Young, Korean, Artist?
Young, Korean, Artist?
「若い模索(젊은 모색)2021」は、今年で40周年を迎えた国立現代美術館の「若い模索」の20回目の展示である。「若い模索」展は、1981年「青年作家展」によって出発し、韓国で最も古く、権威のある新進作家の発掘プログラムである。同時代美術の最前線にいる新進作家を紹介し、これを契機に韓国美術の未来を予想する役割を担ってきた。今年まで20回にわたって約400人の新進作家が「若い模索」展を通して紹介され、このプログラムによって名を知らせ、韓国を代表する作家として成長した。
今年の展示は、過去40年間で同時代の新進作家を幅広く発掘しようと努めてきた「若い模索」展の精神を引き継ぎつつも、海外を含めた地域、媒体別の多様性に焦点を当てて、選定の対象を拡大した。選定された15人の作家たちは、絵画、彫刻、インスタレーション、メディア、パフォーマンス、写真、映画、陶芸など、様々な媒体を活用する30代の作家たちで、それぞれが扱う媒体の属性を探求することから、さらに個人と社会、美術と社会の接点にも関心を示し、これを探索する作業を見せてくれる。これらの社会的な視線は、各自が直面している状況と特殊性にしたがって、異なる形で現れる。今回の展示出品作は、パンデミックのような特殊な状況を共に経験する同時代の青年世代としての接点を、多様かつ異質のものとして表現している。今回の展示では、140点余りの新作を含む、合計160点余りが公開される 1。
筆者は2021年5月28日から9月22日まで韓国国立現代美術館(National Museum of Modern and Contemporary Art, Korea 通称MMCA)にて開催された若い模索(젊은 모색) Young Korean Artists 2021という展示に参加した。本稿ではこの展示をめぐる所感から私自身の現在地について触れたのち、同展に向け制作した最新作「逃島記」の概略を記す。
イントロダクション
展示参加の打診はまさに寝耳に水であった。それまでに韓国国内の独立映画規模の映画祭2では幾度か作品上映を行ったことはあったが国際映画祭ではなく、韓国で現代美術に関わる展示には2020年までほとんど参加したことがなかった。韓国に限らず美術館での展示自体が2016年3以来であり私自身「現代美術作家」という自覚は無く、ましてや「韓国若手現代美術作家 Young Korean Artist」という認識は全くなかった。そもそも幼少期をのぞき韓国に長期的に居住したことすらない。
キュレーター陣がどこまでそうした背景を把握していたのかは定かでないが、私自身は改めて自身と韓国との関係性について考えを巡らせる機会となった。「在外同胞(国外にすむ韓国系住民を指す)」、あるいは在日韓国人の作家であるということは、国家やアイデンティティをめぐる葛藤、あるいは差別の経験といったことを作品に昇華・反映することが「期待」される。それに応える・応えないという選択肢はあるにせよ、キュレーターや鑑賞者・観客から「期待」されるということは事実である。そうした期待をめぐり、まずは私自身の個人的来歴に触れることから始めたい。
朝鮮半島との距離感
「在日韓国・朝鮮人」とは日本に暮らし朝鮮半島にルーツを持つ人々のことを指すが、そのあり方は多様であり様々なグラデーションが存在する。日本で生まれ育った在日韓国人2世の父と、韓国で生まれ育った母との間に生まれた私は世代としては3世、厳密には2.5世の「在日韓国・朝鮮人」である。東京で生まれ間も無く韓国に移住、3歳時に日本に戻り、その後現在に到るまで日本で暮らしてきた。家庭内での言語は常に日本語で、幼稚園から大学院まで全て日本の学校に進学した。国籍に関し日本は出生地主義では無く血統主義であるため私は生まれてから現在まで韓国籍である。もし日本国籍を希望する場合帰化のプロセスを必要とする。
父方の祖父母は韓国の済州島出身で、1940年代に日本に移住し、亡くなるまで日本で暮らし続けた。父方の親族とは物心ついた頃から日本語でコミュニケーションを図ってきたため、年に数度親族が集まり行われる祭祀(チェサ)と呼ばれる法事以外には韓国・朝鮮半島のことを意識させられることはほとんどなかった。私自身も含め、日本にすむ親類は朝鮮学校でなく日本の学校に通っていたことも環境としては影響していたであろう。それゆえ朝鮮半島との結びつきを感じるのは主に、韓国に住む母方の親族を通してであった。
3歳で日本に戻った後も、ソウルに母方の親族を訪ねることは夏休みの恒例行事であり、1年に1度は必ず韓国を訪れてきた。母方の祖父母とは日本語で4、叔父叔母や従兄弟とは幼児レベルの韓国語でコミュニケーションを図っていた。大学入学後に短期の語学留学を行い韓国のアルファベットであるハングルの読み書きと基本的な日常会話を習得するにいたったが、韓国語は20代になってから習得を始めた言語であり、現在でも私にとっては英語に次ぐ第3外国語である5。
小中高大と日本の学校に進学した私はアイデンティティをめぐる葛藤に大きく悩むようなことがなかった。自身のルーツ向き合うに至ったのは大学院に入学し、作品制作を始めてからである。それも海外で撮れば美大出身でスキルのある同級生と差をつけられるかもしれない、という外的な要因に由来する動機であった。
修士課程在学中には済州島出身の祖母の墓参旅行を撮影したto-la-ga(トラガ)(2010)6、筆者と同世代の韓国系移民にソウルでインタビューしたNO PLACE LIKE HOMELAND(2011)7という2本の短編ドキュメンタリーを制作した。それまでほとんど話を聞いたことのなかった祖母の話を聞いて見たいという思いから始まったのがto-la-gaであり、その延長で在日韓国人に限らない、同世代の韓国系移民の現代的リアリティについて知りたいという動機から制作したのがNO PLACE LIKE HOMELANDという作品であった。
作家としてのスタートはそうしたドキュメンタリーから始まったのであるが、関心は徐々に作品における「語りかた」へと移ってゆき、続くOHAMANA(2015)8、未完の旅路への旅(2017)9という2本の作品では俳優を登場させるメタフィクション的要素を作品に導入した。この頃は韓国を故郷ではないが完全な異郷でもない「不完全な異郷」であると捉え10、日韓をめぐるマイグレーションおよび移動の記憶を主題としていた。同時にこの頃から韓国以外の主題を扱いたいという思いを抱き始めており、レジデンスプログラムで偶然香港の離島を訪れたことが「逃島記」プロジェクトへと繋がっていく。
逃島記
逃島記は2018年より取り組んでいるプロジェクトで、香港の離島および韓国の済州島を舞台としている。逃島記は文化大革命などから逃れ中国本土から香港へ逃亡した「逃港者」という単語に由来し、「島へ逃げる人」「島から逃げる人」をモチーフにしている。2018年以降香港の離島を中心にリサーチ・撮影を進め、2020年からは韓国の済州島をプロジェクトの中心とする予定であったが、コロナ禍以降済州島での新たなリサーチは進んでいない。そのため「若い模索」展に出品した映像作品を含めこれまで制作した3本の映像作品のほとんどが香港で撮影した映像を使用している。詳細な制作過程についてはドキュメント11を制作し、当初のアイデアから映像作品になるまでの変遷を記述している12。ここではその3本がそれぞれどういう作品であったかを簡単に紹介する。
逃島記(2019)
逃島記(2019, 13分)
《あらすじ》
中国本土からの「逃港」という移民の歴史をもつ香港を舞台の中心に据えつつ、作者自身の祖母の遺骨を韓国の済州島に運ぶ様子を織り交ぜ、異なる場所の物語を「イマジナリーライン」という切り口から語ることを試みる。
2018年の1年間にカメラを携え訪れた香港の離島、韓国済州島、沖縄本島で撮影した素材をザッピング的に繋げた作品。何か一つの語りを生み出す、というよりも異なる場所の素材を並べて繋げることで新たな「島」のイメージを描くことを試みた。
逃島記(2020)
逃島記(2020, 28分)
《あらすじ》
2049年、30歳になった「私」は自らの故郷に思いをはせる。香港の離島。 彼女が物心ついた頃には島は陸続きとなり、海は海でなくなった。香港も大きな国の一部となった。彼女はノートを開き、かつて、自分が生まれた頃、島がまだ島であったころの自分の故郷を想像上の旅人として歩き、記すことにする。2019年、夏。旅人は島を訪れる。
香港が逃亡犯条例をめぐるデモに揺れ、空港が占拠されていたまさにその日に俳優と共に香港を訪れ、離島の祭りを撮影した。その素材とそれまでに撮影していた素材で編集した作品。直接的なデモの映像などは登場せず、香港で起きていたこととの「距離感」を描いた作品。
逃島記(2021)
逃島記(2021, 20分)
《あらすじ》
「島」と「逃げる」ことを主題に2018年より継続中のプロジェクト「逃島記」。韓国の済州島で暮らした作者の祖母の物語、および近年訪問を重ねた香港離島の物語を背景にした、想像上の旅人による「決して行われなかった旅」の記録。
2020年版の逃島記を大幅に再編集した作品。架空の旅人が島を歩く、という構造は維持しつつも、筆者自身の祖母の遺骨を済州島に運ぶ映像を作品の冒頭に据え、島を舞台にした目に見えないものの移動をめぐる寓話という要素を強めた。
展示の実際
「若い模索(젊은 모색)2021」展 会場風景
若い模索展ではこの2021年版逃島記とドキュメント本、および初期作のto-la-gaを展示した。キュレーター側からは香港もいいけれども、美術の分野では玄宇民という作家を初めてみる観客がほとんどのためアイデンティティにまつわる作品も出品してほしいという要望があったため、to-la-gaを展示するに至った。to-la-gaと逃島記の間には10年の歳月が過ぎ、to-la-gaで被写体となっている祖母が逃島記では遺骨となって登場する。こうした判断が現地でどう受け止められたのか、日本に帰国した今となっては直接的に知ることは難しいが、個人的には納得のいく判断であった。
展覧会を取材した記事では「在日韓国人3世の」という枕詞が必ずついていたように、在外同胞/在日韓国人であることは韓国においても作品の外側で常につきまとう。そのこと自体には抵抗はない。しかし同時に、私は韓国人が期待する「在日韓国人性」を代表することはできない。例えば私は朝鮮学校についてほとんど何も語ることができず、そうした「期待」をされたとしても応えることができないのである。
今回の展示についてはMMCAのキュレーター、Lee Sooyon氏が「Wandering Borders」という批評を執筆し、カタログに所収されている。彼女はGloria Anzaldúaの Borderlands/La Frontera: The New Mestiza13などに言及しつつ、在日韓国人そのものよりも一つメタなレベルで境界/作家の居場所をめぐる不確実性について議論を展開している。展示のオープンを見届けて日本に帰国してしまったため展示に対するリアクションを直接知ることはほとんどできなかったが、「在日韓国人性を直接的に扱わない在日韓国人の作品」がどこまで有効であったのかは今作を見た人々の中からの今後の反応をひとまず期待することとしたい14。
また余談ではあるが展示内覧会における記者会見で「(玄は)映画の作家なのになぜ選ばれているのですか?」という質問があったとキュレーターから聞かされた。「それに対しなんと答えたのですか?」と間髪入れず聞き返せなかったことを悔いているが、韓国人/日本人、映画/現代美術、どちらの真正性にお前は与するのかをはっきり示してほしいという欲望があることを改めて実感した。
曖昧な記号として
「どの居場所にいても受け入れられない悲哀」や「祖国に帰還し同胞としてのアイデンティティを再認識する」ようなわかりやすい移民の物語を私は語ることができない。私自身は移住をしたわけではなく、移住性を引き継いだ私自身の経験はとても曖昧なものである。しかしそれは何よりも私にとってのリアリティであり、手放すわけにはいかない。自身が移住した1世、移住先で初めて生まれた2世と比べ、3世以降の移民が持つ「曖昧なリアリティ」については未だほとんど語られてこなかったのではないだろうか14。そこに私のなすべきことがあるように思える。「Young Korean Artist」という期待に対し、「曖昧な記号として」応え、それがどう受け止められるかという実験を今回の展示では試みた。現地では作品を媒介として新たな出会いの予感を感じていたが、日本への帰国と同時に全てを手放してきた感もある。
これまで10年以上に渡り作品を制作してきたが、発表の場を与えてくれたのはほとんどが韓国である16。自主的な上映・展示を除くと、日本では依然として美術館・ギャラリー・映画館での公的な展示は一度もない。日本においては曖昧な記号でいること以前の、「韓国人/日本人」「映画/現代美術」をめぐるひとつめの問いですら(少なくとも私には)正面から問われてこなかった。その状況を悲観しているわけではないのだが、2021年10月現在、衆院選を前にして日本での選挙権がない一方、来年の大統領選に向けた選挙人登録の知らせが韓国領事館からメールボックスに届くという17「市民としての私」をめぐる現在の状況と同調しているように思えることには一抹の寂しさも感じる。市民としての実存と作家としての実存の平衡がいつの日かとれることを夢見つつ(それがこの国であるとは限らない)、私は私自身のリアリティを抱え次なる作品の構想をぼんやりと進めている。