『在日朝鮮人美術史1945-1962―美術家たちの表現活動の記録』著者解題

白 凛

白凛在日朝鮮人美術史1945-1962──美術家たちの表現活動の記録』(明石書店、2021

 博士論文をもとにした単著が刊行されて約半年が経ちました。ありがたいことに多くの反響があります。特に今年初めに翻訳本『平壌美術―朝鮮画の正体』(青土社、2021年 参考:青土社 ||建築/美術/映画/音楽:平壌美術 (seidosha.co.jp)を刊行して間もなかったということもあり、研究でお世話になっている宮田徹也さんには「唯一の、スペシャリスト」と書いていただき、嬉しかったです(『図書新聞』3515号、2021年10月16日発行、参考:バックナンバー (toshoshimbun.com))。これからはこの分野の研究者が増えて、「多くのスペシャリストのなかの一人」になれたらいいなと思っているところです(参考:特集巻頭インタビュー「アートそのものがアクティヴィズムであり、社会を変えていく」(聞き手:清水知子) | Relations (リレーションズ)批評とメディアの実践のプロジェクト (relations-tokyo.com)、AUTHOR INTERVIEW「私たちが“何者か”を知るために」『イオ』2021年7月号、p. 37、〈本の紹介〉在日朝鮮人美術史1945-1962/白凛著 | 朝鮮新報 (chosonsinbo.com)
 この文章は「著者解題」ですが、堅苦しくならないように書きました。各章の要約を書き、その内容に即した思い出を綴りました。大体の内容を掴んでいただき(すでにお読みいただいた方は、内容を振り返っていただき)、本書を身近に感じていただければ幸いです。

文凡綱 (著), 白凛 (翻訳) 平壌美術(ピョンヤン・アート)
青土社 、2021

プロローグ

 この研究の特徴は、副題にもあるように在日朝鮮人美術家「たち」の活動をまとめた点です。「プロローグ」では「複数形の在日朝鮮人美術史」に注目するようになったきっかけを書きました。
 きっかけはいくつかあるのですが、書籍では以下のふたつを挙げました。大韓民国(以下、「韓国」とする)で開催された「在日の人権展」(2000年)、「アリランコッシ展」(2008年)の図録に掲載された学芸員さんたちの文章は、いま読んでもとても勉強になります。特に後者の担当学芸員パク・スジンさんは印象的です。展覧会の準備期間中にお目にかかったのですが、日本に滞在しながら、資料を収集されていました。当時私は東京藝術大学に在籍中で、在日朝鮮人美術史の研究を本格的に始めたばかりでした。学芸員さんの熱心な姿に憧れを抱きました。

 在日朝鮮人美術家たち自身が企画した「アルン展」(1999年)は特に重要な展覧会です。この時は朝鮮大学校在籍中で、同期や後輩と一緒に「青春18切符」で日にちをまたいで移動し、京都の会場に見にいきました。ここで在日朝鮮人美術家たちの作品を観覧し、「私のルーツにこんな作品があったのか」と衝撃を受けました。この経験が、在日朝鮮人美術史への関心への第一歩でした。私の進路に決定的な影響を与えたこの「アルン展」ですが、その全貌をまとめた文章は管見の限りありません。今後の課題です。

序章

 ここでは1962年発行の『在日朝鮮美術家画集』を分析しています。相当に固い書き方ですので読みづらいかもしれません。ここは飛ばして、次の章から読んでいただいても大丈夫です。ただここで注目していただきたいのは、作品収録の順番がテーマ別になっているという点です。作家別とか、年代順とか、カラーのものから先に掲載するとか、そういった方法ではないことを考えると、この時期に共通のテーマで制作することが在日朝鮮人美術家たちにとって大きな意味を持っていたのでしょう
 この画集はいま非常に手に入りにくいのですが、研究を始めたばかりの時にある方にいただきました。聞き取り調査に行く時にはこの画集を常に携えたため、色んな思い出が詰まっています。歴史的にも貴重な一冊であり、私にとっても大切な一冊です。
 ここには住所録も掲載されていて、この記録を頼りに聞き取り調査をしました。このことは後述の六章のところで綴ることにします。この貴重な画集の復刻版が出たらとても良いのにと思っております。

第一

 ここの中心内容は、「在日朝鮮美術会の結成」(1953年)です。この会は在日朝鮮人美術家たちの初めての本格的な集まりでした。産別会館で結成会を催し、会則を決め、会の目標も立てていました。
 この会の中心にいた人物が金昌徳
1さん(1910-82)です。金昌徳さんのお宅は、現在のJR代々木上原駅を降り、坂を上ったところにありました。今回の書籍の表紙の建物が金昌徳さんの当時のお宅です。この家を訪れたことのある人にインタヴューをすると、みなとても和やかな表情で思い出話をされました。2010年だったと記憶していますが、聞き取り調査で金昌徳さんについて知識を得たあと、ここを訪ねてみました。もちろんもう違う家があるのですが、両足でこの地に立ってみるとまた感慨深いものがありました。複数の関係者の証言からなる、金昌徳さんの来歴を整理した部分は、本書60頁あたりをご参照ください。
 順番が前後しますが、52頁から記述している漫画家全哲
2さん(1934-2005)にもご注目いただきたいです。「『在日朝鮮人』の、しかも『漫画』家を『研究』だなんて」と鼻で笑われたこともあったのですが、基本的にそんなことに左右されません(笑)。自分が大事だと思うものは大事なのです。全哲さんについても、金昌徳さん同様、複数の関係者から証言を得ることができました。妹さんとの手紙もご提供いただき、全哲さんの創作の精神を垣間見ることができました。涙を浮かべながら家族史を語ってくださった全哲さんのご遺族に心から感謝しています。全哲さんについての調査結果を初めて発表したのが、2007年の連載記事でした(参考:〈同胞美術案内⑦〉 全哲 読者惹きつけた4コマ漫画 (korea-np.co.jp))。これをきっかけに証言と資料があつまり、研究の端緒を開くことができたのでした。
 1950年代の在日朝鮮人美術家たちの動向として注目すべきなのにまだ整理できていない内容は、美術家たちが担当していた新聞小説の挿絵です。当時の新聞小説にはどのような内容があったのか、誰がどの小説の挿絵を担当していたのかを整理することで、在日朝鮮人文学者たちとの接点や広範な文化活動がより明らかになると思っています。

 このキーワードは、「金昌洛3の民族美術の創造」、「成利植4」、「白玲5」、「1956年の巡回展」です。金昌洛さんについては、生没年も含め、人物像の全貌を明らかにすることはできませんでした。ただ、大邱の大きな果樹園の子息だったということ、在日朝鮮人美術家たちの初期の活動の中心にいらっしゃったこと、「民族美術の創造」を模索し、当時の美術家たちに制作の方向性を指南していたことは確かなようです。71頁に載せた彼のエッセイからは故郷に残してきた想いを垣間見ることができます。
 次に成利植さん(1930-2016)については、抽象画を描き、行動展やモダンアート展に出品されていました。2019年12月にZAHPA(在日コリアン美術作品保存協会)の第1回コレクション展で紹介した作家さんです(本書78頁あたり)。
 また白玲さん(1926-1997)は、現在の武蔵野美術大学在籍中はシュールレアリズムを学びましたが、その後社会主義リアリズムへ表現を変えていきました。白玲さんの回顧展は2007年に開催しました。損傷が大きかった作品を東京藝術大学で修復していただき、現物を見ながら非常に勉強になりました(本書75頁参照)。
 最後に1956年の巡回展についてです(本書80頁参照)。この展覧会は先にあげた金昌洛さんが企画したと考えてもよいと思っています。同展については後日、完全な失敗だったと美術家たちが振り返っています。次の第三章で整理した「共通のテーマ」による制作は、この巡回展の失敗を踏まえたものでしょう。

 の章のキーワードは「共通のテーマ」です。複数の美術家が共通のテーマで描いていました。『在日朝鮮美術家画集』に作品を提供した美術家たちが持っていた共通テーマは次の三つです。「在日朝鮮人の生活」「帰国」「4.19革命」。自分たちにとってどのような作品が今必要なのかを討論し、制作していました。
 このような制作工程の結果として制作された作品を、「プロパガンダ」であると嘲笑し、「描かされていた」「表現の自由がなかった」と言い放つような感想を、私は幾度も聞いてきました。このような感覚の人にはまともな作品鑑賞はできません。芸術作品を前に「作者の価値観は何なのか」と他でもない自分自身に問いかけ、「当時の時代背景に即して作品と作家について考える」という作業を行ない、その結果として得られたものが本当の鑑賞です。このような当たり前の工程を省略する研究者が意外にも多いことに驚かされてきました。どのような芸術もそうですが、今の価値観、自分の生きている社会での価値観で作品を見ると、全く見当違いの判断を下すことになります。このようなことは冒頭で挙げた『平壌美術―朝鮮画の正体』の「訳者あとがき」にも書きました。

 の章のキーワードは「連立展」(1961年に2度開催)です。連立展とは、朝鮮半島の北を支持するか、南を支持するかという問いを超越して、異なる価値観を持った美術家が一緒に催した展覧会です。
 連立展について知ったのは『在日朝鮮美術家画集』に記録があったからなのですが、ここでの記述は多くはありませんでした。しかし同展のパンフレットの存在がわかったことは調査の進展の大きな鍵になりました。ここには開催趣旨、開催期間、出品者名、美術団体名などが書かれてあります。画集やパンフレットを手がかりに調査したところ、次々と関連資料が見つかり、2017年に一本の論文にまとめました。
 この部分を整理しながら印象的だったのが、次のふたつです。ひとつめはこの連立展が「祖国平和統一、南北文化交流促進文化祭」(開催場所は東京虎ノ門の久保講堂)という文化祭の一角だったということです。そのため資料から文学者や演劇家の名前も出てくるのです。もうひとつは、この連立展や文化祭の情報が、韓国と朝鮮民主主義人民共和国の新聞に掲載されたという点です。本書には掲載されたという事実を書き上げるのに精一杯でしたが(現実的に実力がついていかなかった)、
1960年代初期にみられた在日朝鮮人美術家と他の分野の文化人たちとのかかわり、朝鮮半島の情勢とからめて分析するのが今後の課題です。

 ここでは日本人美術家との接点を整理しました。特に日本アンデパンダン展に注目しました。この原稿が出来上がったのは、一重に「『美術運動』を読む会」の存在によるところが大きいです。本書の「あとがき」にも書きましたが(本書295頁)、ここのメンバーの皆さんはいつも私の研究の進捗状況を心配してくださっていて、それぞれが今いらっしゃる場から色んなアドバイスをくださいます。私にとって親戚の個性的なお兄さんたちみたいな存在で、このような言葉で上手く表現できたのかわかりませんが(笑)、とにかくこの10年くらいの私の研究推進のエネルギー源のひとつです。
 ちなみにこの日本美術会の機関誌『美術運動』は三人社から復刻版が刊行されています。昨年12月に第1巻から第3巻まで、今年中に第4巻から第6巻が刊行される予定です。後半には解題も掲載されることになっています。(参考:
美術運動 | 株式会社三人社 (3ninsha.com)
 また、この日本アンデパンダン展で知り合った朝鮮人と日本人が一緒に開催した「日朝友好美術展」については、韓国・朝鮮文化研究会の会誌『韓国朝鮮の文化と社会』(20号)に短い文章ですが紹介文が掲載される予定です。
 日本アンデパンダン展や日本の公募展の記録を見ると朝鮮人と日本人の美術を通した活動が読み取れるのですが、私が今過ごしているのと似たような雰囲気で、当時の在日朝鮮人美術家たちの活動には常にとなりに日本人がいたと想像しています。日本人と朝鮮人がそれぞれの専門を通して知り合い、互いに尊重し、信頼し、生活の何気ないことについて話し合い、そして惹かれあっていた。そこになにひとつ不思議なこと、不自然なことはないという想いをこの章に込めました。

 ここでは聞き取り調査の内容を整理しました。私の研究の特徴は在日朝鮮人美術家「たち」という複数形の美術家の活動を整理したところにあると、冒頭で申し上げましたが、これに加えて関東と関西の美術家たちの活動を、資料をもとにつなぎ合わせた点もひとつの大きな成果でした。このふたつの点に注目してお読みいただけたらと思います。
 さらにここで書いておきたいことが、これが日本オーラル・ヒストリー学会の学会誌『日本オーラル・ヒストリー研究』に掲載された文章が基になっているという点です(参考:
日本オーラル・ヒストリー学会 | Japan Oral History Association (joha.jp))。六章だけでなく、カルチュラル・スタディーズ学会(参考:Association for Cultural Typhoon – カルチュラル・スタディーズ学会 (cultural-typhoon.com))、日本マンガ学会(参考:日本マンガ学会 (jsscc.net))、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター(参考:出版物 | アジア太平洋研究センター | 研究・社会貢献 | 大阪経済法科大学)などの学会誌に、審査を経た論文が掲載され、それが基になった文章が本書に入っています(本書297頁参照)。審査する側とされる側の両方に名前が明かされない審査方法ですのでどなたが審査をしてくださったのかわかりませんが、論文を読んでくださった研究者の方々に心から感謝しています。「在日朝鮮人の美術史なんか誰が興味を持つのか」「在日朝鮮人たちが喜ぶだけの研究」という冷たい言葉をかけられ、研究推進にブレーキをかけていた時期が少しあったのですが、学会の審査を通してコメントをいただき、修正し、再審査を受け、その後ゲラ校正を行ない、冊子として世に出るという緊張を伴う経験が私に実力と自信を付けてくれました。
 いま修論や博論を現在書いている研究者たちには、否定的な言葉に負けずに、そしてなにかにこびることなく自分の信じる表現をしてもらいたいと思います(すみません、少しだけ先輩ぶりました)。そして同じような若いアーティストにもそう伝えたいです。

エピローグ

 こでは本書の第一章から第六章までを簡単にまとめ、今後の課題を書きました。
 これからの課題を6点整理したのですが、その中でも3番目と5番目は在日朝鮮人美術史の研究にとって特に喫緊の課題です。前者については在日朝鮮人の美術史と版画教育との関係を明らかにすることであり、後者についてはパラムピッ展を立ち上げた尹光子
6先生など在日朝鮮人の女性美術家たちの活動、絵本の絵を担当されている朴民宜7先生のご活動を整理しようと思っています。

付録

 こには1953年に結成した「在日朝鮮美術会」の機関誌『朝鮮美術』の解題を収録しました。長くて恐縮なのですが、第1号から第3号まで、第5号と第6号、第7号というふうに三つのセクションにわけていますので、それぞれ比較しながら読んでいただければと思います。
 本書では書かなかったのですが、解題を書きながら心が和んだ箇所がありました。第6号の大阪支部の活動が書かれた部分です(本書253頁参照)。ここに金熙麗
8さんと李景薫9さんが、合作を描くにあたって知り合いの朝鮮人女性にモデルをお願いし、お礼にスイカをプレゼントして歓談したという内容で書かれてありました。生活に題材を求めていた表現者とモデルとのやり取りが目の前に見えてくるようでした。これに関連する作品は『在日朝鮮美術家画集』に収録されています。このあたりをさらに詳細に解明するのも今後の課題です。

あとがき

 改めて振り返ると長い謝辞になってしまいましたが、正直、これ以上短くしようとしてもできなかったです。それくらい本当に多くの方にアドバイスいただきました。本書に名前を挙げた方たちは、私が研究を始めた時から現在まで「この研究が大事で、この分野の開拓が必要だ」と思ってくださっている方々です。
 謝辞について書きたいことは次のふたつです。ひとつめは、本書の謝辞に名前を挙げた方々に加えて、私は15頁で述べた日本人の証言者にも感謝しています。プライバシーの事情で名前を出せない方のなかで非常に貴重な証言をしてくださった方がいました。上記第五章の部分でも書きましたが、「在日」している朝鮮人が日本人と接点があることはなにひとつ不思議なことはないのですが、それをなかなか発言できないでいる人が、朝鮮人だけでなく日本人にもいるということが、今の日本社会の現状だということも研究を通して痛感しました。歴史の主人公は発言しやすい人だけのものではありません。本当の声を聞けないのは憂慮すべき状況だと思います。
 もうひとつは、博論を書き終え、この書籍を刊行した後、「これからは自分の好きなように思う存分書けますね」と言われるようになりました。これまでも結構好きなように書いてきたつもりなのですが、先輩たちがおっしゃるので、何かそこに大きな意味があるのだろうと思っています。先輩たちのこの助言の真意を追い求めながら、今後も研究し続けます。

著者解題のおわりに

 本書の執筆過程を最もよくご存じの方は早尾貴紀さんです。いつも研究を応援してくださっている早尾さんに、この場を借りて改めて心からお礼申し上げます。
 
この解題には、『在日朝鮮人美術史1945-1962』に書けずにやり残したことを随所に書きました。例えば、「アル展を総合的に評価する文章を書きたい」「画集の復刻版が出て欲しい」「朝鮮半島の政治情勢を踏まえた分析がしたい」「日本の版画教育との関係性を知りたい」「女性美術家たちの論文を一本書きたい」・・・などです。これをひとつひとつ丁寧に解決し、在日朝鮮人美術家たちの足跡を記録した次の単著を必ず書こうと思います。


1 金昌徳(1910-1982) : キム・チャンドク。慶尚北道生まれ。1927年に渡日。中之島美術研究所に学ぶ。植民地期より二科展に出展し、解放後は行動美術協会に発足当初より参加した。1956年より在日朝鮮美術会会長。在日朝鮮人美術運動の基礎を築きあげた。
2 全哲(19
34-2005) : ョン・チョル。東京朝鮮中高級学校卒業後、解放新聞社に入社、蔡峻を継いで紙面の四コマ漫画を担当した。代表作は耳元でカールした少女が主人公の『イプニ』。
3
金昌洛(1924-1989) : キムチャンラク在日美術協会に初期のころから所属、1955年から同会会長。李寅斗と同郷(慶尚北道大)であり親友だったと伝えられる。「民族美術の創造」についていくつかのエッセイを残した。韓国の美術展覧会で大統領賞。
4
成利植(1930-2016) : ソンリシク慶尚南道生まれ。武蔵野美術学校卒。1953年結成の在日朝鮮美術会に結成当初から参加。抽象と具象の中間をとる画風が特徴である。自由美術展、モダンアート展に出品した。1960年代後半から制作を離れる。約100冊のスケッチブックが残る。
5
白玲(1926-1997) : ペクリョン。「ハク・レイ」とも。本名は朴栄煥(パク・ヨンファン)。慶尚北道生まれ。1930年渡日、帝国美術学校で油画を習った。学生のころに情熱を注いだシュールレアリズムが、彼の生涯の制作の根底に流れる。1953年結成の日本青年美術家連合に参加。在日朝鮮美術会には1954年から参加。絵画のみならず論文や論評も多数執筆した。在日朝鮮人美術に関する文字資料は白玲に負うところが大きい。
6
尹光子(1935-):ユン・グァンジャ。福島県生まれ。在日朝鮮人2世の美術家。在日朝鮮人の女性美術家グループ「パラムピッ」設立メンバー。第1回展は1994年。
7
朴民宜(1947-):パク・ミニ。東京都生まれ。在日朝鮮人2世の美術家。絵本のイラスト、挿絵、本の装幀などを手がけている。『さんねん峠』(岩崎書店、1981年)、『へらない稲たば』(岩崎書店、1985年)、『あおがえる』(朝鮮青年社、1991年)、『りんごのおくりもの』(朝鮮青年社、1996年)など。
8
金熙麗(1926-2007) : キムフィリョ。済州島生まれ。1942年に渡日。大阪市立美術研究所で学んだ。1954年結成の在日朝鮮美術会大阪支部の事務局長として、支部長である宋英玉とともに大阪の美術運動を支えた。日朝友好展・大阪の朝鮮側の代表を務めたほか、大阪の在日朝鮮人の美術愛好家たちのグループ「ムジゲ会」を立ち上げた。
9
李景薫(1927-) : ギョンフン。大阪で活躍した美術家金熙麗と合作を描いてもいる。李景朝の兄。

6および7以外は本書「人名解説一覧」より引用