マダン劇小史―タルチュム、マダン劇、東九条マダン
権 祥海
難破船の宝物のように無尽蔵に積まれているあの豊かな形式の価値 ― 金芝河(キム・ジハ)
10年以上ツールボックスの中に入れたまま、未だに手をつけていない道具がある。韓国現代演劇の上演形態の一つである「マダン劇」だ1。今まで僕は文学、現代美術、パフォーマンスの分野に携わってきたが、なぜかマダン劇は自分の中に繰り返し現れてくる。ホームシックの感覚にも似ているが、それは僕の故郷がマダン劇の原型の一つである「タルチュム(仮面劇)」の発祥地であることが一つの理由かもしれない。幼い頃見たマダン劇は、舞台装置が特になく観客がほぼ円形に取り囲んでできる上演空間で、演者が即興で観客に語り掛けたり、観客がヤジを飛ばしたりする自由奔放で祭り感の強い演劇として覚えている。
マダン劇に関する個人的な話をまず語ったのは、僕がマダン劇にこだわる漠然とした動機に触れておくためだった。僕にとってマダン劇は、何か重要なものを秘めているような魅力と同時に、いざと触れようとする時は戸惑いを感じさせるところがあった。それは、マダン劇の実践としての可能性とその限界を客観的に捉えることができなかったからだと思う。日本に来てから韓国の民衆史に触れる機会が増えたこともあり、マダン劇に対して改めて考えようと決めた。このエッセイは、マダン劇の歴史を振り返ることで、マダン劇に対して自分が感じた期待感や違和感の所在を紐解くものである。それは、韓国と日本の社会的な文脈におけるマダン劇の奔走と頓挫の歴史に触れる作業にもなるだろう。
金芝河作 / 林賑澤演出『青山別哭』(1973)
マダン劇とタルチュム
マダン劇は、韓国の伝統的な仮面劇を継承した上演形式として、1960〜80年代の民衆文化運動の現場を中心に展開された2。軍事政府による長きに渡る独裁政治のもと、表現の自由は大きく制限される中で、マダン劇は、歴史発展の主体が民衆であるという認識に基づき、人間の平等と権利を抑圧する不正な権力に抵抗する批判精神を発揮した3。1973年、詩人の金芝河(1941-)が戯曲を書いた『青山別哭』(原題は『鎭惡鬼グッ』)がソウルの第一教会で上演された。当時、演劇は室内の舞台で行われるのが一般的だったが、金は農村民主化と協働化を妨げるあらゆる障害物との闘争を劇場ではなく労働現場において劇化したのである4。原題『鎭惡鬼グッ』の「グッ」とは、韓国のシャーマンであるムーダン(巫堂)が行う儀式を意味しており、劇では農民たちが自然災害や社会的抑圧を典型化した三つの鬼に向かって力を合わせて戦う内容が描かれた。このマダン劇は、利害関係が絡まり合った農民層が葛藤の中で協働していく姿によって観客(農民たち)に共同体意識を目覚めさせると同時に、鬼の撃退後の勝利感を共有することによって現実問題の解決に向けた闘争意欲と確信を呼び起こすための宣伝劇だった5。金はマダン劇を発表する前から「タルチュム」という民俗的な仮面劇を長きに渡って探究しており、その理念や表現形式の多くをマダン劇に適用している6。
タルチュムは、李朝末期(19世紀頃)の商品経済の発展に伴う体制的な諸矛盾を背景にした朝鮮民衆の激しい反封建闘争の歴史から生まれた7。農村共同体が都市共同体へと移行し市民意識が芽生える時代だった当時、タルチュムの舞台は主に人々がたくさん集まる市場だった。上演空間は、観衆が市場の一角でほぼ円形に取り囲んでできた空間であり、出演者は、職業的芸能者ではなく民衆自身だった。タルチュムは、過酷な現実を生きる農民たちを慰めると同時に、両班と呼ばれる支配階級を根底から否定する社会批判の喜劇としての性格を持つ。劇中の両班風刺は、まず出演者が漠然とした当て擦りを言い始めると、観衆が質問や別の噂を語り、それにまた出演者が答えてさらに深く両班たちをこき下ろしていくやりとりが積み重ねられ、実在する両班の横暴や偽善が暴露される仕組みだった8。このような即興的やりとりは、焚き火をしながら夕方から朝まで10時間以上も行われたようだが、上演時期が豊作を祈願する農民たちの癒し・遊びの場だったグッが行われる正月または端午だったことから、古代の共同体的儀礼に根を持っていることが指摘できる。
このようにタルチュムは、直接的な発話によって観客に現実の問題を認識させる機能、劇中で提示された現実問題を儀礼的な力で浄化する、いわば問題解決への可能性を認識させる機能を備え持つ9。それは、共謀(conjuration)、つまり上位の権力に抵抗すると同時に、神々や魂と共在する儀礼の場だったと言える10。タルチュムの批判精神に根づいている共謀は、特権勢力の横暴が日常化した過酷な生活空間において、民衆に参加・共闘を呼びかける社会変革の装置だったに違いない。しかし、1910年代に入ると、タルチュムは共謀としての潜在性を発揮することができなくなってしまう。日本帝国主義の朝鮮文化の抹殺を図る植民政策、例えば、市場の移転・閉鎖によってタルチュムは上演および創造の場所を失った11。解放後の1950年代からは、タルチュムの調査、採録、研究が開始され、60年代にはタルチュムを蘇らせる研究・出版が一層深化していった。そのような成果を踏まえながら、タルチュムを現在的な創造上の可能性として捉え直したのが金のマダン劇だった。金がタルチュムを「難破船の宝物」と称したのは、農民の集団創造の遺産であるタルチュムから、独裁政権下の民衆の状況を打破するための可能性を見たからに違いない。
金のタルチュム再生が単なる懐古趣味に止まらないのは、自らを取り巻く時代状況に照らし合わせながら、タルチュムの形式的・精神的な価値を深く探究したからである。例えば、金のマダン劇は、韓国文学者の趙東一が開放的構造性と呼ぶタルチュムの要素、すなわち「観衆の参加」「偶然生の活用」「円形的空間の導入」という形式を参照している。重要なのは、開放的構造性が単に表現形式を表すものではなく、共謀、民衆、広場という独特な社会政治的な文脈に深く根づいている点である。金のマダン劇は、独裁政権に立ち向かう共謀の場において表現形式と時代精神を融合させたからこそ、有効な社会変革のモデルを提示できたのである。金を含むマダン劇実践者たちの努力により、マダン劇は80年代全般にかけて大学を中心に拡散していき、87年の6月抗争以降は、労働者観衆を対象とする労働演劇がマダン劇の中心をなし、量的・質的な発展を遂げることができた12。
梁民基(ヤン・ミンギ ) / 久保覚編訳 『仮面劇とマダン劇―韓国の民衆演劇』(晶文社、1981)
マダン劇の衰退ともう一つの歴史
ところが、90年代に入ると民主化の進展に伴う民衆文化運動の全般的な沈滞により、マダン劇も衰退し、今は伝統劇、教育演劇などの限定された場面において命脈を保っている。民衆文化運動が活気を失った原因は、民衆運動勢力が戦ってきた独裁政権という巨大な敵が消え去ったこと、グローバル化、大衆消費文化といった社会変化に伴い、共謀・民衆・広場の意味が決定的に変化したことが指摘できる。独裁政権という上位の権力は、潜勢化した新自由主義の影響へと姿を変え、民衆が抱えた問題は無数の個別な領域へと分散した。広場は、個人や集団を含む市民の誰もが自由に営為できる意思表明の場となっていった。このような社会変化は、過去のタルチュムやマダン劇の観衆が共有していた共謀する対象、抑圧の状況、取り戻すべき場所の喪失を意味する。それらマダン劇を支えていた条件の変化によって、観客同士の関係や参加の意味も以前とは異なる様相を呈することになったのである。僕のマダン劇に対する戸惑いは、民衆文化運動がその役割を終えた90年代以後の韓国という時空間、つまりマダン劇の条件が根本的に変化した状況で、自分が経験したことのないマダン劇の「豊かな形式」の価値をいかに拾い上げるかという不毛な感覚に起因する。ただ、金のマダン劇活動でも確認したように、マダン劇の形式は必ずしも過去の時代や特定の文脈だけに局限されるものではなく、彫琢することによって実践としての価値を生み出すことができるのは言うまでもない。
これから紹介するマダン劇のもう一つの歴史、つまり80年代以降日本で展開されたマダン劇運動は、マダン劇によって日本社会や共同体の問題を考える実践として特筆に値する。日本におけるマダン劇は、在日コリアンの梁民基(1935-2013)を抜きにして語ることはできない。梁が1981年にマダン劇に関連する文章を集め日本語に訳した『仮面劇とマダン劇―韓国の民衆演劇』は、間もなく日本演劇界にも広がった。また「劇団黒テント」の津野海太郎は、梁が日本語訳を担当したマダン劇『アリラン峠』を1982年に上演している。当時、仮設テントによる移動公演を繰り広げた黒テントにとって、民衆を対象に野外で行われる韓国の民衆演劇は貴重な参照点だったのである。梁は、関西の在日コリアンコミュニティを中心にマダン劇運動を展開する傍ら、大阪の「生野民族文化祭」(1983-2002)と京都の「東九条マダン」13(1993-)の立ち上げ及びマダン劇の脚本にも携わった。興味深いことは、梁は韓国のマダン劇を実際に見たことがなく、マダン劇の戯曲や批評などを参照しながら、住民との自主創作によるマダン劇を作り続けてきた点である。梁は1982年に大阪の生野区民センターホールで上演した『アリラン峠』に際して次のような文章を残している。
韓国のマダン劇の担い手が社会・経済的に最も阻害された階層と地域の人びとであり、彼らの自己表出の通路がマダン劇だということが、在日の私たちに投げかけているものは何なのか。民族的同質性と民衆の創造性を一つに捉えるところから、マダン劇は始まるのです。失った私たちに固有の身ぶりや話し方、踊りの動作やリズムを、目を見開いてつぶさにみるならそれがまだ息づいているはずの生の現場から生き生きと汲みとり、自らの文化をつくりだしていく作業にとりかかること。私たちがマダン劇をやるのはそのためです。14
この文章から分かるように、梁は自らの身体に宿っている朝鮮的なものに目を向けながらも、それと全く同じではない在日コリアンの文化をマダン劇によって具現化しようとしたのである15。東九条マダンは、そういった梁のマダン劇に対する思いを見事に表している。東九条マダンでのマダン劇の特徴としては、在日コリアンが主人公になっている作品、東九条が舞台になっている作品、日本人、アイヌ民族、ハンセン病回復者、障がい者といった様々な人々との共生を描く作品が多い点が指摘できる。タルチュムや韓国のマダン劇が目指した上位の権力との戦いは、在日コリアンが直面する民族や地域の問題、そして内面化された偏見や差別と立ち向う身振りへと見事に姿を変えている。それは、自由や平等、人権と言った人間の普遍的価値を掲げ、その範囲内で多様な民族や東九条地域の民衆が参加し民主的に話し合う場の実践と言える16。つまり、東九条マダンは、マダン劇の精神や形式を朝鮮民族の遺産に限定することなく、在日コリアンが抱えた独自な問題を外部との対話や交渉において考える開放性と柔軟性に基づいているのである。
東九条マダンは、90年代以降の韓国のマダン劇が直面した限界を考える上でも重要な示唆を与えている。マダン劇の新たな可能性は、本来の精神を踏襲したり形式上の再現を行なったりするだけで見出せるものではないということである。このエッセイで書いたマダン劇の歴史、そして金と梁の実践は、マダン劇を自らが置かれた状況を捉える道具としながら、それをいかに磨いていくかを考える手がかりを示してくれた。もちろん、マダン劇から道具としての価値を見出すためには、マダン劇を知識のレベルで語るだけでなく、新たな身振りを創造する実践の地平から捉えるべきであることを忘れてはならない。
2 民衆文化運動は、1970〜80年代の民衆を文化の生産と消費の主体と想定して行われた文化運動である。民衆美術、民衆映画、民衆音楽、マダン劇などの文化・芸術全般に渡る運動として展開された。
3 キム・ジェソク『마당극 길라잡이 (マダン劇ガイド)』(역락、2020年)、17頁。
4 金芝河『鎭惡鬼グッ』の劇作ノートより。
5 蔡熙完・林賑澤編『한국의 민중극 (韓国の民衆劇)』(創作と批評社、1985年)。
6 タルチュムは、仮面(「タル」)と踊り(「チュム」)の意味を含む名前からも分かるように、演者が仮面を被って音楽伴奏に踊りや演技を披露する上演形式からなる。
7 久保覚「金芝河と韓国の民衆劇」『仮面劇とマダン劇―韓国の民衆演劇』梁民基・久保覚編訳(晶文社、1981年)、34頁。
8 同上、32頁。
9 キム、前掲書、36頁。
10 デリダによれば、共謀は「ある誓いによって上位の権力と戦うことを公式に約束すること、そして霊を呼びかけやって来させること」という二つの意味合いを持つ。ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』(藤原書店、2007年)、100-101頁。
11 朝鮮総督府は、1913年から1917年にかけて市場調査を実施し、在来の市場の多くを移転させ、官設市場に再編成した。そして1919年の三・一独立運動以後、市場への統制をさらに強化した。このような政策は、当時、市場が重要な民衆的コミュニケーションの場だったことを傍証する。久保、前掲書、39-40頁。
12 『青山別哭』の演出と振付を担当した林賑澤と蔡熙完が1981年季刊『創作と批評』に発表した「マダン劇からマダングッへ」、1985年に発表した編著『韓国の民衆劇』(創作と批評、1985年)は、70年代以降のマダン劇運動の流れを生々しく証言するのみならず、その美学を体系的に論じることで、マダン劇の拡散に重要な影響を及ぼした。
13 東九条マダンは、京都市南区東九条の小中学校を持ち回り会場として毎年11月頃に一般公開で行われ、マダン劇、民族楽器演奏、踊り、のど自慢、ハンセン病問題や地域の歴史を扱う展示などのプログラムで構成されてきた。https://www.h-madang.com/
14 東九条マダンは、京都市南区東九条の小中学校を持ち回り会場として毎年11月頃に一般公開で行われ、マダン劇、民族楽器演奏、踊り、のど自慢、ハンセン病問題や地域の歴史を扱う展示などのプログラムで構成されてきた。
15 西川紗生「梁民基とマダン劇―「自らの文化」創造の過程―」『研究紀要 第二五号』(世界人権問題研究センター、2020年)、38頁。
16 山口健一「在日朝鮮人の民族まつりにおける多文化共生実践―東九条マダンにみる<共在の政治>戦略ー」『社会学評論』69巻1号(日本社会学会、2018年)、47頁。