〔…〕思想の次元の体制からの相対的独立を認め、事実としての思想を困難をおかして腑分けするのでないと、埋もれている思想からエネルギイを引き出すことはできない。〔…〕ここで事実としての思想といったのは、ある思想が何を課題として自分に課し、それを具体的な状況のなかでどう解いたか、また解かなかったかを見ることをいう。2
(竹内好「近代の超克」)
『近代を彫刻/超克する』(講談社、2021年)3は、作品制作、評論執筆、書籍出版、展覧会企画など多岐にわたる活動を展開してきた「彫刻家、評論家、出版社代表」4の小田原のどかが、文芸雑誌『群像』上の連載をもとに上梓した、初めての単著である。
本書は、すでに複数の書評が提出されており(なかでも山本浩貴、高山羽根子の両名による評は小田原が取り上げる諸々の事例に立ち入って紹介している)5、そもそも流通状況・価格帯・外形(分量、判型、装幀ほか)からして書籍としては手に取りやすい部類に入る。そのため、本評では本文の内容を概括することはせず、形式的な特徴から発した考察に専念する。特に「本文中に図版(写真)が掲載されていないこと」に焦点をあて、『彫刻/超克』のパフォーマティヴな達成を跡づけたい。
『彫刻/超克』は、作家が作品制作の傍らでものした副次的なテクストではない。小田原のどかが書物を公刊することは、作品(や調査資料)を展覧に供することや書籍出版のための制度的な拠り所を開設することと全く同位の、社会-政治的実践にほかならないからである。
1 写真の不在
本書を読み了えた時、私の眼前のディスプレイには数十の検索タブが開かれていた。それぞれに、「ベンヴェヌート・チェッリーニ」、「ホロフェルネスの首を斬るユーディット」、「日清戦争凱旋碑」といった言葉が並んでいる。いずれも、文中で言及のあった彫像や記念碑に関わる固有名詞だ。
登場する作品の名前を逐一画像検索にかける身振りは、四六判の書物を机に押し開いて、傍線を引き、余白にコメントを書き入れていく作業への没入を幾度も寸断した。というのも、『彫刻/超克』には、表紙に掲げられた著者自身の作品《↓(1923-1951)》(あいちトリエンナーレ2019出品)のほかには写真が一点も用いられていないのである。小田原は、日本内外に立てられてきたさまざまな「彫刻」の帰趨について豊富なエピソードを交えて記述していくのだが、それらの写真を図版として引用することを頑なに拒む。私にとって本書を読む経験は、紙面を凝視していては見えてこない彫刻の形姿をPCの画面の中に探し求める、言い知れぬ不全感とともにあったのである。
写真の不使用には、すでに建築史家の五十嵐太郎も言及している。曰く、
小田原は、徹底して彫刻を思想的な課題として突きつける。アートを扱いながら、作品の写真が一枚もないことは無関係ではないだろう。もちろん、文章によるディスクリプション(描写)はしっかりしているし、必要ならば、ネットで検索すれば、すぐに画像は見つかるのでさほど困ることはない。6
以上が、「彫刻という存在を、美術史や美術批評の埒外に置きたい」(130)、という本書の「あとがき」で明らかにされている執筆方針を踏まえた評言であることは明らかで、容易く首肯できる見方である。だが、視覚的情報のいっさいを紙面から排除する著者の徹底ぶりは、「ネットで検索すれば、すぐに〔作品〕画像は見つかるのでさほど困ることはない」と済ませてよいものだろうか。これは、私が『彫刻/超克』を読み進めるにあたって、テクストそのものに傾注するのではなく終始具体的な視覚イメージを求めてしまったことへのある種の後ろめたさによる、瑣末な疑問かもしれない。しかし、図版をふんだんに挿し込み、順を追って作品写真を参照していく紙面のレイアウトが、彫刻をめぐる「語り」を既存の「美術史や美術批評」の文法に従わせてしまうのだとしたら、どうか。それを周到に回避したところに、本書の態度表明を読み取ることはできないか。
2 写真の利用と様式性
写真はしばしば、特定の芸術作品(群)を言説化する場面で利用されてきた。例えば、19世紀後半以降の美術史講義で「スライド写真」が頻用されるようになったことに関する、写真研究者の前川修による整理7は参考になる。
〔美術史家のハインリッヒ・〕ヴェルフリンは一般的に、美術史において複製イメージを有効に活用した人物として知られている。彼は、今でも美術史の講義で慣例化している二枚のスライドを同時に投影しながら作品相互の様式比較を行うという講義「スタイル」を創始したからである。ヴェルフリンが企てた様式史という構想そのものは、複製技術が支えとなっている。複数のイメージを並列し、同時に処理をすることができるという複製技術の利点によってはじめて、様式史は可能になったのである。 8
「複製イメージ」は、美術史家の「理想的観者としての振る舞い」や作品の「内容的見方から形式(様式)的見方への転換」などを主な特徴とする、ヴェルフリンの様式史を「媒介」する役割を果たした9。なお、ヴェルフリンの企図は、かれのベルリン大学での前任者ヘルマン・グリムが自国芸術を礼賛する「英雄崇拝的美術史」の喧伝のためにスライドを活用したことや、第一次世界大戦と相即して同時代的にナショナリズムが勃興していたことなどから一歩引いて、作品を歴史的な諸条件から解放することにあったという10。こうしてスライド写真は、政治的位置を著しく変節させながらも、美術史言説の形成に寄与していったのである。
遠くドイツでかたちづくられたヴェルフリンの様式史は、そして、大正期の日本に「輸入」された。
様式史は日本に紹介された後、西洋美術史ばかりではなく、日本の彫刻史においても効力を発揮した方法論である。そして「西洋美術史」の輸入とは、ただオリジナルのコピーを取り入れるといった単純なものではない。オリジナル(西洋美術史の言説)という起源にさえもすでにコピー(複製)が浸透しているのである。いやむしろコピーこそがオリジナルを支えていたとも言える。このコピーによって織り上げられたオリジナルな方法がコピーという媒体をともなって日本に輸入される。ところが、このオリジナルのコピー性という事態が、コピーのオリジナル化という起源への飽くなき憧憬によっていつも覆い隠されてしまう。11
さて、『彫刻/超克』の「2章 拒絶される彫刻」「2 光太郎とロダン」では、彫刻家の高村光太郎がオーギュスト・ロダンに心酔していた様子を描きとっている。ここで重要なのは、そもそも光太郎は1906年5月にアメリカのメトロポリタン美術館で《ヨハネの首》を実見するまで、遅くとも1903年3月から、ロダン彫刻をその写真を見ることのみによって称賛していた、ということだ。「「失敗」のモニュメントから生まれ落ちたロダンの《考える人》、その写真を見たことがきっかけとなり、高村光太郎はロダンに傾倒した。〔…〕母胎から引き剥がされた失敗の子は、遠い日本の地でたいへんな「情熱と熱狂」をもって受容され、大切に育まれた。そして新たなスタチューマニアを牽引したのである」(63-64)。先ほど引用した前川の考察と重ねてみれば、本邦の彫刻家の前に長らく「精神的支柱」(69)として屹立した光太郎が作品写真(「コピーという媒体」(前川))に向けたような熱情こそ、近代日本の彫刻教育・言説のありようを方向づけた動因の一つだ、というのも言い過ぎではあるまい。彫像建立癖(スタチューマニア)はその初期において複製イメージに駆り立てられていたのである。
この国において彫刻を学ぶこととは、裸の女の像をうまくつくる技術を習得することに等しいと言っても過言ではない側面がある。そこでは、西洋における文脈や図像学的な解釈を学ぶことは留め置かれ、形態を模倣し再現することが重んじられる。(50)
彫刻を元あった場所から遊離させ、「理想的観者」の単一的な視点から、複製イメージの集合として総覧する──そのような様式史的なまなざしは、また、モデルとなった人物や象徴的・寓意的場面の来歴、設置場所の地理的・歴史的条件、時局、さらには設置にいたった公開/密室での意思決定プロセスなど、彫刻が依って立つ社会-政治的な基礎部分の不可視化を推し進めてきただろう。「本邦における彫像のはじまりとは、台座の出現と同義」(30)だとすれば、「台座」とはまさに彫刻を支える無数の社会-政治的環境のことである。小田原の堅実な検証作業は、そういったものが積極的に忘却されてきた歴史を浮き彫りにする。
3 後退って「台座」を見据える
さて、再び写真ということに戻ろう。写真はしばしば「鏡」や「窓」のメタファーで語られてきたが、とりわけ後者は、撮ることの価値中立性に対する素朴な信頼に基づく。けれども、写真は撮影者なくして生み出されない点において、無目的にただ経験されるこの世界とは明白に異なり、人の手になる造形物だ。こう言ってよければ、写真は自在に彫刻・塑造・構成可能な媒体なのである。アメリカの批評家、スーザン・ソンタグが述べるところによれば、
写真映像に支配された世界では、境界(「フレーミング」)はすべて任意のものに思われる。どんなものも、他のどんなものからも分離したり、分断したりすることができる。要するに主題をちがったふうに切り取ることがかんじんなのである。(逆にまたどんなものも、他のどんなものとも隣り合わせにすることができる)。12
加えて、ある風景を写真に残す行為はそれ自体、眼前に生起する出来事に対して仕掛けられたパフォーマンスと見るべきだろう。写真は、カメラ(⊃撮影者)から発された類型的なまなざしの残留物として、ある種の超個人的な視線を記録し、構造的な視覚のポリティクスを証する。
ソンタグに即して言えば、写真撮影とは、ある状況に割り込むことを拒否する意思表示である。カメラを携えて彫刻に相対する態勢は、いま眼の前で立っている彫像のありようを追認し、現状維持に加担する、象徴的な意味を帯びるだろう。
〔…〕写真を撮る行為は消極的な監視以上のものである。性的な覗き見趣味と同じことで、それは少なくとも暗黙のうちに、またしばしばあからさまに、進行中のものはなんであろうとそのまま起こり続けるよう奨励する方法である。 13
共有された文脈が限りなく少ない、パブリックスペースに立つ彫像のたぐいを撮影する行いは、まずもってメタフォリカルな次元で写真行為と現状への不介入意思とを結託させる。撮影者は、少なくともカメラを構えている間は現況の継続を願望するからである。世界の「フレーミング」に没頭する者は、もちろん無謬で透明な見物人をもって任じることだろう。しかし、不特定多数の人々が行き交う路上で、ファインダーを覗きながら一つの世界像を写し取る行為に耽溺する窃視者は、他者のまなざしに無防備な身体を曝しているのだ。
『彫刻/超克』が、作品としての彫刻の形態的検討を宙吊りした上で、写真掲載さえ見送るのは、公共空間にインストールされてしまった実際の彫像から数歩離れるためである14。小田原は自身が潜在的にでも撮影者=窃視者となることを拒否する。場合によっては彫像がその名前のほかは視界から消えるまで遠ざかり、彫刻についてこれまで書かれてきたテクストや、時代々々の証言に尋ねながら、彫像の後景をなしているものを慎重に描出する。各々の彫像に固有な「台座」の論理を見定めていく小田原の語りは、私たちがこれまで目にすることのなかった彫刻の地勢図をつくり出す。
4 近代=彫刻を語る
逆説的なことに、「歴史」と「写真」は同じ十九世紀に考え出された。しかし「歴史」は、実証的な手続きによってつくりあげられた記憶であり、「神話的な時間」を廃棄する純粋な知的言説である。他方、「写真」は、確実だがしかし消えやすい証言である。15
フランスの哲学者のロラン・バルトは、「写真」が「歴史」という言説形成の営みとは相反する仕方で作動することを洞察していた。バルトのこの一節は、『彫刻/超克』における「語り」の境位と連続するものだろう。「わたしは彫刻を語りたい」(7) 。これはすなわち、「神話的な時間」に抗う「歴史」を、転向と蓄積の絶え間ない運動の中で都度語り直していくための、時間経過に対する開かれた態度だ。
小田原は本書において彫刻を、「それは彫り刻まれたものである」と言いながら、「それは彫り刻まれたものではない」と同時に言わしめる困難な存在と見定めた(7)。引き倒しや打ち毀しに遭ってうつろいゆく彫像たちを取り巻く風景は、その例証として描き出されたのである。そして、『彫刻/超克』は、彫刻の実相を掴まえるには結局のところ「言う」・「語る」しかないと自ら示した上で、読者に語りの承継を迫る。
私たちは近代に身を置きながら、近代を超克する──まさに彫刻そのものと同型的な矛盾律の破れにおいて駆動しつづけるのが、近代という厄介な亡霊である。文化研究者の山本浩貴は、小田原は「なにか「パンドラの箱」のようなものを開けてしまったのではないか」16と評したが、本書が解き放ったのは、まさに「近代である」ことと「近代でない」ことの交錯点にのみ存立する近代というものの撞着的な本質なのだ。小田原は、自己言及的な沈黙を宿命づけられた近代=彫刻という問題を、「彫刻を「思想的課題」として提示すること」(130)によって超克していこうとする。それは、近代=彫刻の「拒絶」という自己破壊的な転向を経験しながら、さまざまな仕方で残ってしまう「台座」やそこに懲りもせず建立される彫像たちと相対し続けるほかない道行きである。
だから、語りは未だ遂げられてはいない。例えばこれから為されなければならない仕事の一つに、「近代の超克」論の系譜に内在することで見えてくる近代観と小田原が示した近代=彫刻観とがどのように連接できるのか/できないのか地道に検証していくことがあるだろう。『近代を彫刻/超克する』において彫刻が「思想的課題」として縁取られたことで、それに思想史的な位置づけを与えていく道行きが開かれるからだ。
近代における彫刻をめぐる語りが、彫刻を支える「台座」であるところの種々の地勢を逆照射する。その帰結として、本邦の終わり続ける近代がどのような変質を遂げるかは、未だ定かではない。ただ確かなのは、小田原のどかがいくつかの確信的な選択を伏在させながら編んだこの作品を、受け取り損ねてはならないということである。17 18