アーティスト・イン・レジデンス 〜 生きるためのアイデア、そして人間性の肯定

日沼 禎子

はじめに 

 
人は、旅に出る。未知なるものへの好奇心、冒険心を携えて。旅への憧憬は、遥か太古の祖先から受け継いだ遺伝子のように身体に潜んでいる。季節風が吹いた時、長雨の合間をぬって日差しが訪れた時、喧騒の街の向こう側に夕日が沈む時、空から白い便りが降ってきた時。そんなふとしたきっかけで、今すぐにでも飛び出したくなる。彼の地でのさまざまな新たな出会いや経験は、その人生に豊かさを与えるだろう。そして、その場所が遠ければ遠いほど、記憶の襞に深く刻まれるだろう。とりわけアーティストにとって、旅は、想像力を与えてくれる、いつも傍にいる大切な相棒のような存在なのだと思う。アーティスト・イン・レジデンス(以下「AIR」)とは、そうしたアーティストたちを受け止める創造的なプラットフォームとして、世界中に無数に存在している。そして、そこには「旅」以上、「居住」以下という時間と場が用意されており、旅人でもなければ住人でもなく、日常の雑事から解放された創作への没入と、時がくればやがてその地を離れなくてはならないという刹那が折り重なって存在する。そこは、ある種のユートピアとも、また自らを成長させるための鍛錬の場ともいえる。
 
AIRとは、端的にいえば、アーティストが自らの拠点を離れ、一定期間滞在しながら創作活動を行う場所、施設、あるいは仕組みである。創作のための時間と場があるだけではなく、地域固有の文化(ひと・もの・こと)などとの出会いからインスピレーションを受け、新たな創作への糸口を見つけることができる。また、成果にとらわれない実験的な創作活動に取り組みや、さらにいえば、あえて「何もしない」、まったくの充電期間とすることもできる。若いアーティストにとっては、未知の世界に触れ、自分の立ち位置を確認し、持ち得る限りの知識と経験とを総動員させ、トライ&エラーが許されるまたとない機会となる。また、中堅以上のベテランにとっても、幾つ年齢や経験を重ねたとしても、常に自らを高め続ける、あるいは次のフェイズに向かうための休息の場となるだろう。こうした萌芽から成熟へと向かうアーティストの長い創造的活動を支えるAIRの仕組みは、アートの生態系、好循環を支えるエコシステムの役割としても捉えられ始めている。
 筆者がAIRの現場に携わるようになり、振り返ると四半世紀もの長い年月が過ぎた。当時、国内での先行事例はいくつかあったものの、すでに社会的に認知されている美術館、ギャラリーなどと比較し、アートシーンの中で注目される機会は限られており、文化政策としての位置付けとして未だ確立されていないような状況であった。また、滞在(招へい)アーティストの公募を実施しても、海外からの応募者がその大半を占めていた。
1当時の国内の応募者数からは、アーティストをめぐるいくつかの要因が推測された。国内アーティストの多くが何らかの副業をもっており、AIRに参加するために中長期の休職ができる環境にないこと。AIRはある特定の選ばれた者に授与されるスカラシップであると認識されていたこと。国内のAIRの存在やその意義について知る機会が少なく、活動の選択肢として考えられていなかったことなどである。
 その後、国内にも多くのAIRが設立され
2、2001年、国際交流基金によるウェブサイト「AIR JAPAN(現:AIR_J)」3が開設し、日本のAIRの概要や国内外でのプログラム募集情報などがバイリンガルで内外へ発信されはじめたことにより、その存在が徐々に顕在化していく。また、アーティスト個人が在外研修の助成制度等を活用する機会や、AIR拠点の企画による海外派遣や相互交流プログラムも増えたこと。また、AIR経験のあるアーティストの活動がアートシーンで高く評価されるなど、AIRはアーティストの新たな表現活動のプラットフォームとして、キャリア形成のために必要不可欠な活動として認識されるようになっていった。
 しかしAIRの数、アーティストからのニーズが増加する一方で、運営の基盤は脆弱といわざるを得ず、常に継続の難しさに直面しているという現実がある。また、運営基盤をつくるために欠かすことのできない事業評価においては、AIRの中心にいるのはアーティストであるにもかかわらず、アーティスト自身にとっての(可視・不可視に拘らない)
成果、豊かなストーリーよりも、入場者数、経済波及効果、費用対効果などの数値的エビデンスに重きが置かれることが常である。しかし、どのような諸課題が山積し、困難な状況にあっても、その長い歴史の中でAIRは消えることはなかった。AIRを求めるアーティストと、その存続のために尽力してきた人々の力により存在し続けている。このエッセイでは、AIRの歴史的な背景とともに、筆者が大きな影響を受けた人たちとの忘れえぬ思い出を綴っていきたい。変わりゆく時代のいくつかの分岐点に立ち会ってきた、極めて個人的な視点ではあるが、AIRを概観するためのひとつの参照としていただければ幸いである。

AIRの歴史的背景とコロナ禍の現在

 
AIRの起源については諸説があるが、ここでいくつかの事例を紹介していく。
 国際的なアーティストのモビリティを支援する「TransArtist(Dutch Culture)」
4は、公式サイト5の中でAIRの歴史を年代別に紹介しており、1900年頃、つまり20世紀初頭から英国、米国の支援者たちがアーティストにゲストスタジオを提供するという新しい形のパトロン制度を行い始めたこと。また、1889年に、ドイツ、ブレーメン近郊のウォープスウェードに、ハインリッヒ・フォーゲラーやライナー・マリア・リルケ等によって、アーティストコロニーが生まれ、1971年には「キュンストラーハウザー・ワープスウェデ(Künstlerhäuser Worpswede)」が設立され、国際的に有名なレジデンス・アートセンターに発展した例を挙げている。6
 日本では、AIRの名称が1990年代前後にいくつかの施設が設置され、プログラムが実施されるようになっていたが、その頃、国際交流基金の主催による「AIR研究会」が発足され、日本で初めて本格的な調査が行われた。同研究会は、1993-95年の2ヶ年にわたり欧州の事例の現地調査と、国際交流基金の海外事務所を通じたアンケート調査を実施。その成果として、代表的なAIR機関および国際ネットワークのデータ、また研究会メンバーによる日本におけるAIRの展開、可能性について語る座談会の記録を収録した報告書が発行され
7、その後のAIRに関する記述や調査研究において貴重な資料となっている。その報告書の中で、研究会メンバーの一人である南條史生氏は、古くから存在するAIRを「フランス人にとっては、ローマ賞の報酬であるヴィラ・メディシス滞在(中略)。日本では1467年から1469年まで雪舟が中国に渡り、絵を学んだことなどもひとつの例と言えるのではないだろうか。」と記述しており、AIRの起源としてその後も紹介されている8。また、研究会メンバーの座談会でAIRの意義、定義が語られる中では、欧米では「滞在施設や何らかのシステムが制度化されている場合にアーティスト・イン・レジデンスという言葉を使うようにすべき」。「フランス芸術活動協会(略称AFAA:フランス外務省所轄)がまとめたデータブックでは、あくまでも施設、あるいはそのようなプログラムを恒常的に持っているアートセンターの類を列挙している」。また、アメリカの「PS1」などのオルタナティヴ・スペースの事例を挙げ、「アーティストが滞在制作をするための施設だけでなく、プログラムも指す言葉だとした方が良い」などが議論されていた。
 日本におけるAIRの黎明期というべき90年代は、消費とグローバリズム、そしてパーソナルコンピュータが普及した時代。誰もが自由に情報を得ることができ、海外との行き来も容易になってきていた。当時のAIRの調査対象とした欧米による国、文化・教育機関などによる施設、制度の整備のあり方をひとつの理想とされた時代から、約30年を経た現在は大きな変化を遂げてきた。経済発展を遂げるアジア諸国のエンパワーメント、多様な価値をめぐる言説とも相乗するように、日本のAIRは、ある種の独自の発展を遂げてきたといえるだろう。国や地方自治体が「文化的シンボル」としての施設、いわゆる「ハコモノ」ではなく、地域に根ざした「文化的資源の活用」による地域活性と、コミュニティの形成へとシフトする流れの中にあって、地域特性と結びつく日本型ともいえるAIRが発展、あるいはアーティスト・イニシアティヴをはじめとするアーティスト自らの自発的な活動が全国に形成されていった。また、行政、公益財団法人、民間企業、
非営利組織、実行委員会、個人に至るまでの多様な運営母体が存在し、対象となるジャンルも美術、工芸、パフォーミングアーツ、メディアアートなど多様であり、また、国際芸術祭との連携、遊休施設の活用、民泊(ゲストハウス)的なホスティングに至るまで、さらには、「シェフ・イン・レジデンス」9など、食文化への対象の拡充も見られるようになり、施設の有無にかかわらずそれぞれの強み、リソースを活用した多様なプロジェクトが展開されている。
 そして、今、まさに世界的なパンデミック下によって国や地域間の移動が制限される中、アーティストの移動を伴う活動を前提とするAIRは、大きな課題に直面している。しかし、この状況下をポジティブに捉えた新しい取り組み、プログラムが登場した。インターネット上のプラットフォームを活用した「オンライン・レジデンシー(リモートレジデンシー)」の手法を多くのAIRが実験的に取り組んでおり、そのあり方は「AIRなのか?」という賛否両論の意見が飛び交うが、活動を継続させるための手段だけではない、遠隔での交流を円滑にできること、現地に赴かずにリサーチを可能にするという点でも、今後は実際の滞在と併用するなどのハイブリッドな展開も期待されるだろう。また、観光地として知られる伊勢市が実施した「クリエイターズ・ワーケーション」
10では、ニューノーマル、多拠点生活志向の急激な高まりにも呼応するかのような、新たな可能性が提示された。このように、AIRは、状況に合わせ臨機応変にさまざまなジャンルと結びつき、これまでにない新たな柔軟に展開を可能とする強みがあるが、一方では常にその定義や評価は揺らぎ続け、担い手や予算の確保などの運営基盤に対する直接的な影響を受けることとなる。しかしそれは、あくまでも運営者の課題であって、アーティストにとっては、自らが介在することによる変化や進化、揺らぎ続けることこそが、その魅力とも言える。

異文化交流、エコシステム、ネットワーキング


 
AIRを語るためには、故・門田けい子氏11の存在について記さなければならない。門田氏は、日本の伝統文化を基盤とした現代におけるAIRの可能性を切り開き、新しい価値の創出、海外へのプレゼンスを高め、数多くの優れたアーティストの活動を支援した先駆者である。また、日本のAIR全体の発展に尽力され、黎明期にあった日本各地のAIR担当者にとっての力強い指導者として、国内外のネットワーキング活動を推進された。筆者は、1997年より約3年間、門田氏のもとでAIRにおけるマネジメントのあり方、持続可能な運営に欠かすことのできないネットワークの意義について多くを学ばせていただいた。
 門田氏は、1997年、兵庫県津名町(現:淡路市)との協働により、「
長沢アートパーク:アーティスト・イン・レジデンス 水彩多色摺り木版制作研修プログラム(NAP)」12を立ち上げ、ディレクターとしてその運営を行ってきた。NAPは、国内外から公募により招へいされたアーティストが長沢地区の古民家に滞在し、摺り師、彫り師より浮世絵の伝統的な技法である水彩多色摺り木版制作の技法を学び、また、版画の媒体となる和紙の紙漉き体験など素材づくりにも触れ、制作にかかるプロセスを体験する。最終的な成果として各自のオリジナル木版画を制作し、展示、発表を行うとともに、滞在中は地域との交流も行われる。異なる文化的背景を持つアーティストが同時期に滞在し、日本の伝統技法を取り入れ新たな作品制作に挑戦する。そこでは、いわば「伝統と現代のハイブリッド」13ともいうべき、魅力ある作品の数々が生み出されるのである。参加アーティストの多くは、大学教員や版画工房での指導的立場にある者も少なくないため、その経験を自国に持ち帰り、木版画の技法を伝播する役割を担うことにもなる。同時期に滞在し研鑽を重ねたアーティスト同士の交流はプログラム終了後も継続し、さらに、続く年に参加したアーティストにも繋がっていき、NAPを通じた国際的なコミュニティが形成されていった。
 
世界中に広がったNAPを通じたネットワークは、2011年に「国際木版画会議第1回会議(京都・淡路)」14へと発展する。3年に1度開催される会議では、版画家、学術機関、大学、研究者や版画用品メーカーが一堂に会し、木版画に関わる新たな機会の創出をめざし、世界各国での様々な木版画に関する実践や研究、現代の新しい取り組みまで幅広い視点で議論する貴重な機会となっている。
 
なぜ、門田氏はNAPを立ち上げたのか。その理由について、筆者の記憶を辿り、記してみたい。かつて門田氏は、手漉き和紙などのペーパークラフトを扱うセレクトショップを経営していた。仕入れのために赴いた紙漉き工房で、冬の凍てつく寒さの中、地元のお婆さんたちが、冷たい水の中から一枚一枚、紙を漉き出す姿を見た。材料の楮(こうぞ)の収穫からはじまる原料づくり、最後の紙漉きに至るまで、幾重にも渡るそのひとつひとつが、長い時間をかけて人の手によって行なわれている。こうした伝統的なものづくりの現場に触れたことで、丁寧に作られた和紙がランチョンマットなどの消耗品として扱われることに疑問を持つようになる。優れた日本の手仕事の文化を伝え、さらには手漉き和紙そのものを最大限に活かせる方法とは何か。そのあり方を模索する中で門田氏が出会ったものが、浮世絵の技法である水彩多色摺り木版であった。水彩多色摺り木版は、絵師、彫り師、刷り師の分業で行われるが、伝統的なものづくりの現場が同様に抱える、担い手不足による技術の継承への課題があった。また、木版画制作に必要なバレン、刷毛などの道具や素材においてもその課題は同様であり、作り手や需要の減少により、入手が困難になることが懸念されていた。
 日本で発達した水性木版画は、文字通り水彩絵の具を使用することから、他の版画で使用される油性インクに比べはるかに環境に優しく、また、使用する材料や道具も1000年以上前から、修復や再利用を前提とした使い方がある。つまり、今日的なサスティナビリティの考えに基づいている。こうした優れた日本の伝統文化、ものづくりの技術、価値を広く国内外に伝え、次世代の担い手をつくることを標榜し、1994年より木版画の職人と現代アーティストとの共同ワークショップへ展開させていく。
 
その後、門田氏は、急激に進む過疎化への対策を検討していた庫県津名町(現:淡路市)に、AIRによる古民家の活用を提案。こうしてNAPのプログラムの骨子がつくられていった。日本の「食」、「住」、そして「技」の文化に没入できる経験は、海外のアーティストにとって、その後の人生への大きな影響を与える特別な時間となる。また、日本のアーティストにとっても足元にある優れた文化的価値の再発見の機会となる。伝統と現代、西洋と東洋とが出会い、その経験、技術、新たな表現がレジデンスアーティストを通して世界各地に広がり、木版画に取り組む人々が増加することで、道具、素材の需要へともつながり、ものづくりに関わる人材の確保・育成にもつながるのである。つまり、AIRを通した「エコシステム」の実現を提唱したのである。
 京都・淡路での国際会議が開催された2011年、NAPは同地での一定の役割を終え活動終了。同年、河口湖に拠点を移し「国際木版画ラボ/河口湖アーティスト・イン・レジデンス」を開設。2017年に門田氏がご逝去された後も、その意志と功績は引き継がれ、現在も活動が継続されている。
 門田氏による、もうひとつの重要な活動について記したい。門田氏は、日本のAIRの基盤づくりと海外でのプレゼンス向上をめざし、2003年「J-AIRネットワーク会議」を立ち上げた。会議開催においては在京の各国大使館の協力のもと、会議場提供と担当官による基調講演、AIR担当者間の情報共有、交流会を行い、国際交流の窓口となる大使館とAIRの現場との相互のネットワーキングを促進した。また、AIR現場における諸課題を共有、議論する場を設けることにより、各運営組織のマネジメント向上につなげるとことも目的とした。また、国際AIRネットワーキング組織「resartis」の事務局長であり、アーティストのモビリティを支援する「Transartists」ディレクターのマリア・テューリングス(Maria Tuerlings)と門田氏との親交から、「resartis 総会ベルリン大会 2015」への参加を含む、オランダ、ドイツへの日本からのデリケーションツアーが企画され、日本各地のAIR担当者が参加し、会議への参加と現地でのAIR視察が行われた。
 その後、2015年、かつて門田氏より多くのことを学んだAIR担当者有志により「AIR NETWORK JAPAN」が発足され、緩やかなネットワーク活動が継続している。不肖、筆者個人もそのメンバーの一人として、門田氏からいただいた多くの薫陶を胸に、中間支援組織運営への模索を続けている。

世界を眺め漂うパイロットの目になる

 
もう一人、AIRを語るために忘れてはならない人物がいる。美術家、パフォーマーの故・浜田剛爾氏15である。浜田氏は、2011年まで国際芸術センター青森(現:青森公立大学国際芸術センター青森、以下「ACAC」)初代館長を務め、美術、パフォーマンス、パブリックアート、デザイン、クラフトのほか、領域横断的な数々の企画を実現させ、地域文化の振興と国際的なネットワーキングに大きく貢献した。筆者は、1999年の準備室開設時から2011年まで同学芸員を務め、AIRプログラムの企画運営、教育事業、広報などを担当し、浜田氏のリーダーシップの下、国内外のアーティストとの刺激に満ちた12年間を過ごした。
 ACACの開館は
2001年12月。青森市市制100周年記念事業として設立され、青森の自然、安藤忠雄建築が生み出す特異な環境を活かしながら、AIRを中心に現代芸術の多様なプログラムを発信している。設立の経緯には、地元で愛されてきた画家・濱田英一氏16の遺作を、その息子である浜田氏が青森市に寄贈したことが深く関わっている。当時の市長である佐々木誠三氏と浜田氏とが懇話した際、佐々木氏からAIRの話題がもちあがる。当時検討されていた青森市制100周年記念事業として、美術館開設を望む市民の声がある一方で、青森市独自の文化事業のあり方を検討していた当時の市政と、豊富な海外でのAIR経験を通した浜田氏が出会うことで、豊かな自然を生かし、アーティストと市民が交流できる新しい創造の場、館(ハコ)や美術品(モノ)ではなく、「人」を中心とした新たな文化施設設立への計画が始まった。パフォーマンスアーティストである浜田氏が、行政運営による文化施設の館長に就任したことは、当時のアート業界の人々に少なからず驚きを与えたことだろう。
 
浜田氏は1972年、ベルリンの壁でのパフォーマンス『嘆きの壁』を出発点とし、世界各地で公演。 その後韓国、オーストラリア、ドイツ、カナダ、ポーランド等各地でインスタレーションを舞台とするパフォーマンスを行ない、日本に於けるパフォーマンス・アートのパイオニアとして活動した。中でも京都、西部講堂にて7日間にわたって開催されたパフォーマンスシンポジウム「寓意の行動学」17は、領域を超えた多くのアーティストたちが参加したイベントとして、今日もその記憶が語り継がれている。
 1970年代後半から90年代、次々と目まぐるしく変わる社会の中で、アーティストたちは美術館やギャラリーを超えた、オルタナティヴという新たな表現と場が注目されていた。そして、それらのアーティストたちにとって、世界を自由に移動しながら表現活動ができるAIRは、大きな憧れであり希望であったと氏は語っている。同時代、浜田氏は、空きビルや廃校を見つけては、常に年間50本ものイベントを自らプロデュースし、パフォーマンスを行っていた。そしてさまざまな国でのAIRを経験し、自身の表現に対する破壊と再生を繰り返しながら、その強度を模索してきたという。その浜田氏にとってACACに携わることは「自分を受け止めてくれたAIRと、アーティストへの恩返し」だと良く語っていた。「だから安心して、いつでも「やあ!」といって訪ねてきて欲しいんだ。」と。
 筆者は、ACACでの最後の仕事として、2011年3月に館長を辞することとなった浜田氏へのインタビューを行った。ちょうど10周年を迎えたACACの設立からの時間と出来事を振り返り、また、浜田氏にとってAIRとは何か、その思いを次世代に繋げたいと考えたのである。アニュアルレポート『AC2(エー・シー・ドゥ) No.12』(発行:青森公立大学国際芸術センター青森、2011年)に掲載された記事から、いくつかの印象深い言葉をここに引用したい。

「社会はhappyな状態ではないということは事実で、駄目になりかけている皮膚を、もう1回リメイキングする必要があるのではないか。犠牲は多いけれども、AIRはまだそのことを言える権利があるし、もっとさまざまな方法論を試す必要があって、ACACのAIRがはたしてその役割を担うことができるかを、社会に再度リプレゼンテーションできるのなら、できる限り早くやったほうがいい。崩壊と立ち上げを繰り返すことによって、初めて生きる知恵が蓄積されるように。」

「世界は24時間動き続き、戦争もあり、いろいろな物事が動いている。アーティストの移動と人々との交流の中で、新しい地図が生まれる。そして僕らは世界を眺め漂うパイロットの目になる。AIRはそうした場、役割になればいいのではないか。」

 もし、彼が生きていたら。アーティスト浜田剛爾なら、今、この時に、何をリプレゼンテーションするのだろうか。浜田氏の不在はとても悲しい事実だけれども、遺された言葉をもう一度読み返し、AIRにできることは何かを考え続けている。

新たなAIRへの挑戦、そして未来に向けて

 
2013年より、筆者は、2011年に発災した東日本大震災により甚大な被害を受けた、陸前高田市を拠点に「陸前高田アーティスト・イン・レジデンスプログラム18(現:KESEN AIR19)」を立ち上げた。地震、津波により人命、そして多くのものを失った街で、これからもこの地で暮らしていく人々に寄り添いながら、小さな希望の種を残したいという思いから、AIRの活動を通してこの地に根ざす文化を読み解き、人々との交流の軌跡を記録、表現することで、未来に向けた「記憶の風景」を紡ぎだそうとする試みを始めている。これまでにアルメニア、ウェールズ、オランダ、タイ、ドイツ、ラトビア、フィリピン、日本から、アーティスト、キュレーターが滞在し、写真、映像、ダンス、彫刻、インスタレーションなどの作品制作と発表を行い、また、地元の人々との共同によるアートマルシェなどのイベントや、AIRアーティストたちの拠点にも赴き、帰国後の成果展、ダンス公演なども実施してきた。2020年には、リモートでのAIRに挑戦。経年とともに変わりゆく被災地と、国際的な状況とを注意深く観察しながら、アーティストと地域の双方に対して何ができるのかを自らに問いかけ、試行錯誤の中で事業を継続している。
 
もうひとつ、現在、大学教員としての取り組む活動「Y-AIR(AIR for Young)」20について紹介する。プロジェクトパートナーは、長きにわたり日本のAIRを牽引してきた「遊工房アートスペース(以下:遊工房)」21である。遊工房アートスペースでは小規模なプライベートランのAIRを「Microresidence(マイクロレジデンス)」と名付け、それらの組織をネットワーキングする活動「Microresidence Network」22を行っており、その一環として「Y-AIR構想」を立ち上げた。「Y-AIR」は、マイクロレジデンスと美術大学とが連携をしながら、若手アーティストの育成とAIRの持続可能な運営を目指す実験的なプロジェクトである。卒業してまもない若手アーティストと在学生たちに対し、将来のキャリアステージとして、プロフェッショナルアーティストとなるための研鑽の場としてAIR体験の場を提供しており、これまでロンドン、チェコ、メルボルン、フィンランドとの国際間の交流事業を実施している。2013年より筆者の研究室も参画し西ボヘミア大学(チェコ、プルゼニ市)との交流のほか、筆者が運営する陸前高田AIRをプラットフォームとしながら、Asia Pacific College(フィリピン、マニラ)およびアーティストコレクティブ Bliss Market Laboratoryとの相互派遣に取り組んでいる。さらに、これらの活動を国際ネットワークへと発展すべく、2020年2月に東京での国際フォーラム「マイクロレジデンス・ネットワークフォーラム 2020 東京」をホストとして開催。次回会議は、2020年の11月、ロンドンのセントラル・セント・マーチンでの開催を予定していたが、延期を余儀なくされ現在に至っている。開催の目処が立つのは、もう少し先になりそうである。

おわりに

 
表現の自由をめぐっての言説、議論が起こり、またパンデミック下での移動を制限される中、AIRのエッセンシャルとは何だろうか。今日のAIRをめぐるキーワードを挙げてみる。「国際性と地域性」「グローカル」「イノベーション」「インキュベーション」「サスティナブル」「ダイバーシティ」「エコシステム」「レジリエンス」など、時代とともに期待される役割や求められる成果も変化してきた。これからのAIRは、アートコミュニティに、そして社会にどのようにインパクトを与えていくのだろうか。90年代、オルタナティヴな活動を受け止めたAIRがあったように、この時代には何をもって、その場を成立し続けられるだろうか。ニューノーマルが幾度となく書き換えられても、人間にとって大切なものとは何か、そのエッセンシャル、アイデアは、AIRの中に存在しているような気がしてならない。より遠くに、より自由に。好奇心、冒険心を携えて、自らの足でその場にたどり着く体験。そして、人間性への肯定。見えない未来に向けて、これからも考え続けたい。




1 筆者の当時勤務していたACAC(青森公立大学国際芸術センター)設立当初のプログラムにおける公募状況の記憶から。
2 日本国内で継続的に実施している134件のAIRの1989年から2020年までの設立年の推移を見ると、2005〜2009年以後急激に増えており、2015〜2019年には新たに59件(1ヶ年平均で約12件)が設立されている。『R1(2019)年度:新たな文化芸術の創造を支える活動支援および人材育成のためのプラットフォーム研究』(発行:文化庁|編集:女子美術大学)
3 2010年に新たな機能を加え「AIR_J」としてリニューアル。2019年からは運営が国際交流基金から京都芸術センターへ移管され現在に至る。
https://air-j.info/
4
「DutchCulture」は、アムステルダムを拠点に、芸術、文化、伝統の分野における国際協力活動の促進と支援を行っている機関。「TransArtists」はDutchCulture内の組織として、国内外での活動を希望するアーティストに対し、AIRおよび助成金の情報、カウンセリング等を実施している。
5 https://www.transartists.org/6 https://www.transartists.org/en/artist-residence-history
7 『「アーティスト・イン・レジデンス研究会」報告書 ’93-’95』(1995年、国際交流基金企画室)
8 AIR研究会メンバーとして参加した萩原康子氏のレポートわが国のアーティスト・イン・レジデンス事業の概況」(AIR_J)参照。
https://air-j.info/article/reports-interviews/now00/
9 実施例として神山町、南三陸町他がある。
10 新型コロナウイルス感染症の全国的な感染拡大による市内観光への甚大な影響に対応する事業の一つとして、観光消費の拡大と観光PR、さらには「ワーケーション(ワーク+バケーション)」という新しい旅のかたちの模索を目的に行う事業。国内(伊勢市外)在住の文化・芸術分野のプロのクリエイター100名程度を公募のうえ招聘し、市内宿泊施設に宿泊をしながら創作活動に取り組む機会を提供する。https://www.city.ise.mie.jp/bousai_kyukyu/anzen/kikikanri/coronavirus/shien/1010426.html
11 兵庫県淡路島の長沢アートパーク(NAP)ディレクターとして1997年から2009年の13年に渡る水彩多色摺り木版画制作プログラム並びに2011年から始まった国際木版画ラボ(MI-LAB)での木版画の後継者を育成した。2017年逝去。
12 http://www.endeavor.or.jp/nap/index.html13 当時の門田氏の言葉より。 14 同会議は2011年の第1回を京都・淡路での開催後、第2回東京(2014)、第3回ハワイ(2017)で開催。第4回奈良を2021年に延期開催予定。http://mokuhanga.jp/
15 1944年青森市生まれ。1968年 東京藝術大学彫刻科卒業。日本の「パフォーマンス・アート」のパイオニアとして世界中で活躍し、オーストラリア、カナダ、ドイツをはじめとする各国のAIRに参加。また、各種アートプログラムや国際展のプロデューサーを務めるほか、北方少数民族のウイルタ族や、カナダ、オーストラリアの先住民の芸術研究を行った。2016年逝去。
http://hikuiyama.com/goji-hamada/J-html/index-j.html
16 1991年青森生まれ。版画家・今純三に師事。62年二科展入選。93年青森県褒賞受賞。1997年没。
17 「寓意の行動学」パフォーマンス、インスタレーション、フィールドワーク、ワークショップ、シンポジウム7日間にわたり開催。(1993年10月8日—14日/京都・西部講堂)
18
http://rikuzentakataair.com/
19 https://kesenair.com/20 「Y-AIR」とは、AIRと美術系大学が連携し若手アーティストの滞在制作体験機会を提供するもので、芸術家を目指す若手美大生の、職業として、社会人として、また、生活者としてのアーティストになる為の体験プログラム。
21
https://youkobo.co.jp/
22 https://microresidence.net/