コンセプトの表現と、そこに含まれる余剰について

菊池 遼

《void #100》 パネルにアクリル絵具 42×42cm 2020

「あ、どうも。つるつるの人です…」

 …これは、実際に私が初対面の人に行った自己紹介である。

 私は絵画を制作している美術作家であり、鑑賞者や周囲のものがはっきりと画面に映り込む「つるつる」な作品を制作している。そうした作品の特徴はどうやら会ったことのない人にも認知されているようで、初対面の人にも冒頭のような自己紹介が成立してしまったのだ。

 このように現在では、私のトレードマークとして機能している「つるつる」であるが、実は偶然的に作品に導入されたものであった。

 2017年夏のことである。私は当時、大学の助手として勤務を始めたばかりであった。そのため、仕事を覚えることに必死で、制作の時間をなかなか捻出できずにいた。仕事をしながら制作することの難しさに直面していたのである。

 そのような中での展覧会。学生の時のように十分な制作時間を確保することはできなかった。そこで、作品の仕上げの処理を時間のかからない方法に変えてみたのである。簡単に言えば、スプレーガンでニスを吹いて完成としていたところを、刷毛でニスを塗って完成としてみたのである。すると、これまでの作品とは画面の質感に違いが生じることになった。スプレーガンでニスを吹く場合、ニスが粒となって画面に定着するため、画面は比較的マットになる。対して刷毛でニスを塗る場合、ニスが表面張力で面を形成するため、画面はツヤの強いものとなるのである。「つるつる」の誕生である。

 このように偶然的に作品に導入された「つるつる」であるが、現在では私の表現にとって重要な位置を占めている。私の表現の根幹である、荒い網点によるイメージの見えと消えの現象を、「つるつる」は複雑にすることができるからである。

 ここでのイメージの見えと消えの現象とは、作品を離れて鑑賞する際にはイメージを見ることができるが、近付くとイメージが点の列に還元されて消えてしまうというものである。また、「つるつる」がその現象を複雑にするというのは、そこに眼のピントの問題を加えることができるからである。というのも、眼のピントが画面の表面ではなく映り込みに合っている場合には、距離的にはイメージが見える状態となっていたとしても、イメージは見えなくなるからである。

 このように「つるつる」が表現の重要な位置を占めるようになったのは、完成した作品の分析を常に心掛けていたからだ。

 先ほど述べた2017年夏の展覧会。いつもとは違う仕上げの作品を会場で見ていると、眼のピントが画面の表面だけでなく映り込みにも合うようになっていることに気が付いた。そして、それに伴いイメージの見えと消えの現象も複雑になっていることに気が付いたのである。そこから、この要素を意識的に用いれば新たな表現ができるのではないかと思い至り、「つるつる」が作品に組み込まれていくことになったのだ。完成した作品を分析する中で得た気付きが、新たな表現に繋がっていったのである。

 これは、いわば、自分自身の作品によって、自分自身の作品が展開した事態だと言える。

 作品が展開する時のきっかけには、様々なものが考えられる。

 例えば、他の人の展示に行った時。そこで見たものに影響を受けて、作品が展開することがある。読んだ本や、散歩中に目にしたものによってもまた、同様のことが起こり得るだろう。

 それらのきっかけは、作品を展開させていく上でとても大切なことだ。しかし、それらにも増して、私が大切にしていることがある。それが、自分自身の作品によって自分自身の作品を展開させるということである。

 作品にとって、外的な要因(他の人の展示や読んだ本など)によって作品を展開させるのではなく、内的な要因(自分自身の作品)によって作品を展開させるということ。「つるつる」が新たな表現の媒体となったように、自分の作品の中から新たな媒体を発明すること。それを、とても大切にしているのである。

 作家はコンセプトに従って作品を作っていく。しかし、作品の全ての要素をコンセプトに従わせることはできない。

 例えば、「つるつる」が表現の媒体と考えられる以前の、画面のツヤ。それはコンセプトにとって関係のない要素と思われていたのであって、ツヤはあろうとなかろうと何でも良かったのである。とはいえ、絵画の制作において、画面のツヤをどのくらいにするのかは、必ず選択されなければならない。絵画が物体である以上は、ツヤという要素を必ず含み込むからである。そうなると、それはコンセプトとは関係のない根拠によって選択されることになる。この例で言えば、それは、時間が足りないというようなことであったりする。

 そこから分かることは何かというと、作品にはコンセプトに従っていない要素が必ず含まれるということである。作品はコンセプトに対して純粋にはなれなくて、常にそこに余剰を含んでいるのである。

 そうした余剰から、新たな表現の媒体を発明していくこと。それが、外的な要因ではなく、内的な要因によって作品を展開させるということだ。そして、そのためには、完成した作品に生じていることに気付くための、メンタルセットが重要である。「つるつる」によって生じたピントの問題も、それに気付けなければ、作品の展開は生じないからである。

 私がこのエッセイの依頼をいただいた時のお題は、「生産行為だと確信は持てなくても大切にしていること」であった。作品に含まれる余剰は、生産行為だとは思わずに選択されたものだ。しかし、このエッセイで考えてきたように、そこから新たな表現の媒体が発明されることがある。そのような、内的な要因によって作品を展開させること、そして、そのために重要なメンタルセット。これらを私が大切にしていることとして、お題の答えとしたい。