクで行ったことや、親友と離島で満点の星空を見上げたこと、友人たちと芸術や夢について夜明けまで語り明かした日々、そして(今では婚約者となった)恋人との出会いなど・・・。
しかし、それと同時に将来への不安や焦り、貧しさ、孤独、そして友人との死別など、これまでの人生で最も苦しい時期でもあった。


私は18歳からの4年間、沖縄県立芸術大学の絵画専攻で学んだ。
京都で生まれ育った私が、美大の多い京都でも東京でもなく、なぜ沖縄を進学先に選んだのかはよく聞かれる質問だ。
理由はいくつかあるのだが、私は聞かれるたびにだいたい決まって、文化的に馴染みのない環境で芸術を学びたかったからだと答えている。
もちろんこれは事実だ。ただ、それと同時に当時高校生だった私は、本来自己表現であるはずの美術を学歴ヒエラルキーのように相対化してしまう美大受験に嫌気が差し、都市部の大学ではなく、知らない遠くの土地で好きなように絵に打ち込む自由を得たいという、今にして思えば少しばかり青臭い思いもあった。
また、当時はゴッホやゴーギャンが求めた強い日差しに憧れがあったことも、沖縄を進学先に選んだ理由のひとつだ。


夢と希望に始まった沖縄での生活だったが、私は早くも小さな挫折を経験した。
それにはまず、自分が思い描いていた「絵画」と、より広い芸術全般を志向する学科の指導方針との間に大きなギャップがあったためでもある。
当時の私は、美術、殊に絵画は情感の表現で、突き詰めれば絵画を通した心と心のやり取りだと考えていた。有体に言えば、当時の私は「絵は理屈じゃない」と考えていたわけだ。そんな私だったから、そもそも絵画という枠組み自体に捉われない考え方や、文脈、コンセプトと言われても、正直なところ全くピンと来なかったどころか、抵抗すら覚えていた。(念の為断っておくが、現在の私は大学で学んだことの意義を深く感じているし、思想は作品の表現と同程度かそれ以上に重要だと考えている)
また、田舎の高校生だった私にとって、沖縄県立芸術大学は入りたくて入った憧れの大学だったが、「たまたま入れた公立の美大がここだった」という同期も多く、十数人しかいない同級生たちのそうした雰囲気に相容れなかった私は、次第に孤立していった。
そして、高校生だった当時の私が沖縄に抱いていたイメージは、外側から見たある意味理想化されたものだったが、実際には歴史的・政治的・経済的な問題や、何よりも作品を発表するには地理的に非常に不利であることに、沖縄に来てからようやく気づいた。


沖縄に希望を持ってやって来た私だったが、次第に自分がここへ来たことの意義が見出だせなくなり、いっそのこと受験し直すべきなのではないかという焦燥感に駆られるようになった。


そんな中、ひとりの先輩の存在が私にとっての救いとなった。
彼は私と同じ油画の2学年上で、同学では珍しく油絵具で写実的な絵を描いている人だった。
初めて先輩と会った時、まさか私の二歳上だとは思わなかった。大人びて見えたのは背が高いことも理由のひとつだが、それ以上に作務衣姿で頭にバンダナを巻き、物憂げにタバコの煙をくゆらせる姿は、とても二十歳そこそこには見えなかった。
それでいて先輩には近寄り難さはなく、私を見かけるといつも柔和な笑みを見せ、自ら話しかけてくれる親切な人だった。
私が先輩を慕うようになったのは、彼のそうした面倒見の良さだけが理由ではない。先輩はよく本制作とは別で卑猥でユーモラスな絵き、人が喜ぶ(しばしば気持ち悪がられる)のを楽しんだり、金がない中で酒浸りに近い生活を送っているといった放埒さを持った人だったが、同時に芸術や哲学、宇宙の話をしてくれる高いインテリジェンスの両面を備えた人だった。
私は先輩のそうした人間性と芸術家らしい佇まいに惹かれ、頻繁にお互いのアパートを行き来するほど親しい関係になった。

確か6月頃だっただろうか。その日、私は大学の課題で完全に行き詰まっていた。
その課題は最近教わった数々の特殊な技法を使い、自分を通して見た沖縄を表現するといった趣旨のものだったが、私は難しく考えるあまり、全く手が付けられないまま講評の日を目前に控えていた。
その上、大学を辞めるかどうか本気で悩んでいた瀬戸際の時期である。焦りは募り、半ば投げやりな気持ちになっていた。


アトリエを出ると、いつもの喫煙所で先輩がタバコを吸っていた。私はタバコを吸わないのだが、その喫煙所にはよく先輩がいて、そこで話をすることが私のささやかな息抜きになっていた。
私の浮かない胸中を察したのか、先輩はタバコを揉み消し、「まあ、ちょっとついて来いよ」と歩き出した。一応まだ授業中ということになっていたため、勝手にアトリエを抜け出すことに若干の抵抗はあったものの、鬱屈した気分に耐えられなかった私は先輩のあとについて行った。


炎天下を15分ほど歩いただろうか。大学から首里城公園を抜けて、金城町の石畳と呼ばれる地元では有名な坂道を下り、脇に入ったところにそれはあった。


それは、私がそれまでの人生で見てきた中でも最も大きな巨木だった。
「アカギ」というその木の幹は大人が三、四人で両手を広げても一周できるか分からないほど太く、見上げんばかりの高さだった。また、樹皮はごつごつとしており、いくつもの瘤や子供が入れそうなほどの大きさの虚(
うろ)があった。
何より「霊気」とでも言うのだろうか。その木の周りだけ気温が低く感じられた。
後で知ったことだが、この木の推定樹齢は300年以上らしい。

先輩は絵の取材のためにここに来たようで、何枚も写真を撮っていた。
あの時、先輩がどのような話をしてくれたのか記憶は定かではないのだが、その場所が先輩にとって特別思い入れが深いことだけは確かだ。
実際、そこにある巨大な存在は、長い歳月を乗り越えてきた静かな生命力に満ちていた。
戦争も乗り越えてきたのだろうし、もしかすると更に古い時代の戦争さえ乗り越えてきたのかもしれない。この一本の木は無数の人生の営みと、生と死を見てきたのだろうと思うと、私は自分の存在や悩みの小ささを感じた。

もちろん、これで私が抱えていた悩みや、間近に迫った課題がなくなるなどということはなかったが、あまり自分の小さな考え方に凝り固まらずに、もう少し柔軟にやってみようという気持ちになった。


後日、私は先輩の「本気の」作品を見る機会があった。
初めてその絵を目にした時の驚きと感動は今でも心に残っている。

先輩はアトリエではなく外で、背丈ほどはあるほぼ真四角の絵と格闘していた。
その絵は夏の夕陽に照らされ、非常に複雑な光を放っていた。
全体的に暗いトーンのその絵は、深い闇から月光を浴びて浮かび上がる、あのアカギの絵だった。あの独特で有機的な木のうねりと、吸い込まれそうな大きな虚が画面に大きく描かれていた。
圧倒的な描写力と、描画と削りによる複雑で繊細な技法で描かれたその作品を見た時、私はそれがまだ未完成であるにも関わらず、言葉もなくそこに立ち尽くしてしまった。
私はその作品を通して、普段は見せない先輩の高潔な魂の一端に触れた気がした。

しかし、本当に残念ながらあの絵を見ることはもう二度と叶わない。最高傑作以外は残したくないという先輩が後輩に支持体として譲ってしまったためだ。
それでも私の心には今でも、夕陽を浴びて輝くあの作品を前にした時の感動と、先輩が制作に取り組む姿勢が強く心に焼き付いている。


私はその後、色々と考えた末、沖縄に残ることにした。
ここにいて本当に良いのかという思いも確かにあったが、どこにいても結局は自分次第だと思い定めることができたからだ。

私にとって沖縄は、少年でも大人でもない、人生で最も重要な時期を過ごした思い出深い土地だ。
沖縄の風土とかけがえのない人々との出会い、そして過ごした日々が、画家としての私に与えた影響の大きさは計り知れない。